深夜の出来事
「……よし」
シアが来てから一ヶ月が経った深夜。
ついに……、ついに魔術工房内の掃除を完全に成し遂げた俺は、満ち足りた達成感から自然と口角を上げていた。
寝間着にガウンを羽織った姿で腕を組み、悠々と魔術工房内を見回す。
素晴らしい。ちゃんと床の隅が見えている。
迷子になっていた資料群もすべて区分して適切な棚へと納めた。
とっ散らかっていた戸棚内のポーション瓶も種類別に整理した。
バラけていた道具類も使用しやすい配置に最適化して片付けた。
埃はおろか、作業時に飛散して床の溝へと入り込んでいた魔素材の欠片だって塵一つ残っていない。
これならば咳が出ることはもうないだろう。
そもそも、だ。他の魔術師連中が魔術工房を逐一掃除しているとは思えない。連中がそんな几帳面なはずがない。連中の工房が俺の工房以上に混沌と化していてもおかしくないと思う。だから俺は悪くない。
「俺はやれば出来るんだよ。やれば」
もはや口癖になりつつある文句を呟きながら、俺は魔術工房内に併設した保管庫へと入る。
ここは各種素材や自作の魔術具と魔道具を管理保管しているスペースだ。こちらは工房以上に荒れ放題だったのでなかなか大変だった。
調べ物と術式開発の合間での掃除だったためでもあるが、おかげで掃除と整理に一ヶ月かかってしまった……。
工房内に転がったままだった素材も回収し仕分けて保管庫へ収納を済ませてある。
色とりどりの魔鉱石達。
特殊な光沢の魔金属達。
種別に分けた乾燥薬草。
厳選した各種魔獣素材。
整理された保管庫は眺めているだけで気分が上がる。
もうこの眺めだけで美味い酒が飲めそうな気がする。
「……」
本気で飲みたくなってきた。
魔術工房の明かりを消して廊下へと出て、念のためにドアを魔術で施錠する。
魔術工房は魔術師のテリトリーだ。たとえ相手が師弟や家族であっても立ち入りを簡単に容認できる空間ではない。
しかも俺の魔術工房と保管庫には扱いが難しい道具や素材がゴロゴロしている。それらを素人が触ったら怪我では済まない。
そう――、魔術工房内が散らかっているからという理由でシアを入れなかったわけではないのだ。断じて。決して。
「ツマミが欲しいな……」
キッチンの明かりを点けてパントリーを漁る。
自室のキャビネットにウイスキーがあるから、ツマミは手軽にナッツかチーズか……。
ナッツの保存瓶を取り出していたところで、階段を降りてくる気弱な足音が聞こえてきた。
思わず懐中時計を取り出して確認したが、すでに日付は変わっている。
ずいぶんと臆病な足音だ。廊下の明かりはさっき点けたままにしていたし、パントリーを漁る物音で俺がここにいることはわかっただろうから、幽霊の類いを怖がっているとも思えないが……。
そのまま様子を見ていると……、廊下からこちらを覗き込んできた目と目が合った。
翡翠色の瞳が怯えの色で揺れている。
「シア、どうした? 眠れないのか?」
「……ぁ……。えっと……、はぃ……」
声を掛けると、シアが悩んだ後に弱く小さな声で答えた。
入り口の壁に張り付いたまま中へは入ってこない。
胸の前でギュッと握った手が震えている。
目元が赤く、瞼が腫れている。
「おいで」
リビングの明かりを点けて呼ぶと、シアはおとなしく近寄ってきた。
シアをソファに座らせた俺はパントリーへと戻って牛乳と蜂蜜を取り出した。あとはシナモン――いや、シアは不慣れだろうからやめておこう。
小鍋に牛乳を入れて火にかけ、中身が温まりすぎないタイミングで蜂蜜を加えて混ぜる。
俺だけだったらブランデーかラム酒を足すのだが、今回はなしだ。
「ほら、ゆっくり飲みなさい」
ホットミルクをシアの前に置いて、俺はシアの左隣へと座る。
「あ……」
シアが戸惑って小さくなっている。俺に気遣わせたとでも思っているのか、こういう物に慣れていないのか。
俺はシアよりも先に自分のホットミルクを一口飲む。
基本的にシアは俺が飲み食いし始めてからでないと動くことが出来ない。難儀なことだ。
「……い、いただきます……」
シアが小声で言って、おそるおそるとカップに手を伸ばした。
小さく息を吹き掛けて、ホットミルクに口をつける。
大丈夫だとは思うが……。
「……」
ああ、大丈夫そうだ。わずかにだが表情が和らいでいる。
俺は内心で安堵のため息をつき、ホットミルクをもう一口飲んだ。
今夜は風もなくて穏やかだ。カーテンの隙間から月明かりが覗いている。
窓の外からは平穏な虫の声。ごくたまにフクロウの鳴き声も聞こえる。
しばらくお互いに無言でちびちびとホットミルクを飲んで……、やがて飲み終える。
シアが音を立てないように注意しながらカップをテーブルへと置いた。
「……」
沈黙の時間。
……そもそも俺は人付き合いがあまり得意ではない部類だ。そんな俺に気の利いた声掛けが出来ると思うか?
さてどうしたものか……、と思案しているとリーがやって来た。
迷いなくトンとシアの膝上へと飛び乗って体を擦り寄せている。
「あ……」
シアは一瞬動きを止めて戸惑っていたが、やがてリーを遠慮がちに撫で始めた。
リーは身を預けておとなしく撫でられている。
まったく……、普段はアレだが頼りになる奴だ。
「シア」
なるべく穏やかな口調を意識して声を掛けると、シアは少し伏せ目がちに横目でこちらを見た。
「……悩み事なら、話せば楽になる場合もあるぞ?」
本当ならもっと気を遣った言い方があるのだろうが、俺にはどうすればいいのかわからないのだから仕方がない。
師匠はこのような時にはどのように言って接してきただろうか、と思い返す。
…………あぁ、あの魔女は俺の心に土足でズカズカと入ってきやがったか。それはそれで助かったが……。
「……」
シアは下を向いたまま力なくリーを撫でている。言いたくない……というよりも、躊躇っているようだ。
俺はただ待つ。
「……っ」
口を開こうとしたシアの目にじわっと涙が溢れた。
頬を流れたそれを懸命に拭っている。
何度も鼻をすすっている。嗚咽を堪えている。
「……わ、わたしは……っ」
上擦った震える声。
「わたしは……っ」
怯えて言い淀んでしまう心。
「テ、テオさまっ。わ、わ、わたしは……っ」
何度もしゃくりを上げて、それ以上は言えない。
……参ったな。俺はシアを追い込むつもりではないのだが、対応の正解がわからない。
だが、ここは俺から歩み寄るべきだろう。
「シアは悪くない。わかっている」
シアが涙で濡れた目を大きく見開く。
「俺はわかっている。知っている。シアは何も悪くない」
ぽろぽろと涙をこぼしているのが見える。
「俺はすべてわかっている」
繰り返して言うと――。
「……っ。ぅ、うわあぁぁぁん……っ!」
耐えきれなくなったシアが大きな嗚咽を上げた。
俺の右肩にすがり付いて、泣きじゃくっている。
シアの動きに合わせて膝上から退いたリーが、俺と挟むようにシアの右側でピタリと体を寄せた。
「うぅっ……、ぐすっ、テオさま。わたしっ……。うわあぁぁん!」
「シア、大丈夫だ。わかっている。俺はわかっている」
シアの体をポンポンとあやしながら、俺はそう繰り返す。
そう――、俺はわかっている。
シアの記憶を見た俺はわかっている。
すべてわかって、知っているのだ。
シアがバルカの雇用主達から冷遇されていたことも。
雇用主の息子がシアに下卑た乱暴を働いたことも。
シアに盗みの冤罪を着せたことも。
そのせいで犯罪奴隷へと堕とされたことも。
バルカの奴隷仲介業者から虐待紛いの行為を受けたことも。
他の奴隷からも罵倒され続けてきたことも。
それらのせいで酷く傷ついて男が怖くなり、自分を価値のない矮小な存在だと思うようになったことも。
すべて俺はわかっている。
「大丈夫だ。シアがいい子だということを、俺は知っている」
震えるシアを抱き締める。
「俺はシアの味方だ。他の奴が何と言おうが、俺はシアの味方だ」
「……っ!」
シアの唇が激しくブルブルと震える。
「うぅぅ……っ、うわあぁぁぁんっ!」
心の悲鳴を上げるシアを、俺は優しくあやし続けた。
俺に寄りかかっているシアの体がとても熱い。
シアはほとんど泣き止んで、たまに鼻をすすっている。
泣いたことで多少はスッキリとしたのだろうか、シアは少しずつ押し寄せる眠気に抗っているようだ。小さく欠伸を噛み殺している。
気付けば、虫の声がしない。
暖炉の上にある置き時計を見ると、空が白み始めるまであと三時間ほどだ。
シアはほとんど眠りに落ちており、俺に寄りかかる体が脱力している。……ああ、まだまだ体が軽いな。
「……シア。俺の声が聞こえるか?」
シアの眠りを妨げない程度、それでいてはっきりとした声音で紡ぐ。
目を閉じているシアが小さくコクンと頷く。
俺はシアの意識へと入るように声音を紡いでいく。
「シア。シアは今から心地のよい気分で、ゆっくりと眠りにつく」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「とても心地のよい気分で、ゆっくり、ゆっくり、眠りにつく」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「ゆっくりと眠って、とてもスッキリとした気分で目を覚ます」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「とてもいい目覚めだ。スッキリと目が覚めたら、俺が作った食事を一緒に食べる」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「さぁ、いい子だ。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり眠りにつく……」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「ゆっくり、ゆっくり……」
左手で、パチン、と指を鳴らす。
「……」
静かな寝息が聞こえ始めた。
それを確認して、俺は左手の構えをほどぐ。
暗示の効果に頼って正解だったのかわからないが……、シアが休めるのならそれでいい。
シアの軽い体を抱き上げて、シアの部屋まで移動する。
いつの間にか先回りしたリーがシアのベッドを温めていた。本当に頼りになる。
シアの寝顔は安らかだ。泣き腫らした目を冷やしてやって、明日に支障がないようにする。
眠りの時間にはあえて制限はつけなかった。この調子なら昼過ぎか午後まで眠っているかもしれない。
それは構わない。これまでの疲れが出たのだろう。
ゆっくり、ゆっくり、休めばいい。
リーは少しシアの添い寝をするらしい。せいぜい贅沢な湯たんぽ代わりになってくれ。
俺はシアの部屋を静かに出て自室へと向かう。
ドサッとベッドに寝転がり、深くため息をつく。
「……」
シアはほとんど自分から俺に話し掛けてこない。
何かに興味を持っても自分を抑えているし、疑問を感じても言い出すことが難しい。俺に何かを話す時も言い淀んでしまい、スムーズに言い出すことが出来ない。
家政の仕事は本当によくこなしてくれている。文句のつけようがない。
ただ……。
自分自身の行いが信用出来ないのか、指差し確認と繰り返し確認が必須だ。それも、執拗なほどに。
強迫観念なんだろうな、と思う。
「……」
目を覚ましたシアが自己嫌悪の泥沼にはまって動けない、ということはないはずだ。そうなるようにと暗示を掛けた。
おそらく元気に起きてくる。
明るい表情を見せて、明るい声を聞かせてくれるはずだ。
その調子で元の明るい娘へと戻っていければいい。
――ただ、そこで問題なのが……。
「……」
思考を巡らせていたら、完全に眠気から覚めてしまった。
ガバッと起き上がって隣室の書斎へと入る。
気になったことがあれば頭が勝手に覚醒する。調べ物をしないと気が済まなくなる。
エインシェントの悪い癖だ。
「……」
改めて蔵書を確認するが……、やはりウチにはあの手の本は少ない。
この一ヶ月で自分なりに調べて検証してきたが、ウチにいるだけでは限界がある。
「……」
時計を見る。
夜明けまでにはまだ時間がある。こんな時間ならば、人に会うこともほぼないだろう。
書斎から自室へと戻ってクローゼットを開け、普段着の白シャツと黒ズボンに着替える。
あとは……面倒だが、着た方がいいか。不審者だと誤解されて騒ぎになる方が面倒だ。
金刺繍入りの白いローブを羽織り、指輪とプレートを通したネックレスを服の内側から表側へと出しておく。
擬態は……、いつも通りこのままでいいだろう。
パチンッと左手で指を鳴らして移動の扉を開く。
扉を潜った先はアルドリール王都にある大魔術協会の図書館だ。地下二階と地上五階の大きな建物で、ところ狭しと並ぶドでかい本棚群には本がびっしりと納められている。
当然だがすでに消灯されていて、人の気配はまったくない。明かりを手元に点けて歩く。
記憶を頼りに目当ての本棚があるエリアを目指す。足音はくすんだ赤色の絨毯で消えている。
大きな窓からはもうじき沈み行く月が覗いている。
……。
しばらく歩き……、迷うことなく目的のエリアに辿り着いた。
背表紙のタイトルを眺めながら本を探していく。
「この辺か……」
目当ての分野を見つけて、気になる本を次々と立ち読みしていく。参考になりそうな本をいくつか選ぶ。
……。
とりあえず、こんなもんか……。
左手でパチンッと指を鳴らし、書庫にストックしている白紙の本を左手へと呼ぶ。そして先ほど選んだ本を白紙の本へと次々写していく。
卑怯? 無断複製? 知るか。俺にはその権限があるし、どうせ俺にしか読めない。
「はぁ……」
当初の目的は終えた。が、来たついでだ。
エリアを移動して、気になっていた分野の本を探す。
本当ならあとは帰るだけなのにな。さっさと帰って仮眠すればいいのに。やれやれ、これだからエインシェントは。
気だるく首元を擦りながら歩いていると……、俺と同様に明かりを点けて本を探す若い魔術師の二人組と遭遇した。
「へッ?!」
「ひぃッ!」
……なんだその怯えた反応は。俺は幽霊じゃねーぞ。
二人組は俺のローブを見て、ネックレスの指輪とプレートを見て、ヒヨコらしく口をパクパクさせた後に勢いよく頭を下げた。
「ひぇッ、ディズッ?! あのテオドア様ッ?!」
「おおおッ、お会いできて光栄ですッ!」
おい、図書館ででかい声を出すな。てか「あの」って何だ。失敬な。
しっしっと追い払い、俺は探索を続ける。
あの様子だと朝には協会内で噂になっているんだろうな。知ったこっちゃないが。
「……」
「……」
おい、後ろの二人。隠れてついてくんな。盗み見るな。バレてんぞ。
…………はぁ、面倒な気分になってきたな。
帰るか。
パチンッと指を鳴らして扉を開く。
「わぁ……」
「すご……」
盗み見ながら感嘆の声をあげるんじゃない。聞こえてんぞ。
さっさと扉を潜って、自室へと帰る。
脱ぎ捨てたローブはソファへと乱雑に投げた。
「……はぁぁぁ……」
何だか一気に疲れた。
やっぱり慣れねーことはやるもんじゃねーや……。
……あー、ダメだな。疲れで思考が不良時代に戻っていやがる。
今は何時だろうかと時計を見ようとしたが、先に耳が夜明け直前に鳴く鳥の声を捉えた。
「こりゃあ徹夜だなぁ……」
いつの間にか枕で寝ていたリーを押し退けてベッドへと飛び込んだ。
寝付けるかどうかはともかく、とりあえず体は横にしておきたい。
「んあー……」
寝返りを打って枕元のリーを吸う。煎ったナッツのような香ばしい匂いがする。
リーは家猫とは違って抜け毛がない。使い魔の利点だ。
「……」
ダメだ。中途半端に頭が冴えていて、やはり眠れそうにない。
そもそも今寝たら確実に午前の間には起きられない。なら……、やることは決まっている。
目を閉じた俺は、自分の内面世界――書庫の扉を開ける。
まったく、エインシェントの悪い癖だ。