静かな決意
風呂上がりにリビングのソファでリーを撫でながら本を読んでいた俺は、気配の変化を感じて視線を天井へと向けた。
「……寝たか」
慣れない環境で心配だったのだが……、よほど疲れていたのだろう。
本を空中に片付けながらリーを退けて立ち上がり、ゆっくりとした足取りでシアの部屋へと向かう。
シアの寝顔を覗いてみると、わずかに口を開けて安らかな寝息を立てていた。
よく眠っている。場合によっては睡眠魔術で補助をと考えていたが……、これならば満足な眠りが得られるだろう。
「……」
初めてシアと出会ったのは約二年前だ。雇用主である商人の指示で経営店へ使いに出たシアは、店で受け取った書類を持って屋敷に戻る途中だった。
そこへ風が吹いて書類が飛ばされて……、その場面に俺はたまたま出くわした。
飛ばされた書類を転がるような勢いで追いかけるあまりに俺の真横で水路へ落ちかけたので、俺は反射的にシアの服を鷲掴んで止めたのだ。
その後はあまりの取り乱しように見かねて書類を見つけてやった。俺に泣きながら何度も頭を下げるシアは健気だった。
俺はこの時、シアに名乗りをしていない。書類を見つける際に魔術を使ったために、シアからは「魔術師のお兄さん」と呼ばれた。
バルカでは宿屋も偽名で通していた。俺はバルカの民と深く関わるつもりがなかったのだ。
だが……、シアには妙に懐かれた。たぶん助けられた好印象に加えて、俺の魔術に興味があったのだろう。
シアを助けた後日、お礼にと自分で丁寧に縫ったハンカチをくれた。厳しい雇用主からお咎めを受けずに済んだと泣き笑いで教えてくれた。
その後は休憩時間を利用して俺の顔を見に来たので、成り行きで話し相手となった。
俺はバルカの民に苦手意識があるのだが、不思議とシアに対しては忌避感を感じなかった。無垢な有り様が功を奏したのだろう。
シアは俺に自分のことを色々と話して教えてくれた。おそらく雇用先では気心の知れた話し相手がいなかったのだろう。
自分は孤児だったこと。
住み込みで働いていること。
雇用主の一家は使用人達への当たりが強いこと。
生まれて初めて魔術を見て興奮したこと。
バルカどころかこの町から出たことがないこと。
シアに外の話をねだられて、俺は外国の話を聞かせてやった。
魔術師の総本山である魔術王国アルドリール。
物と人で溢れる賑やかな商業の国イザード。
透明な海と珊瑚礁が実に美しい楽園の国ハーマ。
神秘的なオーロラが見られる極北の国フローヴェン。
音楽と躍りが刺激的な情熱の国ラデリン。
話をする俺にシアはキラキラした純粋な眼差しを一生懸命向けていた。おしゃべりが大好きで、表情がコロコロと変わる娘だった。
今とは、真逆だ。
「……」
眠るシアに軽く手をかざして、記憶を覗き見る。
見る対象は俺と別れてから再会するまでの間。
約二年分の記憶だ、シアに深く影響している内容を抜粋していく。
「――は?」
見えたモノに思わず低い声が漏れてしまった。
なんだこりゃ。
碌でもない。
胸くそ悪い。
ふざけている。
ため息をついて、シアの寝顔を見た。
「……」
今のシアには心穏やかな環境と十分な食事が必要だ。
二年前のシアはまだ小柄だったが、ここまで酷くやつれてはいなかった。あれから二年が経ち、多少は背丈が伸びてはいる。
だが……。同年齢の少女と比べると小柄で、何よりもげっそりとやつれている。
シアは十三歳の子供だ。奴隷へと堕とされた心身の負荷は相当なものだろう。
イザードの奴隷商は商品を丁寧に扱う。商品価値を落とさないために健康管理を重視する。買い手先で問題がないように一定の厳しさで躾はするが、虐待行為は決してしない。
あそこにはシアと同年代の奴隷もいた。奴隷商も子供奴隷の扱いにはある程度慣れていると見ていいだろう。健康管理にはより注意を払っていただろうし、精神的な負担の軽減にも努めていたと思われる。
……だからといって、それですべての子供奴隷に効果が得られるはずもない。
イザードの奴隷は商品価値が高いため値段も高額なのだが……、シアの値段は酷かった。
成人の犯罪奴隷は悪印象や再犯リスクから値下げされる傾向がある。それはわかる。
だがシアは子供で、女だ。今すぐに重労働は無理でも将来的に得られる利益が大きい。それであの値段となれば「致命的な扱いにくさ」という欠点がある、ということだ。
無理もない。あの怯え様だ。あのやつれ具合だ。奴隷商は「おとなしくて従順」などという丸い表現をしたが、あれはこちらの購買意欲を煽るための単なるイメージ操作だ。
精神的なケアがクリア出来なければ、いつまで経っても怯えたまま。労働効率は落ち、食事も睡眠も適切にとれない。犯罪奴隷だから再犯リスクも高まる。
そして買い手にとって致命的で最悪な場合は……、せっかく大金を叩いて買った奴隷を死なせて失うことだ。
「……」
今日俺がイザードへ行ったのは本当に偶然だった。
あのバザールのあの区画へ行ったのも偶然だった。
俺がイザードへ行っていなければ――。
あの区画へ行っていなければ――。
シアの気配に気付かなければ――。
俺はシアのことなど露知らず、今頃シアはまったく別の人物に買われていたかもしれない。
そうなっていた場合……、はたしてシアはこの先無事に生きていられただろうか?
「……はぁ……」
ため息が出る。
そもそもの話、この俺が他人の面倒を一から十まで見るなど出来るはずがない。
だからといって、あのままシアを放置することは出来なかった。
「……」
シアの寝顔を眺める。
今のシアには心穏やかな環境と十分な食事が必要だ。
幸いなことに、シアは俺に多少は懐いている。二年前のおかげで、シアが俺に心を開く土台がある。
幼い頃から奉公してきた子だ、使用人として体を動かしていた方がまだ気が紛れて落ち着くだろう。
穏やかな環境を与えて、無理のない範囲で体を動かせて、キチンと食事を摂らせて、ちゃんと眠らせて、心に負った傷を少しずつ癒す。
今の俺に出来ることなど、落ち着いた日々の流れを安定させるしかない。
「……」
単なる同情でシアを買ったわけではない。ましてや都合のいい家政婦にしようだなんてクズな企みも持っていない。
シアに話していない理由は、あと二つ。
一つは機会が来れば本人に話せるかもしれない。どうするかべきか、それはまた考えればいい。
残り一つは……、俺の中で消化していけばいい。
「……おやすみ」
シアの寝顔に優しく声を掛けて部屋を出た。
そのまま自室に入ると、俺を先回りしていたリーが本来の姿――でかい豹のような姿でベッドを占領していやがった。
「おい……」
思わずドスの効いた声で抗議したが、完全に無視していやがる。
仕方がないので、そのドでかい背中を無理矢理押し退けてベッドに寝転がった。
この無駄に気持ちいい毛並みと温もりは助かるが……、俺は主だぞ? ここは俺のベッドだぞ?
強引に背中を押し退けてスペースを確保すると、リーが物言いたげに体をモゾモゾと動かしてきた。が、俺は完全に無視をした。