オノマトペ
明け方にふと気配の違和感を感じて一階へと降りると、リビングで丸まって寝ているセブに埋もれたシアを発見した。
「……シア、大丈夫か?」
心配して声を掛けたが返事はない。
不審に思いながら回り込んで顔を覗き見ると……、シアは平和な寝息を立てていた。
何時からこの状態だったのかはわからないが、シアに抱きつかれたセブは安定の包容力でされるがままだ。
今日はシアのマナの流れを正して、魔力としての側面を揺り起こす予定だ。……昨夜は緊張して眠れなかったのかもしれないな。
「……よし」
昨日はルナリアのせいでシアにみっともない姿を見せてしまったし、ここは名誉挽回を図るとしよう。
ソファの背もたれにあった昼寝用ブランケットをシアに掛けた俺は、洗面台で顔を洗ってからキッチンとパントリーを確認していく。
パントリーにシアお手製のピクルス入り保存瓶がある。調味料の棚には俺が作り方を教えたトマトソースとコンソメ粉もあるな。乾燥パスタと買い置きのパンと米があるが……、気合いを入れてチーズリゾットでも作るか。
温かい物を腹に入れれば気持ちが落ち着くし、チーズはシアの好物だ。
玉ねぎをみじん切りにしながらリビングの様子を見ると、朝寝組にいつの間にかリーが追加されていた。もふもふまみれのシアの寝顔が幸せそうだ。
「…………ん……。んん……? ふぇッ?!」
玉ねぎとキノコを炒めたフライパンへ生米を追加した頃に、寝ぼけたシアが飛び起きた。
「おはよう、シア」
「え? テオさま……? ええぇっ?」
「あははっ、そのまま寝ていなさい」
狼狽えるシアに俺が笑いながら声を掛けたのと、セブが尻尾でシアの体をボフンと押さえたのと、リーが両腕でシアにしがみついたのはほぼ同時だった。
さすが使い魔達だ、俺の気持ちをわかってくれている。
「……ふわぁ……あったかい……」
半ば寝ぼけたシアの声がいつもより幼い。
俺は思わずクスッと笑いをこぼして、コンソメスープを追加しながら米を炊いていく。
「夕べは眠れなかったのか?」
米を炊く時間を利用してリビングのカーテンを開けながら訊ねると、シアは少し恥ずかしそうにブランケットで顔を隠した。
「……その……ワクワクして眠れなかったんです……」
「ふふっ、そうか」
不安や緊張ではなく興奮で、か。祭り前夜の子供みたいだな。可愛らしいことだ。
シアの頭をポンポンと撫でてからキッチンへ戻った俺は、米の世話をしながらグレーターで粉チーズを準備していく。
ほどよく米が炊けたら粉チーズとバターを加えて馴染ませて、塩胡椒で味を整えれば完成だ。うん、俺はやればできる。
「ふわぁ、いい匂い……」
「味見するか?」
起きてきたシアが水を飲みながら傍へと寄って来たので、リゾットを少し小皿に取って手渡す。
「……んんっ、美味しいですっ!」
「よかった」
すでにご機嫌さんだな。にんまり笑顔のシアを撫でると、シアは髪の寝癖に気付いて小走りで顔を洗いに行った。
俺はその間に副菜を準備していくが、こちらはとことん手抜きをする。リゾット作りと同時進行して別鍋で茹でていた玉子達を剥いて、ピクルスを出せば、朝食としては十分な量だろう。
洗顔を終えたシアと配膳して席につく。
「いただきますっ」
「どうぞ」
シアはすっかり目が覚めて元気だな。シアが元気だと俺も活力が湧いてくる。
さて、食うか。
キノコ入りチーズリゾット。我ながら上手く出来たんじゃないか?
ピクルスは色鮮やかなパプリカとミニトマトだ。シアのピクルスは本当に癖になる。
俺は茹で玉子を塩で食う派だが、トマトソースをつけても美味い。
「リー、食うか?」
セブをベッドにして寝ているリーにも声を掛けたが、リーは億劫そうに軽く尻尾をピコピコとさせただけで起きる気配がまったくない。気まぐれな奴め。
「美味しかったです……」
シアは幸せそうな顔だ。本当に美味い物を食って満足した後の顔だから、作った身としては嬉しい限りだ。
食後のお茶を飲みつつ他愛のない雑談を楽しんで、リラックスした状態のシアと一緒に後片付けを行う。魔石の魔力で魔道具を使うシアも板についたものだ。
「着替えが終わったらマナを起こそうと思うが、いいか?」
「はいっ。お願いしま――あっ、でも先にお洗濯しちゃいますっ」
俺もシアも寝間着のままだ。洗濯くらいは俺が魔術で手早く済ませてしまっても構わないのだが、シアは普段と同じ行動をする方が落ち着くのだろう。
「わかったよ。それじゃあ、落ち着いたら部屋で待っていてくれ。頃合いを見て行くからな」
「はいっ」
「ああ、それと。魔石のペンダントは外しておいてくれるか? シアのマナに干渉する際に魔力が混在してややこしくなるから、事前に外しておいてくれると助かるんだ」
「わかりましたっ」
うん、いい返事だな。
階段を上った先でシアと別れて、自室で普段着に着替えていく。
俺の普段着は基本的に白シャツと黒ズボンだ。シアは自分ばかり色々な服を買い与えられて少し不服らしいが、俺はこの組み合わせの色が好きだからな。それに一応はデザインやシルエットが違っていたりするんだぞ?
そんなことを考えながらクローゼット内を眺めていると……、底板の隅に落ちていた長髪の抜け毛に目が留まった。しかも数本ある。
「うわっ。何年前のだよ、これ」
我ながら嫌な気分になったので、クローゼットの中身を引っ張り出して中を掃除していく。
こういう掃除ってキッカケがないとやらないんだよなぁ……。そういえば工房を大掃除した時にも何年前の物かわからない髪が落ちていたっけ。
……え? 風呂場は大丈夫だよな? シアが不気味に思わないように注意しよう。
掃除が終わったら中身をせっせと戻していく。普段着と外出着と下着、あとは魔術師のローブ。
ローブは三着。紺色でシンプルな作りの普段使い用ローブ、白地と金刺繍の正装用ローブ、そして黒地と金刺繍の儀礼用ローブだ。
ローブは魔術触媒の代わりにもなるが……、俺の場合はいちいち着なくても統合書を書庫から呼べば済むんだよなぁ。ローブを着た姿をシアに見せたこともないし、シアは俺のクローゼットを開けないからローブの存在すら知らないだろう。
いずれはシアにもローブを仕立てないとな。それには王都の工房が最適か?
……いや、さすがに気の早い話だったな。まずは今日のことに集中しよう。
「ふぅ……」
ドサッと椅子に腰掛けた俺は、自分の魔力を意識しながらこれからの工程を確認していく。
もちろんぶっつけ本番という訳ではない。奴隷契約破棄の時と同様にこれまで構想を練って仮想展開もしてきた。シアの負担にならないように慎重にいこう。
そうしている間に雑用を済ませたシアが自室へ戻る気配がしたので顔を上げる。
そろそろ行くか。
「シア、入ってもいいか?」
「はーいっ」
ノックして声を掛けるとすぐに返事が聞こえてきた。緊張を感じさせないいつもの調子の声音だな。
部屋へ入るとシアは窓辺で風に当たっていた。コットン生地のふんわりとした服を着ていて、ワクワクした気持ちが隠しきれないといった表情だ。
「テオ様っ、私はどうすればいいですかっ?」
……少しテンションが高すぎる気もするなぁ。俺は少し苦笑してしまった。
「ほら、こっちに座って少し深呼吸しなさい」
「はぁい」
シアをベッドに座らせて、俺はベッド横に置いた椅子へ腰掛ける。
まるで奴隷契約破棄の時を思い起こす状況だ。だが今回は、シアの瞳には希望の色が満ちている。
「シア、魔石は外したか?」
「はいっ。あっちへ置いてあります」
シアが指差した方向を見ると……、なんと魔石はソファに積まれたふわふわタオルの上に鎮座していた。
大事に扱われていて何よりだ。俺は思わず苦笑した。
「これからの流れを説明するからな」
前置きを置いて、俺はシアに話し始めた。
「基本的にシアは横になって寝ているだけだ。俺はシアの体に触れて、そこからシアのマナに干渉する」
「痛みとかはないですか?」
「ないように気を付けるが、もしかしたら軽い眩暈や吐気が出るかもしれない。体内のマナを流して魔力を揺らすから、酔った感覚だと体が誤認するかもしれないからな。何か変わったことがあったら俺に教えてくれ。どんな些細なことでもいい」
「わかりました」
「それと、だな……」
少し言いにくいが、必要なことなので説明を続ける。
「シアの意識と感覚を研ぎ澄ませるためには、視覚を閉ざした方がいいんだ。だから目隠しをしたいんだが、いいか?」
「目隠し……」
シアがボソリと繰り返す。やはり不安なのだろうか。
「いいですよ」
いいのか。躊躇いがない声音で少し驚いた。
「テオ様が傍にいるなら怖くないです」
「……そうか」
ここまで心を許されるようになるとは、三ヵ月半前には想像がつかなかった。
本人の許可を得たので、俺はシアに声掛けをしながら布で目隠しをする。
「おおー、見えません」
何でちょっと楽しそうなんだよ? 俺は少し笑ってしまった。
「ほら、寝るぞ」
「はぁい」
この気が抜けた返事は最近よく聞くようになった。これも俺に気を許してくれている証拠だろうか。
クスッと笑いつつ、目が見えない状態のシアをそっと横たえた。
「ふふっ、ちょっと楽しいです」
「まったく……。緊張していないならよしとしよう」
お気楽で結構だ。その方が干渉もしやすい。
「シア。ここ、触るからな」
ここ、と言いながら左手で触れたのは、ちょうど魔石が触れていた胸元だ。
「ずっとですか?」
「そうだな」
「テオ様、本当にずっと傍にいるんですよね?」
「ああ。傍にいるとも」
やはり視覚が封じられると不安なのだろうな。
シアは落ち着かない様子でそわそわしていて、両手の位置に困っているようだ。
「体勢は気にしなくていいし、じっとしていなくてもいい。シアが楽な姿勢でいなさい」
「はぁい……」
「それから――」
クスッと笑って、説明を続ける。
「作業中はお互いに無言だ。何かあれば――」
『こんな風に、直接心へ話し掛けるからな』
「?!」
驚いているなぁ。
『シアもそうしなさい。心の中で返事をするんだ』
『は、はいっ。……こうですか?』
『それでいい』
さて、と。
説明も終わったことだし、始めていくか。
『じゃあシア、始めるぞ? 途中でウトウトしてもいい。とにかく、何か普段と変わったことがあったら教えてくれ』
『はい。今、テオ様が触っています』
うん、確かに普段と変わったことだな。思わず声に出して笑ってしまった。
『そ、そんな感じでいいから教えてくれ。……クックックッ……』
『テオ様、笑いすぎですー』
気を取り直して。
左手で触れた場所から、俺の魔力をシアへと流していく。少しずつ流して、体内へと循環させていく。
この伝導率はかなりいい。この三ヵ月半の間、魔石がずっと素肌に触れていたおかげだ。まさに魔石様様だな。そりゃあ、ソファに積まれたタオルの上で鎮座する資格もあるというものだ。
シアの隅々まで魔力を通して、循環させていく。
ゆらゆらと揺らしながら、流していく……。
『……ん? あれ? あの、テオ様』
『ん?』
『私って今眠っていましたか?』
俺からは観測できていない。
だが、シアがそう感じたのならそうなのだろう。
『そうかもしれないな』
『不思議な夢を見ました……』
『どんな夢だった?』
んーと……、とシアが言葉に悩んでいる。
『感じたことをそのまま言ってごらん?』
『……海に、いたんです。海なんて話で聞いただけで見たこともないのに』
『それで?』
『私の前に植え込みみたいな緑があって、とても背の高い木が生えていて……。その向こうに綺麗な砂浜と、綺麗な海が見えるんです。波がキラキラしていて綺麗でした』
『気分はどうだった?』
『とても気持ちよかったです』
『そうか。それはとてもいい夢だったな』
俺の魔力と揺れ始めたシアのマナが影響して波のイメージが湧いたのだろう。いい兆候だ。
その調子でシアの凝り固まったマナを揺らして魔力としての側面を刺激していくと、シアの魔力が少しずつ流れ出して、俺の魔力と一緒に体内を巡り始めた。
『……テオ様、何だか体がくすぐったいです……』
『シアの魔力が巡っている証拠だよ』
シアが体をモゾモゾとさせている。俺はクスッと笑って、俺から流している魔力を少しずつ抑えていく。
『今シアの体には、シアの魔力が巡っている。ぐるぐる、ぐるぐる、巡っている。想像してごらん。ぐるぐる、ぐるぐる……』
『ぐるぐる、ぐるぐる……』
『そう、上手いぞ。そのまま、ぐるぐる、ぐるぐる……』
……いいぞ。流れている向きも、速さも、自分でキチンと捉えることができている。
これが古代魔術師が「自分のマナを知る」「自分の魔力を扱う」「自分の魔力を操る」という基本となる。マナを単なる魔力としての側面ではなく、マナ全体として捉えている古代魔術師だからこそできる方法だ。しかも安全に後代を導くためには、事前にシアへ渡していた魔石のような下準備が鍵となる。
――――そう。
俺は最初からシアに古代魔術を教えるつもりだった。これが、シアをあの奴隷商から買った理由の二つ目だ。
古代魔術の伝承は難しい。学校へ通って大人数で学べる現代魔術とは異なり、師匠と弟子が一対一でじっくりと向き合う必要がある。それも結局は師匠と弟子の諸々のセンスが問われるから、噛み合わなければ習得はますます困難だ。
シアには悪いが……。俺から見たら、シアは古代魔術を教える条件にピッタリだった。
まず、マナを魔力として扱う素質が皆無だ。逆に言えばマナに対してまったくの素人、白紙の状態だ。この「白紙」というのが最初に重要となってくる。
魔力の基本保有量は申し分ない。俺や師匠には届かないが、そんなことは大きな問題ではない。
そして、今のシアは文字がほぼ読めない。本来古代魔術師は呪文を持たずに自分の感覚、想像、センスで術を扱う者だ。それらを下手に文字で起こそうとすると、余計なバイアスがかかって邪魔にしかならない。
もちろん本人が魔術の習得を嫌がったらやめたし、現代魔術を選ぶのならば責任を持ってそちらを教えた。
俺は誠に不本意ながら、アルドリール王立大魔術学校で教鞭がとれる立場だ。シアが現代魔術を選んだとしても、しっかりと教えてやれる自信しかない。
『上手いぞ、シア』
シアが自分の魔力をぐるぐる回している。もう俺からはほぼ魔力を流していない、もはや見守っているだけだ。
『そ、そうなんですか? ぐるぐる回している想像をしているだけなんですけれど……』
そうそう、最初はそういう反応なんだよな。
そして俺の時はわざと調子に乗って魔力を暴走させて、師匠の邸宅の一部を吹っ飛ばした。我ながら悪ガキだった。
『う、テオ様……、ちょっと酔ってきたかも……』
『わかった。俺が助けるから、ぐるぐるから意識を離してごらん』
『ぐるぐるから、離す……?』
『ぐるぐるの外へ行ってごらん』
『ぐるぐるの、外……』
俺が軽く手を貸してやって、シアは魔力の干渉から離れた。
「よし。もう普通に話していいぞ」
「……ふぁい……」
まだほろ酔い気味のシアはそれ以上言えないようだ。俺はフフッと笑いながら乱れた魔力の流れを修正して、そっと干渉を切り上げた。
「テオ様……、凄く体がポカポカしています……」
「そのポカポカした感じがシアのマナであり魔力だ」
「へぇー……」
まだ実感が薄いなぁ。これは後々の反応が楽しみだ。
シアに物を教えることは楽しい。俺に生きているという実感を与えてくれる。
シアの酔いが覚めたタイミングで目隠しを外してやった。
「おおぅ……、眩しいです……」
「こら、まだ目は閉じておけと言っただろうが」
シアの反応が楽しくてつい笑ってしまう。
本当に楽しい。俺が人間なんだという実感を与えてくれる。
「続きは一週間後にしよう。それまで暇な時に、さっきのぐるぐるをしているように」
「えっ? 私だけだと上手くできているのかわからないですよ?」
「ぐるぐるを想像するだけでいい」
「ぐるぐる、ぐるぐる……」
シアが呟きながら右手の人差し指をぐるぐると回している。
そう、それ。まさにそれが魔力の流れと、今のシアに合った速さなんだよなぁ……。
俺にはそうわかるのだが、本人に言うと変なバイアスが掛かる可能性があるので言わない。
「そんな感じでいい。指をぐるぐるしながらでいいから、体の中もぐるぐるするように意識する。それが魔力を感じて扱う練習になる」
「うぅ、よくわからなくてもどかしいです……」
「言葉で上手く表現出来ないのは古代魔術師の宿命だ。もどかしいのは諦めろ」
「難しいです……」
「ふんわりでいい、ふんわりで」
ぐるぐる。ポカポカ。ふんわり。
オノマトペが行き交う謎のやりとりは古代魔術師同士の会話の醍醐味だ。なにせ、古代魔術師的には魔術の真髄など「ふわふわ」なのだから。




