ものぐさ魔術師の憂鬱
ものぐさ魔術師の憂鬱
「……あれ? 俺、こんな所にいたんだっけ?」
自分の内面世界である書庫から二日ぶりに現実へと戻った俺は、リビングのソファに仰向けで寝転んだ状態だった自分の体に思わずポツリとそう呟いた。俺がリビングにいるとは珍しい。
あぁダメだ、二日前の記憶が怪しい……。
俺はここで何をしていたんだ……?
視線を天井からソファ横へと移動させると、オーバーテーブルに乗ったティーカップが見えた。カップの底が茶色く変色して乾いているので、二日前のお茶の飲み残しが蒸発した跡なのだろう。
「俺はお茶を飲んでいたのか……?」
再び小さく呟いた独り言は、喉の渇きで若干掠れ気味だった。最近よく咳が出ているのだから気を付けなければならない。
ソファに座り直しながら魔力を操ってカップを片付けた後、新たに取り出したガラスコップに水と氷を入れて飲む。喉の痛みはない。
腹は減っているような、減っていないような……?
少し悩んだが……、まぁ気にする程ではない。今すぐに何かを食べなくてもたぶん大丈夫だろう。たぶん。
それでも脳が働かないのは困るので、魔術工房に常備している飴玉を一粒取り出して口に含む。
うん、糖分補給できたのだからこれで大丈夫だろう。たぶん。
「何か変わったことは……」
再びダラリとソファに寝転びながら舌で飴玉を転がし、軽く敷地内を確認していく。
敷地と森とを区切る結界は問題ない。森から聞こえてくる小鳥のさえずりと木々のざわめきが耳に心地よい。
地面の乾き具合からして快晴続きだったようだ。薬草畑の薬草達が元気なく頭を下げていたので簡単に水撒きをしておく。
玄関前で黒い番犬が昼寝をしていた。俺の視線に気が付いて顔を上げたが、異変がないと知ると再び頭を伏せて眠り始める。
あ、浴室の窓が換気で開けっ放し状態だ。浴室内が砂埃でジャリジャリとしていたので軽く掃除する。
洗い場を見ると髪用石鹸の残りが少ないことに気が付いた。買い置きはあっただろうか、と考えたところで、はたと思い出す。
そうだ。
二日前はこの石鹸を自作しようと思い至って、けれどもまぁとりあえず一服しようとお茶を飲んで、そのままダラダラとソファに寝転んで、いつもの癖で書庫へと行ったのだった。
「あー……」
石鹸の製作意欲はすっかり失せてしまっている。が、このままソファに寝転んでいては二日前の繰り返しだ。
小さくなった飴玉をガリガリと噛み砕き、気合いを入れて起き上がった。強張っていた筋肉と関節を軽くほぐす。
「リー、どこにいる?」
廊下を移動しながら飼い猫を呼んだが姿を現さない。気配を探ってみると、二階にある俺のベッドで堂々と寝ていやがった。やれやれ。
とりあえず魔術工房のドアを開ける。
大きな窓で採光された室内。
壁に吊るした乾燥薬草。
作業台に転がったままの魔鉱石。
広げたままな魔術具と魔道具の設計図。
乱雑に積み重ねたままの資料達。
戸棚には適当に入れたポーション瓶の群れ。
その他にも多種多様な素材やら道具やらが雑多に散乱しているが、どこに何があるのかは把握している。まぁ今のところは、大きな問題は――。
……ん? あれ? 少し埃っぽいかもしれない。
まさかこれが、作業中に最近出ていた咳の原因ではないだろうな? そのせいで飴の消費量が増えていたんだが?
「……ついに実害が出てきやがったかぁ」
未だに奥歯に張り付いている飴の欠片を舌先で弄りつつ、換気のために窓をガタガタと開けた。外の窓枠にいたトカゲがスルリとどこかへ逃げていく。
「起きたのか、セブ」
先ほど昼寝をしていた黒い番犬が窓へと近寄ってきて俺を見上げた。まだ眠そうな目をしている。
そのまま窓に向かって立ち上がってきたので、手を伸ばして頭を撫でてやった。気持ちよさそうに目を細めて耳を倒し、遠慮がちに尻尾を振っている。可愛い奴め。
「さて。……いい加減に片付けないとなぁ……」
見回りに立ち去るセブを見送った俺は窓から振り返る。室内を気だるく一瞥すると思わずため息が出た。
確かに素材や道具の配置は把握している。だが、それらが床に描いた魔術陣内にまで広がりつつあるのは、我ながらどうかと思ってはいる。
埃と咳の問題もあるのだから見て見ぬフリも限界だろう。
……だが……。
この部屋の掃除は、非常に、面倒くさい。
他の部屋の掃除は魔術でどうとでもなるが、魔力由来の素材類や道具が満載な魔術工房は自力で片付ける必要がある。
いや……? 魔力由来の素材と道具と汚れやらを何かこう、いい感じに区別すれば、魔術でもいけるのか?
その場合だと術式構成はどうなる?
まずは工房内をいくつかに区切って物質ごとに特定と定義付け……。
いや、事前に不要な素材を仕分けておく方が……?
「……は?」
おい待て。今から掃除をする気か?
このごちゃごちゃな部屋を?
おいマジで正気か?
俺だぞ?
「えぇぇ……?」
何からどのように手をつけ出せばいいのやら……。
しかめ面で後頭部をガシガシと掻きつつ悩んでいたら、なんだか無性に腹が減った気がしてきた。
この二日間は何も食べていなかったのだ、当然の空腹だ。やはり飴玉だけではダメだったのだ。
うん、仕方がない。
掃除は中止して何か食おう。そうしよう。
「よし」
そうと決まれば魔術工房に用はない。そそくさと魔術工房の窓を閉めて、足早でキッチンへと移動してパントリーを漁る。
食に関してはこれでも一応気にしているので、ある程度は食材の在庫があるし調味料も揃っている。
俺は料理が作れないわけではない。ただ単に一日三食を作るのが面倒なだけ。それと、たまに数日食べるのを忘れる時があるだけだ。
とりあえず手軽に丸かじり出来るリンゴを手にしたが、今はそういう気分じゃないと元の位置に戻す。
調理した物が食べたい。
パスタを茹でるか? 芋のチーズ焼きでもするか?
いや、違うな。何というか、こう、ガブッとかぶりつきたい。
「サンドとか……」
そう呟いた途端、カリカリに焼いたベーコンとチーズを酸味が効いたトマトソースと一緒にパンで挟んで思いっきり頬張りたい口になってきた。……が、悲しいことに肝心のパンがない。
でも食いたい。今すぐに食いたい。
「あー」
師匠の趣味であるパン作りに付き合った経験が脳裏をよぎった。俺は時間と色々な余裕さえあれば、酵母作りからこだわったパンを焼ける自信がある。
――が、今回は余裕がないので適当な深鍋にパンの材料と空気中の酵母をぶちこんで作ってしまった。
魔術で作ると味が劣るのだが今回は仕方がない。余裕がないのだから仕方がない。
許せ師匠、弟子の危機なんだ。
「……ベーコンは普通に焼こう」
あとは買い置きのチーズと作り置きのトマトソース。葉物野菜を追加したかったが、あいにく在庫を切らしていた。
以前に家庭菜園を考えたが枯らす自信しかないので結局は手を出さなかった、という経緯があったりする。
今だって調合用に育てている薬草畑が荒れ放題なのだ。家庭菜園の管理など無理に決まっている。英断だったと思う。
茹で玉子も一緒に挟みたいところだが、卵の在庫がないので諦めた。術者が使役する魔術生物ならばともかく、鶏の卵を作るのはさすがに命の冒涜だろう。
俺はイカれた錬金術師ではない。
闇堕ちした魔術師でもない。
あくまでも真っ当な魔術師のつもりだ。
ほら、ベーコンサンドが出来たぞ。ちゃんと美味いぞ。
「……」
なんだか虚しくなってきた。
壁に寄りかかったままサンドをかじり、そこからぼんやりとリビングを眺める。
「あー……」
改めて見ていると温かみのない家だよなぁと思う。
一日の大半を魔術工房か書斎か書庫に籠っているせいか、家自体にあまり生活感がない。掃除や建物の手入れはしているが自力でなく魔術任せだ。これでは何となく人間らしい温もりがない気がする。
「そもそも人間は俺しかいないもんなぁ」
ここは人里離れた大森林の中だ。ここから一番近くの町までは迷わず進んだとしても徒歩で二週間はかかる。
それに森の中には歯応えのある魔獣もうろついている。わざわざ危険を冒してまでこの森に踏み入る物好きはいない。
「来たらそれも面倒だしなぁ」
確かに俺は基本的に籠ってこそいるが、完全に他者との関係を絶っているわけではない。買い出しや所用で町へは行くし、顔馴染みの相手には簡単な談笑もする。
俺は真っ当な魔術師だ。
ちょっと外界から距離を置いていたり、家事の一切が魔術任せだったり、少しばかり面倒くさがりで自分のことが色々と適当だったり、挙げ句の果てに数日間寝食を忘れて書庫に入り浸ったり魔術探求に没頭したりしてぶっ倒れたりする程度の真っ当な魔術師だ。
……。
「あれ? 俺このままだと人間辞めてるな?」
認めたくない現実に、俺は思わずボソリと呟いた。