深淵に響く嘆きの歌
洞窟の入り口は、まるで冥府への入り口のように、暗く冷たい口を開けていた。マルーシャは「ひゃだ、こんなジメジメしてカビ臭いとこ、美人のお肌には最悪じゃないの! せめて天然温泉でも湧いてれば許すけど!」といつもの調子で軽口を叩くが、その声は心なしか震えている。プリンもリアンのマントに半ば潜り込み、小さな体でぷるぷると震えていた。
エルミナが松明に火を灯すと、揺らめく炎が周囲の岩肌をぼんやりと照らし出す。リアンは一つ深呼吸をし、古びた剣の柄を握りしめた。
「行くぞ。母上が、そしてドラグニアの民が待っている」
その声には、彼自身を鼓舞するような響きがあった。リアンを先頭に、エルミナ、負傷した兵士を支えるハルクと他の兵士、そして最後尾を警戒するマルーシャという隊列で、一行は慎重に闇の中へと足を踏み入れた。
洞窟内部は、ひんやりとした湿った空気が澱み、カビと土の匂いが鼻をついた。自分たちの足音と、時折壁から滴り落ちる水の音だけが、重苦しい静寂の中でやけに大きく反響する。松明の光が届く範囲は限られ、その先の闇はどこまでも深く、得体の知れないものが潜んでいそうで不気味だった。
壁には、所々に風化した線刻が見られた。それは明らかに人工的なもので、動物や星々を象ったような素朴な模様、あるいは理解不能な幾何学的な記号が断片的に残っている。
「これは…『古の民』の様式に酷似しています」エルミナが壁に触れながら囁いた。「彼らは、遥か昔、大崩壊と呼ばれる厄災以前の時代に、この大陸で高度な精神文明を築いていたと言われています。自然と調和し、星々の運行を読み解く術に長けていたとか…なぜ、こんな場所に彼らの痕跡が?」
道は奥へ進むにつれて複雑になり、時には天井が低く屈まなければ進めない場所や、一人通るのがやっとの狭い亀裂もあった。マルーシャは何度か頭をぶつけ、「もうっ! この洞窟、あたしみたいなグラマラスなレディには優しくないわね! 出たら設計者に慰謝料請求よ!」と息巻いては、プリンに「マルちゃん、天井に頭ぶつけるのはグラマー関係ないと思うぜ」と冷静にツッコまれていた。
負傷した兵士の一人、若年のヨルンは、クリフクロウラーの毒のせいか、熱が上がり始めていた。ハルクが彼の肩を支えながら進むが、その足取りは重い。
「す、すみません、ハルク殿…足手まといに…」
「気にするな、ヨルン。お前はソフィア王妃様をお守りする大切な兵だ。必ず生きて白竜の谷へ送り届ける」
ハルクの言葉は力強かったが、その表情には隠せない疲労と焦燥が浮かんでいた。
やがて一行は、三つに分かれた分岐点に突き当たった。どの道も同じように暗く、不気味な空気が漂っている。古い地図も、この辺りの記述は曖昧で判然としない。
「困ったねぇ、どっちが天国への道で、どっちがお陀仏コースかしら?」マルーシャが松明の光で各通路を照らしながら言う。
「…こっちの道…なんだか、ほんのりあったかい感じがするぜ…」
プリンが、中央の通路を指して言った。その体は僅かに燐光を放っているように見える。
「反対に、あっちの右の道からは…うーん、冷たくてイヤ~な風が吹いてきてる」
エルミナがプリンの言葉に頷く。「私も、中央の通路から微かな魔力の流れを感じます。古の民は、地脈や魔力の流れに沿って道を作ることがあったと聞きます。プリンの感覚を信じてみましょう」
中央の通路を進むと、やがてやや開けた空間に出た。そこは小さな広間になっており、天井の一部が崩落しているのか、ごく僅かな外光が射し込んでいる。その薄明りの中に、古の民が使っていたと思われる石器や土器の破片が散乱し、広間の中央には祭壇のような石造りの台座が鎮座していた。
「これは…祭祀場だったのかもしれませんね」エルミナが周囲を見回す。
祭壇の表面には、複雑なシンボルが刻まれていた。それは、リアンが時折夢で見る、夜空に輝く七つの星々の配置と、奇妙なほどよく似ていた。エルミナもそのシンボルを凝視し、何かを思い出そうとするかのように眉を寄せた。
「この紋様…どこかで…」
祭壇の奥には、さらに通路が続いていた。しかし、その入り口付近には、おびただしい数の骨が散らばっていた。それはクリフクロウラーのものではなく、もっと大きく、鋭い牙や爪を持つ、未知の生物の骨だった。
「おいおい、ここは一体どんな生き物の墓場なんだい…?」マルーシャの声が震える。
その時、暗闇の奥から、カサカサ、という微かな音が聞こえ始め、それが徐々に数を増していく。松明の光が揺らめき、壁や天井に無数の小さな影が蠢き始めた。
「シェイドスパイダー…光を嫌い、毒を持つ洞窟蜘蛛です!」エルミナが叫び、杖を構える。
次の瞬間、無数の光る眼が暗闇から一斉に現れ、体長一メートルはあろうかという巨大な蜘蛛たちが、一行に襲いかかってきた。
「うわあああ! 蜘蛛! 嫌いなのよ、蜘蛛だけは!」マルーシャが普段の威勢はどこへやら、本気で怯えた声を上げる。
「マルーシャさん、下がって!」リアンは剣を抜き放ち、エルミナと背中合わせになる。兵士たちも盾を構え、応戦する。
シェイドスパイダーは、口から粘着性の高い糸を吐きかけ、動きを封じようとしてくる。暗闇と狭い空間での戦いは困難を極めた。
リアンは、エルミナから教わった剣の型と呼吸法を意識し、力任せに振り回すのではなく、冷静に敵の動きを見極めようと努めた。だが、焦りからか、動きはまだぎこちない。
兵士の一人が、足元から現れたシェイドスパイダーの糸に絡め取られ、暗闇へと引きずり込まれそうになった。
「くそっ!」
リアンが助けに入ろうとするが、三方向から同時に襲いかかられ、身動きが取れない。
(守らなければ…! 仲間を…!)
その強い想いに呼応するように、リアンの体の奥底から、あの蒼いオーラが再び湧き上がってきた。しかし、今回は以前のような制御不能な奔流ではなく、まるで彼の意志に応えるかのように、その力が剣先へと集中していくのが感じられた。
「おおっ…!」
リアンの剣が、淡い蒼炎を纏ったかのように輝きを放つ。その一閃は、シェイドスパイダーの硬い甲殻をバターのように切り裂き、周囲の数体をまとめて薙ぎ払った。しかし、その一撃はリアンの体力を大きく消耗させ、彼は激しい眩暈に襲われた。
「王子、ご無理を!」エルミナがリアンを支えながら、光の魔法で残りの蜘蛛を焼き払う。
シェイドスパイダーの群れは、リアンの放った尋常ならざる力と、エルミナの強力な魔法に怯んだのか、蜘蛛の子を散らすように後退していった。
一行は辛くも危機を脱したが、消耗は激しい。ヨルンの容態はさらに悪化し、意識も朦朧とし始めている。松明の残りも少なくなり、焦燥感が募る。
「…リアン、あっちだぜ…」プリンが、か細い声で通路の奥を指差した。「光と…水の音がする…」
その言葉を頼りに、一行は最後の力を振り絞って進んだ。やがて、通路の先に微かな光が見え始め、サラサラという水の流れる音が聞こえてきた。出口が近いのかもしれないという希望が、彼らの心に灯る。
だが、それと同時に、洞窟の入り口で感じたあの「重苦しい気配」が、すぐそこまで迫ってきているのを全員が感じ取った。それはもはや気配というより、明確な敵意と、魂を圧し潰すかのような絶望的なプレッシャーだった。
「だ、だめだ…リアン、に、逃げよう! あいつは…本当に、本当にヤバすぎるぜ!」
プリンは本能的な恐怖に全身を震わせ、リアンの服に必死にしがみつく。彼の体から、いつもとは違う弱々しい燐光が明滅していた。
通路を抜けた先は、広大な地底湖が広がる巨大な空間だった。天井からは鍾乳石が垂れ下がり、地底湖の水面は、どこからか差し込む僅かな光を反射して、エメラルドグリーンに不気味に輝いている。
そして、その地底湖の中央に浮かぶ巨大な岩島の上に、それは鎮座していた。
それは、まるで峡谷の嘆きそのものが凝り固まって形を成したかのような、異様で巨大な存在だった。何本もの触手のようなものが蠢き、その中心には、開閉する巨大な単眼が赤黒く光っている。その姿は、古の伝承に記された「深淵の監視者」と呼ばれる存在に酷似していた。
その「監視者」が、ゆっくりと、しかし確実に、巨大な単眼をリアンたちに向けた瞬間、洞窟全体がゴオオオッと低い唸りを上げて振動し、リアンの胸に下げられた革袋のお守りが、まるで心臓のように熱く、そして激しく脈動し始めた。