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ウェスタリア・サーガ:亡国の王子と喋るスライム  作者: 信川紋次郎
第一章: 星影の王子と天空の誓約
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峡谷の夜陰、蠢く爪と古の道


嘆きの峡谷に夜の帳が下りると、闇は一層その深さを増し、風の音は潜む獣の息遣いのように一行の耳を打った。焚火は最小限に抑えられ、揺らめく小さな炎が、岩陰に集う彼らの不安げな顔をぼんやりと照らし出す。ハルクとエルミナが最初の見張りに立ち、残りの者たちは仮眠を取ろうと試みるが、張り詰めた空気と遠くから響く不気味な音に、なかなか寝付けないでいた。

リアンは、硬い岩に背を預け、エルミナから渡されたドラグニア王家の歴史が記された古い書物を読んでいた。文字を目で追ってはいるものの、その内容はほとんど頭に入ってこない。先ほどの「竜の血脈」の力の奔出、そして自分に託されたものの重圧が、彼の心を占めていた。

「眠れませんか、王子」

静かな声に顔を上げると、見張りを交代しに来たエルミナが隣に腰を下ろした。彼女の蒼い瞳は、闇の中でも澄んだ光を失っていない。

「エルミナさん…俺は、本当にこの力を使えるようになるんだろうか。さっきは、ただ暴走しただけだ。あれでは、仲間を守るどころか…」

「どのような力も、最初は荒れ狂う奔流のようなもの。それを治め、正しき流れに導くのが、持ち主の務めです。あなた様の血には、初代ドラグニア王が竜と交わした古の契約が息づいているのです。焦る必要はありません。ご自身の内なる声に耳を澄ませば、力は必ずや応えてくれるでしょう」

エルミナの言葉は、静かで、しかし確信に満ちていた。リアンは黙って頷き、もう一度書物に目を落とす。

マルーシャは、愛用の毛布にくるまりながらも、時折「ひぃぃ、追徴課税だけはご勘弁を~!」などと明瞭な寝言を呟き、その度にプリンが彼女の鼻先にそっと小石を乗せてはクスクス笑いを堪えている。そんなコミカルな光景も、この極限状況下では貴重な心の清涼剤だった。

その時、見張りに立っていた兵士の一人が、息を詰めて囁いた。

「…何か、来ます!」

ほぼ同時に、プリンがリアンの膝から飛び起き、全身のプリン質を細かく震わせた。

「間違いないぜ、リアン! しかも、いっぱいだ! あのカサカサ、ガサガサって音…だんだん近くなってる!」

遠くから聞こえていた不気味な音は、もはや風の音に紛れることなく、無数の何かが岩肌を擦る音として、はっきりと認識できるようになっていた。それは徐々に近づき、数を増し、やがて一行を取り囲むように峡谷の闇に満ちていった。

「総員、警戒!」ハルクの鋭い声が飛ぶ。

エルミナが杖を掲げると、柔らかな光が周囲を照らし出した。その光に浮かび上がったのは、おぞましい光景だった。岩壁という岩壁、天井、そして地面を、おびただしい数の魔獣が覆い尽くしていたのだ。体長は大きな犬ほど、しかし蜘蛛のように多関節の細長い脚を持ち、先端には剃刀のような鋭い爪がきらめいている。甲殻に覆われた体は岩と見紛うような保護色で、複眼だけが不気味な赤い光を放っていた。

「クリフクロウラー…峡谷の岩壁に潜む夜行性の捕食者です! しかも、これほどの数は…!」エルミナの声に焦りが滲む。

「ヒイイイイ! なによアレ、気持ち悪い! しかも団体様ご来店って、聞いてないわよーっ!」マルーシャが悲鳴に近い声を上げる。

「グシャアアアア!」

まるでマルーシャの悲鳴に応えるかのように、クリフクロウラーの一体が奇声を上げ、最も近くにいた兵士に襲いかかった。兵士は盾で辛うじてその一撃を防ぐが、盾には深い爪痕が刻まれ、衝撃に体勢を崩す。

それを合図に、クリフクロウラーの群れが一斉に襲い掛かってきた。四方八方、文字通り壁からも天井からも、音もなく滑り降りてくる魔獣たちに、一行は瞬く間に包囲された。

「円陣を組め! 背後は任せろ!」リアンが叫び、兵士たちと共にエルミナとマルーシャを中央に守るように陣形を組む。狭い岩陰では、数の不利を補うことはできない。

「ルーメン・シールド!」エルミナが光の盾を複数展開し、クリフクロウラーの突進を阻む。しかし、敵は次から次へと現れ、盾は徐々に削られていく。

兵士たちは必死に応戦するが、クリフクロウラーの爪は硬い鎧さえも切り裂き、その牙には毒があるのか、噛まれた箇所が紫に変色していく。

「くそっ、こいつら、硬い上に素早い!」ハルクが一体を斬り伏せながら悪態をつく。

「王子、奴らの関節と、あの赤い眼が弱点です!」エルミナが叫ぶ。

リアンはエルミナの言葉を頼りに、迫りくるクリフクロウラーの赤い複眼を狙って剣を突き出す。だが、暗闇と混乱の中で的確に急所を捉えるのは至難の業だった。

「マルちゃん特製! 視界ジャックだ、コノヤロー!」

マルーシャが恐怖に顔を引きつらせながらも、懐から取り出したのは、乾燥させた唐辛子と発煙性の高い薬草を混ぜた特製の粉末袋だった。それを力任せにクリフクロウラーの群れへと投げつける。

「ゲホッゲホッ! グシャア!?」

刺激性の粉末は効果てきめんで、数体のクリフクロウラーが苦しげに身を捩り、動きを鈍らせた。

「プリン、今だ!」

「おうよ! オレ様のネバネバスペシャル、お見舞いしてやるぜ!」

プリンは体を平たく伸ばすと、動きの鈍ったクリフクロウラーの顔面に張り付き、その視界を完全に奪った。

だが、敵の数はあまりにも多い。兵士の一人が、背後から忍び寄ったクリフクロウラーに肩を噛まれ、苦痛の声を上げる。

「大丈夫か!」リアンが駆け寄ろうとするが、別の個体が彼の行く手を阻む。

エルミナも魔法を連発し、消耗が激しい。彼女の額には汗が滲み、呼吸も荒くなっている。

「エルミナさん!」

リアンが叫んだ瞬間、大型のクリフクロウラーが、エルミナの魔法障壁を力ずくで破壊し、その巨大な鎌のような前脚を振り下ろした。エルミナは咄嗟に身をかわそうとするが、間に合わない――!

(守らなければ…!)

その強い想いが引き金となったのか、リアンの全身から、再びあの蒼いオーラが激しく噴き出した。それはもはや微かな光ではなく、明確な力の奔流だった。

「うおおおおおおっ!」

リアンは意識する間もなく、エルミナの前に立ちはだかり、両手を突き出していた。掌から放たれたのは、純粋な力の衝撃波。それは大型のクリフクロウラーを真正面から捉え、その甲殻を粉々に砕き、数メートル後方の岩壁に叩きつけた。周囲にいた数体のクリフクロウラーも、その余波に巻き込まれて吹き飛ぶ。

しかし、その強大な力はリアン自身の体にも大きな負担を強いた。彼は激しい眩暈と脱力感に襲われ、その場に膝をつきそうになる。

「王子…!」エルミナが、驚きと心配の入り混じった表情でリアンを支える。

リアンの放った力に怯んだのか、あるいは夜明けが近いことを察したのか、クリフクロウラーの群れは、まるで潮が引くように一斉に動きを止め、そして闇の中へと撤退していった。

後に残されたのは、破壊された岩陰、魔獣の体液の臭い、そして負傷した兵士たちの呻き声だった。

一行は、夜明けまで交代で警戒を続けながら、負傷者の手当てに追われた。幸い、命に別状のある者はいなかったが、クリフクロウラーの毒は厄介で、マルーシャが持っていた解毒薬草も気休めにしかならない。リアンは、力の暴発の代償としてひどい倦怠感に襲われていたが、それ以上に、自分の力が仲間を危険に晒しかねないという恐怖と、それを制御できない無力さに打ちのめされていた。

エルミナは、そんなリアンの手を静かに握りしめた。

「…今は、お休みください、王子。その力は、必ずやあなた様と民を導く光となりましょう。私が、そう信じています」

やがて、峡谷の東の空がわずかに白み始め、深い霧が立ち込めてきた。視界は数メートル先も覚束ない。この霧は、追手の目をごまかすには好都合だが、同時に道を見失う危険も孕んでいた。

「出発しましょう」エルミナは、リアンの消耗を気遣いつつも、非情な決断を下す。「この場所はもう安全ではありません」

一行は、老連絡員から託された古い羊皮紙の地図を頼りに、霧の中を慎重に進み始めた。地図は所々シミがあり、判読しづらい箇所もあったが、ハルクの経験とエルミナの知識がそれを補った。

数時間後、彼らは地図に記された目印――三つの奇岩が並ぶ場所――にたどり着いた。そして、その岩壁の足元に、まるで巨大な獣が牙を剥いたかのような、不気味な洞窟の入り口がぽっかりと口を開けていた。

「ここが…地図に示された『古の民の抜け道』の入り口のようです」エルミナが息を呑む。

洞窟の奥からは、ひんやりとした風と共に、クリフクロウラーのそれとは明らかに異なる、重く、湿った、そしてどこか腐臭にも似た何かの気配が漂ってくる。それは、まるで大地そのものが深いため息をついているかのようだった。

「こ、ここを入っていくのかよ…? なんか、クリフクロウラーよりもっとヤバそうな匂いがプンプンするぜ…」

プリンが、リアンのマントに隠れるようにして囁いた。

リアンは洞窟の闇を見据える。その奥に何が待っているのかは分からない。だが、進むしかないことは分かっていた。母が待つ「白竜の谷」へ辿り着くために。そして、自分自身の運命と向き合うために。

彼は、胸のお守りを強く握りしめた。


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