峡谷の入り口、囁かれる古の嘆き
銀の泉での夜は、短くも貴重な安らぎを一行にもたらした。しかし、夜明け前の冷たい空気は、新たな旅立ちの厳しさを否応なく告げていた。空にはまだ星が瞬き、東の山稜がようやく白み始めようとする頃、リアンは修道院跡の中庭で、エルミナから教わったドラグニア王家流の剣の型を繰り返していた。古びた鉄の剣が、彼の動きに合わせて静かに風を切る。型自体は体に馴染んできたものの、意識を集中させようとすればするほど、あの蒼いオーラ――「竜の血脈」の力は気まぐれに現れ、そしてすぐに霧散してしまう。
(焦るな…エルミナさんは言っていた。力は求めるものではなく、応えるものだと…)
リアンは一度剣を収め、深く息を吸い込んだ。その傍らで、マルーシャが一行の荷物を手際よく点検し、保存食を各々の背嚢に分配していた。その口からは相変わらず軽快な言葉が飛び出すが、瞳の奥には真剣な光が宿っている。
「はい、王子様、これが今日の分ね! 塩漬け肉と硬いパン、それにマルちゃん特製・元気が出る干しブドウ! これで峡谷越えも、恋の悩みもイチコロよ! …って、恋の悩みは専門外だったかしら、あはは!」
「ありがとう、マルーシャさん」リアンは苦笑し、干しブドウを一粒つまむ。甘酸っぱい味が口の中に広がった。
プリンは、中庭の隅にある苔むした石碑に興味を示していた。表面には風化した古代文字のような模様が刻まれている。
「なあリアン、これ、なんて書いてあるんだ? なんかこう、グルグルしてて、ミミズがダンスしてるみたいだぜ」
「さあな…俺にも読めない」
「古代エルヴ語の一部ですね」静かに近づいてきたエルミナが言った。「『星の巡りが乱れる時、古き嘆きが再び大地を覆う』…そう記されています。この修道院は、かつて星々を読む賢者たちが暮らした場所でしたから」
その言葉は、リアンの胸に小さな棘のように引っかかった。
やがて、銀の泉の住人たちが、一行を見送るために集まってきた。その数は多くないが、彼らの目にはリアンたちへの切実な期待と、旅の無事を祈る純粋な想いが込められている。老いた連絡員の男性が、震える手で小さな革袋をリアンに差し出した。
「リアン王子…これは、ソフィア王妃様がいつかあなた様にお渡しするようにと、私に託されたお守りにございます。そして…これは私からです」
そう言って、彼はもう一つ、古びた羊皮紙の巻物を差し出した。
「『嘆きの峡谷』の古い地図です。ヴァルガス軍も知らない抜け道が記されているやもしれません。お役に立てれば…」
「ありがとうございます…必ず、母上の元へ辿り着きます」
リアンは革袋と地図をしっかりと受け取り、深く頭を下げた。住人たちの「王子、お気をつけて!」「ドラグニアに光を!」という声援を背に、一行は銀の泉を後にした。
峡谷への道は、銀の泉を出て半日もすると、その様相を一変させた。なだらかだった丘陵は姿を消し、天を突くような岩山が左右に迫り始める。木々はまばらになり、風化した奇岩が不気味な影を落とす。道は狭く、馬も通えぬような険しい登り坂が続く。
「うへぇ…なんだか空気が重くなってきたぜ…」プリンがリアンの肩の上でぶるりと震えた。
「『嘆きの峡谷』が近いからでしょう」エルミナが周囲を警戒しながら応える。「この峡谷は、古来より多くの悲劇の舞台となってきました。数百年前の大戦では、この地で敗れた王国の兵士たちが何万人も命を落としたとか。また、罪人たちが突き落とされる処刑場だったという話も…」
「ひぃぃ! エルミナちゃん、そういう怖い話、昼間にしてくれない!?」マルーシャが大げさに肩をすくめる。「ま、あたしの商売勘が告げてるよ。こんなジメジメした場所には、きっとお宝…じゃなくて、厄介事がわんさか眠ってるってね!」
彼女は努めて明るく振る舞うが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
リアンは黙って険しい道を進む。脳裏には、銀の泉の住人たちの顔と、ソフィア王妃のことが浮かんでいた。王子としての自覚、仲間を守るという責任、そして未だ制御できぬ謎の力。それらが渾然一体となり、彼の心を重くする。
(俺は、本当に彼らの期待に応えられるのだろうか…)
ふと、隣を歩くエルミナと目が合った。彼女は何も言わなかったが、その蒼い瞳には静かな信頼の色が浮かんでいるように見えた。それだけで、リアンの心は少し軽くなる気がした。
ついに一行は、「嘆きの峡谷」の入り口に到達した。
言葉を失うほどの光景だった。天を摩する巨大な断崖絶壁が両側にそそり立ち、その間をまるで大地が裂けたかのように深い谷がどこまでも続いている。谷底は遥か下で、霧に覆われて見通せない。吹き抜ける風は、まるで無数の亡霊の呻き声のように、不気味な音を立てていた。
「こ、これが…嘆きの峡谷…」ハルクでさえ、その威圧的な光景に息を呑む。
「気を引き締めましょう。ここからは、いつ何が起きてもおかしくありません」エルミナの声が、一行の気を引き締めた。
峡谷に足を踏み入れると、空気はさらに冷え込み、太陽の光も届きにくくなった。道は断崖に沿って細々と続き、一歩足を踏み外せば奈落の底だ。ハルクと元兵士の一人が先行し、慎重に周囲を警戒する。
しばらく進むと、ハルクが手で合図を送ってきた。岩陰に、古い監視所の残骸があった。今は無人だが、焚火の跡や残された食料のゴミから、数日前までヴァルガス軍の兵士が駐留していたことがうかがえる。
「奴らも、この峡谷を警戒しているのは間違いないな」リアンは呟く。
その時だった。頭上の崖から、パラパラと小石が落ちてきたかと思うと、次の瞬間、人頭大の岩が数個、轟音と共に落下してきたのだ。
「危ない!」
リアンは咄嗟にマルーシャの腕を引き、岩陰へと飛び込んだ。岩は一行がいた場所を直撃し、砕け散る。
「ひゃあ! 死ぬかと思った! 王子様、あんた、あたしに惚れちゃっても知らないよ! 二度目だけど!」
マルーシャは腰を抜かしそうになりながらも、いつもの調子でリアンにしがみつく。
「大丈夫ですか、マルーシャさん」
「だ、大丈夫よ…心臓が口から飛び出そうなくらいにはね…」
自然の落石か、それとも人為的なものか。判然としないが、この峡谷が容易くはないことを一行に改めて知らしめた。
遠くの山稜に、小さく狼煙が上がるのが見えた。おそらく、ヴァルガス軍のものだろう。追手は確実に迫っている。
日が傾き始め、峡谷の影はさらに濃く、長く伸びていく。一行は、比較的風を避けられる大きな岩の陰を見つけ、そこで野営の準備を始めた。焚火は最小限に抑え、煙が立たないよう注意を払う。
少ない食料を分け合い、マルーシャが薬草を煎じた温かい飲み物を振る舞う。その香りと温もりが、張り詰めた心身をわずかに解きほぐした。
「…なあ、リアン」プリンが、リアンの膝の上で小さな声で言った。「なんだか…イヤな感じがするぜ…。さっきから、ずっと誰かに見られてるような…」
プリンの言葉に、リアンも背筋に走る微かな悪寒を感じていた。
風の音に混じって、遠くから奇妙な音が聞こえてくる。それは獣の咆哮のようでもあり、金属が擦れ合うような甲高い音のようでもあった。
エルミナとハルクが、無言で顔を見合わせる。彼らの表情は硬く、目は峡谷の奥の暗闇を鋭く見据えていた。
リアンもまた、古びた剣の柄を強く握りしめる。革袋に入ったお守りが、彼の胸でかすかな温もりを放っている。
この嘆きの峡谷の闇には、まだ見ぬ何かが潜んでいる。それは、ヴァルガス軍の兵士か、凶暴な魔獣か、あるいはもっと得体の知れない何かか――。
一行の長い夜が、始まろうとしていた。