白竜の谷の慟哭、魂の共鳴と調停者の鉄槌
【白竜の谷の残響、虚ろなる心の亀裂】
「ここは…?」
「執行者リオン」の唇から漏れた、感情の欠片を宿したかのようなか細い声。それは、白竜の谷の寂寞とした空気に、小さな波紋のように広がった。彼の蒼氷の瞳には、ソフィア王妃の優しい笑顔、エルミナと交わした未来への誓いの言葉、プリンと共に無邪気に駆け回った草原の光景――かつてリアンだった頃の、温かく、そしてあまりにもかけがえのない記憶の断片が、まるで壊れた万華鏡のように激しく明滅していた。
それは、心の奥底に封じ込められたリアン本来の魂が、この思い出深い場所と、母ソフィアの強い想いの残滓に触れ、激しく揺さぶられている証だった。
リオンは、こめかみを押さえ、激しい頭痛に襲われたかのようにわずかに身をよじった。額に刻まれた「星詠みの調停者」の冷たい紋章が、まるで彼の内なる抵抗を抑え込もうとするかのように、不気味な紫色の光を放つ。
「命令ヲ…遂行…セヨ…抵抗勢力…殲滅…」
調停者の冷たく無機質な声が、彼の脳内に直接響き渡り、リアン本来の魂の叫びを再び深淵の底へと押し戻そうとする。
エルミナ、ヴォルフ、カイト、セレスもまた、この白竜の谷の空気に触れ、その抑制された魂の奥底で、忘れたはずの何かが疼くのを感じていた。だが、彼らの額にもまた、調停者の紋章が深く刻まれており、その疼きを自覚するには至らない。彼らはただ、リオンのわずかな異変を、感情のない瞳で見つめているだけだった。
【エルミナの祈り、星屑への呼びかけ】
エルミナだけが、リオンの瞳の奥に見た一瞬の揺らぎと、彼の魂の最深部で今まさに激しく瞬き始めた「星屑」の確かな輝きを捉えていた。これが最後のチャンスかもしれない――いや、これが最後のチャンスなのだ。彼女は直感した。調停者の監視を覚悟の上で、エルミナは危険な賭けに出ることを決意した。
彼女は、歪められた星詠みの力の全てを、そして自らの魂の残滓を振り絞り、リアンの魂の「星屑」へと、必死に意識を集中させ、語りかけた。それは、もはや魔法や言葉というよりは、魂そのものの叫びに近かった。
(リアン王子…! 聞こえますか…! あなたの魂の歌を…あなたの本当の心を…思い出してください…! あなたは、決して絶望の執行者などではありません…! あなたは、ウェスタリアの希望の光…私たちの…私たちの、大切な仲間なのですから…!)
エルミナの精神が、リアンの深層意識――そこは、暴走した闇のリアンと、父アルトリウスやシルフィードの言葉の残響、そして「星屑」の微かな光が激しくせめぎ合う、混沌とした戦場だった――へと、まるで細い蜘蛛の糸を辿るかのように、慎重に、しかし決死の覚悟で侵入していく。その行為が、調停者たちにどのような反発を招くか、そして彼女自身の魂にどれほどの負荷をかけるか、もはやエルミナにそれを計算する余裕はなかった。
【プリンの奇跡、マルーシャの涙の意味】
一方、戦場から少し離れた谷の一角、リアンたちが最初に転移させられた場所に打ち捨てられたように残されていたマルーシャ。彼女の腕の中で、ピクリとも動かなかったプリンの小さな体が、突如として温かい翠色の光を放ち始めた。その光は、シルフィードの「風の涙」の清浄な気配と、リアンのお守りに宿る「調和の聖具」の生命の波動、そしてプリン自身の純粋で穢れを知らない魂が融合したかのような、不思議で、そしてあまりにも優しい輝きだった。
プリンが、ゆっくりとその目を開けた。その瞳には、まだ力はないものの、確かな生命の光が宿っていた。そして、弱々しいながらも、マルーシャの頬をぺろりと舐めた。
「…プ…プリン…ちゃん…? ああ…ああ…生きて…生きていたのね…!」
マルーシャの瞳から、再び熱い涙が止めどなく溢れ出した。しかし、それはもはや絶望の涙ではなかった。失われたと思っていたかけがえのない絆との再会、そして信じられないような奇跡を目の当たりにしたことによる、魂からの感動の涙だった。この小さな、しかし確かな生命の輝きが、彼女の壊れかけた心に、再び立ち上がるための、そして戦うための、小さな、しかし何よりも強い勇気の灯をともした。
「そうよ…あたしは…あたしはまだ、諦めちゃいないんだから…!」
【母の愛の幻影、執行者の苦悶】
白竜の谷の中心部。リオンは、頭を抱え、激しい苦痛に呻いていた。ソフィア王妃の幻影――あるいは、この谷にあまりにも強く残る彼女の愛情の残滓――が、より鮮明に、そして頻繁に彼の前に現れては、優しく、そして悲痛な声で語りかけてくる。
「リアン、あなたは何をしているのです…? あなたのその剣は、誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るためにあるはずでしょう…? 思い出してちょうだい、リアン…あなたが誰なのか、あなたが何を大切に思っていたのかを…」
その母の言葉は、まるで鋭い楔のように、リオンの「調整」された心の奥深くに突き刺さる。彼の動きが一瞬止まり、その蒼氷の瞳に、激しい葛藤と苦悩の色が浮かび上がった。額に刻まれた調停者の紋章が、まるで拒絶反応を起こすかのように、激しく明滅し、バチバチと紫色の火花を散らし始めた。
「命令…遂行…抵抗勢力…殲滅…ソフィア王妃…捕縛…あるいは…抹殺…」
リオンの唇から、調停者の命令が途切れ途切れに漏れる。だが、その声は震え、もはや以前のような絶対的な確信は感じられない。
「調整」されたヴォルフ、カイト、セレスもまた、リオンの異様な状態と、この谷全体に満ちるソフィア王妃の強い想いの波動に影響され、その表情にかすかな苦悶の色が浮かび始めていた。彼らの魂の奥底でもまた、何かが目覚めようとしているのかもしれない。
【星屑の覚醒か、深淵の鉄槌か】
エルミナの決死の呼びかけ、プリンの奇跡的な復活の波動、そしてソフィア王妃の幻影を通じて伝えられる母の愛――それらが、ついにリオンの魂の奥底に眠る「星屑」を、激しく、そして決定的に揺り動かした。
「う…ああ…あああああああああああああああっ!」
リオンが、これまでにないほどの苦悶と、そして内なる何かからの解放を求めるかのような、獣のような絶叫を上げた。彼の体から、白銀の清浄なオーラと、調停者によって植え付けられた禍々しい赤黒いオーラが、交互に、そして同時に激しく噴き出し、周囲の空間を破壊的なまでに歪ませる。額に刻まれた調停者の冷たい紋章が、まるで拒絶するかのように激しく明滅し、そこに大きな亀裂が走り始めた。
それは、リアン本来の魂が、調停者による非情な支配と「魂の再調整」に対し、最後の、そして最大の抵抗を試みている証だった。しかし、そのあまりにも強大で、そしてあまりにも不安定な力の奔流は、白竜の谷そのものを崩壊させかねないほどの、極めて危険な兆候でもあった。
「リアン王子!」エルミナが、彼の魂の叫びを感じ取り、叫んだ。
その時、遠く異次元の「聖域」で、リアンたちの精神状態を監視していた「星詠みの調停者」たちが、リオンの「致命的なエラー」と、その力の制御不能な暴走を感知した。
「対象リオン、予測不能な魂の変異を確認。再調整プロトコル、失敗。これ以上の存在は、宇宙の調和に対する潜在的脅威と判断。プロトコル変更…対象リオンの即時『廃棄』を実行する」
冷たく、そして絶対的な調停者の声が、空間を超えて響き渡った。
次の瞬間、白竜の谷の上空の空間が再び大きく裂け、そこから、アズラエルが放った「虚無の狩人」など比較にならないほど巨大で、そして絶望的なまでに強力な、「虚無の処刑人」とでも呼ぶべき、漆黒の破壊兵器が、その禍々しい姿を現そうとしていた。
リアンの魂の覚醒か、それとも完全なる暴走と破滅か。そして、調停者による非情な「廃棄」命令。白竜の谷の運命、そしてリアンたちの未来は、まさに一触即発の、そしてこれ以上ないほどの極限状態にあった。