空からの魔眼と隠れ里の囁き
エルミナが指差した空の点は、みるみるうちに大きくなり、その禍々しい姿を現し始めた。石像のような灰色の肌、蝙蝠に似た皮膜の翼、そして爛々と赤く光る二つの眼。それはまさしく、偵察と奇襲を得意とする魔獣、ガーゴイルだった。
「まずいな…あれに見つかったら、すぐに本隊に位置を知られるぞ」
元国境警備隊のリーダー格であるハルクが、苦々しげに吐き捨てる。
「しかも一匹じゃないわ…三匹はいるわね」
エルミナの目が鋭く細められる。彼女の魔法的な視力は、遠くの敵影をも正確に捉えていた。
「あらあら、空飛ぶ監視カメラとは、ヴァルガス王もなかなかハイテクなことするじゃないの!」マルーシャはわざと軽口を叩くが、その顔には緊張が浮かんでいた。「こういうヤツらはね、派手なものと大きな音で気を散らすのが一番よ! プリンちゃん、出番かも!」
「へっ、オレ様の変幻自在な動きで、あの石ころバードどもをキリキリ舞いさせてやるぜ!」
プリンはリアンの肩から飛び降りると、地面を高速で滑り始めた。
「エルミナさん、ガーゴイルの弱点は?」リアンは剣を握りしめ、エルミナに問う。
「石の体を持つため物理攻撃は効きにくいですが、眼と翼の付け根が比較的脆いはずです。また、強い光や衝撃音に弱いという伝承も…」
「なるほど…」
一行は手近な岩陰や鬱蒼とした森の中へと身を隠しながら、ガーゴイルの追跡をかわそうと試みる。だが、ガーゴイルは執拗に上空を旋回し、その赤い魔眼で地上を舐めるように捜索していた。
「ちっ、しつこいぜ!」
プリンが目くらましのように高速で動き回り、ガーゴイルの注意を引こうとするが、数が多い。一匹のガーゴイルが急降下し、リアンたちが隠れる岩場めがけて鋭い爪を振り下ろしてきた。
「きゃあっ!」マルーシャが思わず短い悲鳴を上げる。
「聖域の盾!」
エルミナが叫び、光の障壁が岩場を覆う。ガーゴイルの爪が障壁と激突し、火花を散らした。しかし、障壁には亀裂が走る。
「マルーシャ、これを使え!」
リアンはマルーシャに、クロスロードで手に入れた発煙筒を手渡す。
「あいよっ!」マルーシャは即座に発煙筒に火をつけ、ガーゴイルの足元へ投げつけた。もうもうと立ち込める色付きの煙が、ガーゴイルの視界を遮る。
「グオオオオ!」
視界を奪われたガーゴイルが怒りの咆哮を上げる。その隙に、ハルクともう一人の兵士が、弓矢や投石で翼の付け根を狙うが、硬い皮膚に阻まれ、決定打にはならない。
「リアン王子、あの眼を!」
エルミナの言葉に、リアンは頷く。彼は地面を強く蹴り、岩壁を駆け上がると、煙の中から姿を現したガーゴイルの顔面めがけて跳躍した。
「そこだっ!」
古びた剣が、ガーゴイルの赤い魔眼の一つを正確に捉える。
「ギャアアアアア!」
甲高い悲鳴を上げ、ガーゴイルはバランスを崩して墜落していく。
だが、残る二匹のガーゴイルが、傷ついた仲間を見て怒り狂ったように襲い掛かってきた。一匹が口から緑色の粘液――石化の呪いを秘めた唾液を吐きかけてくる。
「危ない!」
エルミナがリアンを突き飛ばす。粘液はリアンが先ほどまでいた場所に命中し、地面が不気味な灰色に変色していく。
(まずい、このままでは…!)
リアンが焦りを感じた瞬間、彼の体から再びあの蒼いオーラが噴き出した。それは以前よりも強く、彼の意志に応えるかのように、迫りくるもう一匹のガーゴイルが放った石化唾液を弾き飛ばしたのだ。
「なっ…!?」リアン自身も、その現象に驚きを隠せない。
「今よ、王子! その力で!」エルミナが叫ぶ。
リアンは戸惑いながらも、本能的にオーラを剣に集中させる。古びた剣が、淡い蒼光を帯び始めた。
「おおおおっ!」
気合と共に振るわれた剣は、ガーゴイルの硬い皮膚を紙のように切り裂き、その翼を断ち割った。翼を失ったガーゴイルは、悲鳴と共に森の奥へと墜落していく。
最後の一匹も、リアンの尋常ならざる気配と仲間の敗北を見てか、慌てて空高く舞い上がり、逃げるように飛び去っていった。
激しい戦闘の後、森には束の間の静寂が戻った。一行は皆、息を切らし、消耗しきっている。
「やった…のか?」プリンがぜえぜえと息をつきながら言う。
「ああ…だが、一匹逃した。すぐにヴァルガス王に報告がいくでしょう」エルミナは厳しい表情で空を見上げた。
「王子、先ほどのあの力は…?」
「俺にも…よく分からないんだ」リアンは自分の掌を見つめる。あの蒼いオーラは、自分の意志とは関係なく現れ、そして消えていく。
ガーゴイルとの遭遇は、一行に追手の執拗さと、旅の過酷さを改めて認識させた。険しい山道、容赦なく降り続く冷たい雨、そして底をつきかけた食料。リアンは、自分に託されたものの大きさと、自身の未熟さとの間で揺れ動いていた。
(本当に俺に、王子としての役目が果たせるのだろうか…この力は、一体何なんだ…)
そんなリアンの葛藤を察してか、マルーシャが明るい声で言った。
「まー、王子様も最初から完璧な王子様だったわけじゃないって、古い歌にもあるからねぇ。誰だって、重たい荷物を背負って、何度も転んで、だんだんそれらしくなっていくもんよ。あたしだって、最初の商売は大失敗で、スッテンテンになったけど、おかげで金のありがたみと、人の笑顔の大切さがよーく分かったからね!」
彼女の言葉には、苦労を乗り越えてきた者だけが持つ温かさと説得力があった。
数日後、エルミナの案内で、一行はようやく小さな隠れ里にたどり着いた。それは山間の窪地にひっそりと佇む、古い修道院の跡地を利用した集落だった。「銀の泉」と呼ばれるその場所は、ソフィア王妃に忠誠を誓う者たちの、ささやかな拠点の一つらしかった。
そこには、ソフィア王妃からの連絡員と、数名の協力者たちが待っていた。彼らはリアンの姿を見ると、感極まったように涙ぐみ、深く頭を垂れた。
「王子、よくぞご無事で…!」
老いた連絡員の男は、リアンに「白竜の谷」の現状を伝えた。谷はヴァルガス王の軍勢によって厳重に包囲されつつあること。ソフィア王妃は民と共に谷に立てこもり、抵抗を続けているが、状況は芳しくないこと。そして、ヴァルガス王は「黒曜石の将軍」の異名を持つ冷酷な将軍、ガイウスに追討の全権を委ねたという。
さらに、連絡員は不吉な噂も口にした。
「大陸各地で、『七つの災厄』の兆候が見られるとの報告も…北方のドラグニア国境近くでは、大地が腐敗し、生者を襲う『嘆きの巨人』が現れたとか…」
「嘆きの巨人…」リアンは息を呑む。それは、古の災厄の一つとして伝承に残る名だ。
一行は「銀の泉」で、久しぶりに安全な寝床と十分な食事を得て、傷を癒し、装備を整えることができた。エルミナはリアンに対し、ドラグニア王家に伝わる剣術の型や、まだ謎に包まれた「竜の血脈」の力の制御について、基本的な心構えを教え始めた。
「王子、その力は強大ですが、制御を誤れば自身をも滅ぼしかねません。まずは、ご自身の内なる声に耳を澄ませるのです」
休息も束の間、斥候に出ていた兵士が血相を変えて戻ってきた。
「大変です! 遠くの山頂に、ヴァルガス軍の狼煙が! おそらく、あのガーゴイルの報告を受けた本隊が動き出したものと思われます!」
「白竜の谷」への道は、いまだ遠い。そして、最後の難関となるであろう「嘆きの峡谷」が、彼らの行く手を阻むように横たわっている。そこはヴァルガス軍の監視が最も厳しく、強力な魔獣も巣くうと言われる危険地帯だ。
「さあ、王子。覚悟はよろしいですか?」
エルミナの静かな問いかけに、リアンは強く頷いた。彼の瞳には、もはや迷いはなかった。