魂の再調整と虚無の使者、深淵の底に消えゆく星屑
【魂の crucible (るつぼ)、闇との対峙】
リアンの精神世界は、混沌と絶望の坩堝と化していた。白銀の髪を逆立たせ、肌に禍々しい黒い紋様を浮かび上がらせた「闇のリアン」が、嘲笑を浮かべながら彼の最も大切な記憶――母ソフィアの優しい笑顔、エルミナと交わした未来への誓い、プリンとの無邪気な時間、シルフィードの最後の微笑み――を次々と汚し、破壊していく。「お前がいたから、お前が弱いから、皆が不幸になったのだ!」その言葉は、リアンの心を鋭利な刃物のように切り刻んだ。
同時に、彼の精神に直接響き渡る「星詠みの調停者」たちの冷たく無機質な声。「感情は非効率的なノイズである。記憶は処理速度を低下させるバグである。汝の魂を『最適化』し、より高次の目的のために『再調整』する…」
リアンは、消えゆく意識の中で必死に抵抗しようとする。仲間たちの顔、父の言葉、守るべきウェスタリアの風景が脳裏をよぎるが、それらもまた、調停者たちの冷たい力と、内なる闇の声によって、容赦なく色褪せ、歪められ、そして無慈悲に消し去られていった。彼は、自分自身が自分ではなくなっていく、抗いようのない恐怖に包まれていた。
【星々の涙、砕け散る絆】
水晶の繭の中で、エルミナはリアンの精神が壊されていくのを、星詠みの力で断片的に、しかし鮮明に感じ取っていた。彼女は絶叫し、繭の内壁を叩き、必死にリアンの名を叫び続けるが、その声は誰にも届かない。「やめて! お願いだから、リアン王子を…彼の魂を奪わないで!」
しかし、彼女自身もまた、調停者たちによる「調整」の対象だった。彼女の類稀なる星詠みの力は、「宇宙の法則を乱す可能性のある危険な因子」と見なされ、その鋭敏な感覚は鈍らされ、星々との繋がりは強制的に歪められていく。彼女の瞳から、かつての星々のような輝きが急速に失われ、深い絶望の色だけが残った。
ヴォルフは、守護者としての誇りと記憶を奪われ、ただ強靭な肉体と戦闘本能だけを残した「獣」へと作り変えられようとしていた。カイトは、その驚異的な視力と弓の技術を「効率的な殺戮手段」として最適化され、故郷シルヴァンウッドへの想いは「不要な感傷」として消去されていく。セレスは、森の精霊たちとの絆を断ち切られ、その癒やしの力は「対象を無力化する」ための冷たい波動へと変質させられた。
そしてマルーシャは、腕の中で冷たくなり、ピクリとも動かなくなったプリンをただ抱きしめ、その心は完全に壊れてしまっていた。彼女の瞳は虚ろで、もはや何の感情も映し出さない。調停者たちは、彼女を「感情的汚染が著しく、再調整の価値なし」と判断し、そのまま放置した。
【虚無の凱歌、ウェスタリアの終焉】
その頃、リアンたちが異次元の「聖域」で魂の改造を受けている間にも、ウェスタリア大陸では「虚無の侵食者」による最終的な蹂躙が進行していた。
ヴェルミリオンは完全に陥落し、王城は「虚無の君主」アズラエルの新たな玉座と化していた。ソフィア王妃は、騎士団長ダリウスと共に最後まで民衆を庇いながら戦ったが、アズラエルの圧倒的な力の前に力尽き、その魂は虚無の深淵へと引きずり込まれたと伝えられた。
マキナ皇国では、女帝リリアンヌが試みた禁断の召喚術が最悪の形で暴発し、皇国そのものが巨大な虚無の渦に飲み込まれ、地図上から消滅した。
獣人連合ボルグもまた、内部分裂と虚無の侵攻により完全に崩壊。賢狼王ヴォルフガングは、民を逃がすための壮絶な殿を務め、アズラエルの前に立ちはだかったが、その後の消息を知る者はいない。
「七星の守護者」の生き残りたちも、各地で孤独な戦いを強いられ、次々とその灯火を消していった。もはやウェスタリア大陸に、組織的な抵抗力は存在せず、大陸全土が虚無の闇に完全に飲み込まれるのは、もはや時間の問題だった。アズラエルの高らかな、そして禍々しい凱歌が、ウェスタリアの空に響き渡っていた。
【虚無の尖兵『リオン』、最後の命令】
「魂の再調整、完了」
調停者の冷たい声が響き渡った。水晶の繭が静かに開き、中から現れたのは、かつてのリアン王子とは似ても似つかぬ、一人の「存在」だった。白銀の髪は月光のように冷たく輝き、その蒼い瞳には一切の感情を宿さず、ただ絶対的な虚無を映しているかのようだった。肌に浮かんでいた黒い紋様は消え、代わりにその額には、調停者たちのものと酷似した、冷たい輝きを放つ青白い紋章が深く刻まれている。その身に宿す力は、以前とは比較にならないほどに増大し、そして恐ろしいまでに「最適化」され、研ぎ澄まされていた。彼はもはやリアンではなく、調停者たちによって与えられた新たな識別コード――「執行者リオン」――として、ただ彼らの命令を寸分の狂いもなく遂行するためだけの存在へと作り変えられていた。
同様に「調整」を終え、感情の光を失ったエルミナ、ヴォルフ、カイト、セレスもまた、機械的な動きで「リオン」の後に続く。彼らは、かつての仲間としての記憶や絆を、もはや思い出すこともない。
マルーシャだけは、調停者たちに「失敗作」として放置され、プリンの冷たくなった体を抱きしめたまま、廃人のように虚空を見つめている。
調停者のリーダー格が、「執行者リオン」に静かに告げた。
「汝の最初の、そして最後の使命は、この汚染され、エラーを起こした世界系――コードネーム『ウェスタリア』――に残存する全ての生命エネルギーの痕跡を完全に消去し、この領域を完全なる『無』へと導き、宇宙全体の調和とバランスを回復することだ。抵抗する者は、それがかつて何であったとしても、全て排除せよ」
それは、かつての仲間たちや故郷を、そして彼が愛した全ての世界を、自らの手で完全に滅ぼせという、あまりにも非情で残酷な命令だった。
【深淵よりの使者、星屑の残光(第三章 完)】
「執行者リオン」は、その命令に対し、何の感情も見せずにただ無言で頷いた。そして、同様に感情を失ったかつての仲間たち――今はただの「実行ユニット」と化した者たち――と共に、虚無の力によって汚染され、崩壊寸前のウェスタリア大陸へと、調停者たちの力によって送り出された。
彼らが最初に降り立ったのは、皮肉にも、かつてシルフィードと出会い、彼女の悲しみに触れた「風切り峠」だった。そこもまた、今は虚無の嵐が吹き荒れ、かつての聖域の面影はどこにもない。
「リオン」は、その手に握られた、もはや白銀の輝きすら失い、鉛色に変色したかつての愛剣を、何の感慨もなく振り上げた。そして、眼前に広がる、かつて彼が守ろうとした故郷、そしてそこに生きるわずかな生存者たちに対し、その増大し、そして歪められた強大な力を、無慈悲に、そして効率的に振るい始める。その姿は、まさに世界の終焉を告げる、冷酷なる破壊神だった。
しかし、彼がその鉛色の剣を振り下ろす、まさにその瞬間、彼の心の奥底、調停者たちですら完全に消し去ることのできなかった魂の最も深い聖域で、父アルトリウスの「光を見失うな…希望を…捨てるな…」という最後の言葉と共に託された、本当にごくわずかな、極小の「星屑」のような希望の光が、まだ消えずに、ほんのわずかに、しかし確かに瞬いているのを、この物語の語り手だけが知る。
そして、マルーシャが絶望の中でただ固く抱きしめていたプリンの冷たくなった体から、本当にごく僅か、誰の目にも、そしてどの機械のセンサーにも触れることのない、しかし確かな生命の温もりが、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、マルーシャの凍てついた指先に伝わったような気がした。だが、それもまた、吹きすさぶ虚無の風と、世界の終わりの轟音の中に、虚しく掻き消えていく。
物語は、主人公が敵の非情な尖兵と化し、かつての仲間たちと共に自らの世界を破壊し始めるという、これ以上ないほどの暗黒と絶望の中で、その幕を閉じる。ウェスタリアの運命は、風前の灯火どころか、既に消えかかっている。
リアンの魂の奥底にかろうじて残された星屑と、プリンの微かな温もりが、次なる第四章で、この絶対的な終末に抗うための、あまりにも小さく、そしてあまりにも不確かな可能性を、かろうじて示唆するのみであった。
だが、それは、もはや希望と呼べるほどのものですらなかったのかもしれない。
(第三章 完)