聖域の呼び声
【虚無の残滓、異形の救済者】
虚無の荒野に、死と絶望だけが支配する、墓場のような静寂が戻った。「虚無の狩人」たちの黒い塵は風に舞い、リアンの暴走した禁断の力の残滓が、大地を不気味な赤黒いオーラで染め上げている。リアンは、その力の奔流の反動で意識を完全に失い、白銀に染まった髪を虚無の大地に散らし、その肌には禍々しい黒い紋様が蛇のように浮かび上がっていた。仲間たちもまた、心身ともに限界を超え、絶望の淵でかろうじて息をしているだけだった。
エルミナは、リアンの傍らで力なく横たわり、その瞳からは涙も涸れ果てていた。ヴォルフは巨体を丸め、カイトとセレスは互いの傷ついた体を寄せ合うようにして倒れている。そしてマルーシャは、血濡れでピクリとも動かないプリンをその胸にきつく抱きしめ、もはや声も出せずにただ虚空を見つめていた。彼女の心は、完全に砕け散ってしまっていた。
リアンの胸で、父の指輪、「風の涙」、そして「調和の聖具」を宿すお守りは、その輝きを完全に失い、まるでただの冷たい石くれのように、彼の絶望を象徴するかのように沈黙していた。希望の灯火は、まさに風前の灯、いや、既に消え去ったのかもしれなかった。
その絶対的な静寂と絶望を破り、音もなく、三つの異形の影がリアンたちの前に降り立った。彼らは、星々を凝縮して織り上げたかのような、深淵の闇よりも深い色のローブを纏い、その枯れ木のように細長い体躯と、人間とは明らかに異なる関節構造は、彼らがこの世界の法則の外にある存在であることを明確に示していた。ローブの深い影に隠された顔からは、感情というものを一切感じさせない、しかし全てを見透かすかのような冷たい光を放つ双眸だけが、リアンたちを無機質に見下ろしていた。
「…観測対象、著しく消耗。虚無汚染度、危険水準を大幅に超過。これ以上の放置は、魂の完全消滅、及び『虚無』への不可逆的変質を意味する」
三人組の一人が、まるで幾千のガラスの破片が擦れ合うような、異質で冷たい響きの声で淡々と告げた。その言葉は、ウェスタリアのどの言語とも異なっていたが、不思議と、そして不気味なほど明確に、リアンたちの脳に直接理解できる形で響いた。
「『再調整』プロトコル、緊急起動。対象、ドラグニア王子リアン、及びその随伴者。対価は…彼らが背負う『運命の糸』の大部分、及び、その魂の自由意志と人間性の大部分とする。異議は…認められない」
【魂の搬送、星々の回廊】
「星詠みの調停者」と名乗った三人組の一人が、リアンたちに向かってその細長い、人間のものではない手をそっとかざした。すると、彼らの傷つき、汚れた体は、淡い、しかしどこか冷たく、そして抗いがたい力を持つ光に包まれ、まるで重力を完全に失ったかのようにゆっくりと宙に浮き上がり始めた。抵抗する力も、そしてもはや抵抗する意志すらも完全に失っていた彼らは、なすがままに調停者たちの力にその身を委ねるしかなかった。
次の瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪み、一行は星々がまるで涙のように流れ落ちる、異次元の回廊のような場所を、信じられないほどの速度で、しかし一切の感覚を伴わずに移動していた。その光景は、言葉を絶するほどに美しくもあったが、同時に、人間的な感情や時間の概念そのものが希薄になっていくかのような、恐ろしいほどの静寂と無機質さに満ちていた。
エルミナだけが、かろうじて薄れゆく意識の片隅で、この異常な事態を、そして自分たちをどこかへ運んでいくこの異形の存在たちの正体を理解しようと必死に思考を巡らせていた。だが、調停者の放つ不可解で強大な力は、彼女の思考能力すらも徐々に鈍らせ、その意識を混濁させ、深い眠りへと誘っていく。
【調停者たちの聖域、冷たい安息】
どれほどの時間が経過したのか、あるいは時間の概念が存在しない場所なのか、リアンたちが次に微かな意識を取り戻したのは、冷たく、そして完全な静寂と秩序に支配された場所だった。そこは、「聖域」と呼ばれたが、およそ生命の温もりというものを一切感じさせない、巨大な水晶のような半透明の幾何学的な構造物が無限に林立する、無機質で広大な空間だった。空気は澄み切っているが、どこか人工的で、まるで巨大な演算装置の内部か、あるいは魂を選別し、再構築するための工場のようにも感じられた。
リアンたちは、それぞれ個別の、水晶でできた六角形の繭のようなカプセルの中に収容されていた。カプセルの中は、星の光を溶かし込んだかのような、不思議な青白い液体で満たされており、その液体を通じて、彼らの肉体的な傷は驚くべき速さで癒え、失われた体力も回復していくように感じられた。しかし、それと同時に、彼らの精神はどこか遠のいていくような、まるで自分自身が自分ではない別の何かへと静かに、そして確実に作り変えられていくような、奇妙で言い知れぬ不安感と虚無感に襲われた。
マルーシャは、隣のカプセルに収容された、小さな光の繭に包まれたプリンの姿を、涙も涸れ果てた虚ろな瞳で見つめていた。プリンはピクリとも動かず、その生死すら定かではない。ヴォルフやカイト、セレスもまた、この理解不能な状況と、自分たちの無力さ、そしてこれから何が起ころうとしているのかという底知れぬ恐怖に、ただただ沈黙を守り、意識を調停者たちの不可解な力に委ねるしかなかった。
【ウェスタリアの慟哭、潰えゆく抵抗】
その頃、リアンたちがこの異次元の「聖域」に囚われ、その魂が「再調整」という名の改造を受けようとしている間にも、ウェスタリア大陸では、「虚無の侵食者」による破滅の進行が、さらにその速度を増し、もはや手の施しようのないほどに絶望的な状況へと陥っていた。
ドラグニア王国: ソフィア王妃は、残された民衆と共に王城の地下聖堂に籠城し、騎士団長ダリウスと共に最後の抵抗を続けていた。しかし、虚無の軍勢は王城の防衛線を次々と突破し、聖堂の扉が破られるのも時間の問題だった。「リアン…我が息子よ…どうか…どうか、あなただけは…希望を捨てないで…」それが、彼女の血に濡れた唇から漏れた、最後の祈りだった。
マキナ皇国: 女帝リリアンヌが試みた禁断の古の召喚術は、最悪の形で失敗に終わった。彼女が呼び出してしまったのは、救世の召喚獣ではなく、さらに強力な「虚無の君主」の一柱だった。エテルニアは一瞬にして虚無の炎に包まれ、マキナ皇国はその歴史に幕を閉じた。
獣人連合ボルグ: 賢狼王ヴォルフガングは、民を率いて「約束の地」を目指す絶望的な脱出行の途上、アズラエルの本隊と遭遇。彼は、民を逃がすための殿を務め、その誇り高き牙を剥いて「虚無の君主」に挑むが、その力の差は歴然としていた。
そして、ウェスタリア各地で孤独な戦いを続けていた他の「七星の守護者」たちもまた、次々と「虚無」の圧倒的な力の前に敗れ去り、その魂は虚無に囚われるか、あるいは絶望の中で歪んだ力に目覚め、新たな災厄の尖兵と化していく者すら現れ始めていた。もはやウェスタリア大陸に、組織的な抵抗力はほとんど残っておらず、大陸全土が虚無の闇に完全に飲み込まれるのは、時間の問題と思われた。
【再調整の始まり、リアンの深層意識】
水晶の繭の中で、リアンの意識がゆっくりと、しかし強制的に浮上させられた。しかし、彼が目覚めた場所は、現実の世界ではなかった。それは、彼の精神世界の最も深い場所、光も音も届かない、無限の闇が広がる深層意識の底だった。そして、彼の目の前には、白銀の髪を逆立たせ、肌には禍々しい黒い紋様を浮かび上がらせた、かつて虚無の力に暴走した自分自身の姿――「闇のリアン」――が、冷たい嘲笑を浮かべて立ちはだかっていた。
『お前は弱い…お前が弱いから、シルフィードは死に、プリンは傷つき、仲間たちは絶望し、そして世界は滅びるのだ…』闇のリアンが、リアンの心の傷を容赦なく抉り、その魂をさらに深い絶望へと引きずり込もうと囁きかける。『お前が希望などというくだらないものに固執し続けるから、お前もお前の大切な者たちも、永遠に苦しみ続けるのだ。いっそ、全てを諦め、全てを虚無に還し、永遠の安らぎを得ればよいものを…』
その時、リアンの精神に直接、あのガラスのように冷たく、そして感情の欠片も感じさせない「星詠みの調停者」の声が響き渡った。
「『再調整』プロトコル、最終フェーズを開始する。対象、リアン。魂の深層に巣食う虚無の汚染、及び過剰な人間的感情因子の完全除去。そして、その魂に宿る『竜の子』の力と『調和の聖具』の力を、我らが目的に沿う形で最適化し、再構築する。だが、その過程で、汝の自我、記憶、感情、そして『人間性』と呼ばれる極めて非効率的で脆弱な要素の大部分は、不可逆的に失われることになるだろう。それが、我らが与える『世界の調和のための救済』に対する、汝が支払うべき、最後の『対価』だ」
リアンの精神世界で、彼自身の光と闇の最後の戦いが、そして外部からの調停者たちによる強制的な、そして非情な魂の「改造」が、今まさに始まろうとしていた。それは、彼を虚無の汚染から救うためのものなのか、それとも、彼を彼ら自身の宇宙的な目的のための、感情を持たぬ強力な「兵器」へと作り変えるためのものなのか…。
一方、隣の繭の中でかろうじて意識を保っていたエルミナは、星々の声ではなく、この「聖域」を満たす冷たく、そして絶対的な宇宙の法則の中から、調停者たちの真の、そして恐るべき目的――それは、ウェスタリアという一つの「エラー」を起こした世界系を、宇宙全体の調和を乱す前に「リセット」し、そのためにリアンの力を利用すること――を垣間見てしまい、声なき絶叫と共に、新たな、そしてより根源的な絶望の深淵に打ちひしがれていた。
物語は、リアンが内なる闇との最終決戦と、外部からの非情な魂の改造という二重の苦難に直面し、仲間たちもまた未知の運命に翻弄される中、ウェスタリア大陸の崩壊が最終段階へと進んでいくという、極めてダークで救いの見えない状況で幕を閉じる。彼が次に目覚める時、彼はまだ「リアン」として存在しているのだろうか。そして、もし存在していたとしても、その先に待つのは、さらなる絶望か、それとも…。