深淵の底で見る悪夢
【最後の灯火、虚無の包囲】
リアンの胸に下げられた父の指輪とシルフィードの「風の涙」、そして「調和の聖具」の力を宿すお守りが放つ微かな光。それは、この虚無に汚染された荒涼たる大地において、彼らに残された最後の希望の灯火だった。しかし、そのか弱き光を嘲笑うかのように、「虚無の狩人」と呼ばれる異形の魔獣たちは、その数をさらに増し、より凶暴な殺意を剥き出しにして一行を取り囲んでいた。その目は飢えた獣のように赤黒く輝き、涎を垂らしながら、今にも飛びかからんとしていた。
光はあまりにも弱々しく、この絶望的な状況を覆すには至らない。仲間たちは、もはや立ち上がる気力すら残っておらず、多くは死を覚悟したかのように虚ろな目で、ゆっくりと狭まってくる狩人たちの包囲網を見つめているだけだった。エルミナの唇からは、もはや祈りの言葉すら紡がれず、ただリアンの名をか細く呼ぶだけだった。
【砕け散る希望、アズラエルの嘲笑再び】
「まだ…まだだ…!」
リアンは、最後の力を振り絞り、震える足で立ち上がろうとした。お守りから放たれる光を剣に集め、狩人の一体に斬りかかる。しかし、その一撃は、まるで虚空を斬ったかのように手応えがなく、狩人は嘲笑うかのように容易くそれをかわし、逆にその鋭利な爪でリアンの脇腹を深く切り裂いた。
「ぐあああっ!」
激痛と共に、リアンは地面に叩きつけられる。お守りや指輪から放たれていた光もまた、虚無の瘴気に蝕まれるかのように急速に弱まり、今にも消え入りそうだった。
『…無駄だ、竜の子よ…』
リアンの脳裏に、直接、あの忌まわしき「虚無卿アズラエル」の嘲笑うかのような声が響き渡った。それは幻聴なのか、あるいはこの虚無の領域そのものがアズラエルの意思と繋がっているのか、判然としない。
『お前のそのちっぽけな光など、我が主の深淵なる御心の前では、瞬きほどの価値もない。お前たちは、ここで静かに、そして無様に虚無に還るがいい。それが、お前たちのような存在に許された、唯一の、そして最も慈悲深き救済なのだからな…』
その声と共に、仲間たちが次々と狩人の爪牙にかかり、悲鳴を上げる。ヴォルフは、その巨体で最後の盾となろうとするが、無数の狩人に取りつかれ、その鋼のような肉体が無残に引き裂かれていく。カイトの矢は全て尽き、セレスは精霊たちの悲痛な叫びを聞きながら意識を失いかけていた。
【異次元の牢獄、世界の法則の歪み】
エルミナが、朦朧とする意識の中で、この場所の真の異様さに気づき始めていた。
「ここは…ここは、ウェスタリアではない…? 星々の配置が…魔力の流れが…時間の感覚すらも…何もかもが歪んでいる…まるで…世界の法則そのものが異なる、異次元の牢獄…虚無に最も近い、魂の墓場のような場所…」
彼女の言葉を裏付けるかのように、リアンの父アルトリウスの手帳が、彼の血に濡れた手から滑り落ち、風に吹かれてページが乱暴にめくれていく。そこに描かれていたのは、ウェスタリア大陸の地図ではなく、理解不能な幾何学模様と、おぞましい怪物のスケッチ、そして「魂の漂着地」「虚無の境界」「帰還不能点」といった絶望的な言葉の羅列だった。父もまた、この呪われた場所の存在を知り、そして何よりも恐れていたのかもしれない。
この場所では、リアンの「調和の聖具」の力も、エルミナの聖なる魔法も、セレスの精霊の力も、その効果を著しく減衰させられてしまうのだ。虚無の法則が、この空間の全てを支配していた。
【マルーシャとプリンの最後の抵抗】
「虚無の狩人」たちが、もはや抵抗する力も残っていないマルーシャと、その足元で小さく震えるプリンに、ゆっくりと、しかし確実に迫っていく。マルーシャの瞳からは、恐怖と絶望で涙が止めどなく流れ落ちていた。
「いや…いやよ…来ないで…! この子だけは…この子だけは、お願いだから助けて…!」
彼女は、最後の意地でプリンを庇うように、その小さな体をきつく抱きしめた。
しかし、狩人たちは無慈悲だった。その中の一体が、鋭く尖った爪をマルーシャめがけて振り下ろした。
「マルちゃん!」
プリンが、最後の力を振り絞るかのように叫び、マルーシャを守ろうと、自らその小さな体で盾になるように飛び出した。ザシュッ、という鈍い音と共に、狩人の爪がプリンのプルプルの体を無残に切り裂き、カスタード色の体液がマルーシャの顔に飛び散った。
「プ…プリンちゃ…?」
マルーシャの腕の中で、プリンの体はみるみるうちにその輝きを失い、小さく、そして冷たくなっていく。その瞳から、最後の光が消えようとしていた。
「いやあああああああああああああっ!」
リアンは、そのあまりにも残酷で、そしてあまりにも無慈悲な光景を目の当たりにし、魂からの絶叫を上げた。だが、もはや彼の指一本動かすことすらできない。仲間たちが、一人、また一人と、虚無の闇へと引きずり込まれていく。
【深淵への落下、意識の途絶】
仲間たちが次々と倒れ、あるいは捕らえられ、ついにリアンもまた、生き残った「虚無の狩人」たちに取り囲まれた。彼の意識は、シルフィードを失った悲しみ、仲間たちを守れなかった絶望と無力感、そしてプリンの無残な最期を目の当たりにしたことによる激しい自責の念と怒りの中で、急速に闇の奥底へと沈んでいく。
胸のお守りと父の指輪、そしてシルフィードの「風の涙」が、最後の力を振り絞るかのように一瞬だけ強く輝き、周囲の空間を激しく歪ませた。それは、この絶望的な場所からの最後の脱出を試みたのか、それとも、この地に眠る何かさらに恐ろしいものの封印を、意図せず解いてしまったのか…。
リアンは、その混沌とした光の奔流の中で、完全に意識を失った。彼が最後に見たのは、自分を嘲笑うかのようなアズラエルの歪んだ幻影と、そして、どこまでもどこまでも続く、底なしの深淵の闇だった。
彼の魂は、希望の光を完全に失い、冷たい虚無の海へと沈んでいくかのようだった。
物語は、リアンが完全に敗北し、仲間たちもまた散り散りとなり(あるいはその多くが命を落とし)、希望という言葉すら存在しないかのような、最もダークで絶望的な状況の中で、一旦の幕を閉じる。彼が次に目覚めるのはどこなのか、そして、その時、彼の心に何が残っているのか、あるいは何も残っていないのか、それはまだ誰にも分からない。
ウェスタリア大陸を覆う闇は、もはや夜明けを許さぬほどに、深く、そしてどこまでも広がっていた。