深淵の嘲笑と風の鎮魂歌、奈落への逃走と失われし光
【深淵からの嘲笑、君主の降臨】
「…フフフ…ハハハ…愚かなる人間どもめ…守護者一人の犠牲ごときで、この大いなる虚無の流れを止められるとでも思ったか…? お前たちのその矮小なる希望こそが、我が主、そして我々自身にとっての、最高の糧となるのだ…!」
甲高く、しかし威厳に満ちた、聞く者の魂そのものを凍りつかせるかのような声が、天から響き渡った。浄化されたはずの「巨人の寝床」の大地に、再び、今度は以前とは比較にならないほど巨大で、そして深い絶望を具現化したかのような漆黒の亀裂が走り、その奥深くから、名状しがたい恐怖を伴う邪悪な気配がゆっくりと姿を現そうとしていた。
それは、もはや「虚無の先兵」や「使徒」などというレベルの存在ではない。見る者の正気を奪い、世界の法則そのものを歪めるかのような、圧倒的なまでの負のエネルギーの奔流。その中心に、ぼんやりとではあるが、人型の、しかしおよそこの世の生命体とは思えぬ異形の輪郭が浮かび上がる――「虚無の君主」の一柱、後に「虚無卿アズラエル」としてウェスタリア全土を恐怖に陥れることになる存在の、最初の顕現だった。
アズラエルが、その不定形の闇の体から一本の腕らしきものをゆっくりとかざすだけで、グランフォードの犠牲によってわずかに緑を取り戻し始めていた大地が、再び急速に黒く染まり、虚無の瘴気が猛烈な勢いで周囲の空間を侵食し始めた。
【絶対的な力、砕け散る抵抗】
「な…なんだ、こいつは…!?」ヴォルフが、その巨躯を震わせ、戦斧を失った代わりに握りしめていた岩砕き用のハンマーを構えながら、怒りの咆哮を上げた。「グランフォードの命を賭した浄化を…こうも容易く…!」
彼は、残された全ての力を込めてアズラエルに突撃するが、その鉄のハンマーはアズラエルの周囲に渦巻く不可視の虚無の障壁に触れることすらできず、逆に強烈な衝撃波によって数十メートルも吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられて血反吐を吐いた。
「風よ、我が意に従え! 聖なる嵐となれ!」
シルフィードもまた、その美しい顔を怒りに歪ませ、風の精霊たちの力を極限まで高めて巨大な翠色の竜巻を生成し、アズラエルに叩きつけようとした。しかし、アズラエルはそれを嘲笑うかのように、ただ指を振るっただけで、シルフィードの竜巻はまるで子供の玩具のようにあっけなく霧散し、彼女自身もまた強烈な虚無の波動を受けてその場に崩れ落ち、口から鮮血を流した。
「無駄だ、矮小なる者どもよ」アズラエルの声が、リアンたちの脳髄に直接響き渡る。「お前たちのその程度の力は、我が深淵の前では、取るに足らぬ塵芥にも等しい。お前たちの存在そのものが、この宇宙におけるバグなのだ」
リアンもまた、胸のお守りに宿る「調和の聖具」と「大地の涙」の力を最大限に引き出し、白銀の剣で斬りかかろうとした。だが、アズラエルの周囲に展開された不可視の虚無の障壁は、彼の渾身の一撃をも容易く受け止め、逆にその力を吸い取り、リアンの体から急速に生命力が失われていくのを感じた。
「ぐ…あ…力が…吸い取られる…!」
エルミナ、カイト、セレスの放つ魔法や矢も、アズラエルに届く前に虚無の闇に飲み込まれて消滅し、一行は、この新たなる敵の、文字通り次元の違う圧倒的な力の前に、ただただ絶望と無力感に打ちひしがれるしかなかった。
【魂の侵食、仲間たちの悲鳴】
アズラエルは、彼らを物理的に破壊することよりも、その精神を徹底的に蝕み、絶望の淵に突き落とすことを楽しんでいるかのようだった。彼の周囲から放たれる虚無の波動は、リアンたちの心の奥底に潜む最も辛い記憶や、最も深い恐怖を容赦なく呼び覚まし、悪夢のような幻覚となって彼らを襲い始めた。
マルーシャは、目の前で大切な仲間たちが次々と虚無に飲み込まれ、自分だけが取り残されて永遠の孤独を彷徨う幻覚に襲われ、発狂寸前の悲鳴を上げ続けた。「いやあああ! 置いていかないで! 独りにしないでえええ!」
プリンもまた、リアンがアズラエルによって魂ごと消滅させられるという、あまりにも鮮明で残酷な幻を見てしまい、その小さなカスタード色の体から全ての光が失われ、ただただ悲痛な鳴き声を上げ続ける。
カイトは、故郷シルヴァンウッドが今度こそ完全に虚無に飲み込まれ、同胞たちが一人残らず黒い塵となって消えていく幻覚を延々と見せられ、その手に握っていた弓を力なく落とし、虚ろな目で天を仰いだ。セレスもまた、森の精霊たちが虚無の力に汚染され、自分自身を呪い、嘲笑う声を聞き続け、その清らかな魂が穢されていくのを感じ、その場に泣き崩れた。
ヴォルフは、グランフォードの無残な最期と、そして自らが「戦乱の巨斧」の呪いに支配され、数えきれないほどの罪なき命を奪った過去の罪の記憶を、何度も何度も繰り返し見せられ、その強靭な精神もついに限界を超え、獣のような絶叫を上げながら大地を叩き続けた。
リアンもまた、父アルトリウスの無念の死、母ソフィアの悲痛な叫び、そして仲間たちが目の前で無惨に殺されていく悪夢の光景を、永遠に続くかのような時間の中で見せられ、その剣を取り落とし、ただただ涙を流しながらその場に蹲るしかなかった。希望という言葉すら、もはや彼の心には届かなかった。
【最後の抵抗、シルフィードの決断】
「もう…やめて…お願いだから…もう、やめてちょうだい…!」
エルミナだけが、涙を流しながらも、かろうじて正気を保っていた。彼女は、最後の魔力を振り絞り、か細いながらも聖なる光の盾を展開し、仲間たちをアズラエルの精神攻撃から辛うじて守ろうとしていた。しかし、その盾も、アズラエルの放つ圧倒的な虚無の波動の前では、風前の灯火のように揺らめき、今にも消え入りそうだった。
その時、深手を負い、もはや立つこともままならないはずのシルフィードが、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。彼女の瞳には、もはや悲しみも怒りもなく、ただ、全てを受け入れたかのような、静かで、そしてどこか寂しげな光が宿っていた。彼女は、リアンの胸で弱々しく明滅する「風の涙」にそっと視線を送ると、ほんのわずかに、しかし確かに微笑んだ。
「リアン王子…あなたと出会えて…短い間ではありましたが、私は、かつて失ったはずの希望というものを、再びその胸に抱くことができました…。心から…感謝しています…」
そう言うと、シルフィードは自らの魂と、彼女に呼応する風の精霊たちの最後の力を、その一点に極限まで高め始めた。それは、彼女自身の存在そのものを賭けた、最後の抵抗だった。
「我が命と、このシルヴァンウッドの風の全てと引き換えに…せめて、あなたたちの未来への道だけでも…切り開いてみせる!」
【風の道標、奈落への逃走と失われし光】
シルフィードが、自らを巨大な翠色の風の奔流そのものへと変え、アズラエルに向かって特攻を仕掛けようとした、まさにその瞬間だった。リアンの胸に下げられた「風の涙」と、父アルトリウスの形見である竜の紋章の指輪、そして「調和の聖具」の力を宿したお守りが、まるで彼女の悲壮な決意に応えるかのように、これまでで最も強烈な、そしてどこか悲しげな光を放った。
その光は、アズラエルの放つ圧倒的な虚無のオーラと激しく衝突し、その瞬間、空間そのものが引き裂かれるかのような轟音と共に、リアンたちの足元に巨大な亀裂――別の未知なる場所へと通じる、不安定で禍々しい次元の裂け目――を生み出したのだ。
「今です! リアン王子、皆さん、ここから逃げるのです!」
エルミナが、最後の力を振り絞って叫んだ。
ヴォルフが、意識を失いかけたマルーシャとプリンをその巨腕で抱え上げ、カイトとセレスもまた、傷つき倒れた仲間たちを支えながら、リアンと共にそのおぞましい次元の裂け目へと、半ば吸い込まれるようにして飛び込んだ。
シルフィードは、彼らが裂け目に消えていくのを見届けると、その美しい顔に満足げな、しかしどこまでも寂しげな微笑みを浮かべた。そして、彼女の体は翠色の美しい光の粒子となり、アズラエルの虚無の闇をわずかながらも押し返すかのように、風と共にシルヴァンウッドの空へと舞い上がり、そして静かに消えていった。彼女が最後に残した風は、リアンたちが飛び込んだ次元の裂け目を、まるで導くかのように包み込み、そして閉ざした。
「…フン、小賢しい真似を…」アズラエルは、シルフィードの自己犠牲と、リアンたちが逃走したことに、初めて不快の色をその不定形の顔に浮かべた。「だが、どこへ逃げようとも、虚無の追跡からは決して逃れられぬ。お前たちのそのちっぽけな希望は、やがてさらに深い絶望へと変わり、我が主の降臨を早めることになるのだからな…」
その嘲笑うかのような声が、もはや誰の耳にも届かぬ虚無の聖域に、虚しく響き渡った。
リアン一行は、どこへとも知れぬ未知の場所へと飛ばされた。仲間の一人、風の守護者シルフィードを失った(あるいは、その生死すら定かではない)という計り知れない喪失感と、アズラエルという絶対的な力の前に味わった深い絶望、そして魂に刻み込まれた恐怖を胸に、彼らは新たな、そしてさらに過酷な苦難の始まりを迎えようとしていた。ウェスタリアを覆う闇は、もはや手の施しようがないほどに広がり、深まっていた。