手配書と下水道のワルツ
マルーシャ特製の「元気もりもり具沢山スープ」は、その名の通り、一行の心と体に活力を与えた。久しぶりの温かい食事と、マルーシャの底抜けに明るいおしゃべり、そしてプリンとの漫才のような掛け合いは、束の間、旅の厳しさを忘れさせてくれた。
「いやー、マルちゃんのスープは最高だぜ! 毎日これなら、オレ様、もっとプリップリになっちゃうかもな!」
プリンはスープの最後の一滴まで綺麗に平らげ、満足そうに体を揺らす。
「あら、プリンちゃん、お褒めの言葉ありがとう! お代は友情プライスで結構よ…って言いたいけど、しっかり材料費はいただくからね!」
マルーシャは黄金の算盤をパチパチと鳴らし、リアンたちを笑わせる。
和やかな雰囲気も束の間、宿の主人が青ざめた顔で部屋に入ってきた。その手には一枚の羊皮紙が握られている。
「あ、あの…お客様方…実は…」
主人がどもりながら差し出した羊皮紙には、リアンとエルミナによく似た人物の、お世辞にも上手いとは言えないが特徴を捉えた似顔絵と、「ドラグニア王国反逆者」の文字が踊っていた。
「おーっと、こりゃ大変だ! 王子、エルミナちゃん、どうやらあたしたち、この町限定の超絶人気者、指名手配中の大スターになっちゃったみたいだよ!」
マルーシャは手配書をひったくるように受け取ると、わざと大げさに叫んだが、その目には鋭い光が宿っていた。
「町の門は既に検問が強化され、ヴァルガス王の息のかかった兵士たちが血眼になって探しているらしい。この宿にも、もうすぐ見回りが来るかもしれないねぇ」
緊張が走る。エルミナは即座に臨戦態勢を取ろうとするが、マルーシャがそれを制した。
「はいはい、お嬢さん、気持ちは分かるけど、ここでドンパチ始めたら蜂の巣をつついた騒ぎになるだけだよ。こういう時はね…」
マルーシャは人差し指を立て、悪戯っぽく笑う。
「灯台下暗し、裏の裏の、そのまた裏をかくのが一番さね! このクロスロードは交易の町。表の道があれば、裏の道、そして商人だけが知る『金の道』ってもんがあるのよ!」
マルーシャの提案は、町の地下に張り巡らされた古い下水道と、かつて密貿易に使われていたという秘密の通路を使って脱出するというものだった。危険は伴うが、正面突破よりははるかに望みがある。
「下水道ですって…? あまり気乗りはしませんが…」エルミナは眉をひそめる。
「あら、お嬢様育ちにはちとキツイかしら? でも大丈夫! マルちゃん特製『悪臭退散!ミントの香り袋』もあるから、鼻は無事よ! たぶん!」
マルーシャがどこからか取り出した小さな布袋を振ると、確かに爽やかなミントの香りが漂った。
夜陰に紛れ、一行はマルーシャの先導で宿を抜け出した。月明かりだけが頼りの裏路地は、まるで迷路のようだ。
「こっちこっち! 足元に気をつけてね! 時々、酔っ払ったゴブリンが寝てるから!」
マルーシャは、そのふくよかな体からは想像もつかないほど身軽に、暗がりを進んでいく。
下水道への入り口は、古びた酒場の裏にある、今は使われていない井戸の底にあった。
「うげぇ…これはなかなか…パンチの効いた香りだぜ…」
プリンが鼻(らしき部分)をつまむ仕草をする。ミントの香り袋も、この強烈な悪臭の前では焼け石に水だった。
下水道の中は、暗く、狭く、そして言うまでもなく臭い。だが、マルーシャは慣れたもので、時折冗談を飛ばしながら一行を励ます。
「ほらほら、王子! 下を向いてたら、幸運のドブネズミも見逃しちゃうよ! なんつって!」
「笑えない冗談だ…」リアンは顔をしかめるが、マルーシャの陽気さに救われている自分にも気づいていた。
何度か巡回兵の足音や話し声が頭上から聞こえ、息を殺してやり過ごす。一度は、通路の角を曲がったところで鉢合わせしそうになったが、プリンが機転を利かせた。
「にゃーお! にゃーお! ごろごろにゃーん!」
プリンが突然、猫の鳴き真似をすると、兵士たちは「なんだ、野良猫か」と油断し、そのまま通り過ぎていった。
「プリン、お前、猫の鳴き真似なんてできたのか…」リアンが感心する。
「へへん、オレ様にかかればこんなもんよ! 今度、オークの求愛ダンスでも見せてやろうか?」
しかし、そう簡単に事は運ばない。秘密の通路の出口が近づいた時、一行の前に屈強な鎧に身を包んだ一団が立ちはだかった。その胸にはヴァルガス王の黒き狼の紋章。隊長らしき男は、鞘から抜き放った剣の切っ先をリアンに向ける。
「見つけたぞ、偽王子め! ソフィア王妃からの使いもろとも、ここで終わりだ!」
戦闘は避けられない。エルミナが光の魔法障壁を展開し、兵士たちが剣を構える。
「王子、ここは我々が!」
「いや、俺も戦う!」リアンは剣を抜き、隊長と対峙する。
激しい剣戟が、薄暗い地下通路に響き渡る。隊長は手練れで、リアンは徐々に追い詰められていく。
(くそっ…このままじゃ…!)
焦りが募った瞬間、リアンの体から再び蒼いオーラが微かに発光しかけるが、すぐに消えてしまう。まだこの力を自在には扱えない。
「王子、今です!」エルミナが叫ぶ。彼女の放った光の鎖が、隊長の動きを一瞬封じる。
「マルちゃん、出番だよ!」
「あいよー!」
マルーシャは懐から取り出した数個の球を地面に叩きつけた。バンッ!という音と共に強烈な煙が立ち込め、敵の視界を奪う。
「な、なんだこれは!? ゲホゲホッ!」
「火事だー! 助けてくれー! 王様の隠し財産が燃えちまうー!」
マルーシャはありったけの声で叫び、敵を混乱させる。
「今のうちに!」
リアンたちは煙に紛れて、出口へと駆け抜けた。背後からは隊長の怒号が聞こえてくる。
地上に出ると、ひんやりとした夜風が心地よかった。一行は町のはずれにある森まで逃げ延び、ようやく一息つくことができた。
「やれやれ、生きた心地がしなかったねぇ! ま、スリルも旅のスパイスって言うし、こういう刺激がないと人生つまらないってもんよ!」
マルーシャは息を切らしながらも、いつもの調子で笑う。その額には脂汗が滲んでいたが。
「マルーシャさん…助かった。あなたがいなければ、どうなっていたことか…」リアンが感謝の言葉を述べる。
「いーってことよ、王子! 金庫番は、金だけじゃなく、みんなの命も守るのが仕事だからね! …なんてね!」
森の木々の間から、昇り始めた朝日が差し込んできた。
「さーて、お日様も出てきたことだし、次の目的地『白竜の谷』に向けて出発しますか! 噂じゃ、あの谷には温泉も湧いてるらしいからねぇ。一風呂浴びて、一儲け…いや、しっかり英気を養わないとね!」
マルーシャはパンと手を叩き、一行を促す。
しかし、エルミナが険しい表情で遠くの空を指差した。
「…あれを」
空の彼方、小さな点にしか見えないが、翼を持つ何かがこちらに向かって飛んでくるのが確認できた。それは、鳥ではない。もっと大きく、不吉な気配を纏っている。
「…偵察用の魔獣、ガーゴイルかもしれません。ヴァルガス王は、我々を逃すつもりはないようです」
「白竜の谷」への道は、まだ始まったばかり。そして、その道のりは決して平坦ではないことを、一行は改めて痛感させられるのだった。