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ウェスタリア・サーガ:亡国の王子と喋るスライム  作者: 信川紋次郎
第三章:虚無の侵攻と七星の誓約(せいせんのせいやく)
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血涙の都と虚無に染まる大地、風切り峠


【血涙の都、絶望からの旅立ち】

虚無の先兵によるヴェルミリオン襲撃から数日。かつての壮麗な王都は、黒い霧の残滓と無数の瓦礫に覆われ、生命の気配を失ったゴーストタウンへと変貌していた。空は常に厚い暗雲に閉ざされ、陽光は届かず、冷たい雨が絶え間なく降り注ぎ、まるで世界そのものが涙を流しているかのようだった。通りには、虚無に魂を喰われた者たちの亡骸が横たわり、生き残った民衆の顔からは表情が消え、ただ深い絶望と虚脱感だけが漂っていた。ソフィア王妃は、騎士団長ダリウスや軍師イザベラと共に、不眠不休で民の救済と、かろうじて残った街の区画の再建に奔走していたが、その表情は憔悴しきり、美しい顔には深い苦悩の影が刻まれていた。

リアンは、エルミナとセレスの献身的な治療によって深手からは回復したものの、心の傷は癒えることなく、悪夢にうなされる夜が続いていた。多くの民を守れなかったことへの自責の念、王子としての重圧、そして「調和の聖具」の力を完全に引き出せなかったことへの焦りが、彼の心を容赦なく苛む。それでも、彼は出発の準備を進めていた。この絶望の連鎖を断ち切るためには、立ち止まっている暇はないのだ。

仲間たちの顔にも、深い疲労と、そして言葉にできないほどの悲しみが刻まれていた。マルーシャの陽気な笑顔は消え、プリンもリアンの肩で小さく丸まり、カスタード色の体をくすませている。カイトとセレスは、故郷シルヴァンウッドの惨劇を思い起こさせるヴェルミリオンの光景に、唇を固く結んでいた。ヴォルフは、ただ黙って、折れた鉄棍の代わりに手にした岩砕き用の巨大なハンマーを握りしめ、その瞳の奥に静かな怒りの炎を燃やしていた。

「…リアン、これを」出発の朝、ソフィア王妃は、リアンに小さな革袋を手渡した。中には、わずかな金貨と、そしてドラグニア王家に代々伝わるという、竜の鱗で作られたお守りが入っていた。「気休めにしかならないかもしれませんが…あなたの旅路を守ってくれることを願っています」

リアンは、母の震える手を強く握りしめた。「必ず…必ず、希望を持ち帰ります。母上も、どうかご無事で」

夜陰に紛れて、リアン一行は、生き残った民衆からの小さな祈りの言葉と、ソフィア王妃の涙に見送られ、廃墟と化したヴェルミリオンを後にした。その背後で、街に残る数少ない灯火が、まるで嵐の中の蝋燭のように、頼りなく揺らめいていた。

【虚無に染まる大地、蝕まれる心】

「風切り峠」へと向かう道中のドラグニア王国は、リアンの知る美しい故郷の面影を完全に失っていた。大地は生命力を奪われ、広範囲にわたって灰色に変色し、川の水は淀み、かつて緑豊かだった森は枯れ果てて不気味な骸骨のように立ち尽くしている。虚無の侵食は、確実に、そして急速に進んでいた。

放棄された村々には、虚無の影響で凶暴化した獣の群れや、あるいは正気を失い、生ける屍のように徘徊する元人間たちの姿が散見された。彼らは、かつての隣人や家族の区別もなく、ただ飢えと破壊衝動に突き動かされているかのようだった。

食料は乏しく、安全な休息地を見つけることすら困難を極めた。仲間たちの間にも、徐々に疲労の色が濃くなり、口数も減っていく。マルーシャでさえ、冗談を言う気力も失い、ただ黙々と、しかし時折何かを堪えるように唇を噛みしめながら歩を進めていた。彼女の商人としての誇りも、この圧倒的な絶望の前では無力だった。

夜になると、エルミナが悪夢にうなされ、悲鳴を上げて飛び起きることが度々あった。星々は、もはや虚無の気に完全に覆われ、彼女の星詠みは、どこまでも続く暗黒と、さらに恐ろしい未来のビジョンばかりを映し出す。

「もう…何も見えない…星々の歌声は…聞こえないのです…ただ、深淵の闇が、全てを飲み込もうと口を開けているだけ…」

彼女のその言葉は、一行の心にさらなる絶望の影を落とした。

【リアンの苦悩と微かな光】

リアンは、目の前に広がる惨状と、エルミナの苦悩に、自らの無力さをこれ以上ないほど痛感していた。胸のお守りに宿る「調和の聖具」の力も、この広大な虚無の前では、まるで大海の一滴のようにあまりにも小さく、そして頼りなく感じられた。

(父上…俺は…本当にこのウェスタリアを救えるというのですか…? この力で、一体何を守れるというのですか…? 俺は…俺は、ただの無力な子供なのでは…)

そんな彼の苦悩を嘲笑うかのように、夢の中では、かつて倒したはずのガイウス将軍が黒曜石の鎧を纏って現れ、彼を罵倒し、その無力さをなじる。あるいは、シルヴァンウッドの「竜の寝床」で対峙した古の竜の守護霊が、その威圧的な姿で現れ、「お前の覚悟は、その程度か」「仲間を、民を、本当に守りたいと願うのなら、まずお前自身がそのくだらない絶望に屈するな」と厳しい問いを投げかけてくる。

だが、そんなリアンの心を辛うじて繋ぎとめていたのは、仲間たちの存在と、そして道中、稀に出会う、それでもなお生きようとする人々の姿だった。ある日、一行は打ち捨てられた農家の納屋で、虚無の侵食を逃れ、わずかな干し芋を分け合って寒さを凌ぐ、幼い兄妹の一団と出会った。彼らの親は、虚無の怪物に襲われて命を落としたという。しかし、その幼い瞳には、恐怖と悲しみの奥に、決して消えることのない、生きることへの強い意志の光が宿っていた。リアンは、彼らに持っていた食料のほとんどを分け与え、そして、彼らのその小さな手の温もりに、心の奥底で何かが再び奮い立つような感覚を覚えた。

【風切り峠の試練、古祠の守護者】

数週間に及ぶ、筆舌に尽くしがたい過酷な旅の末、リアン一行はついに、ドラグニア北東部の険しい山脈地帯「風切り峠」に到着した。そこは、一年を通じて荒れ狂う強風が吹きすさび、鋭く尖った岩肌が天を突き刺すかのように連なる、まさに人を寄せ付けない秘境だった。空気は薄く、気温も極端に低い。

カイトの案内で、一行は風が最も強く吹き荒れる峠の最奥、巨大な岩壁に半ば埋もれるようにして存在する、古びた石造りの祠へとたどり着いた。父アルトリウスの手帳によれば、ここが「風の守護者」の聖域、「風切り峠の古祠」に違いなかった。

しかし、祠の入り口は、まるで自然の岩そのものと化したかのような巨大な一枚岩で固く塞がれており、その周囲には、目に見えない強力な風の結界が渦巻いている。

「この風…ただの自然の風ではありません」セレスが、その場に漂う強大な気に顔をしかめた。「古代の、そして極めて強力な風の精霊、あるいは…この聖域を守護する何者かが、その力をもって作り出した結界です。並の力では、近づくことすら叶わないでしょう」

一行が、それでも祠に近づこうとすると、周囲の風がまるで意思を持ったかのように鋭い刃となって襲いかかり、さらに地面から風の元素が凝縮して生まれた、巨大な鷲の姿をした魔獣「ストーム・グリフォン」が複数体、咆哮と共に姿を現し、一行の前に立ちはだかった。その瞳は、侵入者を決して許さぬという、冷たい怒りの光をたたえていた。

「試すというのか…!」リアンは、折れかけた心を叱咤し、白銀の輝きを失いかけた剣を強く握りしめた。「我々が、この先に進む資格があるのかを…! この風の聖域に足を踏み入れる覚悟があるのかを…!」

【風の試練、守護者の声】

ストーム・グリフォンとの激しい戦闘が始まった。その鋭い爪は岩をも砕き、巻き起こす暴風は、立っていることすら困難にさせる。カイトの放つ矢も、エルミナの魔法も、荒れ狂う強風にその威力を大きく削がれ、決定的なダメージを与えることができない。

ヴォルフが、その巨体を盾にして風壁となり、リアンや後衛の仲間たちを守るが、彼の顔にも焦りの色が浮かんでいた。

リアンは、風の結界とストーム・グリフォンの猛攻に苦しみながらも、必死に抵抗を続けていた。その時、彼の指にはめられた父アルトリウスの指輪と、胸のお守りが、祠の奥深くから響いてくる何か――風の轟音に混じって微かに聞こえる、古の歌声のようなもの――に、強く共鳴し始めているのを感じた。

(この歌は…どこかで…そうだ、父上の手帳に記されていた…『風の古き歌』…!)

リアンは、まるで何かに導かれるように、無意識のうちにその物悲しくも力強い歌の旋律を口ずさみ始めた。彼の声は、最初はか細く、風の音にかき消されそうだったが、徐々に力を増し、仲間たちの心にも響き渡っていく。

すると、不思議なことが起こった。リアンの歌声に呼応するかのように、荒れ狂っていた風の結界の力がわずかに和らぎ、ストーム・グリフォンたちの動きも、ほんの一瞬だが明らかに鈍ったのだ。

その時、固く閉ざされていた祠の奥深くから、厳かで、しかしどこか深い悲しみを湛えた、凛とした女性の声が、風の音に乗って響き渡ってきた。

「…古き歌を識る者よ…その魂に竜の息吹を宿す者よ…汝、何故この風の聖域を汚し、我が眠りを妨げる…? 答えよ、竜の子…お前は、この風切り峠に、何を探しに来た…?」

その声は、歓迎の響きではなく、むしろ侵入者に対する厳しい問いかけだった。「風の守護者」との接触は果たせた。だが、彼らの試練は、まだ始まったばかりだった。

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