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ウェスタリア・サーガ:亡国の王子と喋るスライム  作者: 信川紋次郎
第三章:虚無の侵攻と七星の誓約(せいせんのせいやく)
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虚無の降臨、首都ヴェルミリオンの慟哭


【虚無の降臨、首都の悲鳴】

リアンたちが最初の「七星の守護者」を求め、「風切り峠の古祠」への出発を決意した、まさにその瞬間だった。ヴェルミリオンの空が、突如として鉛色よりもさらに暗く、深淵の闇を思わせる黒紫の帳に覆われた。太陽の光は完全に遮断され、世界から色彩が奪い去られる。そして、その帳の中心、王城の真上にあたる空間が、まるで傷口のように裂け、そこから黒い霧と共に、この世のものとは思えぬ異形の怪物たちが次々と降下してきた。

それらは「虚無の先兵ヴォイド・ハービンジャー」と呼ばれた。あるものは無数の触手を蠢かせ、あるものは鋭利な鎌のような肢を持ち、またあるものはただ不定形な影として実体化し、そのどれもが生命あるもの全てに対する純粋な憎悪と、存在そのものを無に還さんとする強烈な虚無の気を放っていた。

「グシャアアアアアアアアア!」

「キシャアアアアアアアアア!」

不快な鳴き声と共に、先兵たちはヴェルミリオンの防衛線を赤子の手をひねるように容易く突破し、王都の目抜き通りや住宅街へと雪崩れ込んだ。逃げ惑う民衆の悲鳴が、街のあちこちで絶叫となって木霊する。先兵たちの攻撃は、単に物理的な破壊をもたらすだけではない。その黒い霧に触れた者は、まるで魂を吸い取られるかのように急速に生命力を失い、虚ろな表情のままその場に崩れ落ちていく。建物や大地までもが、その霧に飲まれ、まるで風化した砂のように脆く崩れ去っていく。ヴェルミリオンは、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

【絶望の攻防、蝕まれる希望】

「くそっ…! こんな時に…!」

リアンは剣を抜き放ち、ソフィア王妃や民衆を守るために王城の広場へと駆け出した。エルミナ、ヴォルフ、カイト、セレス、そしてマルーシャとプリンも、それぞれの武器や能力を手に、絶望的な戦いへと身を投じる。

しかし、虚無の先兵たちは、これまでのどの敵とも根本的に異質だった。リアンが「調和の聖具」の力を込めた白銀の剣で斬りつけても、その体は霧のように変化して攻撃を回避し、あるいはダメージを受けても瞬時に再生してしまう。エルミナの聖なる光の魔法も、彼らの纏う虚無の気によって威力を大きく削がれ、決定的なダメージを与えることができない。

「奴らは…この世界の理から外れた存在…! 我々の知る物理法則も、魔法の理も、完全には通用しないのかもしれません…!」エルミナが、苦悶の表情で叫ぶ。

カイトの放つ必中の矢も、先兵の不定形な体には効果が薄く、セレスが呼びかける森の精霊たちは、この濃密な虚無の気の前では力を発揮できずに苦しんでいる。ヴォルフの豪腕による鉄棍の一撃でさえ、先兵の動きを一時的に止めるのが精一杯だった。

戦いは、一方的な蹂躙に近い様相を呈し始めていた。王国の兵士たちは次々と倒れ、その魂は虚無の霧の中へと吸い込まれていく。民衆の悲鳴は徐々に数を減らし、代わりに不気味な静寂と、虚無の先兵たちの立てる不快な音だけが街を支配し始めていた。

仲間たちの中にも、その絶望的な光景と、先兵から放たれる精神的な圧力によって、心が折れかける者が出始めていた。マルーシャは、目の前で商人仲間だった老婆が虚無の霧に飲まれ、塵となって消えていくのを見て、その場にへたり込み、嗚咽を漏らした。「いや…いやよ…こんなの…あんまりだわ…!」プリンも、その純粋な魂が虚無の気に蝕まれ、カスタード色の体がみるみるうちに色褪せ、元気を失っていく。

【父の遺産の囁き、虚無に対抗する術】

リアンは、次々と倒れていく仲間や民衆の姿を目の当たりにし、心の奥底から湧き上がる激しい怒りと、それ以上に深い無力感に苛まれていた。「調和の聖具」の力を得て、自分は強くなったはずだった。なのに、この目の前の絶望を止めることができない。

(父上…俺は…どうすれば…)

その時、彼の脳裏に、父アルトリウスが遺した手帳の一節が鮮明に蘇った。それは、リアンが以前読み飛ばしていた、ほとんど詩のような抽象的な記述だった。

『虚無は万物を侵食し、存在を無に還す大いなる闇。されど、それ故にこそ、生命そのものの最も純粋なる輝き、魂が放つ不屈の意志の光を何よりも恐れる。闇が深ければ深いほど、小さき星の光もまた、その道を示す beacon となる…』

リアンの胸のお守りと、父の指輪が、まるでその言葉に呼応するかのように、先兵たちの放つ虚無の波動に激しく反発し、チリチリと音を立てて明滅を繰り返した。それは、リアンに何かを伝えようとしているかのようだった。虚無に対抗するためには、物理的な攻撃力だけではない、もっと根源的な、魂の力、生命そのものの意志の力が必要なのだと。

「ヴォルフさん!」リアンは、傍らで異形の先兵と死闘を繰り広げていたヴォルフに叫んだ。「奴らに…奴らに弱点はあるのか!? あなたは、何か知らないのか!?」

ヴォルフは、鉄棍で先兵の一体を殴り飛ばしながら、苦々しげに答えた。「伝説によれば…『虚無の獣』には、その存在をこの世界に繋ぎ止めている『核』のようなものがあるという…! だが、それは霧に隠され、容易には見つけられん! しかも、奴らは特定の属性の攻撃…特に、生命力や魂に直接作用する『聖』や『魂』の属性の力に弱いと言われているが…!」

【犠牲と決断、血塗られた勝利】

「聖…魂の力…」リアンはその言葉を反芻する。それは、まさしく彼のお守りと「調和の聖具」が秘める力の本質ではなかったか。

だが、先兵たちの猛攻は止まらない。王城の防衛線は次々と突破され、ソフィア王妃や民衆が避難している地下聖堂にも、ついに虚無の魔の手が迫ろうとしていた。騎士団長ダリウスが、残った近衛兵と共に聖堂の入り口で決死の防衛線を張るが、その表情には既に死相が浮かんでいた。イザベラ軍師もまた、自ら剣を取り、ソフィア王妃の傍らで最後の抵抗を試みていた。

「もはやこれまでか…!」ダリウスが血反吐を吐きながら呟いた。

その時、リアンは決断した。彼は、エルミナに視線を送ると、強く頷いた。

「エルミナさん、力を貸してほしい! 俺の魂の全てを込めて、奴らの核を叩く!」

リアンは、お守りと指輪に意識を集中させ、自らの生命力そのものを燃焼させるかのように、全身全霊で「調和の聖具」の力を引き出そうとした。それは、一歩間違えれば彼自身の魂をも焼き尽くしかねない、危険な賭けだった。彼の体から、白銀のオーラが激しく噴き出し、その中心には純粋な黄金色の光が凝縮されていく。

エルミナもまた、リアンの覚悟を悟り、残された全ての魔力を彼の支援に注ぎ込む。彼女の杖から放たれる聖なる光が、リアンの黄金色のオーラと融合し、さらにその輝きを増幅させた。

「ヴォルフさん、カイトさん、セレスさん! 俺に一瞬の隙を作ってくれ!」

三人は、リアンの決死の覚悟を察し、最後の力を振り絞って周囲の先兵たちに猛攻を仕掛け、リアンのための道を開いた。

リアンは、黄金と白銀の光を纏った流星となって、最も巨大で、そして最も濃密な虚無の気を放つ先兵――おそらく、この第一波の指揮官格――へと突進した。その先兵の霧のような体の奥深くに、ヴォルフが言った「核」らしき、赤黒く脈打つ禍々しい光点が、一瞬だけ見えた。

「うおおおおおおおおっ!」

リアンの剣が、その核を正確に貫いた。凄まじい絶叫と共に、指揮官格の先兵は内部から浄化の光に焼かれ、黒い塵となって霧散した。そして、それを合図にするかのように、他の先兵たちの動きも鈍り始め、その体もまた徐々に崩壊を始めたのだ。

激しい死闘の末、リアンたちは辛うじて、ヴェルミリオンに侵入した虚無の先兵の第一波を殲滅することに成功した。しかし、その代償はあまりにも大きかった。王都の三分の一は黒い霧に飲まれて半壊し、おびただしい数の兵士と民衆が命を落とし、あるいは魂を吸い取られて廃人同然となっていた。勝利の歓声など、どこにもありはしない。ただ、焼け残った街に、生き残った者たちのすすり泣きと、絶望のため息だけが響き渡っていた。

リアン自身もまた、危険な力の使い方をした反動で深手を負い、全身から血を流しながら、エルミナの腕の中で意識を失った。

【深まる闇、風を求める旅路】

ヴェルミリオンの空は、依然として暗雲に覆われ、虚無の気配は去るどころか、むしろ世界の裂け目がさらに広がったかのように、より濃密な闇が街全体を覆い尽くそうとしていた。今回の襲撃は、本格的な「虚無の侵攻」の、ほんの序章に過ぎないことを、生き残った誰もが痛いほどに悟っていた。

深手を負ったリアンは、ソフィア王妃とエルミナ、そしてセレスの懸命な治療によって数日後にようやく意識を取り戻したが、その心には、民を守りきれなかったことへの深い自責の念と、自らの力の限界に対する無力感が、鉛のように重くのしかかっていた。

「このままでは…ヴェルミリオンも…ドラグニアも…いや、ウェスタリア全土が、虚無に飲み込まれてしまう…」リアンは、か細い声で呟いた。

ソフィア王妃は、息子の手を強く握りしめた。「いいえ、リアン。あなたは決して無力ではありません。あなたは、確かにこの街を、そして多くの民を救ったのです。ですが、今の私たちには、この『虚無』という大いなる闇に対抗するための、さらなる力と仲間が必要なのです」

彼女は、リアンに「風の守護者」の探索を急ぐよう、改めて命じた。

「もはや、ドラグニア一国の問題ではありません。ウェスタリア全体の運命が、あなたと、そして集うべき『七星の守護者』たちの双肩にかかっているのです。行きなさい、リアン。そして、希望の風を掴み取りなさい」

仲間たちもまた、この絶望的な状況を打破するためには、新たな力と、そして何よりも希望が必要であることを痛感していた。ヴォルフが、地図を広げながら厳しい表情で告げた。

「『風切り峠』は、ここから北東へ数日の距離にある。だが、道中、もはや安全な場所など、この大陸のどこにも残されてはいないだろう。そして、『虚無』の気は、あの峠の方向からも微かに感じられる…」

リアンは、痛む体に鞭打ち、玉座の間に集った仲間たちを見渡した。エルミナ、ヴォルフ、カイト、セレス、マルーシャ、プリン…。彼らの瞳には、疲労と悲しみの中に、それでも消えぬ決意の光が宿っていた。

リアンは、ゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる、虚無の闇に覆われたヴェルミリオンの空を見つめた。

「…行こう。風を求めて。そして、このウェスタリアに、必ずや夜明けの光を取り戻すために」

その声はまだ弱々しかったが、その奥には、絶望の淵から這い上がり、それでもなお未来を信じようとする、若き王子の不屈の魂が確かに宿っていた。

彼らの血塗られた旅路は、再び始まろうとしていた。その背後では、虚無の影がさらにその闇を深め、そして広範囲に、ウェスタリア大陸全土を覆い尽くそうとしていた。

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