父の遺志と黒斧の軌跡
【父の遺志、古文書の謎】
白竜の谷を出て数日、リアン一行は「戦乱の巨斧」の気配が色濃く残る、かの血染めの峠を越え、ドラグニア北部の荒涼とした山岳地帯へと足を踏み入れていた。昼は岩肌を焼く陽光、夜は肌を刺すような冷気という厳しい環境の中、彼らはソフィア王妃から託された使命を胸に、黙々と歩みを進める。
夜、一行が風を避けられる岩陰で野営の準備を始めると、リアンは決まって父アルトリウスが遺したという革張りの手帳を取り出した。エルミナが小さな灯りの魔法を灯し、二人は顔を寄せ合うようにして、その難解な記述を読み解こうと試みる。羊皮紙には、古ドラグニア語だけでなく、さらに古い時代のものと思われる未知の象形文字や、複雑な星図、そして錬金術の記号のようなものが混じり合って記されていた。
「…この部分は、星々の運行と地脈のエネルギーの関係について考察しているようです」エルミナが、あるページを指差しながら言った。「そして、特定の星の配置の下では、地脈の力が活性化し、それが『七つの災厄』の顕現と深く関わっている可能性があると…」
「父上もまた、この世界の危機に気づき、何かを成し遂げようとしていたのかもしれない…」リアンは、手帳に記された父の几帳面な筆跡を見つめながら呟いた。そこには、学者としての探究心と、王としての民への憂慮、そして一人の人間としての苦悩や希望の断片が、リアンの心に直接語りかけてくるかのように綴られていた。
ソフィアから共に託された竜の紋章の指輪は、今のところ何の反応も示さず、ただリアンの指で静かに黒曜石のような光を放っているだけだった。
【黒斧の軌跡、荒野に響く闘争の調べ】
「戦乱の巨斧」の所有者の追跡は、カイトの卓越した技術によって続けられた。彼は、峠の戦場跡から、常人には見分けられないほど微かな痕跡――踏みしめられた草の向き、岩肌に残る僅かな傷、風が運んでくる希薄な血の臭い――を辿り、所有者が北へと向かったことを正確に突き止めた。
「足跡は一つ。だが、その歩幅と地面への食い込み方から判断して、並外れた巨躯と、人間離れした膂力の持ち主だろう。そして…」カイトは、苦々しい表情で続けた。「道中、不自然なまでに小規模な争いの痕跡が多い。まるで、些細なことで怒りを爆発させ、力で全てを解決しているかのようだ」
一行はその追跡を開始した。数日後、彼らが立ち寄った寂れた宿場町では、恐ろしい噂が囁かれていた。数日前、全身を傷だらけの黒い鎧で覆った巨漢が一人で現れ、酒場で些細なことから他の客と口論になり、その場にいた屈強な傭兵たちを、まるで赤子の手をひねるように次々と打ちのめし、酒と食料を強奪して北の荒野へと去っていったという。その男は、血塗られた巨大な黒い戦斧を常に肩に担いでいた、と。
マルーシャが町の市場で食料を調達していた際にも、行商人たちが声を潜めて語り合っているのを耳にした。
「最近、北へ向かう街道筋で、たった一人の狂戦士が隊商を襲っては、金品には目もくれず、積み荷の武器だけを根こそぎ奪っていくって噂よ。その無法者、とんでもない強さで、護衛の兵士たちも全く歯が立たないとか…。まるで、戦うことそのものに飢えているみたいだって…」
その話は、リアンたちの追う「戦乱の巨斧」の所有者の特徴と不気味なほど一致していた。
【ヴェルミリオンの凶星、エルミナの懸念】
夜ごと、エルミナは空を見上げ、星々の配置を注意深く観察していた。白竜の谷を出発する直前に感じた、王都ヴェルミリオンの方角の不吉な気配は、日増しにその禍々しさを強めているように思われた。
「あの星は…古の星図によれば『血濡れの王冠』と呼ばれる破滅の凶星」エルミナは、リアンに憂慮の表情で語った。「王家の衰退や、大規模な内乱の勃発、あるいは禁断の儀式の成就など、国家規模の災厄が訪れる前兆とされています。ヴェルミリオンで、何か恐ろしいことが起ころうとしている、あるいは既に起こってしまっているのかもしれません…」
セレスもまた、その方角を見つめながら、静かに目を伏せた。「ヴェルミリオンの方角から、大地の精霊たちの嘆きの声が、風に乗ってここまで聞こえてきます…。多くの魂が、無理やり何かの力に縛り付けられ、その自由を奪われようとしているような…そんな悲痛な叫びが…」
リアンは、父アルトリウスの手帳に、王都の地下深くに古の時代に作られた巨大な祭壇が存在し、それがドラグニア王家の力の源泉の一つであると同時に、扱いを誤れば国を滅ぼしかねない危険な場所である、という記述があったことを思い出し、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
【闘争のオーラ、所有者への接近】
カイトの正確な追跡により、一行は数日後、「戦乱の巨斧」の所有者が潜んでいると思われる、古い廃砦が点在する不毛な岩山地帯へとたどり着いた。その地域に足を踏み入れた途端、空気はピリピリと張り詰め、まるで肌を刺すかのように闘争心を煽る不快なオーラが漂ってくるのを感じた。周囲には小動物の姿一つなく、鳥の鳴き声すら聞こえない。ただ、風の音に混じって、時折、遠くから金属が激しくぶつかり合うような甲高い音や、獣の咆哮ともつかぬ、何者かの雄叫びのようなものが微かに聞こえてくるだけだった。
「うう…なんだか、すごくイライラするぜ…! 誰かとケンカしたくてたまらない感じだ…!」
プリンが、リアンの肩の上で落ち着かない様子で身を捩らせる。マルーシャもまた、「なんだか、やけに血が騒ぐっていうか…無性に大きな声で値切り交渉がしたくなるわね! それも、普段の倍以上の値段でふっかけてやりたい気分よ!」と、普段なら絶対に言わないような好戦的なことを口走り、自分で自分の言葉に驚いていた。
「戦乱の巨斧」から放たれる闘争のオーラは、確実に彼らの精神に影響を与え始めていた。
【廃砦の主、黒き戦斧の咆哮】
一行は、最も強い闘争のオーラが放たれる、岩山の中腹にそびえ立つ、ひときわ大きな廃砦へと慎重に近づいていった。砦の入り口は無残に破壊され、その周囲には、明らかにヴァルガス軍のものと思われる兵士たちの鎧や武器が、原型を留めないほどに砕け散って散乱していた。数日前、ここで激しい戦闘があったことは明らかだった。
砦の中庭らしき場所から、一際大きな金属音と、野獣のそれともつかぬ、何者かの荒々しい雄叫びが聞こえてくる。リアンたちが、崩れかけた壁の隙間から息を殺して中を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
身の丈2メートルはあろうかという、全身を傷だらけの黒鉄の鎧で覆った巨漢が、あの血塗られた巨大な黒い戦斧を、まるで小枝でも振り回すかのように軽々と振り回し、周囲の巨大な岩石や砦の壁を相手に、狂ったように一人で模擬戦闘を繰り返しているのだ。その一撃一撃が、大地を揺るがし、空気を震わせるほどの凄まじい破壊力を秘めていた。
その男が、不意にその破壊行為を止め、リアンたちが潜む方向をギロリと睨みつけた。兜の隙間から覗くその双眸は、まるで地獄の業火のように赤黒く爛々と輝き、もはや理性のかけらも感じさせない。
「…ケモノ…どもが…また、来たか…」
男の口から漏れたのは、獣の唸り声のような、掠れた声だった。
「我が『渇き』を癒すのは…貴様らか…? …血ダ…もっと多くの…血ト肉ヲ…我ニ捧ゲヨ…!」
男は、その巨大な黒い戦斧をゆっくりと肩に担ぎ上げると、地響きを立てながら、一直線にリアンたちの方へと歩き始めた。その背後には、彼が打ち倒したであろう、おびただしい数の異形の魔獣の死骸が、まるで小山のように積み上げられていた。
「戦乱の巨斧」の所有者――その狂気に染まった破壊の化身との、避けられない戦いが、今まさに始まろうとしていた。