天空の傷跡、緑の大地と白銀の萌芽
「天空の祭壇」での死闘から数日が過ぎていた。リアン一行は、竜の背骨山脈の峻厳な岩肌と万年雪の世界を後にし、ドラグニア王国南部に広がる、比較的穏やかな森林地帯へと足を踏み入れていた。あの壮絶な戦いの傷跡は、一行の心身に未だ深く刻まれている。リアンは時折、胸に下げたお守りにそっと手を当てた。かつて母ソフィアから託されたそれは、「調和の聖具」の力を吸収し、今では以前にも増して温かく、そして力強い脈動を彼の内に伝えていた。だが、その力はあまりにも強大で、未だ完全に馴染んではいない。まるで彼の魂の中で、古の竜の咆哮と星々の静謐な歌声が、新たな調和を求めてせめぎ合っているかのようだった。
エルミナは、夜ごと空を見上げ、星々の囁きに耳を澄ませていた。「天空の祭壇」で垣間見た希望の光――「調和の聖具」がリアンにもたらした変化――と、同時に感じ取ったウェスタリア大陸全体を覆い尽くさんとする不吉な影の双方を、彼女はその澄んだ蒼い瞳で見据え続けていた。彼女の魔力は徐々に回復しつつあったが、精神的な疲労は色濃く残っている。
新しく仲間に加わったカイトとセレスは、この森の中でもその能力を遺憾なく発揮していた。カイトは一行の数歩先を進み、その鋭い五感で周囲のあらゆる変化を察知し、獣道や隠れた水源を見つけ出す。セレスは、道端に生える薬草を丁寧に摘み取り、リアンや他の仲間たちの細かな傷の手当てをしたり、消耗した体力を補うための滋養に富んだ木の実を教えたりした。彼女の存在は、一行にとって肉体的にも精神的にも大きな支えとなっていた。
マルーシャは、保存食の残量を几帳面に数えながらも、「あーあ、こんな山奥じゃ、せっかくのあたしの美貌も宝の持ち腐れねぇ。早くおっきな街に行って、一儲け…ううん、情報収集しなくっちゃ!」と軽口を叩く余裕を取り戻しつつあった。プリンも、最初は「天空の祭壇」での恐怖体験で少し萎縮していたが、セレスが分け与えてくれた甘い花の蜜を舐めてからはすっかり元気を取り戻し、リアンの肩やマルーシャの頭の上をぴょこぴょこと跳ね回っていた。
【束の間の休息と語られる想い】
その夜、一行は比較的安全な岩陰を見つけ、小さな焚火を囲んでいた。パチパチと薪のはぜる音が、森の静寂に心地よく響く。
「この力…」リアンは、お守りを握りしめながら、エルミナに語りかけた。「まだよく分からないんだ。でも、シルヴァンウッドで感じたような、ただ荒れ狂うだけの力の奔流とは違う…。何か温かいものが、俺の中で、進むべき道を示してくれているような…そんな気がするんだ」
「それは、リアン王子がお守りと、そして『調和の聖具』の力と共鳴し始めている証でしょう」エルミナは静かに頷いた。「ですが、その力はあまりにも強大です。焦らず、ご自身の魂と対話するように、ゆっくりと馴染ませていく必要があります」
カイトが、焚火に薪をくべながら口を開いた。彼の言葉はいつも通り寡黙だが、その一つ一つには重みがあった。
「俺たち『星の民』に伝わる古い歌がある。『竜の子、星の乙女と出会いし時、古の契約は目覚め、世界は新たなる時代を迎える』と。リアン殿のその力、そしてエルミナ様の星詠みの才は、あるいはこのウェスタリア大陸全体にとっての、最後の希望となるやもしれぬ」
セレスもまた、カイトの言葉に同意するように、優しい眼差しでリアンとエルミナを見つめた。
「シルヴァンウッドは、多くのものを失いました。ですが、リアン様とエルミナ様が繋いでくださった希望がある限り、私たちの故郷は必ず蘇ります。そして、このウェスタリアも…。だからこそ、私もこの旅に同行すると決めたのです。この目で、その瞬間を見届けたいから」
彼女の言葉に、マルーシャが大きく頷いた。
「ま、あたしは星だの竜だの、難しいことはサッパリ分からないけどさっ! 王子様たちが世界の危機をバーンと救ってくれれば、きっと景気も上向いて、どっかの国でおっきな商会でも開けるってもんよ! その日のために、このマルちゃん、経理から炊事洗濯、なんでもかんでも全力でサポートするわよ! もちろん、きっちりお給金はいただくけどね!」
マルーシャのいつもの調子が戻ってきたことに、一行の顔には自然と笑みがこぼれた。プリンも「そうだそうだ! オレ様も、リアンの最強の用心棒として、ビシバシ活躍するぜ!」と胸を張るように体を膨らませた。
【追手の影と新たな力の一端】
翌日、一行はさらに森の奥深くへと進んでいた。その時、カイトが鋭い視線で前方を睨み、音もなく弓に矢をつがえた。
「…来る。数は十前後。ヴァルガス軍の斥候部隊だ」
息を詰める一行の前に、黒い鎧に身を包んだヴァルガス軍の兵士たちが姿を現した。彼らは、この森でリアンたちの行方を追っていたらしく、その目には獲物を見つけたかのような獰猛な光が宿っていた。
「見つけたぞ、ドラグニアの小僧め! 大将軍ガイウス様からの命だ、ここで捕らえさせてもらう!」
隊長らしき男が剣を抜き放ち、部下たちに攻撃を命じる。
戦闘は避けられない。カイトの放った最初の矢が、敵の隊長の肩を正確に射抜き、その動きを鈍らせる。セレスは即座に詠唱を始め、地面から無数の茨を出現させて敵兵の足を絡め取った。
「リアン王子、ご指示を!」エルミナが杖を構え、リアンに鋭い視線を送る。
リアンは頷き、剣を抜いた。彼は意識的に、胸のお守りに宿る力と、自身の内なる「竜の血脈」を調和させようと試みる。すると、彼の剣が眩い白銀の輝きを放ち始めた。それは、以前の不安定な蒼いオーラとは明らかに異なる、より洗練され、そして強力な力の顕現だった。
「行くぞ!」
リアンは、まるで風のように敵陣へと切り込んだ。その剣技は、シルヴァンウッドでのグレイファングとの短い手合わせや、カイトの動きから学んだ要素も取り入れられ、以前よりも格段に滑らかで力強い。敵兵の一人が放った炎の魔法球を、リアンのお守りから放たれた薄い光の障壁が、まるで意思を持っているかのように弾き返した。
「なっ…!?」敵兵が驚愕の声を上げる。
エルミナもまた、的確な魔法攻撃でリアンを援護し、敵の陣形を切り崩していく。マルーシャとプリンは、戦闘の余波を避けながらも、敵兵の背後から石を投げつけたり、大きな音を立てて注意を引きつけたりと、自分たちにできる形で貢献していた。
戦闘は、以前よりも遥かに短い時間で終結した。リアンたちの連携は向上し、何よりもリアン自身の力が格段に増していることを、誰もが感じ取っていた。
撃退した敵兵の持ち物からは、ヴァルガス王が「竜の子狩り」の懸賞金をさらに引き上げ、正規軍だけでなく、各地の賞金稼ぎや盗賊団にも協力を呼びかけているという内容の指令書が見つかった。そして、ガイウス将軍は「天空の祭壇」での一件の後、一時的に姿を消しているものの、何らかの恐るべき計画を秘密裏に進めているという不穏な噂も記されていた。
【白竜の谷への道標、そして不穏な星空】
さらに、敵の所持品の中には、一枚の古い羊皮紙の切れ端があった。それは、風雨に晒され、所々が擦り切れていたが、そこに描かれた地形や記号は、エルミナとセレスが注意深く解読した結果、「白竜の谷」へと通じる、古の隠された道筋を示している可能性が高いことが判明した。
「これは…! ソフィア様がおられる谷への、近道かもしれません!」エルミナの声が弾む。
一行は新たな希望を胸に、その地図の断片が示す方向へと進路を変えた。道中、カイトがこの地域に自生する珍しい薬草や、食べられる木の実を見つけ、セレスが森の小さな精霊たちと何かを語り合い、安全な水場や天候の情報を得るなど、新しい仲間たちの知識と能力が、旅を力強く支えていた。
谷が近づいてきたことを感じさせるかのように、空気はより清浄になり、周囲の木々や草花も、どこか特別な生命力に満ちているように見えた。
その夜、エルミナとセレスは、野営地の傍らで夜空を見上げていた。満天の星々が、手の届きそうなほど近くに、そして美しく輝いている。しかし、二人の表情は徐々に険しさを増していった。
「…エルミナ様、ご覧ください。あのドラグニア南部の豊かな森…『黄金の穂波』と呼ばれた地方を覆う星々が…」セレスが、震える指で空の一角を指差す。
その方角の星々は、まるで血を流しているかのように禍々しい赤黒い光を放ち、その周囲には暗い影のようなものが渦巻いているのが、星詠みの心得のある者にはっきりと見て取れた。
エルミナは息を呑んだ。「これは…まさか、『七つの災厄』の…最初の兆候…? 私たちに残された時間は、本当に、あまりないのかもしれません…」
リアンもまた、二人のただならぬ様子に気づき、険しい表情でその不吉な夜空を見上げた。
「急ごう。母上と合流し、俺たちが今、何をすべきなのか、一刻も早く見定めなければならない」
ソフィア王妃が待つ「白竜の谷」への期待と、ウェスタリア大陸に迫りくる新たな脅威の予感を胸に、リアン一行の旅は、新たな決意と共に続いていくのだった。