竜の背骨と黒曜石の深謀、ウェスタリアに蠢く影
【リアン一行 - 天空への試練、ワイバーンの影】
竜の背骨山脈の麓に到達したリアン一行は、眼前に広がる険しい山並みと、その頂に聳える「巨人の指」の威容にしばし言葉を失った。シルヴァンウッドの森とはまるで異なる、剥き出しの岩肌と万年雪を抱いた荒涼とした風景が、彼らの行く手の厳しさを物語っている。
「…ここから先は、本当の試練だな」リアンは、冷たい風に黒髪をなびかせながら呟いた。
エルミナも、その表情を引き締める。「ええ。ですが、希望の光はあの頂きにあるはずです」
カイトの警告通り、彼らが山道に足を踏み入れて間もなく、上空に数体のワイバーンの影が現れた。ヴァルガス軍の偵察部隊だ。
「散開しろ! 岩陰へ!」カイトの鋭い声が飛ぶ。
ワイバーンは獲物を見つけたかのように甲高い鳴き声を上げ、急降下してくる。その爪は鋭く、口からは火炎が吐き出された。
「風の精霊よ、彼の矢に力を!」セレスが両手を広げ、何事かを囁くと、カイトが放った矢がまるで意思を持ったかのように風に乗り、ワイバーンの翼の膜を正確に射抜いた。バランスを崩したワイバーンが悲鳴を上げて墜落していく。
リアンも剣を抜き、エルミナと共に応戦する。リアンの剣技は、シルヴァンウッドでの戦いを経て、そして竜の守護霊から授かった力の片鱗によって、以前よりも格段に鋭さを増していた。エルミナの放つ光の魔法が、ワイバーンの火炎を相殺し、リアンを援護する。
「くそっ、こいつら、しつこいぜ!」プリンが岩陰から顔を出し、ワイバーンに向かって小さな氷の礫を吐き出す。それはほとんど効果がないが、ワイバーンの注意をわずかに逸らした。その隙に、カイトがもう一体のワイバーンの眼を射抜き、撃退する。残りのワイバーンは状況不利と見たか、旋回して飛び去っていった。
「…さすがカイト殿、セレス殿」リアンは息を切らしながらも、新たな仲間たちの実力に感嘆する。
「いえ、リアン殿とエルミナ様の連携があってこそです」カイトは寡黙に答えた。
マルーシャは、岩陰で腰を抜かしていたが、戦闘が終わるとすぐに立ち上がり、「もー! あたしの美肌が、あんなトカゲの丸焼きの煙で燻されちゃうところだったじゃないの! 慰謝料請求よ、慰謝料!」といつもの調子を取り戻そうとしていた。
一行は、険しい岩場を登り、吹き荒れる強風と戦い、徐々に高度を上げていく。空気は薄くなり、マルーシャは早くも高山病の兆候を見せ始め、頭痛と吐き気を訴えた。セレスが即座に薬草を取り出し、彼女に服用させる。
「この薬草は、高地の気圧に体を慣らす効果があります。ゆっくり深呼吸をしてください、マルーシャさん」
その夜、一行は風を避けられる岩窟を見つけ、そこで焚火を囲んだ。凍えるような寒さの中、カイトが「星の民」に伝わる竜の伝説を語り始めた。それは、かつて竜族と人間が共存していた時代の物語、そして裏切りによってその絆が断たれた悲劇の物語だった。セレスは、森の精霊から聞いたという「天空の祭壇」にまつわる不吉な噂を口にした。
「…祭壇を守護する古の存在は、近年、人間に対する不信を募らせ、その力を訪れる者に無差別に振るうようになっているとか…。真に清らかな心を持つ者でなければ、祭壇に近づくことすら叶わないと…」
【ドラグニア王国 - 黒曜石の深謀】
ドラグニア王国の首都ヴェルミリオン。壮麗な王城の一室で、ヴァルガス王は苛立たしげに杯を床に叩きつけていた。シルヴァンウッドでの「星の民」の頑強な抵抗と、投入した戦力の予想以上の損耗――それは、彼のもとに届けられた報告の一部に過ぎなかったが、彼のプライドを酷く傷つけていた。
「あの森の猿どもめが…! そして、リアンとかいう小僧も、まだ生きておったとはな!」
ヴァルガスの圧政は日に日に厳しさを増し、民衆の間には不満と絶望が渦巻いていた。各地で、ソフィア王妃を支持する者たちによる、小規模ながらも抵抗運動の火の手が上がり始めていた。
一方、王城とは別の場所に設けられた「黒曜石の将軍」ガイウスの執務室では、彼がウェスタリア大陸全土の地図を前に、冷徹な表情で駒を動かしていた。シルヴァンウッドでの出来事は、彼にとって計算外の要素もあったが、それ以上にリアンの内に秘められた力の片鱗と、「星の民」の古の守護者の存在は、彼の知的好奇心を刺激していた。
「『竜の子』と『銀の月の乙女』、そして『古の守護者』…か。面白い。実に面白い手駒が盤上に揃ってきた」ガイウスは薄く笑みを浮かべた。「リアン王子が次に向かうとすれば…エルミナとかいう星詠みの小娘の知識を借りれば、恐らくは『天空の祭壇』。そこに眠る『調和の聖具』は、確かにあの小僧の力を覚醒させる鍵となり得るだろう」
彼は、傍らに控える仮面の魔術師に視線を移した。
「例の『魂縛りの祭器』の準備は万全か?」
「はっ。いつでも。あれを用いれば、『天空の祭壇』の守護者も…そして、かの『竜の子』も、将軍様の意のままに操ることがかないましょうぞ。フフフ…」魔術師は、仮面の奥で不気味な笑い声を漏らした。
ガイウスは頷き、地図上の「巨人の指」を指でなぞった。「ならば、先回りして最高の舞台を整えてやろうではないか。ドラグニアの未来を賭けた、盛大な遊戯の舞台をな…」
彼の瞳の奥には、ウェスタリア全土を巻き込む、さらに巨大で非情な策略が秘められていた。
【ウェスタリア各地の動静 - 異変の胎動】
その頃、ウェスタリア大陸の各地でも、世界の運命を揺るがす様々な出来事が同時進行していた。
マキナ皇国では、心臓部である「マザー・クリスタル」の輝きが目に見えて弱まり始め、若い女帝リリアンヌ・ド・マキナは、国内に広がる不安を抑えるのに苦心していた。彼女はついに決断し、側近の老魔導士の進言を受け入れ、禁断とされてきた古代魔導文明の遺跡の発掘と、失われた召喚魔法の復活を極秘裏に命じた。「虚無の侵食」の脅威が、クリスタルの衰弱と共鳴しているかのように、皇国の辺境地域に暗い影を落とし始めていた。
自由諸島連合では、大海賊「赤髭のバルバロッサ」が、ついに伝説の古代兵器「ポセイドンズ・トライデント」が眠るとされる「禁断の海溝」の最深部に到達していた。しかし、彼がそこで見つけたのは、兵器ではなく、海底から湧き出す「虚無」の瘴気と、それに汚染された巨大な海の怪物だった。バルバロッサの艦隊は壊滅的な被害を受け、彼自身も深手を負って辛うじて生還する。その報は、諸島連合全体を震撼させた。
獣人連合ボルグでは、賢狼王ヴォルフガングが、星々の不吉な配置と大地の悲鳴から、ウェスタリア大陸全体に迫る未曾有の危機を確信していた。彼は各種族長を招集し、来るべき「大いなる冬」――「虚無の侵食」――に備えるため、各種族の力を結集した大同盟の結成を宣言。さらに、人間たちの諸王国に対し、種族間の壁を越えた共闘を呼びかける使節団を派遣することを決定した。「我らもまた、ウェスタリアに生きる者。滅びの運命には、種族を超えて抗わねばならぬ時が来たのだ」
【交錯する運命、山嶺の遭遇】
リアン一行は、数日間に及ぶ過酷な登山の末、ついに竜の背骨山脈の稜線近く、雪と氷に覆われた峠に差し掛かっていた。そこは強風が吹き荒れ、視界も悪く、一歩足を踏み外せば奈落の底という危険な場所だった。
その時、吹雪の中から、武装した一団が音もなく彼らの前に姿を現した。その数、およそ十名。彼らは寒冷地仕様の分厚い毛皮と金属鎧に身を固め、その顔は凍傷を防ぐための覆面で隠されているが、鋭い眼光だけが爛々と輝いている。彼らはヴァルガス軍の兵装ではなかった。
「見つけたぜ、『ドラグニアの竜の子』…そして『銀の月の乙女』御一行様」
覆面の下から、リーダーらしき男の野太い声が響いた。その声には、獲物を見つけた狩人のような、獰猛な響きが込められている。
「お前たちの首には、ちとばかし高い懸賞金がかけられてるんでな。ヴァルガス王からだけじゃない…他の『お客様』からも、だ。大人しく投降すれば、苦しまずに済むぜ?」
男の手にした巨大な戦斧が、吹雪の中で鈍い光を放った。彼らは、金のためならどんな危険な仕事も請け負う、北方の山岳地帯を拠点とする悪名高き賞金稼ぎの一団「アイスウルフ旅団」だった。
リアンは剣を抜き放ち、エルミナは杖を構える。カイトとセレスも即座に戦闘態勢に入る。マルーシャとプリンは、リアンの背後に隠れながらも、いつでも飛び出せるよう身構えていた。
「天空の祭壇」を目前にして、リアン一行は新たな敵との戦いを強いられることになった。そしてその頃、ガイウスの恐るべき策謀が、「天空の祭壇」で着々と準備されつつあることを、彼らはまだ知る由もなかった。ウェスタリア各地で胎動する異変の数々もまた、やがて一つの大きな渦となって、彼らの運命を飲み込もうとしていた。