赤き狼煙と運命の使者
悪夢の残滓は、夜明けの冷気と共にリアンの肌にまとわりついていた。燃え盛る城壁、人々の絶叫、そして天を覆う巨大な竜の影と、夜空に不気味に輝く七つの星々――。あまりにも鮮明な光景に、リアンは自分のものとは思えぬ荒い息をつきながら跳ね起きた。
「う…うわあっ!」
「んがっ!? ちょ、リアン、どうしたんだよ、いきなり! オレ様の安眠を妨害するとはいい度胸だぜ!」
毛皮の内ポケットから、カラメル模様の頭をにょっきり出したプリンが、抗議の声を上げる。その声にリアンは我に返り、乱れた呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ。肺を満たすのは、いつものように凍てつくほど冷たい、しかし澄んだ空気だ。
「……すまん、プリン。また、あの夢だ」
「またぁ? 例の、お城がドッカーンで、でっかいトカゲがビューンってやつか? リアン、お前、意外とファンタジックな夢見るよな。オレ様はもっぱら、蜂蜜の川で泳ぐ夢だけどな!」
プリンはおどけてみせるが、その声色にはリアンを気遣う響きがあった。
リアンは首を振り、焚火に細い枝をくべる。パチパチと心許ない音を立てて燃える炎を見つめながら、夢の断片を反芻する。あれは本当にただの夢なのだろうか。それとも、失われた過去の記憶、あるいは不吉な未来の予兆――。
「ファンタジーで済めばいいんだがな…」
リアンは呟き、立ち上がった。感傷に浸っている暇はない。今日もまた、この嘆きの荒野で生き抜くための戦いが始まるのだ。
その日の狩りは、いつも以上に困難を極めた。獲物は姿を見せず、食べられそうな野草も雪に埋もれて見つからない。動物たちの気配が妙に薄いのだ。まるで何かに怯え、息を潜めているかのように。
「おかしいぜ、リアン。昨日までは、アホみたいに飛び跳ねてた雪ウサギどもが一匹も見当たらねえ。こりゃ、何かヤバいことが起きてる前触れじゃねえか?」
プリンがリアンの肩の上で、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回しながら言った。
リアンも同感だった。この荒野の空気は、いつも以上に張り詰めている。風の音すら、どこか不吉な響きを帯びているように感じられた。
その時だった。
「!」
リアンは足を止め、遠く南東の空を睨んだ。地平線の彼方、低く垂れこめた雲の下に、細く、しかしはっきりと赤い狼煙が上がっているのが見えた。一本ではない。間隔を置いて、二本、三本と、次々に赤い筋が天へと伸びていく。
「狼煙…? あんな場所に、村なんてあったか?」
プリンが訝しげに呟く。リアンの記憶でも、あの方向に人の集落はなかったはずだ。狼煙は通常、緊急事態を知らせるためのもの。しかも、赤い狼煙は最も危険度が高い合図だ。
「行ってみるか? でもよぉ、リアン。ヤバいことには首突っ込まないのが、この荒野での長生きの秘訣だって、いつも言ってるじゃねえか」
プリンの言葉はもっともだった。しかし、リアンの胸には奇妙な胸騒ぎが湧き上がっていた。あの狼煙は、まるで自分を呼んでいるかのように思えたのだ。
「…行ってみよう。何か情報が得られるかもしれん。それに、もし本当に助けを求めているなら、見過ごすわけにはいかない」
「へーへー、リアンのお人好しには敵わねえぜ。ま、オレ様がいればどんなピンチもプリンプリンっと解決だけどな!」
軽口を叩きながらも、プリンはリアンの肩の上で戦闘態勢に入るかのように少しだけ体を硬化させた。リアンは頷き、狼煙が上がる方角へ、慎重に歩を進め始めた。
半日ほど歩いただろうか。狼煙が上がっていた場所は、小高い丘に囲まれた盆地だった。そして、そこに広がっていた光景に、リアンは息を呑んだ。
そこには、急ごしらえの粗末な砦があった。いや、砦と呼ぶにはあまりにもお粗末で、燃え残った馬車や倒木を寄せ集めただけのバリケードに近い。そして、その周囲にはおびただしい数の黒い影――異形の獣たちが群がっていたのだ。
「な…なんだ、ありゃあ…!?」
プリンが絶句する。それはリアンも見たことのない魔獣だった。狼に似た体躯だが、その毛皮は病的なまでに黒く、両目だけが爛々と赤く光っている。涎を垂らしながらバリケードに殺到し、鋭い爪や牙で必死に突破口を開こうとしていた。バリケードの内側からは、剣戟の音や人々の悲鳴、そして時折、魔法らしき閃光が迸るのが見える。
「あれは…“虚無の猟犬”…まさか、こんな場所にまで…」
リアンの口から、無意識のうちに言葉が漏れた。その名を知っていた自分自身に驚きながら。虚無の猟犬――それは古の伝承に登場する、世界の裂け目から現れる不吉な魔獣の名だ。本当に実在したというのか。
「おい、リアン! あそこの旗…あれ、ドラグニアの紋章じゃねえか?」
プリンが指し示したバリケードの一角には、辛うじて原型を留めた布切れが翻っていた。それは確かに、リアンがかつて暮らしたドラグニア王国の、竜と剣を象った紋章だった。なぜ、王国の人間がこんな辺境の地に?
その時、バリケードの一部が、ついに虚無の猟犬たちの猛攻によって破壊された。数匹の猟犬が雪崩れ込み、中から甲高い悲鳴が上がる。
「くそっ…!」
リアンは迷った。関われば、間違いなく危険なことになる。だが、あの紋章と、助けを求める悲鳴が、彼の足を縫い付けていた。
「プリン、援護を頼む!」
「言われなくても! やってやろうじゃねえか、あのキモいワンコロども!」
リアンは剣を抜き放ち、丘を駆け下りた。プリンもリアンの肩から飛び降りると、その体を大きく膨らませ、まるでゴム毬のように弾みながら猟犬の一匹に体当たりを敢行した。
「くらえ、プリン・キャノンボール!」
「グギャン!?」
不意の攻撃に、猟犬は奇妙な鳴き声を上げて吹き飛ぶ。
リアンもまた、バリケードの破れ目から砦の中へ飛び込んだ。中は地獄絵図だった。数人の兵士らしき者たちが必死に応戦しているが、多勢に無勢。既に何人かは血だまりの中に倒れている。
「何者だ、貴様は!?」
鎧を着込み、指揮を執っているらしき騎士風の男が、リアンに鋭い視線を向ける。その顔には疲労と絶望の色が濃い。
「通りすがりだ!今は説明している暇はない!」
リアンは叫び、襲いかかってきた猟犬の一匹を斬り伏せる。その剣筋は荒々しいが、無駄がなく、一撃一撃が的確に猟犬の急所を捉えていた。騎士はリアンの戦いぶりに目を見張る。
「す、すごい…この少年、一体…」
だが、猟犬の数は減らない。次から次へと湧いて出てくるかのようだ。
リアンも数匹を相手にするうちに、徐々に追い詰められていく。一匹の猟犬が死角から飛びかかってきた。避けきれない――!
その瞬間、リアンの全身から、蒼いオーラのようなものが一瞬だけ迸った。
「!?」
飛びかかってきた猟犬が、まるで見えない壁にぶつかったかのように怯み、一瞬動きを止める。その隙をリアンは見逃さなかった。渾身の力を込めた一閃が、猟犬の首を刎ねる。
「今のは…?」
リアン自身も、何が起こったのか理解できなかった。ただ、体が内側から燃えるように熱く感じられた。
「リアン、危ねえ!」
プリンの声に我に返ると、背後から新たな猟犬が迫っていた。リアンは咄嗟に身を翻し、剣で受け止める。激しい衝撃。
その時だった。
「――聖なる光よ、邪を穿て! ホーリーアロー!」
澄んだ女性の声と共に、眩い光の矢が放たれ、猟犬の眉間を正確に貫いた。猟犬は悲鳴を上げる間もなく霧散する。
リアンが振り返ると、そこには銀色の髪を風になびかせ、精緻な彫刻が施された杖を構えた若い女性が立っていた。彼女の周りには数人の屈強な兵士が控え、その装備はリアンが見慣れたドラグニア王国のものとは少し異なっていた。
「…助太刀感謝する」リアンは警戒しながらも礼を言った。
女性はリアンをじっと見つめ、その蒼い瞳を僅かに細めた。
「あなた…その瞳…まさか…リアン王子ではありませんか?」
「え…?」
リアンは絶句した。王子?自分のことか?
プリンも驚いたように「王子ぃ!? リアンが? マジかよ、すっげえ出世じゃん!」と素っ頓狂な声を上げる。
女性はリアンに近づき、厳かな口調で告げた。
「私はエルミナ。ソフィア王妃の命を受け、あなた様をお迎えに参りました。ドラグニアは今、大きな危機に瀕しております。そして、あなた様こそが、王国を…いえ、このウェスタリアを救う鍵となるやもしれぬお方なのです」
エルミナと名乗る女性の言葉は、にわかには信じがたいものだった。だが、彼女の真摯な瞳と、周囲の兵士たちの緊張した面持ちが、それが冗談ではないことを物語っている。
虚無の猟犬。ドラグニア王国の危機。そして、自分に向けられた「王子」という呼び名。
リアンは、先ほど見た悪夢を再び思い出していた。燃える城、竜の影、七つの星…。
あれは、これから起こることの暗示だったのだろうか。
「状況が飲み込めない…だが、まずはこいつらを何とかするのが先決だ」
リアンは剣を握り直し、エルミナと並び立つ。
「そうですね。話は、この忌まわしき獣どもを掃討してからに致しましょう」
エルミナも杖を構え、残る猟犬たちに鋭い視線を向けた。
赤い狼煙が導いた出会いは、リアンの運命を大きく揺るがし始めていた。凍土の辺境でただ生きるだけだった日々は終わりを告げ、ウェスタリア大陸の激動の中心へと、彼は否応なく引きずり込まれようとしていた。