森の咆哮、竜の子の覚悟と鉄の爪痕
グレイファングの隻眼が、夕闇の中で鋭くリアンを射抜いた。「『竜の子』よ、お前は戦えるか? 我らと共に、この森を、そしてあるいは…お前たちの未来を守るために」
その問いは、リアンの心の奥底に眠っていた何かを揺り起こした。辺境でただ生き永らえるだけだった日々、追われるようにしてたどり着いた嘆きの荒野、そしてエルミナとの出会いから始まった、あまりにも過酷で、しかし運命的とも言える旅路。脳裏に仲間たちの顔が浮かぶ。エルミナの献身、マルーシャの底抜けの明るさ、プリンの無邪気な信頼、そして傷つきながらも自分を守ろうとしてくれる兵士たちの姿。
リアンは、震える手で古びた剣の柄を強く握りしめた。恐怖がないわけではない。だが、それ以上に、仲間たちを、そしてまだ見ぬ母や虐げられているであろうドラグニアの民を守りたいという想いが、彼の胸を焦がしていた。
「俺は…戦う!」絞り出すような、しかし確かな決意を込めた声だった。「王子として、まだ何ができるかは分からない。この力も、まだ自分のものとは言えない。だが、仲間たちと、そしてあなたたち森の民と共に、この運命に抗ってみせる!それが『竜の子』の宿命ならば、俺は逃げない!」
その言葉に、エルミナは静かに、しかし誇らしげに頷いた。マルーシャも「王子様、今の、すっごくカッコよかったじゃないの! 後でサインちょうだいね!」と小さな声で囁き、緊張で強張っていた顔にわずかな笑みが戻る。プリンはリアンの肩に飛び乗り、「そうだそうだ、リアンはやる時はやる男だって、オレ様が保証するぜ!」と胸を張るように体をぴょこんと膨らませた。
グレイファングは、リアンの目を見据え、しばしの沈黙の後、その厳つい口元にわずかな笑みの影を浮かべた。
「良かろう。その言葉、偽りでないことを戦場で示してもらおうか」
彼は即座に周囲の森の民たちに指示を飛ばし始めた。その声は低く、しかし森の隅々まで響き渡るような威厳があった。
「ヴァルガス軍の『鉄の爪』どもは、森の戦い方を知らぬ。我らはこの森の子供、地の利は我らにあり! 第一隊は『嘆きの大楢』周辺で敵の先鋒を叩き、第二隊は『猪落としの谷』で退路を断つ! 『竜の子』とその一行は、我らと共に遊撃隊として動き、敵の指揮官を狙う!」
作戦は巧妙かつ大胆で、森の地形を熟知した彼らならではのものだった。リアンたちにも役割が与えられた。エルミナの魔法は後方支援及び遊撃隊の援護、リアンはエルミナと共に最前線へ。負傷の癒えぬハルクとヨルン、そして残りの兵士たちは、罠の設置補助と、万が一の際のマルーシャとプリンの護衛。マルーシャとプリンには、後方での陽動や、森の民との連絡役が任された。
間もなく、ヴァルガス軍先遣隊が、森の入り口付近にその姿を現した。彼らの黒光りする鎧は夕闇に不気味に浮かび上がり、手にした松明が周囲の木々を赤黒く照らし出す。隊長の怒声と共に、兵士たちは森の木々を無造作に斧で切り倒し、威嚇するように鬨の声を上げながら進軍してくる。その様は、森に対する敬意など微塵も感じさせない、まさに鉄の爪が大地を蹂躙するかのようだった。
「来たな…」グレイファングが低く呟く。
「星の民」の戦士たちが、まるで森の一部であるかのように音もなく動き、ヴァルガス軍を待ち構える。
先遣隊の先頭が「嘆きの大楢」と呼ばれる、ひときわ大きな古木のそばを通り過ぎようとした瞬間、地面が陥没し、数人の兵士が悲鳴と共に落とし穴へと姿を消した。同時に、周囲の木々の上や茂みの中から、無数の矢が雨のように降り注ぎ、ヴァルガス軍の兵士たちを次々と射抜いていく。「星の民」の矢は、まるで意思を持っているかのように、鎧の隙間や急所を正確に捉えた。
「奇襲だ! 敵はどこだ、姿を見せろ卑怯者め!」
ヴァルガス軍の隊長が怒り狂って叫ぶが、その声は森の静寂に虚しく吸い込まれていく。
「今だ! 行くぞ!」グレイファングの号令一下、リアンとエルミナを含む遊撃隊が、側面からヴァルガス軍に襲いかかった。
エルミナは杖を掲げ、「縛めの蔦よ(バインディング・アイビー)!」と詠唱する。すると、地面から無数の蔦が生き物のように伸び、敵兵の足に絡みつき、その動きを封じた。
「グオッ! な、なんだこれは!?」
混乱する敵兵の群れに、リアンは剣を構えて突っ込んでいく。戦闘経験はまだ浅く、敵兵の放つ殺気に一瞬怯みそうになるが、エルミナの声と、背後で仲間たちが戦っているという事実が彼を支えた。
(落ち着け…エルミナさんに教わった型を…!)
彼は深呼吸し、剣を振るう。その動きはまだ洗練されていないが、必死さが込められていた。
「あーらよっと! 特製マルちゃんびっくり箱、開店ガラガラよー!」
後方では、マルーシャが隠れていた大木の洞から、銅鑼や金属製の鍋などを打ち鳴らし、けたたましい音を立て始めた。さらに、プリンが彼女の指示で、ヴァルガス軍の風上から刺激臭のする煙玉(マルーシャが薬草を調合して即席で作ったもの)を転がし、敵の注意を引きつけ、混乱を助長する。
「な、なんだあの音は!? 敵の増援か!?」
「目が、目が痛え!」
ヴァルガス軍は、予期せぬ方向からの騒音と刺激臭に、さらに混乱を深めた。
しかし、ヴァルガス軍の兵士たちも、ただやられるだけではなかった。彼らはヴァルガス王の精鋭部隊「鉄の爪」の名に恥じぬよう、数の利を活かして力押しを図り、徐々に「星の民」の防衛線を圧迫し始める。
戦闘は激しさを増し、リアンも数人の兵士と斬り結ぶことになった。敵兵の一人が振り下ろす戦斧を辛うじて避けるが、体勢を崩してしまう。そこへ別の兵士が槍を突き出してきた。
(まずい…!)
絶体絶命の瞬間、ハルクが負傷した身を押してリアンの前に飛び出し、その槍を自らの盾で受け止めた。しかし、衝撃で傷口が開き、ハルクは苦悶の表情で膝をつく。
「ハルク殿!」
「王子…ご無事ですか…私はまだ…戦えます…!」
仲間が傷つき、追い詰められていく状況に、リアンの心に怒りと無力感が込み上げてくる。
(俺が…俺がもっと強ければ…!)
その激しい感情が引き金となったのか、彼の体の奥底から、再びあの蒼いオーラが奔流のように溢れ出そうになった。
(ダメだ…! 暴走させるな…! 制御するんだ…エルミナさんの言葉を…お守りの温もりを思い出せ…!)
リアンは歯を食いしばり、力の奔流に飲まれまいと必死に意識を集中させた。胸に下げたお守りが、彼の決意に呼応するかのように熱く輝く。
蒼いオーラは、彼の握りしめた古びた剣へと収束し、刀身を眩い黄金色の光で包み込んだ。それは、もはやただの鉄剣ではない。王家の血と古の竜の魂、そして仲間を守りたいという強い意志が融合した、希望の刃だった。
「うおおおおおおおっ!」
リアンは、まるで獣のような咆哮と共に、眼前の敵兵、そしてその奥にいる隊長格の騎士に向けて、渾身の一撃を横薙ぎに放った。
黄金色の閃光が迸り、その一撃は前方の敵兵数人をまとめて薙ぎ払い、隊長格の騎士が構えていた鋼の盾をも砕き割り、彼を馬上から叩き落とした。
リアンの覚醒したかのような圧倒的な力と、「星の民」の容赦ない波状攻撃に、ヴァルガス軍先遣隊はついに戦意を完全に喪失し、武器を捨てて潰走を始めた。「星の民」は深追いはせず、森の奥へと消えていく敗残兵を冷ややかに見送った。
森には、血と鉄の臭い、そして折れた木々の痛々しい姿だけが残された。戦闘は終わったのだ。
リアンは、力を使い果たし、その場に膝をついた。全身が鉛のように重く、呼吸もままならない。だが、彼の心には、初めて自らの意志で力を振るい、仲間を守れたという確かな手応えが残っていた。
グレイファングが、無言でリアンに近づき、その戦いぶりと、彼が放った尋常ならざる力を見つめていた。その隻眼には、驚きと、そしてわずかな敬意のようなものが浮かんでいる。
「…確かに、ただのドラグニアの王子ではないようだな」
彼はそう言うと、リアンに力強い手を差し伸べた。
「立て、竜の子よ。よく戦った。だが、これはほんの始まりに過ぎん。先遣隊を退けたとて、ヴァルガス軍本隊は、さらに強力だ。そして、『黒曜石の将軍』ガイウスは、この程度の損失では決して退かぬ冷酷な男…それは覚えておけ」
一行は、グレイファングと「星の民」の戦士たちに導かれ、月明かりだけが頼りの暗い森の奥深くへと、その歩みを進めていった。その先にあるという「星の民」の隠れ里、そしてそこで彼らを待ち受ける新たな運命とは、一体どのようなものなのだろうか。リアンの胸には、疲労と共に、未知への不安と、それでも前に進まねばならぬという新たな決意が宿っていた。