森の裁定者、星詠みの予言と迫る鉄の爪
夕闇が森を支配し始め、木々のシルエットが濃紺の空に不気味に浮かび上がる。張り詰めた空気の中、獣の毛皮を纏った森の民たちは、リアン一行を射抜くような鋭い視線で取り囲んでいた。そのリーダーらしき、顔に大きな傷跡を持つ壮年の男性――彼の名はグレイファングと後に知れる――は、特にリアンとエルミナを交互に見据え、重々しく口を開いた。
「答えよ。汝らは、古き星々の歌に記されし者たちか? 『竜の子』と、『銀の月の乙女』とは、汝らのことか?」
その声は、長年風雨に晒された岩のように硬質で、疑念とわずかな期待が入り混じっているように聞こえた。
エルミナが一歩前に進み出た。彼女の顔には疲労の色が濃いが、その立ち姿は凛としており、声は静かながらも確かな威厳を帯びていた。
「我々は、ドラグニア王国の正統なる後継者、リアン王子とその一行にございます。あなた方が、この森を護りし『星の民』であるならば、我々に敵意がないことをご理解いただきたい。無益な争いは避けたく存じます」
「ドラグニアの名か…」グレイファングは鼻を鳴らした。その目には、過去の苦い記憶を辿るかのような険しい光が宿る。「その名は、我ら森の民にとっては圧政と裏切りの同義語。たとえ王子であろうと、その言葉を容易く信じることはできぬ」
彼が右手を挙げると、周囲の森の民たちは一斉に弓の弦をさらに引き絞り、鏃がリアンたちに向けられる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ったぁ! 話せばわかる、分かり合えるのが人間ってもんでしょ? ね、ね?」
マルーシャが、両手を広げて慌てて割って入った。その顔は引きつってはいるものの、必死の笑顔を浮かべている。
「このキラッキラのイケメン王子様に、月の女神様みたいな美人さん一行は、見ての通り満身創痍のボロボロよ! 悪い人たちじゃないって、あたしの商人アンテナがビンビン警報鳴らしてるわ! もし嘘だったら、あたしの全財産…はちょっと困るけど、この自慢の赤毛くらいなら差し出すからさ!」
マルーシャの必死の弁舌も、グレイファングの石のような表情を崩すには至らない。彼の部下の一人が、威嚇するようにマルーシャの足元に矢を放ち、彼女は「ひぃっ!」と小さな悲鳴を上げてリアンの背後に隠れた。
グレイファングは騒がしいマルーシャを一瞥し、再びリアンにその隻眼を向けた。彼の左目は古い傷で閉じられており、残された右目だけが炯々と光っている。
「『星々の歌』によれば、『竜の子』はその身に古の竜の魂を宿し、大地を揺るがすほどの力を秘めている。だが、その力は世界を救うことも、滅ぼすこともできる諸刃の剣。そして『銀の月の乙女』は、星々の言葉を読み解き、その清らかなる光で竜の子を正しき道へと導く灯火となる…。もし汝らが予言の者たちならば、その力の一端なりとも示せぬというのか?」
リアンは言葉に詰まった。自分の力は未だ制御できず、エルミナを守るために「深淵の監視者」へ放った一撃も、奇跡に近いものだった。今、ここでそれを示せと言われても…。
エルミナが、リアンの前にそっと進み出て応えた。
「星の運行は、確かにウェスタリアに大きな転換期が訪れ、古き力が目覚めることを示しています。そして、リアン王子には、ドラグニア王家に代々受け継がれる特別な血が流れております。その証を示すことは、今は難しいかもしれません。我々は長く過酷な旅路で消耗しきっておりますゆえ」
彼女の言葉は、あくまで冷静で、相手を刺激しないよう慎重に選ばれていた。
その時、リアンのマントの裾から顔を出したプリンが、おずおずとグレイファングの足元へと近づいていった。そのカスタード色の体は緊張で少し硬直している。プリンは、グレイファングが腰に下げている、使い込まれた革袋の匂いをくんくんと嗅ぐと、意外なほどはっきりとした声で言った。
「おっちゃーん、なんか、いい匂いがするぜ! 森の木の匂いと、土の匂いと…あと、なんかキラキラしたお星さまみたいな石の匂いもする!」
グレイファングは、足元で無邪気に話しかける奇妙なスライムに、驚いたように目を見開いた。彼の腰の革袋には、彼らの部族で「星のカケラ」と呼ばれる、夜空のように深い青色をしたお守りの石が入っていたのだ。それは、代々部族の指導者候補に受け継がれるものだった。
グレイファングの険しい表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。だが、彼が何かを言いかける前に、リアンの胸に下げられた革袋のお守り――ソフィア王妃から託された「竜の涙」の模造品――が、まるでグレイファングの「星のカケラ」と呼応するかのように、再び淡く、しかし確かな白い光を放ち始めたのだ。
「そのお守りは…!」グレイファングは息を呑んだ。「まさか、『星詠みの石』と共鳴しているというのか…? 我らの祖先が、かつて『銀の月の乙女』に託したと伝えられる…」
その言葉の真偽を確かめる間もなく、森の奥から「星の民」の斥候らしき若者が、文字通り転がるように駆け込んできた。その顔は恐怖と焦りで歪んでいる。
「グレイファング様! 大変です! ヴァルガス軍の先遣隊が、谷の入り口まで迫っています! その数…およそ五十! 『鉄の爪』の旗印も見えました!」
「鉄の爪…ガイウスの私兵部隊か!」グレイファングの顔に、苦々しい怒りの色が浮かぶ。「奴らめ、またしても我らの聖域を土足で汚しに来たか…!」
彼は鋭い視線でリアンたちに向き直った。
「お前たちの言葉が真実であり、本当に予言の者たちであるならば、ヴァルガス王とその走狗『黒曜石の将軍』ガイウスは、お前たちにとっても不倶戴天の敵であろう。ならば…利害は一致する。一時、手を組む理由にはなるやもしれぬな」
グレイファングは、しばし腕を組み、何かを思案していたが、やがて決断したように顔を上げた。
「我らの隠れ里へ来てもらおう。そこで、長老衆がお前たちを見極めることになるだろう。だが、その前に、目障りな蝿どもをこの森から叩き出さねばならん」
その言葉は、拒否を許さない響きを持っていた。
「星の民」たちは、リアンたちと共にヴァルガス軍の先遣隊を迎え撃つか、あるいは巧みに森の奥深くへ誘い込み、地の利を活かして殲滅する作戦を立て始めた。その動きには無駄がなく、彼らが長年この森で生き抜き、戦い続けてきたことを物語っていた。
リアンは、エルミナやマルーシャ、そして生き残った兵士たちと顔を見合わせた。予期せぬ展開だった。この「星の民」たちが本当に味方となるのか、まだ分からない。だが、今は共通の敵を前に、彼らと協力する以外に道はないように思えた。
グレイファングが、その隻眼でリアンを射抜くように見つめて問うた。
「『竜の子』よ、お前は戦えるか? 我らと共に、この森を、そしてあるいは…お前たちの未来を守るために」
リアンは、ごくりと唾を飲み込み、震える手で剣の柄を握りしめた。彼の答えは、まだ声にはならなかったが、その瞳には新たな決意の光が灯り始めていた。
森の木々の間を縫って、ヴァルガス軍の兵士たちの鎧が擦れる音や、下品な笑い声、そして指揮官らしき男の怒声が、すぐそこまで近づいてきている。戦いの時は、目前に迫っていた。