深淵の咆哮、お守りに宿る古の光
地底湖に鎮座する「深淵の監視者」が、その巨大な単眼をゆっくりと一行に向けた瞬間、洞窟全体が不気味な振動に包まれた。ゴオオオオ…という地鳴りのような音と共に、水面が激しく波立ち、天井からは鍾乳石の破片がパラパラと降り注ぐ。それは、まるで太古の神が目覚めたかのような、圧倒的な威圧感だった。
「ひっ…! だ、だめだ、こいつ…見てるだけで魂が吸われちまいそうだぜ…!」
プリンはリアンのマントに顔をうずめ、小さな体を恐怖でガタガタと震わせている。その声は普段の軽快さを完全に失い、純粋な怯えに染まっていた。マルーシャもまた、顔面蒼白で、愛用の黄金の算盤を胸に抱きしめたまま一歩も動けずにいた。彼女の額からは、脂汗が滝のように流れ落ちている。
「な、なんなのよ、アレ…! あんなの、どんな帳簿にも載ってないわよ…! 赤字どころの騒ぎじゃないわ、破産よ、破産!」
監視者の巨躯が、ゆっくりと動き始める。岩島から何本もの黒い触手が伸び、まるで獲物を品定めするかのように蠢いた。そして、その中心にある単眼が一度大きく見開かれると、そこから強烈な精神的な圧力が放射された。それは直接的な痛みではないが、心の奥底に潜む恐怖や絶望を無理やり引きずり出すような、耐え難い苦痛だった。
「うっ…ぐぅ…!」
リアンは思わず膝をつきそうになる。兵士たちもまた、頭を抱えて呻き声を上げ、戦意を削がれていく。エルミナでさえ、顔を歪め、杖を持つ手が微かに震えていた。
その時、リアンの胸に下げられた革袋のお守りが、まるで監視者の邪悪な波動に抗うかのように、カッと熱を帯び、眩いほどの白い光を放ち始めた。その光は、監視者から放たれる精神的な圧力をわずかに和らげるように、リアンたちを優しく包み込む。
「この光は…!」エルミナがハッとしたようにリアンのお守りを見た。「王子、そのお守りこそが…! ソフィア様は、古のドラグニア王家に伝わる『竜の涙』と呼ばれる聖遺物の伝承に基づき、いつかあなた様をお守りするためにこれを作らせたのかもしれません! 『竜の涙』は邪を払い、持ち主に勇気を与え、そして古の力を呼び覚ますと言い伝えられています…!」
監視者は、お守りの光を不快に感じたのか、あるいは単なる気まぐれか、今度は物理的な攻撃を開始した。数本の巨大な触手が、鞭のようにしなり、一行めがけて叩きつけられる。
「散開しろ!」ハルクが叫び、負傷したヨルンを庇いながら辛うじて一撃を避ける。だが、避けきれなかった別の触手が、彼の肩を掠め、鈍い音と共にハルクは地面に叩きつけられた。
「ハルク殿!」
兵士たちが決死の覚悟で盾を構え、監視者の触手に立ち向かうが、その力はあまりにも強大で、盾は容易く砕かれ、兵士たちは次々と薙ぎ払われていく。
エルミナは杖を構え、次々と防御魔法や攻撃魔法を繰り出す。
「フレイムランス! ライトニング・バインド!」
炎の槍が触手を焼き、光の鎖がその動きを束縛しようとするが、監視者の巨躯の前では焼け石に水だった。エルミナの魔力は急速に消耗し、その美しい顔には疲労の色が濃く浮かび始める。
リアンは絶望的な状況の中、エルミナの言葉を反芻していた。「竜の涙…古の力を呼び覚ます…」
(俺の力…竜の血脈…このお守りが、その鍵だというのか…?)
力の暴走を恐れる気持ちと、仲間を守りたいという強い想いが、彼の心の中で激しくせめぎ合う。
その時、監視者の巨大な触手の一本が、魔法を使い果たし消耗しきったエルミナめがけて、死神の鎌のように振り下ろされた。
「エルミナさん!」
リアンの叫びも虚しく、エルミナはもはや避ける力も残っていない。
(もう、迷っている暇はない…!)
リアンは、胸のお守りを強く握りしめ、折れかけた古びた剣を両手で構えた。彼の全身から、抑えようもなく蒼いオーラが噴き出す。しかし、今回は以前のような無秩序な奔流ではない。お守りから放たれる白い光と、リアンの蒼いオーラが絡み合い、共鳴し、まるで彼の意志に従うかのように、剣身へと流れ込んでいく。剣は眩い黄金色の光を帯び、まるで伝説の聖剣のような輝きを放ち始めた。
「うおおおおおおおおっ!」
リアンは力の流れを剣先に集中させ、全ての想いを込めて、エルミナを襲う触手に向けて渾身の一撃を放った。それは、もはやただの剣技ではない。彼の魂そのものが叩きつけられたかのような、純粋な意志の顕現だった。
黄金色の閃光が迸り、監視者の巨大な触手を、まるで熱したナイフがバターを切るように両断した。切断された触手は黒い体液を撒き散らしながらのたうち回り、監視者は初めて苦悶の咆哮を上げた。
しかし、その一撃はリアンの気力と体力をほぼ完全に奪い去った。彼はその場に崩れ落ち、意識が遠のいていくのを感じる。
「王子!」エルミナが、かろうじてリアンを抱きとめる。
その瞬間だった。リアンのお守りと、先ほど一行が通り過ぎた洞窟内の祭壇があった方向が、強く共鳴し始めた。祭壇の奥の壁画に刻まれていた七つの星のシンボルが、お守りの光に呼応するように淡く輝き出し、やがて洞窟全体に清浄な光の波紋を広げていく。
その光は、「深淵の監視者」にとって耐え難い苦痛であるらしく、巨躯を激しく震わせ、その単眼を苦しげに明滅させる。
そして、まるで古の封印が発動したかのように、監視者の背後にあったはずの岩壁の一部が、轟音と共に崩れ落ち、そこから眩いばかりの外光が差し込んできたのだ。
「出口だ…! みんな、今のうちに!」
マルーシャが、恐怖を振り絞るように叫び、負傷したハルクとヨルンに肩を貸す。エルミナは消耗しきったリアンを背負い、プリンは道案内をするかのように先導する。
監視者は、古の民が遺した光の力に動きを封じられたのか、あるいは深手を負ったのか、苦悶の咆哮を上げながら、ゆっくりとその巨体を地底湖の暗い水底へと沈めていった。
一行は、文字通り這うようにして、光が差し込む新たな通路へと進んだ。どれだけ歩いただろうか。長く暗い通路を抜けた先には、信じられないほどの眩い太陽の光と、生命力に満ち溢れた緑豊かな森の風景が広がっていた。鳥のさえずりが聞こえ、花の香りが漂ってくる。
「こ、ここは…?」
リアンはエルミナの背で薄っすらと意識を取り戻し、その光景に目を見張る。
「…分かりません。ですが、あの嘆きの峡谷を…そして、あの忌まわしき洞窟を抜けたことだけは確かです」
エルミナの声には、深い安堵と疲労が滲んでいた。
だが、彼らの安堵も束の間だった。
森の木々の間から、遠く、しかしはっきりと、ヴァルガス王の軍勢が用いる角笛の音が鋭く響き渡った。それは、彼らがまだ危険な状況から完全に脱したわけではないことを、そして次なる試練がすぐそこまで迫っていることを告げる、不吉なファンファーレだった。