凍土の亡霊と饒舌な相棒
北暦1024年、霜降の月
刺すような風が、荒涼とした大地を吹き抜けていく。
見渡す限り広がるのは、灰色と白に支配されたツンドラの原野。まばらに生える背の低い針葉樹は、常に吹き付ける北風にその身を捩じられ、まるで苦悶の叫びを形にしたかのようだ。空は低く垂れこめ、鉛色の雲が太陽の光を遮り、世界から色彩を奪い去っている。ここはウェスタリア大陸最北端に近い辺境、「嘆きの荒野」と呼ばれる地。一年のおよそ八割が冬に覆われ、人の生存を容易く拒む不毛の領域である。
そんな荒野の一角、風を少しでも避けられる岩陰に、粗末な毛皮を纏った一人の若者がいた。年は十六か、七。長く伸ばした黒髪は無造作に束ねられ、風にあおられて頬を打つ。切れ長の瞳は、この厳しい環境に似つかわしくないほど澄んだ蒼色をしていたが、その奥には年齢以上の諦観と、消えぬ微かな意志の光が宿っていた。名をリアンという。かつてはドラグニア王国の片隅で、名もなき村の孤児として育った少年。しかし、その出自には、彼自身もまだ全容を知らぬ大きな秘密が隠されていた。
「……プリン、何かいるか?」
リアンの乾いた唇から、白い息と共に言葉が漏れる。彼の傍ら、小さな焚火の熱で僅かに雪が溶けた地面には、奇妙なスライムが一匹、ぷるぷると小刻みに震えていた。大きさは人の頭ほど。その体はカスタードクリームのような温かみのある黄色で、頭頂部にはまるでカラメルソースがかかったように艶やかな茶色の模様が広がっている。どこからどう見ても甘味の「プリン」を彷彿とさせるその姿は、およそこの殺伐とした荒野には不釣り合いだった。名をプリン。ただのスライムではなく、人の言葉を解し、そして流暢に話す「異形種プリンスライム」である。リアンが物心ついた頃からの唯一無二の相棒であり、家族だった。
「おー、リアン! 来てるぜ、来てる! 北東から、なんかこう……うん、いつものイヤ~な感じの奴らが、こっちに向かってるぜ!」
プリンは体をリズミカルに揺らしながら、まるでコントラルト歌手のような、それでいてどこか少年っぽさも残る声で警告を発した。その体の一部がにゅっと伸び、北東の方角を指し示す。
「……またか。本当にしつこい連中だな」
リアンは舌打ちし、傍らに置いていた古びた鉄の剣を手に取った。剣と言っても、刀身にはいくつもの刃こぼれがあり、柄に巻かれた革も擦り切れている。それでも、彼にとっては唯一の護身の武器であり、この厳しい荒野で生き抜くための生命線だった。
立ち上がると、冷気が容赦なく毛皮の隙間から侵入してくる。リアンは慣れた様子でそれを無視し、プリンが示した方角へ鋭い視線を向けた。岩陰から僅かに身を乗り出すと、遠く、雪と岩の陰影に紛れて、数人の人影がこちらへ向かってくるのが見えた。毛皮の外套を深く被り、手には錆びた斧や棍棒を握っている。この辺りを縄張りとする盗賊の一味だ。彼らはリアンのような孤独な旅人や、小さな村々を襲っては略奪を繰り返している。
「三……いや、四人だな。プリン、いつものように頼むぜ。お前のハニーボイスはこういう時、役に立つ」
「へっ、任せとけって! オレ様の美声と、とっておきのネバネバでイチコロにしてやるぜ!」
プリンは得意げに体を数回バウンドさせると、その体を僅かに平たくし、まるで地面を滑るように先行していく。リアンもまた、音を立てぬよう慎重に、しかし素早く岩陰を移動し始めた。
この嘆きの荒野で生きるということは、常に死と隣り合わせであるということ。食料の確保もさることながら、このような悪党や、時には飢えた野生の魔獣から身を守らねばならない。リアンは追われるようにしてこの荒野へたどり着いてから数年、そうした生存競争の中で否応なく戦う術を身に着けてきた。それは、洗練された騎士の剣技とは程遠い、泥臭く、生き残るためだけの技だった。
盗賊たちが、リアンが先ほどまでいた岩陰に到達する。獲物がいないことに気づき、リーダー格と思しき大柄な男が悪態をつくのが微かに聞こえた。
「ちくしょう、また逃げられたか! 小賢しいガキめ!」
その時、男の足元で「よぉ、旦那衆! 何かお探しで?」と間の抜けたような声がした。男が訝し気に足元を見ると、そこには例のプリンスライムが、まるで挨拶でもするかのように体を上下させている。
「な、なんだぁ、このプリンみてえなスライムは!? しかも喋りやがったぞ!?」
男が驚きと嘲笑の入り混じった表情で棍棒を振り上げた瞬間、プリンは目にも留まらぬ速さで男の顔面に飛びついた。
「甘くて美味しいオレ様を舐めるなよー! プリン・顔面パックだぜぇっ!」
「ぐわっ!? ね、ねばねばしやがる!」
カスタード色の粘着質の体で視界を奪われ、呼吸を塞がれた男はたまらず悲鳴を上げる。仲間たちが驚いて駆け寄ろうとしたその瞬間、背後の岩陰からリアンが躍り出た。
一人目の盗賊の脇腹に、リアンは体重を乗せた剣の柄頭を叩き込む。防具などないに等しい男は「ぐえっ」と短い悲鳴を上げて崩れ落ちた。即座に剣を持ち直し、二人目の盗賊が振り下ろす斧を紙一重で避ける。金属同士がぶつかり合う甲高い音。リアンの剣は相手の斧を受け流すと同時に、滑らせるようにして盗賊の腕を浅く切り裂いた。
「があっ!」
痛みによろめいた盗賊の顎に、リアンは素早く左の拳を叩き込む。体格では劣るリアンだが、その動きは野生の獣のように俊敏で、的確に急所を狙っていた。
残るはリーダー格の男と、もう一人の盗賊。リーダーは顔に張り付いたプリンを必死に引きはがそうともがいている。
「このプリン野郎! 離れやがれ!」
「やだねー! もうちょっと遊ぼうぜー、おっさーん!」プリンが楽しげに声を上げる。その隙を逃すリアンではない。
「プリン、そいつから離れろ! 美味しくなさそうだ!」
「へいへい、了解! たしかにこいつはマズそうだぜ!」
リアンの声に反応し、プリンはリーダーの顔からぽとりと離れ、地面を転がってリアンの足元へ戻る。視界を取り戻したリーダーは、怒りに顔を真っ赤にしてリアンを睨みつけた。
「このガキがぁっ! 変なスライム使いやがって!」
「お前たちのような悪党にくれてやる命はないんでな」
リアンは冷ややかに言い放ち、剣を構え直す。その瞳には、先ほどまでの諦観とは異なる、生きるための強い意志が燃えていた。もしかしたら、それはドラグニアの騎士たちが言う「勇者の魂」の欠片なのかもしれない。あるいは、ただ単に、奪われることへの怒りか。
戦闘は長くは続かなかった。リアンとプリンの連携は絶妙で、地の利も彼らにあった。手負いの盗賊たちは、やがて武器を捨てて散り散りに逃げていく。リアンは深追いはしなかった。無駄な体力を使う必要はない。
「ちぇっ、もう終わりかよ。もうちょっと痛めつけてやろうと思ったのによぉ」
プリンが少し不満そうに体をぷるぷる震わせる。リアンの頬には、先ほどの戦闘で浅い切り傷ができていた。
「大丈夫か、リアン? 顔、ちょっと赤くなってるぜ? オレ様の秘蔵カラメルでも塗っとくか?」
「大したことはない。お前こそ、よくやったな、プリン。おしゃべりが過ぎるのが玉に瑕だが」
リアンはプリンをそっと両手で掬い上げ、毛皮の内ポケットに優しくしまう。プリンのほんのり甘い匂いとひんやりとした体が心地よかった。
盗賊たちが落としていった粗末な食料袋を漁り、干し肉と硬いパンを見つける。これが今日の貴重な食料だ。空を見上げると、雲の切れ間から一瞬だけ、弱々しい太陽の光が差し込んだ。ほんの一瞬の出来事だったが、それはまるで、この凍てつく世界にもまだ希望があるのだと告げているようだった。
リアンは、かつてドラグニア王国の賢者の一人に言われた言葉を思い出していた。
『お前には特別な血が流れている。それは祝福であり、呪いでもあるだろう。いつかお前が真実を知り、己の道を選ぶ時が来る。その時まで、強く生き抜け』
特別な血。真実。己の道。
今のリアンにとって、それはあまりにも遠い言葉だった。ただ、生きる。明日も、その次の日も。この嘆きの荒野で、饒舌なプリンの相棒と共に。
だが、リアンはまだ知らない。
この日、ウェスタリア大陸中央部では、空位久しい「星霜の玉座」を巡る新たな陰謀の火蓋が切られようとしていたこと。そして、大陸の北端、さらにリアンがいる場所よりも北の氷壁の向こう側では、「虚無の侵食者」と呼ばれる、世界の理を喰らう災厄が、静かにその活動を再開し始めていたことを。
リアンの過酷な日常は、まだ始まったばかり。
そして、彼自身がウェスタリア大陸全土を揺るгаす壮大な運命の渦の中心にいることを、知る由もなかった。焚火の火を大きくし、冷え切った体を温めながら、リアンは干し肉をかじる。ポケットの中のプリンが、満足そうに、そしてどこか得意げに「へへん、オレ様がいれば百人力だろ?」と囁いた。
その夜、リアンは夢を見た。
燃え盛る城。逃げ惑う人々。そして、巨大な竜の影と、七色の輝きを放つ七つの星々。
それは、彼の失われた記憶の断片なのか、それとも未来の啓示なのか。
目覚めたリアンの額には、冷たい汗が滲んでいた。