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 ――チッ、裏切り者が。


 


 近習の一人が吐き捨てているが、素知らぬ顔で遠くで一礼していった。


 去っていくときの顔にはおそらく得点をとったというようなあのしたり顔の笑みが浮かんでいることだろう。


 もっとも、どうせ、この水もマール自身ではなく部下にでも汲ませてきたものだろうがな。


 のどを潤し、残った鉢の水を頭からかぶった。


 ようやく、人心地がついた。


 体の中も外も熱さがとれ、ようやくクリアに思考ができる。


 


 しかし、この暑さは異常だな。この暑さの中、これ以上行軍を続けるのは難しいだろう。しばらくはこのあたりで全軍に休息をとらせ、早めの夕食をとり、夕方涼しくなったころから進んだ方がいいのかもしれない。


 


 さっそく、全軍にそう伝達すると、兵士たちは武装を解き、歓声を上げながら、湖へと飛び込んでいく。


 若い兵士たちはお互いに水を掛け合い、はしゃいでいるのをベテランたちは微笑みながら眺めている。とても平和な光景だ。


 だったのだが――


 


「陛下、すこしお耳に入れたいことが」


 


 親衛隊の鎧を着た者が小声で報告してきた。


 


「なに? 後軍と連絡がとれないだと?」


「ハッ もともと攻城兵器などとともに行軍しており、遅れがちだったのですが、先ほどから伝令を走らせても、返事もなく。それどころか、伝令たちも戻ってはこず」


「どういうことだ? 敵襲か?」


「わかりませぬ」


「だれか後軍の様子を見てまいれ!」


 


 手近にいた近習に目をむけると、その者は慌てて視線を逸らす。この涼しい場所から動きたくないという態度だ。


 


 バカ者めっ!


 


 怒気をこめてにらむと、慌てて駆けていった。


 


「ったく! 愚か者めが! ここは敵地ぞ! 武装を解いたままで出かけるやつがあるかっ!」


 


 ふと見ると、後軍の異変を知らせてきた親衛隊の男がまだそばで控えている。


 


「なんだ? まだなにかあるのか?」


 


 不機嫌に声をかけると、その場でかしこまり、ボソボソした声で話しかけてきた。


 


「陛下、国境の砦でお披露目くださった新兵器の件ですが」


「むっ……」


 


 あまりに予想外なことについての話だ。あの兵器の威力を、改まってこの者は賞賛しようとでもいうのだろうか。


 


「あれはもともとウェスト王国の軍部で開発されたもの。それを裏切り者のマールが持ち出してカナーガッファに譲り渡したものです」


「……なぜ、貴様がそれを!?」


「ですが、そもそもウェスト王国の軍部から、あの兵器を実戦配備するのを拒絶したような代物(しろもの)なのです」


 


 だれも異変を感じていないのか、森の中で休んでいる近習たちは近寄ってこない。中には森の木を背にして船をこいでいる者もいる。


 


「それはなぜかと申しますと、あの高度なルーン文字の魔法陣を描くには、その国でも最高の技量を持つ魔術師が多大な魔力を筆先に込めて、慎重に描く必要があるからです。そして、その魔法陣は時間とともに込められた魔力が少しずつ抜けていき、放っておくとやがて限界が訪れ、すべての魔力が一気に抜け出し、魔法陣そのものが蒸発してしまいます」


「だ、だれか――」


 


 声がかすれて出てこない。


 


「それを防ぐために、高位の魔法使いたちによって常時魔法陣へ魔力を注入し続けなくてはなりません。また、魔力を注入するには魔法陣が活性化している時にしかできません。そのため、あの魔法陣は常時起動状態となっています」


 


 いくら努力してもなかなか舌が回らない。しびれたように動かない。まるでしびれ薬でも盛られたような。


 最近、なにか口に――


 ハッとした。そうか、マールが運んできた鉢の水、あの中に薬が……


 


「そんな状態でもし軍の中に敵の魔法使いが忍び込んでいて、魔法陣に向かって魔法を唱えたらどうなるでしょうか? たとえばつい先ほど後軍で起きたように――」


 


 その親衛隊の男は一瞬笑みを浮かべると、口の中でなにやら呪文を唱え始めた。直後に体の横に掲げた右の手のひらから白い雲が湧き出す。その白い雲は生き物のように(うごめ)き、地面へとなだれ落ち、やがてその濃度を変えることなく、這うように四方へと広がっていった。


 


「大丈夫です。ただの眠りの雲(スリーピー・クラウド)ですよ。命の危険はありません。吸い込んだ者たちを深い眠りへといざなうだけです」


 


 その雲はあっという間に森中に広がり、森の中で休息をとっていた者たちを深い眠りの中へ落としていった。


 


「な、なにものだ!」


 


 回らない舌をなんとか苦労して動かし、誰何(すいか)するのだが、その男は片頬でにやりと笑うだけで、背をむけ、その場をさり、森の外へ出ていった。


 


「ま、待て!」


 


 だが、その男をつかもうと伸ばして腕は、まったくその鎧にとどくこともなく、だらりと垂れ下がるのだった。


 


 カールは深い眠りへと落ちていた。


 


 


 

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