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人々のざわめきがここまで伝わってくる。
あのバカがお兄様に観劇に誘われたというので、隠れてオペラ座にもぐりこんだ。
私たち王族たちが普段使うロイヤル・ボックスとちがう庶民向けの席。狭く臭くまったくシートのクッションが利いていない。
庶民たちは、よくこんな席で我慢して観劇をしているものだ。
しかも、隣の席に座っている女は売店で買ったものを観劇中ずっとパリポリ食べ続けて、匂う上にうるさくて全然集中できない。反対側の男は暗闇の中で、こっそり私の体を触ろうとしてきたから、魔法で眠らせてやったわ。ずっとうなされていたから、悪夢を見続けているようね。でも、その眠りの魔法、私が解除するまで誰がなにをしても目覚めることはないから、たっぷり悪夢を堪能してね。
しかし、ほんと、ひどい場所だわ。
それでも、すこし首をめぐらせれば、いつもとは違う角度からお兄様の引き締まったお顔を眺められるのは最高よね。それだけで胸がいっぱいで幸せ。もう舞台の上で何をやっているかなんて、どうでもよくなっちゃう。
そんな幸せなひとときの時間をすごしたあと、演目の間の休憩時間に入った。
観客席にいた者たちは、その身分にかかわらず、大多数はこの休憩の間に席を外していた。売店で買い物をしたり、用をたしたり、洗面室へ化粧直しにむかったのだろう。
そんな状況で観客席に居残っていたので、目立ってしまいそうだった。慌ててトイレへ席を立った。
庶民たちには私の顔がよく知られているので、フードを目深にかぶって、顔を見られないようにしている。もちろん、魔法で全くの別人に変装もできるけど、お兄様のそばにいる魔力探知ができるあのバカに気が付かれてしまうかもしれないから、そんなことしない。
庶民用のトイレは混んでいて、大行列。ならばとこっそりと階段をのぼり、貴族や大商人たちがつかうボックス席専用のトイレに入る。
個室に入り、ついでに小用をたす。うん、すっきり。
流して、さあ個室を出ようとしたところで、その会話が聞こえてきた。
「ねえ、キャロライン嬢見まして、今日のロイヤルボックス」
「ええ、ユリウス殿下がいらっしゃていましたわ」
「ほら、それに、今日も最近いつもお供をされている殿方をお連れになっておられて」
「あの浅黒い顔立ちの精悍な方ですわね」
「そうそう、その殿方」
「どちらの殿方かしら? ユリウス殿下といつもご一緒だから、ご学友とかかしら?」
「あら、知りませんの、ナターシャ嬢?」
「もしかして、ご存じですの、あの殿方のこと?」
「ええ、以前、何度か舞踏会でお見かけしたことがありますわよ」
「そうだったかしら? いつも舞踏会ではダンス中に婚約者に足を踏まれてしまわないかばかりに気を取られていて――」
「ああ、ああ……」
「ちょっと、なんでそこで黙り込むんですの!」
「あ、あはははは」
貴族令嬢たちが洗面台の前で話をしているのがきこえてくる。
――ナターシャ嬢か。あの人の婚約者といったら、大貴族の御曹司だけど、とても不器用で…… 私も足を何度か踏まれたことがあったわね。
思わず、苦笑してしまう。
「ロイヤルボックス席でユリウス殿下と一緒にいっらしゃるのは、例のほら、水差しの」
「水差し?」
「ほら、魔法の水差しのスミス商会会長のロジャー・スミス様ですわ」
「まあ! あの方が!」
「ええ、あの方ですの」
「でも、なぜ、そんな商人の方が、殿下とご一緒にロイヤルボックスに? あそこへ入れるのは王族の方々とその王族の方々からの招待を受けた者だけですのに? 殿下が招待なさったのかしら?」
「きっとそうですわね。私たち貴族ですら、あの席へ入れるのは一生で一度あるかどうかですのにね」
「そうですわね。私の知り合いの中では、お兄さまが先年、国王様に呼ばれて、入室がかなったことがあるぐらいですわ」
「それなのに、一介の商人の方が?」
「ええ、商人の方が――」
不意に二人の声が途絶えた。会話自体はひそひそ声で続いている気配だ。なんだか興奮しているような。
と、急に、
「まあ、それって本当ですの!」
「さあ、でも、あくまでも庶民の間で広まっているただの噂ですもの。本当かどうかわかりませんですわよ」
「で、でも…… そういえば、殿下は、以前、舞踏会でだれもが心を奪われるような美しい高貴な姫様たちと踊っていらしたけど、そのあとでどの方とも進展があったという話はきいたことがないですわね」
「ええ、しかも、どの姫様とも一度っきりのダンスのお相手をされるばかりで、同じ方と二度以上踊られたことはないはずですわ」
「ええ、ええ、たしかに!」
「私も踊っていただいたけど、一回きりでしたわ。とてもお上手でまたお相手していただきたかったですわ」
「私も!」
「とすると、では、その噂は――」
カラン、カラン
――再開、五分前で~す 再開、五分前で~す
「あら、もう時間ですわね。席へもどらなくちゃ」
「ジョバンニの恋、この先どうなるのかしら。たのしみですわ」
「私はダンカンの忠義の志に感銘を受けましたわ」
そうして、令嬢たちはトイレを後にしていった。




