ハチョウ?
帰りの電車の中で立っている間も、私は少年のことを考えていた。考えているというより頭から離れなかった。いつもなら空席を探してでも座りたいのだが、今日はなぜか閉じたドアに背中を預けて宙をぼんやりと眺めて痛かった。あの後職員室に戻り明日の授業準備をしている時も、ふと我に帰ると手を止めて彼のことを考えていた。少年の顔が頭のスクリーンに映し出されていて、それが空間に浮かび上がってきてしまう。やはり噂の古くからここに棲みつく幽霊なのだろうか。でもその話をする教員たちが感じた恐怖感からは今の自分にある心情はかけ離れすぎていた。そのことが、誰にも打ち明けてはいけないような気持ちにさせた。
―なぜ、わたしの前に現れたのだろう。
―わたしの前に現れた目的を知りたい。
―また、わたしの教室に出てくるのだろうか。
―いったい、どういう理由でわたしに話しかけたの?
「知らないよ」電車がレールを走る振動にのせて、少年の声がかすかに響く。
「『知らないよ』って、それってどういうこと?」意図するより先に言葉を返す。周りの乗客には、自分たちの声は聞こえていないようだ。
「ぼくだって別に自分からわざとあなたの前に現れたわけじゃないんだ」車内のスクリーンに現れた少年は続ける。「いつもの様にふらふらしていたら、あなたがこっちを見ているから、驚いたんだ。それで、声をかけてみたんだ。黙っていなくなるのも、あれかと思ってさ」
「いつもふらふらしてるの?」
「そうだよ」
「ちょっと! 気持ちわるい!」
乗客が一斉に霞の方に目を向ける。どうやら叫んでしまったようだ。聖は一瞬にして血流が逆流するような動揺に包まれ、顔が紅潮し汗が噴出すのを感じ、体を反転させて窓の外を見た。夜の畑が見えるだけだ。今さらながらカバンからスマホを取り出して、電話をしているふりをした。
「知り合いのおじさんの話だと、ぼくたちとあなた達でハチョウの合った者同士は、見えたり聞こえたりするらしい」
その言葉を最後に少年の声は途絶えた。
「波長?」私は少年の言葉をそのまま受け入れるしかなかった。とりあえず次の駅で一度降り、ホームのベンチに腰かけて待ってみたものの、そこでは少年は現れてくれなかった。改めて考えると、少年が小学4年生にしては落ち着いた雰囲気を醸しだしているのと、その年齢にしては難しい言葉を使うことが訝しく感じた。
私は次の週の水曜日に少年と再会した。一人の教室で仕事をしていると少年が出てきそうで、職員室のほうが落ち着いて仕事ができた。少年にはまた会ってみたいとは思うものの自分が教室で仕事をするというシチュエーションをつくること自体が少年の出現を誘っている様で憚られた。
しかし、その日は子ども達を帰した後職員室で教材研究をしている最中に教室に忘れ物を取りに訪れた子供に付き合って教室に戻った。水色の水筒が空っぽのロッカーに佇むように置かれていた。
水筒を持って教室を出る子に付き添って教室を出る時、黒板の横に少年の気配を感じた。
―やっぱり現れたのね。わたしは心の中で呟いた。
子供を職員玄関まで送り届けて、私は職員室へは戻らずに、教室へ向った。
少年が立っているのは、初めに現れたところと同じ黒板前だった。
―なぜ、わたしの前に現れたの?
私は前置きなしに語りだした。
―そんなの知らないよ。そう言ったじゃないか。
少年は肩をすぼめ、口を尖らすような表情で話し出した。まるでお説教を受けている子供みたいで、私は彼を見ていると、どこからか緊張が解けていくのを感じた。
―もっと詳しく教えて。
少しやわらかな声色で聞いてみる。
―ぼくだって別にわざとここに現れたんじゃないんだ。いつもの様にふらふらしていたら、あなたがこっちを見ていたんだよ。それでこっちが驚いて声をかけたんだ。
―いつもそこをふらふらしているの?
―そう。
「ちょっと気持ち悪い!」
ーこの会話、いつかもしたね。確か最初に君にあった日に。
二人は声を出さずに笑った。
―立って話すのもなんだから、座れば。
「順一くんっていったよね、名前」
子供に着座を進められて座るのもどこか不自然だったが、たしかにこの少年とのやり取りを立ちっぱなしで続けるのも億劫で、教室の角のデスクの椅子に座る。座ったときに金属が擦れる音が鳴き声のように響いた。こんなところまでいつもと同じだ。改めてこの時間が夢でも妄想でもないことを知らしめられた気がした。
―一応ことわっておくけれど、いろんな人がここをふらふらしているよ。もちろんきちんと目的があってここを通行している人もいるし。
「世の中知らぬ方が身のためであることは沢山あるのね」
周波数が合うもの同士は姿が見えたり、声が聞こえたりするらしい。それは知り合いのおじさんの言っていることだけどね。
「君はいったいいくつなの?」
私は唐突に出会ってからずっと抱いてきた問いを投げかけてみた。だって、少年がまるで少年ではないような気がしてならなかったから。
―生きていたのは十歳までだけど、もう死んでから二十年は経つから、実際には三十歳くらいかな」
「実年齢っていうのもあるのね。なるほど・・・・・・」
―うん。少年はそう言って、押し黙るようにしばしの間静かになった。
「そんな数え方をするのね」
―あ、ああ、まあ。
「ちょっと話し変えていい? その周波数ていうのは、年齢にも関係あるものなの? つまり歳が近いほうが合いやすいとか、その逆に離れている方が合いやすいとか」
―どうだろうね。それも少しはあるかも知れないけど、あんまり関係ないんじゃないかな」
「歳のこと、もう少し聞いてもいい?」
―別に、なんでも聞いて。
「君は、西暦で言うと何年に生まれたの?」
―一九八六年
「わたしと同い年じゃない!」
―あ~そうなの。
「君と話していると不思議と子どもと話している気はしなかったの。その訳が分かった」
―僕は体がないから、見た目にはあの当時のままだけど、一応歳は重ねているからね。
「幽霊も歳をとるの?」ユウレイという言葉の響きを聞いて聖は少し言葉を選らばなすぎたと悔やんだが、他に彼の存在の形態を指し示す言葉はすぐには見つからなかった。
―そうなんだ。こうしてぼくは学校にいるからさ、一日一日を感じて一年間を意識して生きている実感はあのころとほぼ同じだと思う。生きていたのだ、ずっと前だから、もうその感覚自体をはっきりとは思い出せないんだけどね・・・・・でも多分あの頃もこんな感じだったと思う。時間が過ぎるという感覚は。
「そうなんだ」
―時間を感じないという人もいるけどね。それは体の変化が無いからだろうってその人は言う。
「ずっとこんなところにいて、飽きやしないの? 子供達なんて、帰りの会が終ったら、すっとんで帰って行くよ。放課後は友達と遊ぶほうが楽しいでしょ」
―ぼくには他にいくところもないしさ。
「そうなの・・・・・・」
少年の反応から、私は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気になった。そうだ、きっとこの順一という少年も独りなんだ。
―ここにいると、子ども達だけじゃなくて、大人の教師のこともよく分かるよ。
少年は、私にそれを隠すかのように話し出した。
―たとえば、どんなことを考えて暮らしているか、どんな悩み事を抱えているか、生きていた頃には想像もつかなかったことがね。
「へぇ~そんなに見透かされちゃってるのね。わたしたち」
―人によるよ。心の中が丸々見えちゃう人もいる。心の中が開きっぱなしで、長い独り言を語る人もいれば、ぽつりぽつりと呟きがこぼれる様に廊下に聞こえてくる人もいる。
「おっかしぃ」私は想像して、相好をして笑った。
―結構女の人が多い。反対に中年の男の先生はあんまりそういうのがぼくには聞こえてこないんだ。
「そうなのねー」
私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいて、深呼吸した。いつになく澄んだ空気が胸に広がる。
「ところで、私以外に君のことが見えている人はいるの?」
私は大分緊張が解けてきて、気にかかっていたことが自然と口から出た。
―今はいない。あなただけ。
「以前はいたのね」私の言葉に断定的な色合いが滲んだ。
―結構前だね。もうかれこれ一〇年くらい前かな。
「いろいろ話してくれてありがとう。わたし、小野原聖って言うの。まだ名前すら教えていなかったものね。ひじりって呼んでね。同い年だし」
―りょーかい。じゃ、ぼくも。江原順一。
「あはは、この前、聞いた」
―そうだっけ。
少年は照れるように笑う。その表情はクラスの子供達と変わらない十歳の子供のものだった。
帰り道。アスファルトを照らす蛍光灯の白い光が、いつもより澄んで感じるのは気のせいだろうか。どこか夜なのに私の心は昼間の陽光が注した様に明るかった。
つづく