彼の名は
「ぼくが見えるんだね」音もなく教室に入ってきた(いつ入ってきたか知らないが)男の子は確かにそう言った。
「見えるよ。声も聞こえる、こうして」この子は果たして何組の子だろう。いや、四年生には、こんな子はいない。他の学年の子?
「ちがうよ!」男の子は、いたずらな笑みを口元に浮かべ私を見据えている。
「その先を言わないで・・・・・・」それ以上話させると聞きたくないことを語りだしそうなのだ。四年生でもないし他学年の子でもない。物音も足音もなく教室に入ってきた?いや、わたしは今まで物思いに耽っていたから、きっと聞こえなかっただけで、この子はそれなりの音も立てて人が入ってくる気配も伴ってわたしの教室に侵入してきたはずだ、そうに違いない。だとすると、他校の児童が合理的な理由もなく校舎に入り込み、なぜかわたしの四年三組に立ち入っている。これは、“不審者”として扱っていい案件だ。不審者という厄介者を自分の教室で遭遇してしまったというアクシデントは、それはそれで面倒ではあるが、もう一つの想定できる事柄に比べると比較にならないほど安堵の気配が匂う。
「かみ、よごれてるよ」涼やかに空気を揺らす声が知らせる。私は慌てて前髪に手をやる。少年の視線がそこに向けられていると思ったからだ。
「ちがうよ!」少し力みのほどけたような声。声に笑いがにじむ。
「そっちのかみじゃないよ」
手元に目を落とす。
万年筆のインクが白い紙に黒く豆粒大に拡がっている。私は驚きと落胆がない交ぜになった声を上げた。成績欄、出欠欄は完成し残すのは日ごろの生活の様子や学習の成果と課題を記す所見欄だけになっていた。その所見欄も八割がた書けていた。
「あらら・・・・・・」少年はおもむろに心配げな表情を浮かべる。私の左後ろに立って肩越しにインクの滲みを見下ろしている。
「あなたのせいよ!」苛立って感情そのままに責め立てた。
「ここまでくるのに、どれだけかかっていると思っているの! 差し替えることも、消すこともできないじゃない! 通知表には修正液は使えないの!」
ひとしきり私は少年をなじった。
「ごめんなさい」そう言った時には少年は1メートルほど遠ざかっていた。
「わたしはね、この仕事が一番嫌いなの。これ以上手間をかけさせないで」
「他の先生もそう言ってるよ」
「どうして、それがあななに分かるの?」
「だって、そう言ってるから。そう思っていないのは変わり者の数人の先生だけだよ」
「へぇ・・・・・・って言うか、あなただれ?」
「えっと、さかまきじゅんいち。坂道の坂に、巻き物の巻に、順番の順に、一番の一」
「って言う名前のおばけ?」そう言いながら、私は震えが止まらなかった。職員室では時折、この学校の心霊現象について語られていて、いくつかの話は知っていた。夕方の暮れ時であったり、深夜間近の時間であったりした。時期としては、今のように夏休み前や学年末、卒業式前など節目に集中しているようだった。しかしそういう類の話にはまったく興味がなく信じる気にもならなかった。忙しさやストレスで精神が不安定になっている教員の幻聴の一種に決まっていると。
「おばけって言われると、ちがうとは言えないけど、いい気持ちはしないよ」
「じゃあ、ユウレイ?」他にどんな言い方があるのか、あるなら教えて欲しい。明らかに人とは違う何らかの存在が自分と話している。出る出るとは聞いていたが、これがそれなのか。
「ザシキワラシって聞いたことある?」
「あるけど、妖怪でしょ」
「あんまり、嬉しい呼び名じゃないけど」古い日本家屋に棲み付いていてこけし人形のように前髪のそろったおかっぱ頭の少女が浮かんだ。
「そういう子ばっかりじゃないんだ」順一という少年は私の言葉として発していない思考を掬い取っているようだと分かった。
「ザシキワラシって、陰気臭くて悪戯する子どもの妖怪でしょ?」
「だからそういう子ばかりじゃないし」
そう言って私はいつもの癖が出たと少し反省した。でも通知表を一枚ボツにした責任は重い。精神のバランスを崩した自分が見せた幻覚だろうが、正真正銘の心霊現象に遭ってしまったのかどちらでもいいと思った。この子と話していると、どちらにしても大差ない、そんな気がしてきた。いつの間にか体の震えは止んでいた。普段見ている子ども達と、同年代の子ども。
「あなたは妖怪? お化け? それとも幽霊? どれも違う気がする」目一杯の笑みをたたえて、私は少年に訊いてみた。いったいこの子は、何者? どう考えればいいのだろう? 聡明この子はいったいなんて答えるのだろう? この時、私にこれまで経験してこなかった好奇心とともに不思議な力が湧いてきたのを感じた。
「何だろうね? ぼくは人だと思ってるけど・・・・・・」人?意表を突かれた言葉に霞はしばし沈黙する。
「人?」やはり私は、その言葉しか吐き出せなかった自分に落胆する。こちらを見る少年の目線に自分の中身を抜き取られてしまう様な感覚に襲われる。ここにいちゃいけない。物音一つ立てないで教室に入ってきた男子児童が自分のことを「人」と言っている。滑稽すぎて笑えない。
「日直です。戸締りお願いします!」
その時、教室の後ろの扉がガラガラと音を出して開けられて私を呼ぶ声がした。六年担任の五島麻衣子だ。
「どうしたの? 小野原さん。具合でも悪いんですか?」
「・・・・・・」
「大丈夫?」
五島が教室の中に一歩二歩と歩みをすす。しかし五島は、それ以上こちらに近づこうとはしない。
「所見終らなくって」平静を装って沈黙を埋めるように言うが、声がかすれる。
「え、もう所見書いてるんですか? わたしなんかまだ所見に手をつけられてないんですよ。お邪魔しちゃってすみません。集中しないと書けないですもんね」
五島はそそくさと教室を後にした。
五島の自分に対する態度から察して、自分は呆然としていたのだろうか、それとも悄然としていたのだろうか。いつもなら五島と数分の間雑談を交わしてもおかしくない状況だった。数分が数十分に延びて、互いの愚痴を聞き合うこともしょっちゅうだ。少し不思議だった。あの少年と話している自分は恐れや怯えなどとは無縁でいられたと感じているからだ。むしろ素の自分に近い状態だった。順一と名乗る少年が立っていた黒板前は、それまで以上に誰もいない空白の空間として私は意識されている。
つづく