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わたしが、母


 順一くん、今もどこかにあなたは存在しているのよね?

わたしは静かに、けれど確かにそう思いを放ったが、それに応える声は聞こえて来なかった。


「お母さんは、きっとお兄ちゃんに死なれちゃったことが許せなかったのよ。代わりに生きていたのがわたしだったことも含めて。きっと目の前にある現実全てを憎んでいたんだわ」


―霞さんが生きていたことが許せなかったの?


「それは大きな現実の一部でしかないの。それも含めて全部。私たち二人が生きていたとき、多分あったはずの母との良い記憶がないの」


―そうなんだね。


「うん。わたしも子どもの頃はね、それでも何だかんだで、ごまかしごまかしやっていってた。子供って不思議ね。何だかんだで、やり切れちゃうのね。でも思春期を過ぎて、大学に通うようになった頃から、本当に辛くなってきたの。そして、大人になると昔は無視してこられたことが、無視できなくなってくるのよ。母との関係とか、兄と自分の比較とかそれらを引きずってごまかして生きてきたこれまでの半生とか・・・・・・負いきれない荷物みたいに圧し掛かってくるようになったの。誰に相談しても解決しないしね。時折もう何をするのも億劫というか・・・・・・」


そう言うとわたしは焦点の定まらない視線を教室の後ろの小さな黒板に向ける。すると、気がついた。緑色だったはずの黒板が黒く見えるのだ。黒板の両脇には子供達が図工で描いた木の水彩画34枚が飾られている。それらも白黒の写真のように色を抜かれてしまったかのように黙って並んでいる。


「えっ」そう叫んで目を閉じた。


―きっと、今霞さんが見ている風景は、お母さんが見ていたものと同じものだよ。お母さんは、色のない世界を見ていたってこと?!


 わたしはもう一度目を開けた。


 わたしは、冷たい布団の中にいた。背中が薄い敷布団を通して冷たい畳を感じる。天井には確かに見覚えがある。円形の裸の蛍光灯が二重にあって、わたしを無言で見下ろしている。そんなわたしを重くて固い掛け布団が辛うじて守ってくれている。頼りなさと寒さにわたしは横を向いて背中を丸め、海老のような体勢になった。

「消えてなくなりたい」わたしは胸の内に確かめられる思いをただ握り締める。


 懐かしい匂い。

 深く吸い込む。

 母の匂いだ。

 ゆっくり息を吐いた。


それを合図にしたかのように、玄関の鍵が外から開けられる音が聞こえた。その音に耳をてる。ドアが重そうに空けられる。


微かな足音。

靴を脱いだのも分かる。

「だれ?」わたしは身さらに体を縮めて目を固く閉じる。


―目を開けてみて。

少年の声がしても、わたしは目を開けることができない。


―ほら


少年の手がわたしの手を包むように握った。温かい。

 瞼を開ける。

 いつの間にか少年はわたしの横にいて、わたしは色を取り戻した教室にいる。身体のいたるところがひんやりしている。握っていた拳を開いて、左右の掌を見つめる。


「今のは?」


―霞さんのお母さん


「どういうこと?」


―ぼくも分からない。


昔、母と二人で住んでいたアパートの中がありありと瞼に浮ぶ。わたしの細胞一つ一つが、その頃の時間と空間を記憶していて、何かに抗おうとする私の意識とは裏腹に、さっき経てきた時間が母のものだったと主張している。


―でも、ほんの束の間、あなたはあなたのお母さんになったんじゃいかな。


「そんなこと!」


わたし自身も少年の言葉を否定することはできないことを知っている。あの匂い、自分の母親の匂いを忘れる娘がいるだろうか。

 わたしはあの人の娘なのだ。


                つづく


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