1.脱走
純白の廃屋群と、その合間から青々と茂らせた葉を伸ばす樹木の、白と緑の2色で構成された廃墟地帯。そこを抜けた先のなだらかに傾斜した野原には、無言で歩を進める1人の少年の姿があった。彼の視線の先に生物の気配はない。だが、足を止めた少年は、そんな絵画のように静止した風景を食い入るように眺める。目を細めて息すら忘れてしまったかのように、目の前の光景を左端から徐々に右へ、ゆっくりとねめつけるように観察する。
その目線が右端に辿り着く前に、彼のすぐ後ろから徐々に緩まっていく靴音が聞こえてきた。
「どう、“成人”はいそう?」
足音が止むと同時に掛けられた声に、少年が視線を返して反応する。そこに立っていたのは、少年と同じ色の黒髪をうなじの近くで2つに括っている少女。身を包んでいるのは少年と揃いの砂色の戦闘服。幼さの抜けきった怜悧な顔立ちに浮かんでいる僅かな緊張の色も少年のそれと一緒だったが、吊り上がった口元から零れる楽しげな笑みだけが、この場にそぐわない違和感を醸し出していた。
「大丈夫。起きている奴はどこにもいない」
少年は場違いな少女の口元を一瞬怪訝そうに見つめたが、それについて何か言うことはなく、ただ求められていた返答だけを返す。しかし、少女は少年の目線に気付いたようだった。
「なに、ハガネ。もっと気を張り詰めろとでも言いたげな顔ね?」
顔つきを見れば2人が血縁関係にないと一目で分かるのだが、少女はまるで弟の間違いを指摘する姉のような口調で、彼の名前を口にした。
「別にそんなこと言うつもりはないけど、浮かれているのは事実だろ。ただ俺は、アヅキが何でそんな気持ちになっているのかが分からないだけだ」
ハガネ、と呼ばれた少年はそう言って、ふうっと諦めたような溜息を零した。
実際、彼にはアヅキが浮足立つ理由は推測できていた。それは考えるまでもないような、人間としては当たり前の感情だ。しかし、普段の彼女は緊張を保つべき場面で自身の情動を露出させることはなかった。だから、いつもと違う彼女が少し怖くもあった。
こんな状況で浮足立っているから心配で怖いという訳ではない。ただ、何となく、その笑みが理性崩壊の端緒であるような気がした。本来ならば既に無くなっているはずの、彼女の行く末に対する漠然とした不安がハガネの脳裏を過る。
ここは都市の外。人間の支配が及ばない成人たちの領域。しかも、眼前に広がる小高い丘を越えてしまえば、その先は警戒区域外。つまりは人類の未到領域だ。そこまで行けばもう追手の心配などないし、アヅキの規約寿命を気にする必要もないのだが、同時に気を張り詰め続けなければ生きていけない過酷な環境であることもほぼ確実だ。
だから、事を為すより早くアヅキが理性を失ってしまったその時は、ハガネが責任を以って彼女の眉間に穴を開けてやらねばならない。それは両者の誓いに則った、至極単純な悪い方の結末だった。
「なに神妙な顔しているの? 私はまだ生きているわ。しかも家族と一緒にいられるとなれば、人間だったら誰だって笑うわよ」
そう。本来、アヅキは既に死んでいなければならない人間だった。
その理由は1つだけ。
年齢――
正確に言えば、私はもう人間じゃないのかもしれないけど。アヅキは顔をしかめるハガネとは対照的に楽しげな様子で付け加える。
そんな彼女は19歳。厳密に言えば19年と6ヶ月と1日を生きた、人ならざる者。
人間とは、19歳6ヶ月以下の者を指し示す言葉なのだから。
◆◆◆
20歳を超えた人間は理性を失う。人によって発症時期に差はあれども、理性を保ったままそれ以後を生き続けられる者はこの世にいない。眩暈や頭痛、記憶障害などの自覚的な症状を引き起こす数十日ほどの潜伏期間を経て、最終的には意識が消失する。そうして人間としての死に至る。
しかし、それは生物的な死ではなく、自我を喪失しても身体は本能のままに動き続ける。生命活動を継続させる為に必要な事は何ら変わらず、それらが途絶えれば凡そは人間と同じように死ぬし、本能は死を回避しようと努める。
ただ、それらは何の人間的思考も介さずに、視界に入ったものによって補われるようになるだけだ。それこそ、相手が同じ人間だろうが躊躇などしない。
そんな成れ果てを人間と呼ぶことはできない。だから、“成人”と呼ぶ。
重厚な二重防壁に全周を囲まれた都市は、人類に残されたノアの箱舟だった。誰が何の為に造り出したのかすら最早定かではなく、抜錨されてから果てしない時間を経ているはずだが、その機能は今もなお辛うじて維持されている。
人類の生存領域は都市の中にしか存在しない。だから、人々は都市を守る為に自らに厳格な誓約を課した。
人間は生まれた瞬間から歳を正確に記録され、数ヶ月に及ぶ個人差による自我消失のタイムラグよりも長い半年間の余裕を持って、19年半が経てば例外なくその生を終えるように定められた。そうやって人類は、今までの長きに亘って成人の都市内侵入を許すことなく生き永らえてきたのだ。
アヅキが都市の規約寿命である19歳半を迎えたのは昨日のこと。だから、彼女は死ななければならなかった。都市の内にいるのならば。
◆◆◆
アヅキは両手を広げてくるくると舞い始めた。括られた黒髪が空に弧を描き、強靭性生地の長袖とパンツに空気が入り込んでパタパタと音を鳴らす。終いにはその音に合わせて下手な鼻歌まで歌い始めた。風の音しか聞こえなかった、静寂が支配していた風景の中に、成人を起こしかねない調子の狂った鼻歌が響き渡る。
真っ先にハガネが止めるべきだったのだろう。今のアヅキは余りにも考えなしで無防備だった。しかし、ハガネは何も言うことができなかった。
彼はここ数ヶ月のアヅキの表情を思い返していた。どんな状況でも即断し誰よりも頼もしく強気な表情を崩さない不敵さ。どんな時でも下らないことを言って場を和ませてくれた微笑み。規約寿命が近づいても何も変わらないと誰もが讃えるように言ったけれど、幼い頃からずっと一緒にいたハガネは知っていた。それは、作り物なのだと。
ハガネにはその心理を正しく読み取ることまではできなかったが、今年の予定表に自分の死を書き入れなければならない恐怖と圧迫感だけはおぼろげにだが理解していた。最後の1年、規約寿命を待たずに循環炉に入る決断をする人間は、彼の親しかった友人の中にもいたから。
アヅキの変調は理性崩壊の端緒などではなかったと、彼は遅まきながら悟る。その笑みはよく見れば、どこか儚げでもあり、今の彼女が眼前の死の恐怖からようやく解放されただけなのだと実感させた。
しばらくの間、ハガネはアヅキの即興歌に耳を傾けながら、周囲の警戒を一手に引き受けることにした。
アヅキの歌はそれほど長くは続かなかった。鼻歌は微風に乗ってほどけてゆき、2人の周囲には無音が戻ってきた。丘向こうの偵察だけにしては時間がかかり過ぎてしまった。そろそろ戻らないと皆に心配される頃合いだった。踵を返し歩き出したハガネの背を、アヅキの声が呼び止めた。
「ハガネ。私はお前と最期の時が過ごせて、心の底から嬉しいわ」
ハガネの足が止まる。振り返ろうか迷ったのか、少しだけ首が振れたが、彼は結局アヅキが追い着いてくるのをじっと待った。
「あぁ。俺も嬉しいよ」
だから、“最期”だなんて言うな。
末尾に付けたそうとした言葉を、彼はぐっと飲み込んだ。
それは、誰にも分からなかった。成人に成り果てたアヅキを殺さなければならなくなる時が来るかもしれないし、成人に襲われてハガネ自身が先に死んでしまうかもしれない。
それでも、今2人は確実に生きていて、未だ自我を持った人間だった。その事実を改めて噛み締めるように、ハガネはアヅキと肩を並べながら、ゆったりとした歩調で復路につく。