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【 レコード盤に針を落とす時】   作者: トントン03
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第10章  ―バスの窓から―

〖山下公園〗から〖港の見える丘公園〗へ、一度行ってみてはいかがでしょうか。

 ―バスの窓から―


 善幸は、彼女が着ているダウンジャケットを、それと無く眺めている。それは、お父さんが買ってくれたという真っ赤なダウンジャケットだった。

善幸は、この話はここで打ち切ろうと思った。今更、何言っても変わることなど何一つないのだ。寒さに耐えている彼女の姿が切なそうに思えた。

 凍てついた空気は、昼間の汚れを濾過し透明度を増していた。


「行こうよ、ここにいたって寒いだけだからさ」

 善幸は、ベンチから立ち上がった。

 しかし、未華子は立ち上がろうとはしなかった。

「立てよ、遅くなっちゃうだろ」と言うも、立ち上がろうとしない未華子。


「立てってばっ!」威圧的な言い方をしてしまった。

 これから、四川料理の店へ行かなければならないのだが、彼女はそれを気にかけていない様子だった。

 この場所からだと、ゆうに一時間はかかるだろう。遅くとも九時までには着きたい。そう思うと、じっとしてはいられなかった。


 それでも、彼女は一向に腰を上げようとしない。俯き、膝をつけた状態で、こぶしをすっぽりと袖口の奥へ引っ込めていた。


 彼女が、徐に顔を上げた。

「善くん……実はね、先週の木曜日に病院へ行って来たんだよ。いつも心臓を診てもらっている循環器の先生のところなんだけど……」

 

 突如、善幸の耳に例の〝固有の耳鳴り〟が激しく聞こえ出した。

「弁膜の調子が悪くなったのか? どうなの? 大丈夫なの?」

 善幸は、寒さに耐えながらここに居るのが心臓に悪いのではないかと改めて心配になった。


 未華子は、意外なことを口にした。

「子供が産めるってよ、善くん。先生がね、今の状態を十年ぐらいは維持できるだろうから、今から五年以内だったら心臓の手術をする前でも子供を産むことは可能だって言われた。だから、心臓の手術をする前でも後でも子供を産むことができるんだよ、あたし!」

 善幸は、不意に胸を突かれたようで言葉が出てこなかった。

「ねえ、聞いてる? 子供が産めるんだってっ」

 未華子の息遣いは荒かった。瞳が異様な輝きを放っている。


「急に何言いだすんだよ。だから何なんだよ、もう行くよ」

 善幸は、思いもよらない話にちょっと愕きはしたが、すぐに安堵した。彼女の身体に異変が起こったわけではなかったからだ。

「頼むからさ、立ち上がってくれよ」

「大切な話だとは思わないの?」

「何が?」善幸はキョトンとした顔で訊き返した。

「あたしのこと……善くんに全部話したんだよ」

「だから聞いたって」

「それだけ?」

「そうだよ」善幸は素っ気なく応えた。

 そう言われて、未華子は、不服と言うより不思議そうな顔をしている。


 善幸は、深刻な話であることを分かっていながら、なぜか、突き放すような返事ばかりをしてしまった。こうした態度に気落ちし、未華子は口を噤んでしまったのだ。

立ち上がる気配はまったく感じない。傍らで、彼女の前髪が地面に引っ張られていく姿を眺めながら、善幸は今日一日の出来事を振返えってみた――。


 散策してきた夕暮れ時の山下公園。だが、夕陽の居場所は分からなかった。

前方に見える氷川丸の船首に向かって二人は歩いて行った。歩きながらの未華子の突飛な打ち明け話。その話に釘付けになった。更に話を遡れば、東京駅の大丸で買った量産品のトートバッグに行き着くまでの経緯。その前に、駅の地下街で何を食べようかと店を探し回り、やっと決まって入った蕎麦屋。そこで、バニーガールのローズと〝マリモ〟を薬味にして啜ったへぎそば……。それから、今朝、商店街の店先で顔を合わせた四人の娘たち。〝揚げ立て〟惣菜屋の小菊に、〝焼き立て〟パン屋のフジヤマミカタ、その八軒先の花屋のクルミ姉さんだ。また、巷で評判のパンケーキを一緒に食べに行ったケーキ屋のさくら。彼女とは、黄金色に色づいた外苑のイチョウ並木を恋人気分でぶらついたりしたっけ……。これらの些細な出来事が面白いように繋がっていく。それに関わる人の誰もが心に留まる名前となってしまった。


 詰まる所、全てはこの丘へ未華子と二人で訪れるためのプロローグだったということなのか。どうであれ、善幸は、現在進行形のこのシーンをエンディングしなければならなかった。


 善幸は、止まっている時を破った。

「行くよ、じゃないと置いて行っちゃうぜ!」    

「一人で帰るからいい、ほっといてくれる」

 二人の関係は一気に冷え切ってしまった。だが、善幸はそれを無視する。この先の、共に生きて行く歳月を考えたのだ。長い道のりを先頭切って歩いて行かなければならないからだった。先ずは、見習いを一年間で終わらせ、一端とはいかずとも、料理人と認められるようにならなければならない。


 善幸は上から目線で言葉を重ねていく。

「動きたくないなら、俺が負んぶしてやるぞ?」

未華子は、意地悪そうな目つきを善幸に向けた。それは、はじめて見る目色だった。

「へえー、どこまで負んぶしてくれるのお?」

「どこまでって、どこまで負んぶしたらいい?」

 善幸は、公園入口にある交番までの百メートルを想定している。そこでタクシーを拾って関内の駅まで行こうと考えた。

「あたしの体が温まるまで」

 未華子は、なんとも小戯れたことを言ってきた。

「よっしゃ、わかった。なにしろ、おまえを負んぶするから。それでいんだな?」

 善幸は、今いる見晴らし台から階段を二段下りて、負んぶする体勢をとった。

 

 未華子の腕が首に巻き付けられた。善幸は両足を抱え、立ち上がると、身体の重さがじわっと分散されていった。

「ぴったりだな」と言うと、彼女が「ぴったり?」と訊き返してきた。その後、善幸の首筋に少し突き出た顎をのっけてきた。なにやらその意味を考えているかのようだった。


 善幸は【港の見える丘公園前】の交差点で足を止めた。勿論、〝荷物〟は背負ったままだ。


「タクシー、来るかなあ」善幸が呟いた。

 首に纏わりついている彼女の髪が暖かい。善幸は、走って来る車がタクシーかどうかを見極めていた。

 すると、

「歩いて行かないの?」耳元で未華子が呟いた。

「はあ? 俺が倒れたら、おまえ、困るだろ?」


 気分がいい所為か、背負ってる重さは感じなかった。無理を承知で、関内駅まで負ぶって行くのもいいかも知れない。何かを最後までやり遂げたんだ、そんな実感が味わえそうだからだ。


 やはり、交差点の角にある交番にはお巡りさんの姿はなかった。やる気の無い交番らしいが、前を行き交う人たちに安心感は与えていそうだった。


 役立たずの信号が急がずに赤になった。

「そうだね、善くんが倒れたら、あたし困るかも……」

 これが、善幸が一番お気に入りの彼女の一面だった。

「ということは、俺、日頃から体力をつけておかないといけない、ということになるな」

「精神力もだよっ!」

 善幸の首筋に湿った息が掛かった。

「精神力?」善幸は訊き返した。

「精神力の土台ってさ、忍耐力で造られてるもんじゃない?」

「精神論に突入する気か? 随分と幅が広いね」

「どうかな……」

「忍耐力。一番俺の苦手とする分野だな。うん? ちょっと待てよ、それって親方が言ってたんとちゃうか? おまえがそんなこと考えるわけねーもんな」

「そうだっけ?」

「ま、いっか。しかし、忍耐力かあ、結構時間が掛かりそうだな……。一年、場合によっては……」


 正面を向き、目を凝らすと、バスと覚しきライトが明るさを増しながら近づいて来た。善幸は、交番の先にバス停があることに気がついた。

 いつ来るか当てにならないタクシーを待つより、このバスに乗ろうと思った。間に合うだろうか……。


 左右を確認し、信号を無視して道路を渡った。バス停には誰もいない。バスの運転手は愕いたかもしれない。具合が悪いのか、怪我でもしたのか、ぐったりしている女の子を負んぶし、全速力で走って来る若い男に気づいただろうから。


 バスの後ろのドアが開いている。運転手は待ってくれていた。


 善幸は彼女をおろし、先に乗り込んだ。そして、運転手に「すみませーん」と一言掛けると、

「お客さん、大丈夫ですか?」運転手がマイクを使い訊いてきた。

 三人しかいない乗客がこっちを見ている。善幸は運転手に頭を下げて、心配ないことを伝えた。

 二人は一番後ろの席に座った。バスは座るのと同時に走り出した。なぜか、彼女も息を切らせていた。


「善くん、このバスはどこ行きなの?」

「知らない。でも、どっかの駅には寄るんじゃないか。寒いのに、いつ来るか分からないタクシーを待つこともないだろ?」

 未華子は肩をすくめた。バスの中は、ほっとさせる暖かさがあった。


 二人が歩いて登って来た坂をバスが下って行く――。どうやら関内駅の方向へ走っているのは間違いなさそうだった。


 暫くして、ライトアップされたマリンタワーの上部が見えてきた。窓から、彼女はそれを見上げた。


「ここに来てよかったあ、愉しかったよ。また来ようね、善くん……」

「次回来たときは、マリンタワーに上るぞ。今度はそこからの夜景を眺めようぜ。氷川丸の船内も見学しよう。俺が案内役を務めるからさ」

「今日、どっちも見なくてよかったよ」

「どうして?」善幸が訊いた。

「だってさ、見れなかったことが次回に繋がっていく訳でしょ? あたし……残してきたものって、何でも気になって仕方がないの。あっ、見て、この建物。オシャレだと思わない?」


 信号でバスが止まった。

 善幸は、彼女が指を差した建物へ目を向けた。二階の窓からシャンデリアが見えている。


 未華子が、

「二階はレストランかなぁ……」

「多分そうじゃね」

「窓ガラスがステンドグラスのもあるよ。あそこから見るとさ、山下公園の全景が見えて、その向こうに横浜港が見えるんだろうな。善くん、次回来るときはあそこでお食事しない?」


 バスの窓から覗ける範囲は限られていた。彼女の目には、湾に掛かる予定の橋桁も見えているのかもしれない。


「分かったよ、必ず食べに行こう」

「約束は守ってよね」

「俺って、信用されてないみたい」

 彼女は微妙な笑みを投げかけた。

「でもさ、あの店ってイタリアンっぽくない?」

 未華子は、白っぽい建物と手入れされた周りの植栽、それに窓の上部の赤いテントを見てそう思ったのだろう。


 善幸は、視線を右に移した。

 ネオンで飾られている氷川丸は、街路樹で邪魔されていた。園内の有り様は暗くて分からなかった。それでもその暗闇の一点を注視してみる……。目が暗さに段々慣れてくると、腕を大きく振って走っている人影が目に入ってきた。

 その人は、もしかして、湾沿いに歩いてきた時に、俺たちを追い越して行った年齢不詳のランナーではないのか? そんなはずはないと思いながらも、邪魔な街路樹を退かそうと体を前後に動かしてみる。


 しかし、バスは否応なく走り出した。見ようと思っても見えない園内暗闇の動画――。それが突如消えて行った。


 いつか、未華子と一緒にこの園内を走ろう。善幸は、自分を追い越して行く彼女の後ろ姿を見たいと思ったのだ。



「善くん、何を睨みつけてるの? 怖いよ……」

「いつもの顔だよ、ほらっ」

 善幸は、彼女の方を向くと、こさえていた眉間の皺を手で直し、その手で彼女の手を握った。

 進行方向へ向けた善幸の顔を、彼女が覗き込んでいる。


「男前じゃないけど、段々よく見えてきたよ」

 未華子は笑顔をこさえた。


「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃん」善幸は、何食わぬ顔でそう言った。



 二人の身体を左右に揺らしながらバスが走っている。車内から見渡す街は、立ち並ぶ建物の隙間から漏れ出す訛りに満ちていた。                           

                                 (了)


最終回となります。これまで読んでいただいた皆様に感謝申し上げます。

最後に、数人の方だとは思いますが、何か一言コメントを残していただけたら嬉しく思います。

別に褒めていただこうとは思っておりませんので、何か気付いたこと、こうした方が良かったのに等、気軽に感想をいただけたら幸甚です。

また、ちょっこり顔を出すかもしれません。その時まで、お元気で。さようなら……  

                                       トントン03


テーマソング: ♫ Feelings ~ フィーリング ~ ハイ・ファイ・セット

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