―義父と赤いジャケット―
―義父と赤いジャケット―
「あたしね、気付かれないように、距離をとって追ったの。帽子も被ってね」
「釣りって何処に行くんだよ? あそこからじゃ、海は無理だろ?」
「勿論、海じゃないよ。着いた所の周辺は住宅地なんだけど、心を癒してくれるような憩いの場所だった。自転車で四十分ぐらい掛かったかな、結構遠かった。ついて行くのもしんどかったよ」
「川?」
「溜池だった。早朝でも、結構釣りしている人がいるんだね。子供連れのお父さんとか、お爺さんとか。その池、学校のグランドぐらいあったかな。自転車で行ける距離でこんな憩いの場所があったなんて愕きだよね。お父さんは何でこの溜池を知ってたのか、それも不思議だった」
「だからさ、その場所に住んでるってことだろ?」
未華子は、それには反応しなかった。
「お父さん、自転車から道具を下ろして、釣りの準備をはじめたの。それを見てたらさ、確信しちゃったよ、誰かを待ってるって。だって、折りたたみの椅子に座り込んだまま釣り竿も持たずに、ぼうっと池を眺めているんだから。釣りなんかどうでもいいって感じだった。あたし、お父さんに声を掛けられなかったの……」
善幸もその立場だったら、声を掛けることはできなかっただろう。その日に来なくても、次回現れる可能性は十分考えられる。偶々相手の旦那の都合で来れないかもしれないのだ。不倫相手の可能性が高まてきた。
「釣りってさ、いきなり一人でやり始めるものじゃないよな。一度知り合いに連れて行ってもらって、面白くなってハマったとかさ。だから、おまえが疑いを抱くのも無理はないと思う。釣りたいものが違ったってか?」
「それで、もっと近寄って行って、木陰からお父さんの様子を暫く窺っていたの。そうしたらね、お父さんと同じ年代のおじさんが隣にやって来て『おはよう。どうだい、娘さんの方は?』って挨拶したんだよ」
「おまえのことを知っている人だった、そういうことなんだな?」
善幸は、そのおじさんを訝しんだと同時に、何か込み入った事情があるように思えた。
「後ろ姿だったから誰だかは分からなかった。でも、親しそうな間柄に見えたよ。その時、娘さんってあたしのことなの? って、確認する意味で二人の話に耳を傾けてた」
「不安だったろう……衝撃的なことを話す可能性大だもんな……」
「聞いている途中で、考えたくもないんだけど、お父さんに血の繋がった娘がいるんじゃないかって思えてきたんだよ。頭の中がぐちゃぐちゃになってきちゃってさ……」
「もしそうなら、話が複雑になるな。俺にはついていけないレベルの話だ」
善幸は、予想だにしない成り行きに戸惑いを隠せなかった。しかし、娘さんって多分……未華子じゃなかった。
「残念だけど、その日は分からなかった」
「なんだよ、その日は分からなかったって。あのな、俺は詰まらない推理小説を読んでるわけじゃないんだよっ、おまえさ、今となってはどんな間柄か判ってんじゃんよ、勿体振らずに早く話せ!」
善幸は降参したのだ。自力では手に負えない謎解きだった。
「あの時の成り行きを順序立てて一通り話したいと思ったんだよ、善くんに……。でも、善くんって、事あるごとにあたしを虐めるような言い方するよね」
「そう? そんなつもりはないけど。もしかしたら、俺の育った環境かもな」
「何事も無く無難に育てられて来たんじゃないの?」
「金持ちのペットみたいにか? ハッハー、その方がどんだけ幸せだったことか。俺、次男だろ、だから兄貴に金が回ってしまうんだ。兄貴は大学に行ったけど、経済的に二人とも大学に行くのは無理だったから俺は諦めた。と言うより、勉強しなかったからな。そもそも受験したって無理だったしさ。それとね、我が家には問題があって、オヤジが酒乱なんだ。仕事が上手く行ってなかった頃は最悪だったな。オヤジ、お袋にも手を挙げてさ。身体がデカくて腕っぷしが強いもんだから、中学生だった俺たちでも止められなかった。オヤジを押さえつけようとしては殴られて吹っ飛ばされる。一度、兄貴が頭に大怪我したんだ。オヤジに殴り飛ばされた時、サイドボードの角へ頭をぶつけてさ、救急車で運ばれたんぜ。警察まで来たよ。親戚に警察官がいて、身内のことだからって適当に誤魔化してくれたみたいだけど。そんなことがあっても、オヤジは変わらなかった。酔っぱらって散々暴れた後は死んだように寝てしまうんだ」
「そんなことがあったんだ……」
「それでさ、朝起きてきて、オヤジが辺りを見渡しながら『どうしたんだ! 泥棒にでも入られたのかっ』って。二日酔いで頭が痛いくせに、また怒鳴りはじめた。最悪だったよ、あの頃は……。そんなことが週に一、二回はあったかな」
「……………」
「俺たち、もう我慢ができなかった。それに、我慢する必要のない身体になってきてたからね。兄貴は高校に入ると迷わず柔道部に入った。そこで鍛えられたのか、自ら鍛えたのかは知らないけど、兄貴の腕が見る間に太くなっていってさ。今の俺たちだったら、絶対に勝てる! オヤジをやっちゃおう! ってね。まさに命がけだったよ」
未華子は目を丸くした。
「えっ、やっちゃうって、何をしたの?」
「玄関で待ち伏せしている兄貴が、酔っ払って帰ってきたオヤジを羽交い締めにすると、俺が紐で足を縛り上げる。不意打ち作戦さ、暴れる前にやっつけないとね。本人も何されてるか分からなかったんじゃないか。調子抜けするほど簡単だったな。もっと早くやっちゃえばよかったなって、後で兄貴が言ってたっけ」
「お母さんは、それを見てたの?」
「お袋には内緒でやったんだけど、物音で居間から出て来ると愕いてたよ。あたりまえだよな。お袋はね、その様子を見て『やめないかっ!』とも言えず茫然としてた。兄貴がそんなお袋に『二、三時間縛ったままにしておけよ、解くなよ!』って勝ち誇ったように言い放ったんだ。その後、兄貴と俺は二階の自分の部屋に戻ったんだけど、俺、心配になって十分後に玄関のところへ行ってみたら、お袋が泣きながら紐を解いてたよ。その様子を、暫く階段の手摺から覗いてた。オヤジさ、小便を漏らしちゃったみたいで、お袋がズボンを脱がしてパンツを穿き替えさせてた。床がびちょびちょなのに意味ないよな。そのあとオヤジ、ゲェーゲェー吐きやがってさ。そしたら、すかさずお袋が親父の頭を持ち上げて膝枕よ。寝かせたままだと、ゲロが気管に入って咳き込むからな。以前、それで窒息状態になったことがあったんだ。だから手慣れたもんよ、お袋も……」
「話が凄すぎて、付いていけないよ……」
「ドラマの世界だよな。俺もそんな親父とお袋の姿、見てられなかった。オヤジ、居酒屋で飲んでて、ツマミにマグロの山かけでも食っちゃったんだろうなあ、そのゲロと小便のシミで、ピンクのサンゴが轉がっている砂浜に波が押し寄せたような図柄がお袋のかっぽう着に描かれちゃっててさ、それを見てたら沖縄に飛んでって泳ぎたくなったぜ、まったくよぉ~、まだ沖縄には行ったことないけど」
「でも、お母さん可哀想……。善くん、見てただけ? 助けてあげなかったの?」
「いつも酔っぱらって帰って来るオヤジの世話をしてたんだぞ、俺たち。この時だけやらないからって、責めるなよな」
未華子は考え込んでしまった。
「素面の時のオヤジの本心って『誰か、頼むから酒乱のこの俺をどうにかしてくれっ』だったんじゃないかって思うんだ。今、あの頃を思い返すと、そんな気がする……」
「お父さん、仕事で何かあったんじゃないの?」
「そんなこと知らねーよ。たとえどんな理由があろうとも、お袋や俺たちを五、六年も苦しめていいわけねーだろ、違うか?」
「それはそう思うけど……」
当たり前のことだが、その苦しみは未華子に理解できるはずもなかった。
「ただ、息子たちに縛られたことがよっぽどショックだったんだろうな。二日酔いで起きてきた後でも、親父、それだけは覚えてたみたいだから」
「やっぱり。いくらなんでも酷すぎるよ、親だよ!」
「おまえに何が分かるんだよ、当事者じゃあるまいし。以前さ、ニュースで奥さんが耐え切れずに酒乱の夫を刺し殺したって事件があったけど、あれ他人事じゃないと思ったな。どんなに我慢強い人でも限界ってあってさ。被害者が、突如加害者に豹変することがあるってことだよ。そのことを誰もが頭に入れておくべきだね。俺はそう思う」
「でもさ、夫婦や親子の間でもやっちゃいけない、許されないことってあるよ、善くん」
善幸には、彼女がオヤジを庇おうとしている理由が、まったく分からなかった。
「おまえの場合はさ、義理の親父じゃねーかよっ、だから分からないの。血の繋がりってもんはさ、父親なら実の息子に殺されたとしても〝まっいっか〟で済んじゃうもんなんだよ。要するに、本質的なことを言わせて頂ければだ、そこに法なんて入る余地はないのさ。特に親子関係の事件を他人事として裁かなきゃならない裁判官が気の毒に思えてくる。そもそも親子関係の問題って、法律なんてもんとは馴染まないんじゃないの? でも、そこを無法状態でいいと言ってる訳じゃない。一つだけ条件を付けるとすれば、経済的、肉体的どっちにしても強い立場にある者は、状況の如何を問わず弱い立場の者を苦しめちゃいけないってこと、そんな単純明快な事なんだと思うぞ。これは遵守しなきゃいけない絶対的なものなんだよ。俺は経験上そう思ったね」
彼女は言い返せないでいる。
善幸は「言うは易く行うは難し……」と敢えて一言添えた。
「確かに、あたしがとやかく言えることではないと思うけど……」
未華子にとっては、苦味の効いた一言だったようだ。
「その後のお父さんって、どうだった?」
未華子は、今現在の親父のことを知りたいらしい。
「それ以来、親父も力じゃ息子たちに勝ち目はないと思ったんだろうな。他にも思う事があったのかは知らないけど、次の日から人が変わったようになってさ、酒を一滴も飲まなくなったんだ。一番びっくりしたのはお袋だと思う。けど、もう遅かった。肝臓がイカれているのを知ってたくせに治療しなかったからさ。死んでもいいと思ってたんじゃないのかなぁ、オヤジ……。今は入退院の繰り返しの生活を送ってるよ。三年前に仕事を辞めて、兄貴とお袋が面倒を見てくれてる」
二人は溜息を吐いた。
「善くんちも大変そうね……」
「余計な話しちゃったな。もう、俺の話なんかどうでもいいって」そうは言ったが、善幸は話し切った感で気分は晴れやかだった。
「でも善くん、その結果と言っちゃなんだけど、こうして二人が出会えたんだよ。それで全てを帳消しにはできない?」
「余り有るよ。親方にも会えたし、おばちゃんたちにもね。俺、人生の大切な人たちをいっぺんに抱え込んじゃった感じがする」
「抱え込んだ? 随分と小生意気な言い方だね」
未華子には、時にお姉さんぶるところがあった。
「出会いってさ、人を変えるよな」
「人生も変わって行くかもしれないよ。それも、いい方向に……」 未華子はにこやかな顔になった。
「そうだといいけどなぁ……」
二人は、その願いを込めて、夜景のまだ掛からぬ橋に同じ笑みを放った。
「寒い?」
善幸が訊いた。
「寒くない……」
未華子が強がりを言った。彼女は、また掌を善幸の拳にのせてきた。
善幸は気になっていた。果たして〝マリモ〟がこの後登場するのかどうか、それともう一つ、倉庫の鍵の件……。
「俺んちの親子喧嘩の話で、話が途切れちゃったね」
「善くんのサスペンスドラマって、あたしの打ち明け話が途切れてしまうほど衝撃的だったからね」
「いやいや、おまえの実話には負けるんじゃないか。ところで、その話の結末だけどさ、釣りしてて、お父さんに声掛けてきたおじさんって誰だったの?」
ここまで引っ張ったのだから、もしかしたら、俺の話より衝撃的な話なのかもしれない。しかし、彼女は家を追い出される瀬戸際のところで助かったのだ。その後、お父さんとどのような形で、仲睦まじい関係に至ったのだろうか。過ぎ去った事とは言え、興味をかき立てられた。
「お父さんに後で聞いたらね、隣のおじさんだったの」
善幸の背筋がピーンと伸びた。
「? バカ野郎っ、早く言えや! まさか、〝マリモ〟も現れなかったってか?」
「女? その通りでーす」
「怪しいことは何一つなかったってこと?」
「そうだけど、不味かった?」
善幸は、自分の拳に重ねている彼女の手をパッと払い除けて立ち上がった。
「えっ、急にどうしたの、善くん?」
「この糞寒い中、しょうもねえ釣りの話で長々と引っ張りやがって、もう行くぞっ!」
「待って!」
「待てねーよっ、おまえの着てるダウンジャケットは温かいだろうけど、俺の着てる革ジャンは冷たい空気が胸元から袖口へと抜けていくから寒いんだよ、熱々の激辛ラーメンでもズルズルと啜りてーや。立てよおっ、四川料理を喰いに行くぞっ!」
善幸の鼻息が荒くなった。
「あのね、善くん、まだ話したいことがあるんだけど……」
「はあ? 大切な話なら最初にするものだろ!」
善幸のイライラが治まらない。
「あたし、善くんに、また虐められてるような気がしてきた……」
コノヤローッ、と思ったが、でもこれを言われると、熱を帯びた頭部が段々冷やされていった。意図的に、未華子の思う方向へ余儀なく転換させられていくような気がする。
彼女は大きな溜息を付くと下を向いた。
―つづく―




