―釣りに行く理由―
―釣りに行く理由―
お母さんの話をしてくれる気分になったのだろうか。善幸は、彼女との間に置いてしまった、さっきっから邪魔で仕方がない二つのバッグを退かした。
「なんか寒い……」彼女は身を屈めた。
「寒いなら、俺にくっつけよ」
カップルだとしたら不自然な隙間だった。そもそもカップルなら間にバッグなど挟まないだろう。それも二つもだ。
「あたし、寒くて動けない」
「仕方ねーな、俺の体温をあげよっか?」何とも、尻上がりの気の抜けたような声音だった。
善幸は腰を浮かし、彼女にピッタリとくっついた。冷えたベンチからお尻に寒さが伝わってくる。早くそれを温めようと足を小刻みに動かす。その振動と温もりが未華子の腰に伝搬したようだ。無意識に互いのデニムが擦れる感触を確かめている。この動き、両隣の〝静寂〟さんから、いやらしく体を押し付け合っていると思われても仕方がなかった。
未華子が目を潤ませて言った。
「善くんの手、冷たくない?」
彼女は、善幸の拳を見ている。と、袖口からニョキッと手を出し、太腿の上にのせている善幸の拳に被せてきた。
「冷たいのはおまえの手だよ、何でこんなに冷たいの?」
善幸は、湿気を含ませた大袈裟な息遣いでそう言って、両手で彼女の手を包んだ。
「これって、善くんの体温をあたしが奪ってるんだね」
彼女は、寒さで赤く染まった頬を善幸の肩にのっけてきた。
「どうぞぉ、好きなだけ奪ってくれよ……」
これで、こちらも仲睦まじい関係が出来上がった。彼女は、もう一方の掌を重ねてきた。
「お父さんの話、まだあるけど訊くぅ?」
(ここでお父さんの話ってか? おーい、ここは両隣りの〝静寂〟と合わせなきゃいけないところだろっ)善幸は話の腰を折ろうとする。
「とっと、それはね……」
しかし彼女は、
「お父さんと二人で釣りに行った時の話なんだけど?」
未華子はそんな思い出話をしようとしている。どんだけお父さんのことが好きなんだ? そんなに仲が良いのかと呆れてしまった。が、もしかして、二人の間に計り知れない何かがあったのだろうか。気落ちするような話じゃなければいいが……。
「おまえのは先が見通せない話ばかりだからさ。うーん……釣りが趣味だったの? 十代の女の子では珍しいよな。まあ、お父さんの影響なんだろうけど」
彼女は、善幸の肩から顔を起こした。
「不安げな顔してどうしたの?」
「してねーよっ」
義理の父親とそんなに一緒にいたかったって? 善幸には考えられないことだった。
「あのさー、それ、今聞かなきゃダメ? 他に話すことがあるんじゃない?」
それは母親の話だ。焦らさずにとっとと話してくれよ、と思ったが、未華子はそば屋で〝マリモ〟の話を最後まで聞いてくれたし、況してや、その中身は戯れ事のようなもの。それと比べれば、彼女のこれまでの話は、徒や疎かでは聞けない話ばかりだった。それにしても、思惑外れの義理の父親と釣りに行っていた話なんかはカットしてほしいところだ。いくら夜景を楽しめる場所とは言え、この寒さが眺める時間を短縮させようとしていた。
「ここら辺で、穏やかな話を挟んでおいた方がいいと思って……」
ゆっくりと詰め寄ってくるような彼女の言い方だった。しかし、たじろいでいる訳にもいかない。とりあえず、その話を聞くしかなさそうだ。
「そうだな、でもほのぼのとした話であることを祈るよ。心温まるようなさ」
二人の話す度に吐き出される息が、外灯に照らされながら上空に吸い上げられていく。善幸は、くっ付いているとはいえ、体全体が寒さで凝り固まっている彼女のことが気になって仕方がなかった。闘う必要のない寒さと、兎に角、早くおさらばしたかったのだ。
「善くん、寒いんじゃない? 大丈夫?」
未華子が、逆に訊いてきた。
「俺のことなんてどうでもいいんだよ。寒きゃ、温まるような話より、もっと温まる四川料理を食べに行こうぜ」
「くっ付いていると、善くんの体温を奪えるから大丈夫。この場所で、この話を完結しておきたいんだよ。じゃないと、話すタイミングを逃してしまいそうだから。あたしなら、寒くない。ダウンジャケット着てるし。これね、とても温かいの。お父さんに買ってもらったものなんだけど」
薄暗いこの場所でも、テカテカと光っている真っ赤なダウンジャケットだった。彼女のお父さんは、なんでこんな派手な色の服を買ってあげたのだろう。彼女が好みそうな色じゃないし、彼女だったら多分この色は選ばなかったはずだ。
「そのダウンジャケット、随分と派手だね」と本当に気に入っているのかどうかを確かめてみる。
「似合ってる?」
「高校の時の友だちとスキーに行ったことがあるんだ。俺、スキーはその時が初めてでさ、それで御茶ノ水のヴィクトリアにスキーウェアを買いに行ったんだよ。その時、選んだのが上下の黒のウェア。失敗だったね。初心者は黒を着ちゃいけないんだ、目立つからさ。知らないで買っちゃった。それと帽子がね、ピンクの毛糸のものを選んだんだ。なぜか自分でもわからないけど」
善幸は、途中で自分が何を話したかったのかが分からなくなった。
「ふーん、で、どうだって言うの?」
「えーとね……」
何とも答えようがない。それが彼女に伝わってしまったようだ。
「別にいいよ、善くんにどう思われても」
「だったら訊くな!」
未華子が剥れてしまい、あっちを向いている。何でこうなるのだろう……。「似合ってる?」って訊いているのだから、「似合ってるよ」と言って欲しかったんだろうし……。善幸は咄嗟にそう言ってあげられなかったことを悔いた。
左側のカップルが立ち上がった。疎ましい会話が聞こえてきたからだろう。彼らは、階段を下りて、車が一台も止まっていない広場の真ん中を突っ切って行こうとしている。
善幸は、彼らを冷ややかな目線で追っていた。二人とも重たそうなバッグを肩に掛け、学生気分の足跡を残して行く――。
視界から消えようとしている彼らの後ろ姿は、金も時間も潤っているかのように見えた。きっと、この丘で、自分たちの未来を自由自在に見通すことができるのだろう。それも実現可能な未来を。
右側のお隣さんは、知らぬ間にもう何処かへ行ってしまったようだ。
一気に静寂が増してきた。お蔭で、未華子の話を心置き無く聞けそうだ。
「ところで、俺、お父さんと釣りに行った話を聞きたいんだけど」
善幸は、詫びる気持ちも込めて言った。が、所詮退屈な話なんだろう。それでも構わないと思った。彼女は、その話がしたいと言っているのだから。
突然、未華子は両手を広げて、順番に指を折り曲げていく。何をしているのか、呼吸している数でもカウントしているのだろうか。
「急にどうしたの? 胸が痛むの?」
未華子は、ニコッとしてこっちを見た。
「うちのお父さんが帰ってくる日を数えてたの」
表情とその仕種から、ウキウキしている様子が窺えた。二十歳にもなって義理の父親の帰りが待ち遠しいだなんて、一体どういうことなんだ? やっぱり、この話って退屈な話なんかじゃない、そう思えてきた。
「そんなことはどうでもいいよ。早く話してくれる、釣りの話……」
「いいよ、話してあげる。そんなに聞きたいのなら」
「頼むわ!」
善幸は、やっと聞き役に回れた。
未華子は、子供がよくやるようにベンチに座った状態で足を浮かし前後に動かしはじめた。夜景を眺めているその横顔には、更に困らせてやろうという思惑があるようにもみえた。
「お母さんが居なくなってからの一年半は、たとえそれが月に一回だとしても、朝からお父さんと一緒に居るのって気まずくて息が詰まりそうだった……。出張からお父さんが帰ってくるのは、大概金曜日の夜遅くなの。現場に行くのは日曜日の午後だから、土曜日って、丸一日お父さんと一緒にいることが多かったんだよ……」
「そりゃそうだよな、義理の関係だもん」
それが、何でお父さんをウキウキしながら待つようになったのか、善幸はその経緯に興味を抱いた。
「向い合って朝ご飯を食べてる時なんか、喉に通らなかった。箸を止めたまま、今日一日どうしようかって考えてた……」
「義理のお父さんじゃなくても、父親と年頃の娘との二人だけの生活じゃ、朝飯どころか夕飯を一緒に食うことも無くなっていくんじゃないか? 話題も無いだろうしさ。逆にベタベタしてた方が気持ち悪いだろ」
未華子が頷いた。
「ある朝ね、お父さんが『未華子、お父さん、釣りに行ってくるから』って言うんだよ。釣りなんかやったことがないのにさ。いきなりだから愕いた。窓から覗いてたら、倉庫から釣り道具を出してきたの。そんなもの、倉庫に置いてあるはずがないのに、いつ釣り道具なんか買ったんだろうって思ったよ」
「それ、変だね」
善幸はピンと来た。しかし……。
「お母さんが乗ってた自転車の荷台にね、大きなクーラーボックスと折りたたみ椅子をゴム紐で括り付けてるんだよ。どれほど釣ってくる気なのって思った。食べられる魚ならまだいいけど」
善幸は、既に過去のことだからと思って言ってしまった。
「女でも出来たんじゃね?」
「善くん、言い方ストレートだね。でも、あたしも怪しんだよ、それ。でもね、たとえそうだとしても、あたしの立場じゃ……何も言えないよね。お父さんがあたしを家から追い出して、女と一緒に住んだとしてもさ。そうなったら、あたし、どうしたらいいんだろうって悩んだよ。新潟のお母さんの実家にも電話できないし……。だって、叔父夫婦と爺ちゃん婆ちゃんで暮らしているところに行きづらいじゃない。子供たちもいるしさ。あたしが行ったってお荷物になるだけ。あたしはどこへ行ってもお荷物なんだよ」
「それは、お前のせいじゃないっ」
「あの頃、相談できる人は誰もいなかった……」
まだ中二だというのに、追い出される可能性まで考え悩んでいたとは思わなかった。これは、血が繋がっていないという絆の弱さなのだろうか。
「で、その件、どうだったの?」
「詳しく訊きたい?」
「そこんとこ、重要なところじゃん! 今更聞いてもしょうがない話だけどさ。結果はどうであれ、今はお父さんと一緒に住んでいるわけだから。だからさ、俺安心して聞けるわ」と言いながらも興味津々だった。
「窓から見てたらね、お父さんが小さなバケツで何かを練ってるの。練り終わると、ハンドルにそれを引っ掛けて行っちゃった。その日、お父さんが帰って来たのは暗くなってからだった。何か釣れたって訊いたら『釣れたけど、放してきた……』って。せっせと道具を倉庫にしまっちゃったんだよ」
善幸は腕を組んだ。(魚を女と置き換えて考えてみると……)
「その時、お父さん、倉庫に鍵を掛けた?」
「いつも掛けてるよ」
この段階で、善幸はある筋書きを頭に思い描いてしまった。
―― 鍵の件は後回しにしよう。釣りなんかじゃない。女とどっかで逢っていた。遅かれ早かれ未華子を追い出し、お父さんは、女と一緒に今の家に住もうと考えていたのだ。だが、未華子を追い出すようなことは出来なかった。女とそのことで揉めたのだろう。その結果、お父さんは已む無く女と別れる決心をした。後になって、お父さんが自分のことを大切に考えてくれていたことに、彼女は気づいたのだ。だから、彼女はお父さんに感謝している、そう考えれば辻褄が合うではないか。それ以外考えようがない。でなければ、彼女は今の家にいるはずはないのだ。そう、親方のところで俺と出会うこともなかった。それにしてもだ……。
「それからというもの、月に一、二回家に帰ってくる度に『未華子、お父さん、釣りに行ってくるから』って釣りに出かけるの」
善幸は、出来る限り具体的に話してほしいと思った。そこで、依頼された探偵事務所の調査員になったつもりで質問していく――。
「これから、重要なことをお訊きしますので、事実関係を出来るだけ細かく話して下さい。最初に確認しておきますが、釣った魚は一度も持って帰らなかったということでいいですね?」
そしたら、美未華子が筋書きにのって来た。
「ええ、一度も魚を持ってこないのは可怪しいと思ってました。で、ある日、お父さんが釣りから帰ってきた時、直ぐに庭へ出ていったんです。そして、クーラーボックスの中を覗こうとしたんですが、お父さんは、『いいから、いいから』って言って、触らせようともしませんでした。道具を倉庫に閉まって、直ぐにドアに鍵を掛けてしまったんです」
未華子は、言われた通り事実関係を具に説明した。
「鍵を閉める……。倉庫って結構大きかったですよね?」
「はい。四畳半ぐらいの広さはあります」
「それはデカイですねー、主に何が入ってたんですか?」
「大したものは入っていなかったと思います。空覚えですが、ほとんど庭の手入れで使う道具で、例えば、大きな植木バサミ、チェーンソー、草を刈る鎌、それとノコギリとかロープです。あと、セメントや砂利に一輪車もあったと思いますけど」
「ふーん、そうですかあ……」調査員は考え込んだ。
その倉庫には、植木屋並みの十分過ぎる道具が入っていた。今でも鍵は掛かっているのだろうか。また、その女とは何時頃から付き合っていたのか。もしかしたら、母親が出ていった理由って、それなんじゃないか? 善幸は、自力でこの謎を解き明かそうとしている。次から次へと訊きたいことが頭の中に浮かんできた。
しかし、先に未華子が話し出した。
「あたしね、ある日、お父さんが釣りに行く後を追ってみようと思ったの。その夜、不安でなかなか眠れなかった。真夜中、目を開けると雨漏りの痕なんだろうけど、天井のシミが不気味でさ、じっと見ていたら段々心拍数が上がって来たのを覚えてる。落ち着こうと思うと、尚更ドキドキしてきちゃって……」
「それは心細かっただろうね、わかるよ。不安感って、夜になると如実に膨れたりするからね。寝むれたとしても、いい夢は絶対に見れないよな。朝起きると、夢は覚えていないのに、やり場のない鬱積した疲労感だけがどっと襲ってくるんだ。わかる、わかるよ……」
「眠ったかどうかさえわからなかった。夢と現の間で苦しんでいたんじゃなかったかな……。それと、早朝、お父さんが音を立てずに出て行くから、それに合わせて起きなきゃいけないと思って、物音に敏感になってたんだと思う。でも、ガタッと何かを落としたような音で直ぐ起きたんだよ。お父さん、そおっと台所にいって、前の晩に作っておいたおにぎりとお茶が入っている水筒をリュックに詰めて……。玄関の扉が閉まると、あたし、お父さんの後を自転車で追って行ったの」
「女かもしれないんだろ? おにぎりを用意する必要はなかったんじゃないか?」
「本当に釣りだったらどうするの? もしそうだったら、釣りしている後ろから『お父さん、あたしにもおにぎり頂戴?』って声掛けられるでしょ?」
未華子は、お父さんが自分を捨ててしまうような人じゃない、心の片隅ではそう信じていたのだろう。少なくとも、その望みは僅かでも持っていたようだった。
―つづく―




