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【 レコード盤に針を落とす時】   作者: トントン03
24/33

       ―フロアレディーのローズは何者? ―

 ―フロアレディーのローズは何者? ―


 この辺りには、婦人服や雑貨を扱っている店がほとんどで飲食店が見当たらなかった。二人は突き当りまで来ると、もう一本向こう側の通りから戻る恰好で店を探すことにした。

未華子は、善幸を当てにせず一歩先を歩きはじめた。 


「問題のマリモの大きさなんだけどさ、五本の指で包み込める大きさじゃなきゃね。女の子に気づかれないように、そおっとそれを掴んだらヒュッと引っ張る、女の子がお尻に違和感を覚えるよね、振り向く前に、すかさずそれを離すんだ、パチーンッと。それからのお店側から強制的に指示されたわけじゃないキャーッ。このナチュラルな成り行き、これなんだよねえ~、わかる?」

「ダラダラと長話してるけどさ、この話って、男同士で話しているのなら盛り上がるのかもしれないけど、女の子相手に話す内容じゃないと思うよ、善くん」

「ごもっともなご意見ありがとうございます。でも、これで終わりじゃないんだ」

「ええっ? この話の続きがまだあるの?」

「あった棒よ、最後まで話を聞かなきゃ本質が理解できないだろ? 詰まらない、くだらない話だった、で終わらせたくないんだ。だから、わからないことがあったら話の途中でもいいからさ、俺に質問してくれよ」

 呆れているのだろう。未華子の返事はなかった。

 これ以上、この話をするのはやめておこうかとも思ったけれど、その店での印象深い出会いを、彼女はどう反応するのかを知りたかったのだ。相手に対し、興味の無い話をし続けるのは気が引けるけれど、彼女なら、このまま聞いてくれそうな気がした。

「それでね、聞いてる?」

 善幸としては、判断のしようが無かった。


「聞いてるよ、最後まで聞いてあげるから心配しないで」

 話が詰まらなくても付き合ってくれようとしている。この時、未華子に対しこれまでとは違った親しみを覚えた。


「ある日、蒸し暑い日だったな、でも店に入ると寒いくらいだった。

ボックス席で辺りのバニーガールの姿を見ながら待っていたら、俺んとこにちょっと太めの女の子がついたんだ。『はじめまして、ローズでーす』って挨拶してきてさ、『はじめてですか?』って訊くから、『先週の土曜日に来たよ』って言ったら、立ったまま背を向けてお尻を突き出したんだ。なぜだかわかる?」

「マリモを引っ張れってことでしょ? それよりローズって名前、陰気臭いというか重苦しいというか、笑えるね」

「確かに。俺もそんなイメージをもったよ。店内の暗さで、薔薇そのもののイメージがズシンッと重たく感じることに加えて、血が固まる直前の色を連想しちゃうからね。薔薇ってさ、昼見るのと夜見るのとでは印象が違い過ぎると思わない? それに、彼女が『タンポポでーす』なんて言ったらお客さんが怒っちゃうよ。だってさ、とっくに通過してしまった三十路を気にしないマダムって感じだったから。ローズで正解なんじゃないか? タンポポは二十歳前だろ。他の女の子は皆二十代だったな。歳喰ってんのは彼女一人だけだった」

「分かり易いけど、言い方に遠慮がないよね、善くんは……」

「おお、俺って正直だからな。またさぁ、頭に付けてるウサちゃんの耳が似合ってないのも気になった。自分でもわかっているみたいだけど。でも、恥ずかしい表情なんてこれっぽっちも見せてなかったんだ。堂々としてたね、彼女。その後ろ姿は、バンッと張り出している腰骨に両手を掛けて、左足に全体重をのせて右足は爪先立ててた。男に裏切られてきた疲れからなのかしらんけどさ、切なさを感じたなあ……。意外にも、お尻に食い込んでいる黒のハイレグ姿が決まってるんだよね。凄くカッコ良かった。その裏腹なところが、俺は何とも色っぽく感じたよ」

「それで、彼女、後ろ向いてお尻突き出してるんでしょ、引っ張ったの?」

「マリモかーい? そこなんだよ、ずっとその尻をみてたらさ、彼女は引っ張らないんだと思って座っちゃったんだ」

 もうマリモ遊びに飽きたの? と彼女が訊いてきた。

「どうかなあ……。飽きたというより、もっと興味をそそるものと出逢えた? そんな感じかな」

「はあ? それって何?」

 彼女がローズに興味を持ったみたいだ。しかし、それには答えず、善幸は話しを進めていく。

「で、俺ね、そのあと店に四、五回通ったんだ。毎回ローズを指名したんだよ。彼女ね、俺の隣に座ってるのが一番いいって。それに、『あんたって、良い人だ』って言われたんだ」

「それって、お客さん皆に言ってるんじゃないの?」

「そうかもな。でも、嬉しく感じたよ。ある日ね、彼女から言われたんだ『駅前のマイアミで待っててよ、店が終わったら行くからさ』って」

「ええっ、それで、善くん、待ってたの? マイアミってもしかして……」

 ホテルと間違えてるようだ。

「純喫茶だよ。でも、深夜二時まで待ってても彼女は来なかった。俺、お金使い果たしてたからタクシーじゃ帰れなくてさ、始発電車で帰ったんだ」

「すっぽかされたって事?」

「だろうな。数日後、店に行ってみたら彼女はいなかった……」

「なに、その女っ!」

 未華子は、踵をゴンッゴンッと床タイルにぶつけるようにして歩いている。

「俺の記憶に残っているのは、彼女と他愛もない話をしていると、いつの間にか時間が過ぎ去っていったってことかなあ……」

「それが彼女の仕事なんじゃない、違う? 頭叩いてあげようか?」

「俺ね、ローズは今でもどっかの店で、あの腰を振っていそうな気がするんだ」

 善幸の歩くスピードが遅くなった。


「もういいよ、善くん……。詰まらない話でもなかったし、くだらない話でもなかった、とは思うからさ」

 そう言った後、彼女は突然前の店に入っていった。


「あれ、そこは蕎麦屋だよ!」善幸が呼び止めた。


確か、未華子はパスタが食べたいって言ってたはずなのに、どうしたというのか。不可解に思いながら善幸も店内へ入っていく。



 サラリーマンのお昼時のピークは過ぎていた。店員は、客が来たことに気づかないようだ。

二人は、中ほどの四人掛けの席に座った。


「蕎麦でいいの?」

 善幸は、お品書きを手にしている彼女に尋ねた。

「お腹が空いてるからなんでもいいんだよ」ぶっきら棒な言い方だった。


 未華子は大した迷いもせず、蕎麦が一口分ずつ盛られた大きめの四角い笊と、天ぷらの盛合せがセットになっているものを選んだ。天ぷらかよ、と善幸は思ってしまった。店の賄いで、天ぷらととんかつを合わせれば、週に三回は出てくるからだ。

 しかし、善幸は何も言わず店員を呼んだ。


「へぎ蕎麦天セットに、カツ丼とカレー南蛮とぉ……」

「善くん、いいよ、三つで。それでお願いします」

 店員は注文を繰り返した。



「ホントにここでよかったの? イタリアンの店に行きたかったんじゃないの?」

「いいの、急にお蕎麦が食べたくなったの」

 未華子は、身体を小刻みに揺らしながら、店内を見回している。「でもさ、カレー南蛮は時間をずらして頼んでもよかったんじゃない?」と彼女が訊いてきた。

「どうして?」

「冷めちゃうじゃない。先に二つ頼んでおいて、ある程度食べてから注文した方が温かいのが食べられるでしょ? 冬なんだしさ、そのくらいのこと気づいてよ。料理人なんだから。それとも〝変な店〟の店長にでもなるつもり?」


 本来、それは店員が気を使い「どれか一つ後からお持ちしましょうか?」と客に尋ねるのが筋。しかし、そこまで気を遣って接客する店などなかなか無い。おまけに、女店員はアルバイトではないかと思えた。

注文した三つは、間違いなく同時に運んでくるだろう。だが、今回に限って言えば、善幸はそれでいいと思っている。彼女は味覚の活かし方を知らない、と思いながらもそのことには触れないでいた。


「ほんでさ、客が入って来て、最初にバニーガールがお尻を突き出すのは何でだかわかる?」

「善くん、しつこいよ!」

「じゃあ、やめようか?」

 話すことと言えば、善幸には、他に仕事のことぐらいしかなかったのだ。


「もしかして、またローズが出てくるんでしょ?」

「わからない。俺の話って、自分でも先が読めないんだ。でも、俺がこんなに話すことなんてなかったろ? 賄いを一緒に食べてる時でも」


 彼女は、隣の席で一人、鍋焼きうどんをふぅふぅしているが、一向に食べようとしないお爺さんを見ていた。


「それで? 注文した物が来るまでだったら聞いてあげるよ」

「それじゃ、急がないとな。店長はさ、女の子をお客さんにつかせる時『はじめまして、何々でーす』って挨拶させた後、次の試みとして、女の子に後ろを向かせ、マリモをお客さんに引っ張らせるようにしたんだ。つまり、お客さんに引っぱってもらっての〝パチンッ〟の後、女の子のお約束の〝キャーッ〟、ここまではいいよね?」

「そこまではわかったよ、何度も聞かされたから。でも、その〝キャーッ〟はお店側の指示で女の子が発するものだよね?」

「まあ、そうなんだけどさ、俺としては態とらしくて白けるけど」

「それはいいから。で、それが何なの?」

「この店に来るお客さんってさ、女の子と上手く話せない男がよく来るんだろうね。店長の思惑はね、ひと騒ぎした後だと、初対面の煩わしい関係を取っ払ってくれる、また緊張もほぐしてくれるだろうから、女の子との会話がスムースに入っていけるんじゃないかって考えたんだと思う」

「ふ~ん、でっ、善くんはどうだったの?」

「善くんって、俺のこと?」

「善くんって人がさ、その店に通ってたってことは、女の子と上手く話せない男だってことにならない?」

 彼女が痛いところを突いてきた。

「俺のことはどうでもいいんだよ。その薄汚れたバッグの中に押し込んでおいてくれ!」

 そう言って、善幸は話を続けようとしたら彼女の形相が変わった。今の一言で本気で怒らせてしまったようだ。


「このバッグにはそんなもの入れたくないっ!」未華子は隣の椅子に置いたバッグを膝の上にのせた。

「なにムキになってんだよ、穏やかに話そうぜ」

「そんなもの引っ張って、何が面白いの?」

「やっぱり、無理だったかあ……。おまえに話した俺が悪かった。悪いのはおまえじゃなくて、この俺だっ」

「女の子、嫌がらない? そんなことされて!」

「アルバイトなんだからさ、ほとんどの女の子は仕方ないと思ってやってたんじゃないか? それに、嫌かどうかじゃないんだよ。おまえが考えているほどフロアレディって楽じゃない。それと、女の子を操るスタッフたちもね。客を飽きさせないための企画力って、この業界ではとても大事なんだよ。俺のお陰でさ、店長がこの挨拶の仕方意外にも、もう一つアイデアを考えついたんだ」

「聞きたくはないけど、何……」

「俺がローズと話していると、ボーイが『ご来店、誠にありがとうございます! 皆様お待ちどう様でした。これから始まる【ぱっちんマリモショー】をぞうぞお楽しみ下さい!』そう声を張り上げると、四、五組が踊れるくらいのダンスホールの中央に店長と女の子が登場したんだ。広いホールに二人だけ。女の子は店長にお尻を向ける。店長は黒光りしている大理石の床に片膝をつき、左人差し指は天井をさした恰好で待機。その姿を見てたら、ジョン・トラボルタを思い出したな。思いっきり笑っちゃったよ」

「サタデーナイトフィーバーでしょ? 三年前だったよね、流行ったの。あたし見に行ったよ。衝撃受けた。ドラマチックな映画だったなー」

「話が繋がったね、よかった。そんでね、客席についている女の子も一斉に立ち上がり、お客さんにお尻を向けるんだ。これでスタンバイオッケー。流れてきた曲はニック・ニューサの『お祭り騒ぎ』なんだけど」

「ちょっと違くない?」彼女にはしっくりいかない曲のようだ

「ここは日本、それも飲み屋街のおやじ達が来る店なんだよ。トラボルタのように手と足をキメながらのステップじゃ、酔っぱらい同士ぶつかっちゃうだろ? お客さんの平均年齢を考えれば、ニックニューサの曲が丁度いいと店長は判断したんじゃないか。お前、この曲知ってたんだ? 歌詞の冒頭はさ〝そんな目をして わたしを見ないで~え〟サビがね、〝冷えたベッドは 猫でもぉ~ あっためてくれるわ~あ〟なんだけど?」

「勿論聞いたことあるよ。テンポの良い曲だよね」

 未華子は、曲付きの話にのってきたようだ。

「俺も好きな曲だよ。飲み屋街を一人で歩いてて、流れてきたりなんかしたら最高だと思うね」

「それは、男の人じゃないと分からない感性かも」

「いいから話について来いって。しっくりこない話を一方的に話し続けるのって心苦しいもんじゃん」

「でもね、善くん、聞き続けられるかどうかは相手によるんだよ」

「へえー、俺はぎりぎりセーフってこと?」

「この話ってさ、何かは分からないけど、善くんの心に留まるものがあるんだと思う。そこに、ちょっとだけ興味が湧いたの」

「心に留まるものねえ……。そうだな、それを見つけるためにも最後まで話さないとな、俺、頑張るよ!」


〝心に留まるもの〟もう既にしゃべってしまった。彼女は気づいていないようだ。


「でも、心に留まるものがわかった時点で話はやめていいからね、蕎麦が伸びちゃいそうだから」

 未華子は、厨房の方に目を向けた。


「でさ、『お祭り騒ぎ』が流れてくると、ミラーボールが二つしか回っていなかったのが、こんなにあったのかと思うくらいクルクル回り出して、客と女の子とボーイの一体感が生まれて店内もお祭り騒ぎになるんだ。〝挨拶〟を知らないお客さんは、突然のことでこの展開に驚くよね、オイラ、どうしたらいいんだ? なんてさ。だから、初めて店に来たお客さんのために、店長がホールの真ん中で〝挨拶〟の仕方を自ら手本となってやってんだよ。女の子のお尻についているマリモを曲に合わせて、せわしくパチーンッ、パチパチパッチーンッとね。でもね、あれじゃ六十代だと速くてついていけない、選曲をもう少し考えなきゃと思ったね。高齢者用のテンポの緩い曲をもう一つ用意しておいたほうがいいよ。例えば、古い曲だけど、湿っぽいスナックのママとお客さんがカラオケでよく歌う『新宿育ち』とかさ、焦らずゆっくりと『女なんてさ 女なんってさぁ 嫌いと 想ってみても~ チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャチャチャ、ひとりでぇ~』ここまでで止めとくわ、ここ蕎麦屋だからさ」

「それ知ってるよ、あたしが中学生の頃、お母さんが掃除機をかけながらよく歌ってた。『男なんてさ 男なんてさ 嫌いと言ってはみても~ 貴方の名刺を胸に抱くぅ~ チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャチャチャ、一目惚れさあす~ にくい人ぉ~ 恋に弱いのぉ 新宿育ち~』間違ってない?」

 未華子が小さな声で口ずさんだ。


「俺より歌いやがったな、『恋に弱いの~』ねえ……。これデュエット曲だろ。おまえが語り掛けるように歌った後に、相手が歌うとさ、調子狂っちゃって喉にきなこ餅が引っ掛かった状態になるんじゃないか?」

「フロアレディ十年勤め上げて、やっと歌いこなせる曲ってこと?」

 急に未華子の表情が暗くなってしまった。彼女は、先ほどから鍋焼きうどんをふぅふぅしながら食べている隣のお爺さんに、また目を向ける。小鉢に移して食べればいいのに……そう言いたげな顔をしていた。


「ふつう子供がいるところで歌う曲じゃないよな、おまえのお母さん、もしかして、水商売やってなかった?」

 返事がなかった。

「うんっ? もしかして、お母さん、スナックで働いてて客とデュエットしてたら、そのまんま歌詞に入り込んじゃって、その夜に……。ほんでもって、おまえがぽろっとこの世に〝こんにちは〟ってか? そんなパターンじゃあるねーな……」

 未華子は、一点を見つめている。


「ええっ、おい! なんか言えよっ」

「…………」 

「当っちゃったの? まさかとは思ったけど……。下手に冗談言えねーな、お前の前では……。で、お母さんの名前って、まさかのまさかだけど、『サチコ』じゃねーよな?」

「…………」

「おおーっ、テナーサックスの音色が聞こえてきそうだよ、ヤッタアーッ」


 話を聞いていない振りをしているだけなのか、それとも彼女は、『サチコ』という曲を知らないのだろうか。反応はなかった。

母親ってどういう人なのだろう。思い浮かんだイメージがローズと重なった。


「……まだかなあ」未華子は、また厨房の方に顔を向けた。

「厚めのサツマイモと南瓜の天ぷらでも揚げてるんじゃない。でもさあ……」


 これ以上、母親のことをいじるのはやめようと思った。だが、未華子は気にしている素振りはなかった。母親が中二の時に居なくなった理由って一体何だったんだろうか。



「善くんの話を聞いてたら『新宿育ち』を聞いてみたくなったよ……」

 ベースとドラムの競り合いが店外から聞こえてきそうだった。

「今度、カラオケで歌ってあげるよ。なんだったら、その後にニックニューサの『サチコ』もどう?」

「『サチコ』? それはいいよ……」未華子が苦笑いをした。


 やっと店員が〝善〟を運んできた。

「お待ちどう様でした。へぎ蕎麦天セットですねえ。直ぐに他のものも持ってきますから」

 未華子は、前に置かれた〝善〟を見ている。緑色がかった喉越しの良さそうな蕎麦だ。だいぶ待ったが、納得のいく〝善〟だった。


「天ぷらが揚げ立てだね、熱が伝わってくるよ」と未華子。

「俺さ、親方のところに来てから思ったんだけど、揚げ立てじゃないと天ぷらって言わないんじゃないかと思うんだ。冷めた天ぷらとは別物なんだよ。夏場に解けてしまったアイスクリームをスプーンで掬って食べるようなもんさ」

 腕を組んだ善幸をみて、彼女が微笑んでいる。


「これ、二人前はあるね。へぎ蕎麦ってね、越後名物なんだよ」

 未華子は、壁に貼ってあるへぎ蕎麦のポスターを見ている。そこにはへぎ蕎麦の簡単な由来が書かれてあった。


「へぎ蕎麦が食べたかったの?」

「別にそういう理由じゃないけど、へぎ蕎麦は好きだよ。新潟に住んでた頃、よく食べてた。懐かしくなったの……」

 へぎ蕎麦のポスターは三箇所に貼ってあった。善幸にとって、由来など自分の舌を唸らせない限り関心を抱かせるものではなかった。


「どうしたの? 早く食べないとのびちゃうよ」

 善幸が急かすと、彼女はやっとポスターから目を逸らした。そして、歪な形をしたそばつゆの徳利を摘んだ。

「善くんも食べてみて、のびる前に。緑っぽいのはね、〝ふのり〟が入っているからなの」

「ふのりかあ、ふのりねえ。俺、へぎ蕎麦食べるの初めてだからさ」

 善幸は、割り箸をパチッンと割った。空腹感が増してきた。

 未華子は、ワサビをつゆに溶かしたそば猪口を善幸に渡した。



 二人は、蕎麦屋を出た後、バッグを買おうと大丸の一階を歩いていた。ショーケースに飾られた商品を見ては素通りする未華子。と、彼女はある店の前で足を止めた。


「この店どうかなあ……」

 未華子は、棚に等間隔に配置されたバッグを丁寧に眺めている。ポーズをとらされているバッグが光に照らされていた。大切そうに管理されているのが窺える。


 彼女は店の中へ入っていった。

「値段がわからないよぉ……」と、彼女が低い声で言った。

 善幸もバッグを触らずに値札を探してみたが見当たらない。と言うことは、

「そんなに高いの?」

「どうだろうね……」

(すし屋なら時価ってやつか? 貧乏人お断りって店のようだな)こんな文句を言葉に出しては言えないムードが漂っている店内だった。恥をかかない金額を持ってきたはずなのに不安がよぎった。


 未華子の目に留まったものは、奥の棚に陳列してあるトートバックだった。

「見てるだけじゃ、店員も近寄ってこないのか。俺さ、今日給料袋ごと持ってきたんだ。この後行く『港の見える丘公園』ではお金は使わないだろうけど、次の四川料理の店では、親方は気にすることはないと言ってくれたけどさ、一応払うつもりで行かないとね。だから、七、八万円までのバッグだったら買えるけど?」

「そうねえ……」

「俺、ブランド物の値段なんて、どのくらいするのか知らないからさ、足りなければ来月の給料まで待てば買えるのかな、どう?」

 恐ろしやブランド品。気に入った物を買ってあげる、などと金持ちの素振りは容易くできないなと思った。


 十坪ほどの店内に二人の女性店員がいた。一人の店員は、二十歳前後の娘とその母親の接客をしている。もう一人は、コの字型のガラスケースの上でスカーフを見栄え良く折りたたんでいた。なぜか、そこの囲いから動こうとする気配が感じられない。未華子が抱えている紺色の薄汚れた帆布バックをチェックしての客対応なのだろうか。それとも、俺たちのイケてない姿恰好の所為なのか? どっちにせよ、善幸は無性に腹が立ってきた。


「あの店員、俺たちを見下してるんじゃね?」

 店員に、聞こえてしまったかもしれない。

 すかさず、

「善くん、行くよ……」


 未華子は、善幸の腕を引っ張って店を出た。値段だけでも訊いておこうぜ、と言ったが、彼女は何も言わず首を何度も横に振った。

     ―つづく―

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