―頼れるクルミ姉さんの悩みとは―
―頼れるクルミ姉さんの悩みとは―
「それじゃ、味わいながら食べなきゃね。親方が、弟子の店に行って味を確かめて来いって言ってるわけだ。凄いねえ、善くん。親方に期待されてるってことだよ」
クルミ姉さんは、今さっき、さくらと花言葉に興味津々で辞典をみながら話していたというのに、何事もなかったかのように話を紡いだ。
ところで、クルミ姉さんが、自転車のカゴに揚げ物の入ったレジ袋がなくなっていることに気がつかないはずはない。もしかして、彼女は自分が余計なことを言って、未華子が徒に勘ぐってしまわないよう配慮してくれているのだろうか。だとしたら、これって信じ難い大人対応といえる。
「そんなことないですよ。休みの日は時間を持て余していると思われたんじゃないかな。期待されているんじゃなくて、休みの日も仕事のことを考えてろ、って親方は言いたいんですよ。俺、覚えが悪いから。親方はもどかしく思ったんだと思います」
クルミ姉さんは頷きながら、
「へえー、善くんさ、凄いじゃない。そんなふうに考えられるなんて。そこんとこが、親方から料理人としての素質があるって判断されたところなんじゃないかな」
「クルミ姉さんの言っていること、よく分かりませんけど?」
「つまりね、相手が言っていることを正確に理解しようとする心構えが善くんにはあるっていうこと。これってさ、とても大切なことだと思う。一つ例を挙げれば、飲食業って、特に手間を掛けた料理に値段を設定するのは難しいことだと思うの。花を売るのとは違うんだよ。飲食店の経営者は、当たり前のように、定めた利益をのっけて値段を設定するじゃない? 自分の店なんだから自由に設定できるよね。でもさ、それって、お客さんが本来決めるべきことなんだよ。見た目プラス味と量、それと接客の仕方に対しての価値設定って、お客さんが不満を感じないか、或いはお得感を感じるかは、事前にニュートラルな観点で店主が判断できるかが鍵、でないと失敗するわよね。少ないお小遣いでサラリーマンがお昼時にどこで食べようかと迷いながら歩き回っている様子を見てると、客サイドの厳しい目がよくわかる。だから、昼時では、そこを超えた値段設定はアウトなんだよ。そんなお客さんの心情と懐と満足感とのコミュニケーション、善くんなら出来るんじゃないかな」
流石、年上。クルミ姉さんは、相手をヨイショして足許を浮かし、飲食業の内情を踏まえつつ戒め、意図するところに着地させようとしてくれている。その口調がまた心地よく素直に聞けるので、善幸はすっかり理解したつもりになってしまった。
「まあ、俺なら容易いかもしれません……ハハ。そう言えば、先週親方が新メニューを考えたんですけど、その値段の設定に悩んでました」
「店を経営するって大変なことなんだよ。努力って一番大切なことなんだけど、頑張ってても行き詰まる時ってあるよね。そんな時って、お客さんの食事をしている姿が、ぼやけて見えてしまうもんなんじゃない? あたしは花屋だけどさ、なんか、わかっちゃうんだよね。経営者って孤独じゃない、見回しても誰も助けてくれないし、助けようがない立場だよね。そう思っていないといけないんじゃないかな。だから、経営に行き詰ってからどうしようか、なんて考えてたんじゃ遅いのよ。お客さんってさ、飽きっぽいものなの。だから、飽きられる前に手を打つことが肝心。その繰り返しなんだろうけど、これが結構しんどいことなんだと思う」
「その通りだと思います!」善幸は、クルミ姉さんの目を見て言った。
「お客さんって、とても我儘だからさ。でも、それも当たり前だと思わないとね」
「はい!」
先生と生徒の関係になってしまった。
「親方は、善くんの料理人としての素質のニオイを嗅いでるんじゃないかな。もしかしたら、善くんが面接に行った時、もうそれを嗅ぎとったのかもしれない」
「まさか……」
クルミ姉さんが、優しく善幸をみつめている。これから先も、優しく見守っていてくれそうな瞳だった。
「応援してるよ、善くんっ、あたしはいつも善くんの味方だから……」クルミ姉さんがそう言った後、未華子の方を向いてニコッと笑った。
なんか、この通りには素敵な仲間がいっぱいいる。でも、それはさっきまでの話。今となっては自分の味方はクルミ姉さん一人になってしまったみたいだ。うん? 味方……。そうだ! 善幸は、パン屋の娘の名前を思い出した。ミカタ、彼女は〝フジヤマミカタ〟だった。「私の名前は、フジヤマミカタ。一人っ子、覚えておいて!」ガツーンと言った彼女のその時の顔が浮かんできた。しかし、今更思い出したところでその甲斐なし。いや、もしかしてまだ可能性が……。などと踏ん切りのつかない自分が頭を擡げてきたことに女々しさを感じてしまった。
サァーッ、ガタンッ。中村電器の二階から耳障りな音が聞こえてきた。見上げると、看板に付いている投光機が共振していた。
「メンバー交代か~い?」
窓枠を左手で掴み、さっきよりもっと身を乗り出して、二階からサトシが見下ろしているではないか。善幸にとっちゃ、その恰好は視覚的にもムカつき、衝動的な行動を誘引する売り文句に聞こえた。
「あ、サトシさんっ」と、未華子が手を挙げて笑顔で応えた。
善幸は、その好反応に驚いてしまった。先ほど話していた時のクルミ姉さんとさくらが、サトシへ向けたときの笑顔と同じだったからだ。商店街の娘たちは、サトシとそんなに親しいのか? 彼に対しての特別な想いが、彼女たちの笑顔で感じ取れた。
未華子にとってのサトシは、先日からの〝特別〟な仕事仲間となったはずの自分を忘れさせてしまうくらいの存在なのだろうか。それも状況を弁えない飛び入り参加だというのに。
善幸は、〝野郎〟を睨みつけている。
「見てらんねーんだけどお? そこの善幸君とやら、さっきっから、おモテになるのはいいんだけど、ここは商店街なんだよ。そういったことは人目につかないところで頼むぜ。刺激が強すぎるんでね。目を開けてらんねーし。勉強も捗らなくて困ってんだよ」と、見上げている善幸の顔へ吐き捨てた。
善幸は、呼吸を整え、気を落ち着かせてから言った。
「だったら、目を瞑ってたらいいんじゃねーのか? サトシ君とやら。それによ、その歳になってから勉強か? ちと遅くねーか?」
歯切れの良い善幸の声が辺りに響いた。
「目を瞑ったら深い眠りに入っちゃうだろ。おまえ、勉強し過ぎで寝不足になった経験はなさそうだな。その証拠に、おつむが弱そうな顔してるもんなあ~」サトシが鼻で笑っている。
善幸も負けてはいられない。
「あのさ、一旦、顔引っ込めてくんねーかな、見えねーんだよっ、おまえさんの顔で。親方が言ってたけど、おまえが考えたらしいな、その『家電業界のお人好し』がどうのこうのってキャッチコピー。その次の並びに書いてある『〝何とか〟の馬鹿野郎!』の〝何とか〟のところが見えねーんだよ、お前の顔で。もしかして、おまえさんの顔で合ってんの?」そう言った後、善幸が口許を緩めた。
サトシは、善幸が頭を左右に動かしている滑稽な姿を見て血相を変えた。
「おいっ、今下りていくから、ちょっと待ってろっ!」
見兼ねたクルミ姉さんが、
「ちょっと、ちょっと、あんたたち、近所付き合いは大切だよ。詰まらない言い争いなんかしてないでさ、あ、そうそう、今度小菊やミカタやさくらも誘って、この商店街の親睦会でもやろうよ。みんな仲良しじゃない」と、割って入った。
サトシが二階から下りてくるようものなら出合い頭に、バシッ、あうっ、バシバシッ、うおーっ、いきなり衝突しかねないと思ったのだろう。クルミ姉さんには、この言い争い、戦う前のオス同士が吼え合う縄張り争いのように見えたのかもしれない。
そこへ、
「そうですよ、サトシさん、この夏に皆でビヤーガーデンへ行って楽しく飲んだじゃないですか。また行きましょうよ。仲良し商店街なんだから」未華子も、事態の収拾を図ろうとしている。
「俺の代わりが出来ただろ? そいつと行けよ!」サトシは、そう言って窓をバチンッと閉めてしまった。
不快な思いだけを残し、勝手にシャットアウトしてしまったサトシに、善幸は腹が立ってしょうがない。
「あいつ……」
善幸が窓を睨みつけていると、今度はサーッとカーテンを閉められてしまった。
「あーの野郎ーっ」
「気にしなくていいから、早く行きなよ。遅くなっちゃうよ」
クルミ姉さんは、二人の背中を押した。
未華子は、何やら嬉しそうな顔をしている。「行こう、善くん……」と腕を引っ張り、二人は改札口へと向かった。十二時をとっくに過ぎていた。
ホームで待っている乗客は十人いるだろうか。平日のこの時間帯は空いている。待つこともなく快速がホームに入って来た。二人はドアのすぐ近くに腰を掛けた。
―つづく―




