―スタイリッシュなミカタ嬢―
―スタイリッシュなミカタ嬢―
善幸は店から出てきた娘に、
「その通り、休みですよ。パン屋さんの休みは、明後日でしたよね? 当たり? 当たりでしょ?」スティックで小太鼓を連打するかの如く善幸の声は弾んでいた。
「そうなんですよお、水曜日なんです」明らかに〝残念〟そうな顔だった。
今のアパートに引っ越してきてから、最寄りの駅の商店街なので仕事帰りに買い物をすることがよくあった。とりわけ、このパン屋は善幸のお気に入りだった。当時はパンを買うだけの単なる売り手と買い手の関係だったと思う。親方の店で働くようになってからは、朝早くから夜遅くまで仕事をしているため買うことができないでいた。だから、顔さえ忘れられていると思っていた。まさか、彼女が自分のファーストネームを知っていたとは愕きだった。
彼女は、毎朝ジョギングでもやってそうな体つきをしていた。なのに丸顔。身体を常に鍛えているタイプが面長なのか、というとそんなことはないとは思うが、しかし意味合いが違えど、先ほど小菊が発した〝残念〟が頭をよぎってしまった。
しかしながら、そんなアンバランスなど「ヨシユキさ~ん」と二、三回でも彼女に呼び止められれば、丸顔なんぞスリムな体型に合った逆三角の顔形へ力ずくで変形させることができる。尻上がりの心地よい呼び方に対するお礼の気持ちも込めてのことだが。それと、俄に彼女への好奇心が芽生えたことも関係していそうな気もした。
彼女の瞳の奥で揺れ動いているものが何なのかを確かめようと、善幸はその中へ入っていこうとしている。
彼女は答えづらい質問をしてきた。
「ところで、ヨシユキさんはこれから何処へ行こうとしているんですかあ? もしかして、彼女とデート?」
善幸は、一旦目を外して、
「違いますよ、食べ歩きかなあ……。他の店の味も知っておかなきゃ、と思って。まだ見習いなんでね」大体で返事をした。
「ヨシユキさんがくる前の【悠の里】には、板前さんが一人ってことはなかったんですよ。いつも二、三人いましたね。でも今はヨシユキさん一人。親方と一対一なんだから手取り足取り教えてもらえるんでしょ? 大変でしょうけど」
「そうなんですけど、親方の言い方ってストレートじゃないから理解するのが面倒臭いんですよねー」
彼女が笑った。
彼女となら、愚痴や不満を嫌がらずに聞いてくれ、それだけじゃなく、随所にアドバイスと笑いも散らしてくれそうな会話ができるんじゃないかと感じた。
「ところで、食べ歩きって、一人でですか?」
ほんわかとした惣菜屋の娘と違って、彼女は〝大体〟を素通りさせてはくれないらしい。
「まあ……」
「よかったら、今度付き合いますよ。一人より二人の方が楽しいと思いません?」
「ええ、まあ……」
「ヨシユキさんの休みの日に合わせますから。来週のご予定は?」とか言った後、彼女の掌が善幸に向けられた。(どうなってますか?)と、異性間の心地よい強引さを強調したのだ。この、たった三、四分の会話なのだが、その進行に緩急をつけずプロセスに抜かりがなかった。
咄嗟に訊かれた善幸は、
「今のところないですけど……」などと、ここでも危うく適当な返事をしてしまいそうになった。どう答えたらいいものか、右手で拳を作り、おでこをトントントン……。
善幸には、今気になっていることが三つあった。一つは、ここから七、八軒先の花屋に行ってスズランの花言葉を教えてもらい、早く未華子の家に行かなければならないということ。二つ目は、今さっき立ち寄った惣菜屋の小菊ちゃんに、この会話を聞かれてやしないか、それを確認したいが後ろを振り向けないでいるということ。三つ目は、このお誘いにどう返事をしたらいいものやら……。ということだった。善幸は困った顔も出来ないでいた。
そんな煮え切らない善幸に、彼女は痺れを切らしたらしい。
「嫌なら、いいんですっ!」キャーっ、切れ味最高。スパッときた。
彼女との会話には注意が必要のようだ。その注意とは、逆らわずに、流れに従って明快な返事をすればいいのではないのか。プラス、洒落た話題づくりで盛り上げるということか。最近話題になっている映画とかミュージカルの話? それともランクを上げてオペラだろうか。でも知らなければ話せる訳がない。善幸には、仕事以外のネタは持ち合わせていなかった。
「そうじゃなくって、飲食業やってる者は、勉強のため他店の食べ歩きって必要なんじゃないかって、今、惣菜屋さんともその話をしてたんですよ。そうだ、よかったら今度三人で行きませんか? そうだ、そうだ、食べてばかりじゃなんですから、見たい映画でもあれば一緒に行きません? 俺も面白いのやってないか調べておきますけど」
良い塩梅に話をもっていけたなと我ながら関心してしまった。これで小菊ちゃんに聞こえていたとしても大丈夫。後ろを確認することなく安堵することができた。
「お父さんと?」
(小菊のお父さんを誘ってどうするよ)、彼女のこの頓珍漢さが笑えた。
「まさか、お父さんじゃなくて……」善幸がそう言うと、
「小菊?」と不可解な面持ちで訊いてきた。
あまり気乗りのしない顔つきだった。二人だけの方が良い、という意味なのだろう。また、小菊と彼女とではそもそも話が合わなさそうだし、友達という間柄でもなさそうだ。ということはだ、一緒に行ったとしても、気遣いながら二人の仲を取り持つという責務も背負わされることになる。愉しんでいる場合ではない情況が頭に浮かんできてしまった。
それに彼女と二人だけであれば、たとえ口下手な自分でも会話が弾みそうな気がした。行くとしても別々の方がよさそうだ。
「彼女の名前は小菊っていうんですかあ。親しいのなら問題ないでしょ?」
彼女の名前をたった今知ったというのに惚けてしまった。
「そうねえ……でも、今回は二人で行くことにしません? 三人じゃなきゃダメ?」
「了解です。二人で行きましょう。ところで、名前を教えてもらえませんか?」
「あたしの? 知りたい?」
何かを探るような瞳で訊いてきた。彼女って、そういうところはシャープさが足りないんだなと思っていると、
「私の名前は、フジヤマミカタ。一人っ子、覚えておいてっ」ガツーンと来た。
「はい、ミカタさんと小菊さんですね、俺、もう絶対に忘れません!」
小菊と違って、なんとスタイリッシュな名前なんだ。カタカナなのか、それとも漢字なのか、漢字ならどう書くのだろうと興味をそそられたが、この手の名前は難しい漢字を使っていそうだ。恥をかきそうだったので訊くのをやめることにした。
途切れた会話の間に間に、彼女の深奥から見つめる瞳の迷彩色が気になった。漸く和んだ会話になってきたというのに〝スズランの花言葉〟で気が急いでいる。焦る気持ちを抑え「じゃあ、また」、さらっと言って軽めの笑顔を残し、善幸はその場を去った。
そして、ここから八軒先の花屋へ――。
なぜもっと遠くにないんだ、と苛立つ善幸。待てよ、パン屋からこれくらい離れていれば姿は見られても、話し声までは聞こえないはずだ。それがせめてもの救いだった。
善幸は、花屋の二軒手前でスピードを落とすと、歩道の縁石に片足をつき、店の様子を窺った。花言葉を教えてもらうのにオヤジさんでは訊きづらいからだ。
―つづく―




