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【 レコード盤に針を落とす時】   作者: トントン03
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第六章   ― 小菊の胸の内 ―

 第六章


 ― 小菊の胸の内 ―


 翌朝、九時前にアパートを出た。真っ先に頭に浮かんだこととは、未華子からもらった宿題だった。善幸は、駅前商店街の花屋へ向かった。


 曇り空ではあるけれど、天気予報では雨は降らないらしい。風は止んでいる。前傾姿勢で自転車を漕いでいる所為か、寒さは感じなかった。


 商店街通りに差し掛かろうとしていた。

 すると、

「あれっ、ヨシユキさーん、おはようございます。今日、お休みでしたよね?」気軽に声を掛けてきたのは惣菜屋の一人娘。彼女は、店頭に惣菜を並べるための台を設置しているところだった。

 善幸は、彼女の前で一旦止まった。


 この商店街では、彼女と挨拶を交わすことが一番多かった。他愛も無い立ち話をしたこともある。彼女は、よく食堂のおばさんが頭に覆っている白の三角巾と、気持ち太っちょの所為で、二十六、七にみえるが、まだ二十歳。未華子と同い年だった。十坪ほどの店だから働き手は親子三人で十分。名前はまだ知らない。


「その通り、休みですよ。惣菜屋さんの休みは明日でしたよね?」

「そう、火曜日なんです。一日ズレているんですよねぇ、残念……」

 善幸は、〝残念〟の意味を直感しながら、似合わぬ笑顔を彼女に向けている。店の中を覗いたら、お母さんが「ヨシユキくん、おはよう!」と元気のいい挨拶をしてきた。善幸は「おはようございます」と言って頭を下げた。

 お母さんまでもが俺の名前を知っていた。親近感が湧いた。

「親子で店をやるっていいですねえー」そう言うと彼女は、

「仕事は毎日同じことの繰り返しだし、親子とは言え、狭い場所で一日中顔を突き合わせているわけだから、言い合いも多くて……。でも、あたし、もう諦めの境地に達しちゃったみたいです。そのお陰でか、平穏に時間が過ぎていくことって幸せなことなのかもしれないと思えるようになったんですよ。年寄り臭いこと言っちゃったかなぁ」恥じらいながら言った。


 ふっくらとした彼女のほっぺただけを見つめていると、フォークをぶっ刺して食べたくなってきた。いやいや、そんな残酷なことは許しがたい。抓るだけにしておいてあげなきゃ。

 彼女は、物腰が柔らかい娘で、目を細めて近づいて来られたら思わず抱きしめてしまいたくなる。くっ付いたまま離れられなくなりそうだ。

 善幸は、数多のゴム風船で作られたぶよんぶよんの小部屋で、大の字になって寝そべっている自分を想像してしまった。


 店の奥を覗いた。お父さんがカス揚げをフライヤーの中へ潜らせては揚げ物を掬い上げていた。それらを惣菜袋に入れ、にこやかな顔でこっちへやって来た。


「アパートで一人暮らしだって? これ、持っていきな。鶏の唐揚げとカツにメンチ、それにアジフライだ。揚げ物ばっかしだけど、まだ他の惣菜が出来上がってないんだよなー」

「あ、どうもすみません。こんなにいっぱい戴いちゃって。揚げ立てですね、美味しそう」

「休みの日にまた来なよ。サラダとか煮物用意しておくからさ。うちの娘が作った煮物……美味いよっ」と言った後、お父さんが高笑いした。


 お母さんと娘は照れ臭そうに微笑んでいる。その光景は、仲の良い親子関係が成り立っている証なんだと善幸は思った。彼女の名前を知りたくなってきた。


「よかったら、今度の月曜日、この子を休ませるからさ、映画にでも連れてってくれない?」とお母さんが言ってきた。

 意表を突かれた善幸は「はい、分かりました!」とも言えず……。

 その困った表情に、お父さんは「かあさん、それはないだろ。うちの娘が余り物ですけどどうですか? ってお願いしてるみたいじゃないか、そうだろ? コギク」と話の流れを作ろうとしている。


 コギクって名前なんだ。しかし、彼女は両親が本音を曝け出していることに困惑している様子だった。

 そこで、善幸は、

「コギクさん? 小さな菊って書くんですか?」と彼女に訊いてみた。が、お父さんが答えてしまった。

「そうだよ、俺がつけたんだ。これからは呼び捨てで構わないよ。『おい、小菊っ』ってーのもオッケーだ。しかしな、今でこそ小菊で良かったと思うけど、これがバレーボール選手並みの背丈になっていたら大菊にしとかないとバランスが悪かっただろうーな。ハーッ、結果オーライでよかったよ。産まれ立てで、将来〝大〟か〝小〟かを見極めるのは親と言えども難しいもんだからよ」


 善幸は、名前を付けるのに、大菊と小菊の二つしか考えなかったのだろうか、と疑問を抱きながらも小菊の顔色を窺っていた。

 そこへ、

「ちょっと、あんたーっ、自分の娘を排泄物みたいな例え方してんじゃないよ! ほら、小菊が可哀相だろ……」

 彼女は下を向きっぱなしだった。人前で辱められている顔を隠そうとしている。

 しかし、父親、母親どっちの言い様であっても、両親に大切に育てられてきたのは間違いない。彼女の名前は小菊かあ……、よく時代劇で耳にする名前だ。親が重篤で身を売る娘役を思い起こさせた。ああ、なんとかしてあげたい……。と、訳分からぬ思いが胸をつく。  

 善幸は、この名前を忘れないように「小菊っ、小菊っ、小菊ちゃ~ん!」と心の中で三回叫んでしまった。

 すると、

「あたし、もう余り物かも……」彼女は恥じらいながらポツリと言った。

 気にしていたのは〝大〟か〝小〟かではなかったのだ。

「そんなことないってっ、絶対にそんなことないから!」善幸は強く否定した。

 お父さんが頷いている。お母さんは、手に力が入ってしまったみたいで、割烹着を何度も引っ張っていた。

 まだ二十歳だというのに……。彼女の、思いもよらない心の内奥を垣間見てしまったような気がした。


 小菊は、潤んだ眼差しを善幸に向けている――。


 善幸は、彼女を元気付けようと眼力でこう言った。

「老け顔がどうしたというんだっ、そんなの気にするな!」

「…………」

 小菊の人となりが心に沁みてくる。彼女は、仕種と一つまみの言葉で表現力を高めていた。それが自然体だったから尚更興味深く感じてしまった。


 だが、こうしている場合ではなかった。十時になろうとしている。これから花屋の姉さんにスズランの花言葉を教えてもらわなければならない。この時点で、もう未華子との約束時間の十時には間に合いそうになかった。

 善幸は、早くこの場を切り上げようと思った。


「考えてみれば、映画なんて最近観に行ってないなあ。そのうち一緒に行きますか?」と、善幸は当たり障りなく言ったつもりだった。

「えっ、あたしと? いいんですか?」

「ああ……勿論!」

「楽しみにしていますね」小菊が手を合わせて言った。

 こうされると、平易に発してしまった空々しい言葉で終わらせるわけにはいかない。それに、お父さんの嬉しそうな顔つきを見たら、軽々しく流せそうな状況ではなかった。裏切れない思いが沸々と湧いてきた。


 善幸は、後先のことなど考えず、小菊というより両親へ確たる約束をしてしまった。

「面白そうな映画がやってないか調べておきますね。俺、ちょこちょこ顔を出します!」

 両親は、小さく何度も何度も頷いていた。


 善幸はお礼を言うと、最後に気持ちのこもった笑みを小菊へ向け、それを崩さぬようにしてこの場を後にした。


 なんだろう、気分爽快であるはずなのに、いやにペダルが重く感じるのは……。


 商店街通りは午前中ということもあり人通りは少なかった。善幸は駅に向かって進んで行く。


 すると、

「ヨシユキさ~ん、おはよう。今日、お店休みでしょ?」

 両親と三人でベーカリー【小麦の七不思議】を営んでいる娘が、待ち構えていたかのように声を掛けてきた。最低一年以上は付き合っていそうな恋人関係? でもあるかのように馴れ馴れしく呼び止められた善幸は、勿論、悪い気などしなかった。


 彼女に、またもやファーストネームなんかで呼ばれてしまって、思わず「ハーイッ」と返事をしてしまいそうになった。


 パン屋は惣菜屋から六軒先の店だった。

       ―つづく―


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