―夾竹桃と紫陽花とスズランの共通点―
―夾竹桃と紫陽花とスズランの共通点―
善幸は、未華子の家に辿り着く間に、もう一度頭の中で、明日のデートプランを確認しておくことにした。
前方からやってくる車は見えなかった。善幸は歩道ではなく道路の真ん中を走っている。
店が終わったら、酒井のおばちゃんと三人で自転車に乗り、縦列になって帰るいつもの商店街通り。なのに、その光景が目新しく感じた。一人だからなのかもしれない。
続いていた商店街のネオン灯が行き詰る交差点にさしかかった。信号は赤、車は来なくても一旦停止した。この信号は、三人で帰る時、赤青関係なく一旦止まるところだった。なぜなら、酒井のおばちゃんがこの交差点を右折し、ガード下をくぐって線路の向こう側へ行ってしまうのだが、その別れ際の慣習があった。
その慣習とは――。
「お疲れ様~、気を付けてねえー」とおばちゃんが二人に声を掛ける。おばちゃんは軽くペダルを踏みこむと、ブレーキを掛けながら坂を下って行く。善幸たちは、その姿が見えなくなるまで見送ることだった。
今、善幸は、これまで一人で帰ったことがあっただろうか……と考えている。と、信号が青に変わった。
未華子の家に近づいて来た。
先の、緩やかなカーブの街灯が青白い光を落とし道案内をしてくれている。けれど、この時間帯ではもうその役割は終わってしまっていた。佇んでいるこの光景は、それを承知しているかのようだ。
点々と誘う灯りの先には、何かを見限った諦めでも待ち構えているのだろうか。善幸は、若干の不安を抱いた。
彼の住んでいるアパートは、このカーブを過ぎて一キロほど行ったところにあった。
善幸は、いつも未華子と分かれる信号機の前で足をついた。ここを左折すれば彼女の家がある。真っ暗だった。人影も無く虫の鳴き声さえ凍て付かせる静寂が辺りを取り巻いていた。
この道は多分私道なのだろう。そんな情景を眺めていたら、背中をポーンと押され勢いよく店を飛び出して来たのはいいが、その時の意気込みが一気に消え失せてしまった。雨の日だけ、歩いて彼女の家の前まで送って行った。距離にして、この信号機から五十メートルもなかった。
善幸はその私道へ入って行った。車一台がギリギリ通れるほどの脇道。どん詰まりな道ゆえ、舗装はされていない。街灯もなく先が見えにくい砂利道だった。
土にめり込む小石をタイヤが蹴散らして行く。僅かに欠けている満月が、掛かる雲の塊を追いやろうとしていた。地上では不思議と風は吹いていなかった。
善幸は、ブレーキの音を出さねように止まった。サドルに跨いだまま辺りの様子を窺っている――。
胸までしかないブロック塀の上段の角が丸みを帯びていた。善幸は、ブロック塀を乗り越え目線を庭へと忍び込ませた。季節的に精彩を欠く庭だけれど、枯れ葉もなく隣家の庭と比較すれば、きれいに手入れされている様子が窺えた。
駐車場のスペースを埋め尽くしている植木鉢が五十以上はあるだろうか。それらは、脚代わりにブロックを幾つか立て、その上に敷いた長手のコンクリート平板に整然と並べられていた。煉瓦色の丸型と角型の植木鉢から、窮屈そうにくねって顕現する太い幹の姿形は、盆栽などに興味のない善幸でも手塩に掛けて育てて来た歳月の重さを感じてしまうくらいだった。
剪定をやっているのはお父さんに違いない。出張の多いお父さんと聞いているから、水遣りは彼女がやっているのだろう。外水栓に取り付けられ丸められたゴムホースが玄関の脇に置いてあった。
家は平屋建てだった。庭とは対照的に薄汚れた外壁が目についた。昼でも白黒でしか現像できない光景だ。
じっくりと観察してしまった善幸。彼女の家に特別な関心があるわけではなかった。時間稼ぎ……そう、単なる時間稼ぎにすぎなかったのだ。
玄関の天井にまん丸の照明器具が灯っている。薄っぺらい玄関ドアの両サイドの磨りガラスから出迎えの明かりが漏れていた。夜遅くに、誰かがやって来るのを待っているかのようだ。呼び鈴は門扉にはついていない。善幸は自転車から降りた。キィーッと錆びた鉄門扉を開けて玄関ドアへと近づいて行った。
おばちゃんたちに言われたことを思い返している。善幸が今やっておかなければならないこととは、ジャンパーのチャックを外すことだった。
呼び鈴を押した。
「どちら様ですか」と訊きもせずドアが開いた。
未華子の物憂げな顔が現れた。
「…………」
「ドアを開けるときは、誰なのか確認しないとダメだよ……」
寒さは、二人の背中を丸めさせると、しんみりとしたムードを醸し出した。
「おばちゃんから電話があったから……。それにドアの覗き穴で確認したよ」
か細い声だった。彼女は、善幸の胸元に目線を落としている。
「そう……。ああ、その恰好で寒くない? 何か引っ掛けてきたら」
見ると、彼女は、フィット感のあるピンクのスウェットパンツに白のトレーナー姿だった。
「寒いんだから、上がったら……」
彼女は、こぶしを袖口に潜らせていた。
「親方にね、中に入るなって言われたんだ」
彼女の口元が少し緩んだのが分かった。
未華子は、一旦中へ引っ込み、温かそうな真っ赤なダウンジャケットを羽織ってきた。その間、善幸は親方から言われた「未華子に謝ってこい」、この話を切り出さなければならないのだが、どのタイミングで言ったらいいのかを思いあぐねていた。
そこで、思い付いたのが、話の途中でどさくさに紛れて言うのがベストなのではないか、という結論に達した。その為には、すべり出しからノリの良い話をしなければならない。
「えーとね、明日のことなんだけどさ、」
彼女の沈んだ気持ちを切り替えるスイッチに手を掛けたつもりだった。
ところが、
「あたし、謝らないからっ」
突然、差し伸べた手を払われてしまった。
そもそも、これって〝互いの決まり悪さ〟なんだから、こっちの都合の良いタイミングで話を切り出せるとは限らないのだ。どう対応してよいものかと考える間もなく、善幸はアドリブで話しはじめる。
「謝ってくれなんて思ってないよ。親方に『おまえが謝ってこい』って言われたんだから」
未華子は「自分が嘘ついていたのにどうして?」と訊かないところをみると、矢庭にその意味合いを理解したのだろうか。それとも、ここに来る間に、親方と電話でその辺のやり取りをしたのではないのか? との憶測が頭を掠めた。
「善くんって、親方に従順というか一筋なんだね。親分と子分って感じがする」
この一言で、彼女は胸に詰まっていた息を全部吐き出すことができたようだ。善幸は安堵した。
「そうだよ、俺はそれでいいと思ってる。変な言い方をすれば、親方って、俺にとっては絶対的な存在なんだよ」
「絶対的なんだ?」
未華子は、〝絶対的〟なレベルまで至っていることに些か愕いている様子。
「変?」
「変じゃないよ。善くんの絶対的っていう意味は、親方のことが大好きで信頼しているという意味だから。違う?」
「ズバリ、その通りだよ」
「世の中に、これ以上の親方と弟子の信頼関係が成り立っている間柄ってないんじゃないのかな」
善幸が先に微笑んだ。
「でもさ、謝るのって難しいね」善幸がそう言うと、
「素直になれれば出来ることなんだと思う。親方ならきっとそう言うと思うよ。あたしは素直じゃないから……」
「それなら俺も同じさ。だけど、親方って頑固なのによくそんなことが言えるよな。素直で頑固? 水と油みたいだ」
「親方のことは、そのうち善くんも理解できるようになると思う」
その言葉に、善幸は少しだけ不満を感じた。
「二人の間に入れないや。なんかさ、俺は余所者みたいじゃん。俺と親方とは絶対的な関係なのにさ」
「親方とおばちゃんとあたしの間にはね、隠し事なんて何も無いの」
「へぇー、実は、俺も無いんだけど?」
未華子は、不満がっている善幸の顔が可笑しかったようだ。
それを誤魔化そうとしてか、一旦庭に目を逸らした。暗闇を見ながら、何かを考えている様子が窺えた。
「善くんも仲間に入れてあげよっか?」
「別に。無理に入れてもらわなくてもいいさ。てか、俺もう入っているつもりなんだけど?」
この時、はじめて未華子と目が合った。
暫くの間、二人は見つめ合った。この時、目線を外さないでいられる関係は、隠し事が無いと言い張る関係より勝っているような気がした。
玄関の照明が段々明るく感じられてきた。振り向き、今度は善幸が庭に目を向けた。
「あの植木鉢の手入れはお父さんがやってるの?」
彼女は中二の頃から父親と二人暮らし。だから父親しかありえない。でも、酒井のおばちゃんから聞いたことは白紙にし〝未華子のことは何も知らない〟というスタンスで話すのが自然でいいと考えたのだ。
「うちのお父さんは出張が多いから、土の植え替えと剪定以外はあたしがやってるの」
「水をあげるだけでも数が多いから一人じゃ大変だね」
「冬は気にならないんだけど、夏が大変なんだー」
この時、「お母さんは手伝わないの?」とは訊けなかった。これは、〝 知りたい〟という自分勝手な欲求だけであり、相手を想ってつく〝惚けた嘘〟にはあたらないと思ったからだ。それに、なぜ居ないのかは未華子から直接聞きたかった。そのうち、そんな間柄にきっとなれるはずだ。
善幸は話を変えた。
「あれさ、夾竹桃でしょ?」
「わかるんだ、生物得意だったの? とてもそうは見えないけど」
「実家にあるんだよ。でも、親父が気をつけろって」
「もしかして、毒?」
「知っていながら植えてるんだ、うちもそうだけどさ。危険なんだから植えなきゃいいんだよ。なんで植えたの?」
「この家を買った時からあったんだよ。この家、中古物件だったの。邪魔だから、嫌いだからって切り倒しちゃうの? そんなこと出来ないじゃない。それにね、夾竹桃の手前に植えてある紫陽花なんだけど、青紫色の大きな花が咲くと、少し遅れて引き立て役の夾竹桃のピンク色の花が咲くんだよ。〝開花の時期が上手く重なったらいいな〟って、あたしが高一の時にお父さんが植えた紫陽花なんだあ。でもね、この紫陽花をここまで増やしたのはあたし。挿し木で簡単に増やせるんだよ。年を追う毎に大きな花を咲かせていくんだけど、今年のはボーリングの球と同じぐらいだったかな。梅雨時期になると庭が凄いことになってるから見に来てよ。びっくりすると思う。あと半年後ね。年に一度しか見れないんだからさ、雨の中の、二種類の花の和気藹々とした間柄をいっしょに見よう? 善くん……」
紫陽花の花がボーリングの球と同じ大きさだって? また嘘かあ? でも俺を楽しませようと思って吐いた嘘なんだから、これは良い嘘。俺にとっては嬉しい嘘だ。どっちにしても、開花したら確かめに来なきゃいけない。そして言ってやるんだ、「ホントだ! この紫陽花、ボーリングの球と同じ大きさだよ、おまえの言う通りだった」って。
待ち遠しい要確認の嘘からの真実の大きさは如何ほどになっているのか。その愉しみも増えたことで、未華子との距離がグンッと近づいたような気がした。店を出て来る時の〝問題なしのやったぜ感〟まで連れ戻してくれたみたいだ。
善幸は念を押した。
「梅雨時の花見かあ、いいかも……。見に来るよ、絶対に!」
雨は嫌いではなかった。仕事が休みの日に、アパートで一人、窓越しに雨の振り具合を眺めながら過ごすことがある。雨が強まってくると、もろに軒先に当たる雨音がうるさくなった。しかし、善幸は、それを掻き消すほどの空想に耽ることができるのだった。
「それだけじゃないの。紫陽花が咲く前にね、スズランの花が踏み石を包み込むように咲くんだよ。だから、踏み石から外れないように歩かないといけないの。善くんは、スズランの花って見たことある?」
「見たことはないかな。スズランの花って、気づかずに踏んづけちゃいそうな小さくて白い花じゃなかったっけ?」
「そんな感じ。四月に入ると咲きはじめるの。その時、じっくり見られるよ、善くん。香りも良いし、葉っぱも虫がつかないからとてもきれいな緑色をしているんだよ。触るとしんなりしてて柔らかいの。赤ちゃんの肌を触ってるみたい。面白いのはね、花は小指の爪より小さいのに葉っぱが大きいこと。保護者のように花を守っているんだね」
「そうなんだぁ」
「あたしがね、中三の頃から株分けして増やしてきたんだよ。この辺り一面に咲くんだから。近所の人も見に来るくらいきれいなの」
「スズランねえ、スナックの店名の中で、キャッツアイの次に多そうだな……」
「スナックって、善くん、よく行くの?」
善幸は、苦い思い出を振り払おうと首を横に振った。
すると、彼女が、
「そこで問題です。スズランに紫陽花、そして夾竹桃、さて共通していることとはなんでしょう?」そんなクイズを出してきた。
「ねえ、それ明日にしない?」
寒い中、二人は三十分以上こうして話していた。はからずも〝互いの決まりの悪さ〟はもう取っ払われていた。善幸は、ここに来た主な目的は果たしたと思ったのだ。
「わかった。その代わり、善くんにもう一つ宿題を出しておくね。スズランの花言葉はなんでしょう?」
善幸は、商店街の花屋が頭に浮かんだ。中村電器の隣の店だ。明日は花屋の休日ではないから、一人娘のクルミ姉さんに朝ちょっくら寄って訊いてみることにした。
「明日までに二つも? キツイけど、自力で解いてみるよ」
「わかるかなあ、簡単じゃあないよ」
「花言葉ってさ、裏腹な意味合いが含まれていることってない? スズランの花言葉はどうなんだろう」
彼女が素知らぬ振りをしている……。
未華子に弄ばれるわけにはいかない。そうは思いながらも、今回だけは我慢して彼女のお遊びに付き合うことに決めた。
「俺、頭悪いからさ、難しくて解けないかもな。それはそうと、明日十時でいい?」
「わかった、駅でいいの?」
「自転車、店に置きっぱなしじゃん。だから、俺が迎えに来るから二人乗りで駅まで行こうよ。雨は降らないみたいだからさ」
「お巡りさんに捕まるよ」
「二人乗りでも、一人乗りにしか見えないさ」
軽く親方気取りでお返しをしてみた。こいつ、深読み出来たかな……と思いながら。善幸は彼女の顔を覗き込んでみる。彼女の顔がサッと冷ややかな表情に変化したかと思ったら、すぐに笑みをみせた。
善幸はその笑顔をみて思った。おばちゃんたちは、些細な事でも雲ひとつ無い快晴の笑い方をする。それに、親方でさえ稀ではあるけれど、堪らず吹き出すことがあった。未華子の場合、どんな時でもにこやかに微笑むだけだ。自ら低く設定した基準値を超える可笑しさに関しては、咄嗟に手放してしまう癖があるように思えてならなかった。
さっきより庭が暗く感じられてきた。見上げると、山々が連なるような雲が向こうからやってきて月を隠そうとしている。その動きは緩慢なだけに、襲われた以上当分出てこれそうにない。庭木の枝ぶりがいっそう寒々しく感じた。
善幸は、
「じゃあな、明日迎えに来るからさ」と言って帰ろうとしたら、未華子が「ちょっと待って、それじゃ寒いでしょ……」善幸に近づき、はだけてあったジャンパーのチャックを閉めた。清水さんが言った通り、〝これは〟確かに言葉よりずっと効果的だ、と納得してしまった。
未華子は、
「待ってるね、車に気をつけて。おやすみー」と大人びた顔つきで言った。
善幸は自転車に跨り走り出した。
未華子は、その走り去る後ろ姿に「善くん……ごめんね、ありがとう」と声を掛けた。
善幸は、振り向かずに手を振ってそれに応えた。
―つづく―




