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【 レコード盤に針を落とす時】   作者: トントン03
16/33

        ― 許された嘘 ―

 ―許された嘘―


 おばちゃんたちは、ゴミと発泡スチロールの箱を外へ出しにいっていた。僅かに開いていた勝手口のドア、そこから善幸の怒鳴り声が漏れてしまった。


小走りで、おばちゃんたちが何事かと厨房に入って来た。

「親方っ、何かあったの?」と、酒井のおばちゃんが訊いている。

 親方は、何も言わなかった。


 皿の上へ振り注ぐシャワーの音だけが、厨房内にうるさく聞こえている……。善幸の背中越しで、彼女は皿を見つめているのだろう……。身動き一つしていないようだ。いや、身体が僅かに震えているのかもしれない。


 親方はまだ黙っていた。砥石を取り出すと、シャー、シャーとリズミカルに包丁を研ぐ音がそこに合わさった。


 善幸は、責め立てるつもりなどなかったのだ。ただ、何も言おうとしない未華子に対し、苛立って来てしまっただけだった。


 誰も何も言わない状況がいけなかったのかもしれない。善幸は感情が抑え切れず、追い打ちを掛けるように言ってしまった。


「おまえ、昨日、『盛り付け方が綺麗だ、高級料亭で食べてるみたいだ』って、客から褒められたとか言ってたよな、あれも全部嘘だったんだろ?」

 そう言ってしまった後、思いがけない方向へ話が向かって行こうとしていることに、自分でも不安を覚えた。

だが、きっと親方が何か言ってくれるに違いない、内心ではそこに救いを求めていた気持ちがあったのは確かだった。

 ところが、親方は、他人事のように横で知らんぷりをしている。包丁の刃先を親指の腹で擦っては、研ぎ具合を確認していた。


 善幸は、もう話の決着は自分でつけるしかないと思った。

「おいっ、俺をからかって面白いか?」これも勢いから出た一言だった。 

 唖然として、その様子を見ているおばちゃんたち……。善幸の話を聞いていても原因が判然としないため、何も言えないようだった。


「何か言えよ、黙ってちゃわからないだろ!」と、善幸が更に問い詰めていく。

「どうしちゃったのぉ?」

 酒井のおばちゃんの後ろにぴったりとくっ付いている清水さんが、堪らず善幸に声を掛けた。

 善幸は、それには応えず、未華子の後ろ姿を睨んでいた――。


 と、突然未華子が動き出した。

厨房の片隅に置いてある着替えが入った紙袋に、私物を詰め込んでいる。店を出ていこうとしているのだろうか。


 酒井のおばちゃんが呼び止めた。「未華子ちゃん、ちょっと待って!」

 まだ帰ろうとしないお客さんたちの視線は、横を通り過ぎていく未華子を追っていた。酒井のおばちゃんが、そこを小走りに通り過ぎ、未華子が閉めた扉をまた開けて追って行った。


 善幸は、予想外の未華子の行動に興奮さめやらぬ思いの中、動けないでいた。衝動的に言ってしまったけれど、間違ったことは何も言っていないんだ、と思い込み気持ちを鎮めようとしていた。


 そんな善幸を見つめている清水さんが、怪訝そうに訊いてきた。

「善くん、何があったの? 未華子ちゃんと明日デートするんじゃなかったの?」

 何も応えられなかった……。


 親方は、まだ包丁を砥石に擦りつけている。と、今度は仕上げ用の砥石を流し台の下から取り出した。研ごうとはせず、その砥石を見つめていた。


 沈黙が流れている中、親方は一旦視線を高く持ち上げると、徐ろに厨房から客席へ出ていった。そのスピードからして、未華子を追い駈けるわけではなさそうだ。

善幸は、親方の咄嗟の行動が気に掛かった。


 親方の向かった先は入り口にあるレジ台だった。レジ台に置いてある電話をとって、何も見ずにプッシュボタンを押している。未華子の家? でも、まだ帰っているはずはない。休み明けの仕入れのことで業者へ電話をしているのだろうか。魚と肉の質が悪すぎて気になるときだけ、親方が業者に直接電話を掛け、文句を言っているのを聞いたことはあるが、それ以外電話をしている姿なんて見たことがなかった。通常、仕入れに関しては、親方が口頭で酒井のおばちゃんに伝え、おばちゃんが業者に電話を掛けていた。それも、こんな時間に電話をするのは変、厨房にも電話はあるのだ。


 酒井のおばちゃんが戻ってきた。息を切らせている。

「追いついたんだけどさ、未華子ちゃん、何も話してくれなかったよ。走って行っちゃった。涙を流してたんじゃないかな……」

「そう……」清水さんは善幸の顔をじっと見ていた。


 善幸は、それを無視するかのように片付けをはじめた。

 すると、親方が電話をかけ終えて、厨房に入ってくるや否や、

「善幸、ここ片付けたら未華子の家へ行って謝ってこいっ」と、ぶっきら棒に言った。

「どうしてですかっ」善幸は抗った。

いきなり「謝ってこい」と言われても、間違ったことなど何も言っていないのだ。善幸は、突然の言い付けに釈然としなかった。


 おばちゃんたちは、片付けをしながら事の成り行きを見守ろうとしていた。


「おまえは、これまで嘘を吐いたことはないのか?」

「えっ?」

 えらいところから切り出してきたな、何を言われるのだろう……。親方が事の成り行きを黙って聞いていただけに、善幸の鼓動が早まった。だが、何か応えなければならない。

 そこで、

「吐きまくりでしたけど。でも、今回の場合は違うじゃないですか」と反論してみた。

「どう違うんだ?」

 そう訊かれると返答のしようがない。俺は間違ったことは言っていない、とも言えなかった。


「善幸よおー、相手のことを想って吐いた嘘は許してやらなきゃダメなんだ。気持ちを汲んでやらんとな。そもそも未華子の吐いた嘘は腹を立てるようなことじゃない。それどころか、結果的におまえに不快な思いをさせたとしても、それは感謝すべき嘘なんだ。そう思わなけりゃいけないんだよ。嘘にも色々あってよお……。悪いものばかりじゃない。兎も角、先ずそれを見極められるようにならんとな。感情を露わにする前に、縺れた互いの心情を顧みることが必要なんだ。それを身に付ければ、なんか知らんが、自分が興奮状態に陥った時でも握っているこぶしの力がスーッと抜けていってしまうものなんだよ。その後に現れるのが素直な自分だ。その賢い自分が現れて、詰まらんものを次々と削ぎ落としていってくれる。場合によっては、人間関係の根深い問題なんかでも、いとも簡単に解決してくれることだってあるかもしれんぞ。ただ注意しろよ、時間が経ってからじゃ手遅れになる場合があるから。人間の感情ってな、時間の経過と共に色も形も大きさも変わっていくものなんだ。カメレオンとアメーバとナメクジみたいなものか? アッハァー、気持ち悪くて触れねーな。だからよ、先ずテメエの懐に居座っちまった乱暴者の扱い方に慣れておく必要がある。ほら、前の……」と言って、指で壁をさした。指している方向は壁を突き破り道路を隔てた、煌々と電気の付いている店の――。

 酒井のおばちゃんは、親方との付き合いが長いだけに直ぐに分かったみたいだ。

「サトシ君かい? 怒られるよ、旦那と奥さんに!」

 それを聞いて清水さんが笑った。


「おお、判ってくれたかい」そう言って、親方は嬉しそうな表情を浮かべている。


 サトシのことはさて置き、「相手のことを想って吐いた嘘は許してやらなきゃダメなんだ。未華子の吐いた嘘は腹を立てることじゃない」ってところまでは分かったが、その後の親方の説得力の有り気な話が、今一つ朧気にしか分からなかった。

 やおら、親方の緩んでいた顔が締まった。

「お恥ずかしい話だが、それに関しては、この俺もまだ修行の身でな」そう言うと、また親方の顔が緩み、今度は情けなさそうな顔に変化した。その顔を、おばちゃんたちに晒している。

「それとな、昨日からの未華子のおまえに対する振る舞いを〝そう〟考えられるのなら、もしかしたら……もしかしたらだぞ、おまえたち二人の間に幸せが挨拶もなしに上がり込んで棲みついちゃうかもしれんなあ……」


 おばちゃん二人が善幸に近寄った。

「善くん、明日デートなんだからさ、親方の言う通り、未華子ちゃんのところへ今から行って謝ってきなよ、謝ることなんて大したことないじゃないっ、ね?」

 善幸は率直に頷いた。

「良い嘘を吐いてくれる人なんて、なかなかいないぞ。未華子は良い子だ。いつかおまえが悩み苦しんでいる時、きっと心強い味方になって支えてくれるんじゃないか? 善幸、そんな未華子を大切にしてやれ」

 親方は、二人の架け橋になってくれている。それだけじゃない、保護者も兼ねているようにも思えた。


 善幸は、大急ぎで片付けを済ませると、最後にコールドテーブルの上にまな板をドンッと立て掛けた。良し、あいつのところへ行こう! 気合が入った。

 客席を覗くと、ほろ酔い気分のさっきの常連客がまだ残っていた。

「善くん、早く行きな、おばちゃんが未華子ちゃんに電話しておくからさ。〝真から出た良い嘘〟なんてこともあるんだね、面白いねえ~」

 酒井のおばちゃんが言ったこの一言は的を射ていると思った。

 清水さんは、自分が居なかった昨日からの〝二人のやり取り〟が関係していたので、未華子との不穏な空気の理由が理解しづらかったようだが、なんとか仲良しになる切っ掛けができたことで安堵したようだった。


 そんな清水さんが、

「うちのお父さんね、よみうりランドに勤めてるんだけど、ディズニーランドのパスポートも手に入るみたいだから、今度持ってきてあげるね。次のデートの時にでも行っておいでよ」この心遣いも善幸の心に響いた。

 未華子が、店を飛び出してから、すでに四十分が経過していた。

「未華子のところに行くのはいいが、お父さんは来週まで仕事で帰ってこないと言ってたから、家の中に入るんじゃねーぞ」

「確かに、それはまだ早いわ。早すぎてもダメ、遅すぎはもっとダメ。料理と一緒なの。タイミングがあるのよ、善くんっ」

 酒井のおばちゃんは、昔を思い出しているらしかった。耐え切れず、清水さんが吹き出した。

 親方は吹き出しそうになるのを堪えたようだ。そして、「なーにバカなこと言ってんだ。そんなことより善幸、明日横浜の【港の見える丘公園】だっけ? そこに行くよな、だったらその帰りに四ッ谷駅で降りたらどうだ? 帰り道だろ。その駅からちょっと歩くけど、バウヒニアというホテルがあってな、そこの一階に四川料理の店があるんだ。そこで喰って来たらどうだ? 以前、うちにいた板前が、その店で料理長をしているんだよ。さっき電話を入れといたから。旨いものを食わせてくれると思うぞ。料理長は范という名前だ。うちの店を辞めた後に、香港へ渡って四川料理を覚えてきたらしい。日本人だけど、香港で結婚してな……。店に入ったら店員に呼び出してもらうといい」

「料理長を呼び出すって? そんなことできませんよ。知らない顔して勉強がてら俺らで食べてきます。四川料理かー、そんな本格的な中華料理食べたことないな」

「遠慮なんかしなくていい。奴は、うちの店に居る時は、生意気なことばかり言ってやがる出来の悪い弟子だったんだ。『善幸と未華子が来てやったぞ!』そう言って呼び出してやればいいのさ」

 親方の顔は和やかだった。親方はそのホテルのパンフレットを善幸に渡した。


「良かったね、善くん。早く未華子ちゃんのところへ行ってあげな。まだ泣いてるんじゃないかなぁ……」酒井のおばちゃんが急かせた。

 清水さんは、「善くんさ、その恰好のままで行ったほうがいいよ。仕事が終わった後、すっ飛んで来たと思うからさ。グッと来ると思うよお、未華子ちゃん……。恋愛のことで分からないことがあったら、何でもおばちゃんたちに相談してよね」そうアドバイスしてくれた。

 善幸が、なあるほどねえ、自分ではとても思いつかないテクニックだ、と感心していると、今度は酒井のおばちゃんが、

「それじゃ、風邪引くよ。どうせ未華子ちゃんちに着いたら玄関の前で二人は無言の会話からはじめなきゃいけないんだからさ、体が冷えちゃうよ」そう言うと、「ほんじゃさ、善くん、ジャンパーだけ着よっか。呼び鈴押す前にジャンパーのチャックを外しておくことは忘れないでね。多少寒くても我慢。調理服を隠してちゃ、意味が無いじゃない」清水さんの指示は細部にわたった。

「聞いてらんねーな、花束はどうするよ?」そう言うと、親方は大笑いした。

 善幸は、ジャンパーを掴むと笑いを背に浴びながら「お疲れ様でしたあーっ」と言って元気よく店を飛び出していった。



 商店街通りは静まり返っていた。善幸は直ぐにジャンパーを着た。ふと見上げたら、中村電器の二階の窓から明かりが漏れている。サトシの部屋だろうか……。そのあと、照明の消えている〝看板〟に目を移した。

 善幸は、事の解決はこれからだというのに、親方とおばちゃんたちのお陰もあって、未華子に会う前から、〝問題なしのやったぜ感〟で胸の中がいっぱいだった。

 いつも未華子が店に来て最初にやる仕事とは、店先に無断で駐めている自転車の整理だった。この時間になっても見知らぬ自転車がまだ三台残っていた。

善幸は、自分の自転車にピッタリと寄り添っている未華子の自転車をみている……。首を傾げた前輪のタイヤは、善幸の自転車のそれが支えていた。

 善幸は思った。未華子は着物だから自転車で帰らなかったのか、それとも、早く店から去って行きたかったからなのかと……。 


 善幸は自転車に跨ぐと、強く縁石を蹴った。

                              ―つづく―


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