― 穴子づくしからの話 ―
―穴子づくしからの話―
午後六時半を過ぎてから、再びお客さんが入りはじめた。
直ぐに小上がりの席が埋まった。清水さんが手伝いに来てくれても、月初めの日曜日だけは人手が足りなかった。そんな時は、おばちゃん二人が厨房に入り、未華子一人でホールを切り盛りすることもあった。
「親方、『おまかせ鮨』って、あまり注文が入りませんね」と善幸が言った。
「ああ、ネタの種類を大分減らしてしまったからなあ。目新しさが無いから、お客さんも注文しようとは思わないんだろう。以前のようにはいかないもんだ。他のメニューでお客さんの目を惹かなきゃな。しかし、お品書きを作り直してからお客さんが入るようになったとは思わないか?」
善幸が頷いた。
「おまえにも頑張ってもらわんと。いつも言っているが、おまえが覚えなければならないことは山ほどあるんだ」
親方が今扱っているのは、朝早くから仕込みをしていた穴子だった。一本モノを、サンマをのっけるような皿に盛り付けている。この煮穴子は酒の肴として常連さんが好んで食べているものらしかった。
「親方、その煮穴子なんですけど、こんがりと焼いてあった方が美味しそうに感じませんか? 煮た状態のままだと、柔らかさは伝わってきても湯気が出てないと冷めた感じがするし、それに穴子そのものの色味をもう一つ足した方が良いと思うんですよね」
善幸は、さっきのすき焼きに入れた〝焼きネギ〟が印象に残っていて、そこからヒントを得て言ってみたのだ。
親方は煮穴子を崩さぬよう皿にのっけた。「ほう……」と言って、それを眺めている。
「俺ね、前から考えてたことがあるんですけど、」そう言った後、躊躇った。見習いが話す内容ではないと思ったからだ。
黙っていると、酒井のおばちゃんが「善くんさ、なんでも親方に言ったほうがいいよ」と後押ししてくれた。
善幸は、親方の穴子の仕込みをみて思った。細魚のように姿が細長いから捌き方も同じかと思いきや全く違っていた。親方は、目打ちをし、活け〆穴子を捌いていく。念入りに塩揉みし水洗。その後、穴子の皮面にペーパーを被せ上から熱湯をかける。包丁の背で白くなったヌメリをしっかりととっていた。穴子はヌメリが臭みの原因と親方から聞いているが、他の魚と比べると、かなり念入りにやっていた。
穴子の頭と骨は穴子の煮詰めの出汁を取るのに使っていた。取った出汁に醤油、みりん、酒、ザラメを加え、穴子は切らずにその中へ入れる。他の下拵えをしつつ、変化していく穴子の色味と姿と鍋の火力を親方は気にしていた。
「親方が賄いで出してくれた穴子の握りなんですけど、煮詰めの照りがいっそう美味しそうに感じたんです。親方は、軽めに煮詰めをつけてから出しますよね。もっとつけるかどうかはお客さん次第。でも、握らずに一本ものとして出すときは、煮詰めはつけないで出しています。酒の肴として考えた場合、煮詰めは味を重くしてしまいますから、その為つけずに出してるわけですよね。でも、見た目はいまいち美味しく感じないんですよ。先週出してくれた穴子の天ぷらは、衣がサクサク、中はふっくらとしてて、とても美味しかった。プリッとした海老の天ぷらとは対照的な食感でした。その時、両方出してくれたので、二つの美味しさがしっかりと認識できたんだと思います。そこでなんですけど、穴子づくしっていうメニューがあってもいいんじゃないかなと思って」
本来、口下手な善幸なのに、この時ばかりはスルスルと言葉が出てきたので、自分でも驚いてしまった。
酒井のおばちゃんの動きが俄に止まった。
「善くん、具体的にどんなのを思い付いたの?」
おばちゃんがそう言ったら、親方は笑みを浮かべながら赤面している。確かに、まだ一年も経っていない見習いに、メニューの提案をされるなんて思ってもみなかっただろうから。
未華子は、厨房と客席を行ったり来たりしていた。善幸の途切れ途切れの話を繋ぎ合わせながら聞いていたようだ。
善幸は、おばちゃんたちの方へ顔を向けて話しはじめた。
「その穴子づくしなんだけど、俺はね、お客さんに三つの楽しみ方を知ってもらいたいと思っているんだよね。つまり、穴子の棒揚げ、これは天丼として出してもいいかな、目を引くから。ま、この手の天丼は他の店にもあると思うけど、季節感を抱かせる野菜根菜類を微妙な衣加減で、つまりね、しっかり色味を出させて、お客さんの目を引く独特の盛り付け方で提供するのがいいと思うんだ。見た目の差別化ってやつかなあ~。でも、基本はやっぱ揚げ方で勝負でしょう。『見た目で他店に勝り、食して納得』当たり前のことなんだけど、そこんとこに拘ったらいいんじゃないかな。言うのは簡単だけどさ。そんな感じかな?」善幸が得意気な顔つきで言った。
善幸はこのとき、色味を添える野菜根菜のてんぷらで頭に思い浮かんだのは、たけのこ、かぼちゃ、舞茸、ししとう、大葉、うーん、強い赤みがほしいな……とすると、パプリカ? 金時人参か? やっぱり穴子が主役とは言え、どんぶりからはみ出た穴子に海老の尻尾を天高くそそり立てると力強いかもしれないなあ、と発想を重ねていく。
皆は続きを聞きたいようだった。善幸は勿体ぶるように――。
「これじゃ天丼だけでお腹いっぱいになりそうだよね。でもいいんじゃないかなあ、それで。一人で来るお客さんって、うちの店は少ないじゃないですか。皆で色々なものを分け合って愉しく食べてもらえばいいと思う。あとね、ふっくらとした煮穴子と対比させて、こんがりと焼けてきたところに脂が染み出てきた白焼きを朱塗りの器にのせるってのはどう? 白焼きはお客さんの好みで、わさび醤油で食べてもいいし、塩でもいい。また、お客さんが煮詰めを煮穴子に塗り照からせれば、別な逸品として認識すると思うんだ。隣にある白焼きが目に入ってくるだろうからさ。旨そうに感じるんじゃないかな。ともあれ、外食産業である以上、見た目の旨さ、第一印象ってことだけどさ、これはお客さんとの勝負事でもあり、他店との闘いってことなんだよ。だから、提供の仕方は、店の存続に関わってくるんだっ、……と思ったんだけど」
親方を余所に、善幸は、自分の考えたメニュー【穴子づくし】を自慢気にお披露目してしまった。
「いいんじゃない!」と声を揃え、おばちゃんたちは頷いてくれていた。
突然、善幸の背後から、
「善くん、あたし食べたくなってきたあー」未華子がそのイメージを捉えたようだ。
すると、親方が、酒井のおばちゃんに「冷蔵庫にある穴子の煮汁なんだけどよ、半分煮詰めとして使うか。お客さんが空いてきたらでいいから、それに醤油とみりんを足して弱火で煮詰めてくれないか」と指示を出した。
「明日休みだから、明後日の穴子の仕入れから徐々に増やしておくか」親方が呟くように付け足した。
善幸は、もしかして、自分の提案した新メニュー【穴子づくし】を親方はやろうとしているのだろうか、と半信半疑で聞いていた。
「やるつもりなんだね、親方っ」
その酒井のおばちゃんの一言で、善幸は単なる見習いから、親方の愛弟子に格上げされたような気分になった。
「ただな、善幸はまだ穴子の扱い方を知らないだろ、簡単に煮穴子と言うけれど、その煮汁を〝これでいいだろう〟と思える段階まで、それもいつも一定の味に仕上げるのは簡単なことじゃないんだ。穴子だって生き物だからよ、季節によって脂の乗りが違うし、またサイズだって日によって、たとえこっちが指定したサイズを注文したからと言って、それが手に入るとは限らない。〝もの〟次第で臨機応変にこっちが立ち回らないといけない場合がある。凡てにおいて、想定外もあったりしてよ。また〝微妙な匙加減〟ってーものもあって、それらをバランスよく扱えるようにならないといけないわけだ」
そんなこと、覚えて慣れてしまえばいいだけのこと、難しそうで大したことではないと善幸は踏んだ。そこで、
「と言うことは親方、自分自身の手先と舌と勘が頼り、ってことになりますよね?」と同意を求め、しっかりと理解したことをアピールした。
しかし、親方は、まるでこっからが本題なんだとでも言いたげに、「善幸、人の話は最後まで聞かないと、またその癖を付けるようにしないとな」と注意を促した。
善幸は、身体を親方の方へ向けて、聞く姿勢をとった。
「それでだな、善幸、話はこっからすっ飛んで行くからついて来いよ。たとえ分かんなくてもいいんだ。頭ん中のどこかで、少しだけでも引っ掛かってくれりゃそれでいい。そのうち、おまえだったら理解できるようになるだろうから」
真面目な話をする時の親方の瞳は、いつもキラキラしていた。
「でよお、そこに〝時間〟て―ものが絡んでくるわけだ。時間ってな、怖いものなんだよ。もたもたしていると、いつの間にかどんどん過ぎ去って行ってしまう。無駄に使ってばかりいると、気づかぬうちに年取っちまうものなんだ。俺みたいにな……」
親方は、これから何を話すつもりなのだろう。それって、穴子を煮る〝時間〟のことなのだろうか……。抽象的過ぎて、理解するのに苦しみそうな予感がした。
「時間って、人間にとっては癌みたいなものかなあ。放っといたら死期が早まるからだ。ほんでだな、こっからなんだが、今度はな、時間の使い方ってやつなんだけど、ちょっと難しくなるぞ。今、時間を無駄に使っちゃ勿体無いって言ったよな、今度はその逆で、敢えて時間を掛けてやるって話だ。そこに価値を見出す? そんな感じかな。和風で言うと、糠漬けとかよ、洋風で言うとピクルスみたいなものだろうか」
別な例えを閃いた善幸が言った。「日本酒、焼酎に対して、ブランデー、ワインってとこですかね?」
「ああそうだな、その例えの方がぴったんこかもしれんな。つまり、時間を掛けることで、腐ってしまうものもあるし、深い味わいが出て来るものもあるってこと。それは食い物だけじゃない。ここが解釈の難しいところだ」
一旦、親方は話を止めた。勿論、聞き終わるまで善幸は黙っていた。
暫くして、
「善幸、自分に振り掛かってくる様々な出来事ってよ、良いこともあれば悪いこともあるもんだよな。それも、悪いことの方が断然多い。なぜ悪いことの方が多いのか、考えたことがあるか?」
「そんなこと、考えたことありませんけど、日ごろの行いの良し悪しの量的なことですかね?」
「そうか、その答えを導き出すのはおまえの年齢じゃあ、ちょっと無理なようだな。その辺は素っ飛ばすことにするが、」
「親方、ちょっと待って下さい。ヒントだけでも教えてもらえませんか?」
善幸は食い下がった。置いてけ堀を喰らうような気がしてならなかったからだ。
「善幸、凡てを人から教えてもらおうなどと考えない方がいい。分からない場合は、理解できるその時機まで待つ忍耐力も必要ってことだ。その時の思い込みで、大きな勘違いをして先へ進んでしまうと、人間ってとんでもない過ちを犯してしまうことがある。そうなると、取り返しがつかなくなることもある。遡って修復していくだけの時間が残されていればまだいいが……。人の寿命ってよ、誰かさんから与えられた分だけってことなんだよ」
善幸は何も言えず、親方の顔を見ている。
「それでな、話を戻すと、時間が経つと変化していくものとしないものがあって、それが自分でも時間を掛けないと分からないことがよくあってよ、だからその正体を暴くためには、時間の経過を待つしかない場合があるってことなんだよ。そこには〝相手〟と〝自分〟を試すという意味合いもある。〝本物〟なら、その後、時間の経過以上の速度で成熟させて行く役割を担ってくれたりするもんじゃないのかなあー」
親方の話し方には注意が必要だった。止まった瞬間、友達と話すような口調で「それで?」などと言ってはいけない。話がしっかりと煮詰まるまで待つ必要があった。
稍あって、
「僧侶の偉いところってよ、」
「ええっ、〝そうりょ〟って、寺の坊主のことですか?」と、思わず訊いてしまった。
「まあ聞けよ、善幸。僧侶ってよ、何が偉いかって言うと、教えと真実、この二つが一致するかどうかは知らんが、それを見極めるための堪えうる凡ての精神力が備わっているということじゃないかな。それがなければ、とても僧侶などやってられんだろう。彼らは〝見聞きした真実〟を理解したつもりで放っておいてるわけじゃない。つまりな、借り物の真実を先ず自分の脳の中で分解した後、栄養として取り込むための工程を踏んだ上で身につけていくんだと思う。それを、ただ鵜呑みになんかしてないんだよ。じゃなきゃ、修行なんていらんよな。ま、そうは言っても、俺には全く分からん領域なんだけどよ」
善幸は、ここで質問をしたかった。質問していいのだろうかと一瞬考えたが、しかし少しでも理解を深めるためには訊かない訳にはいかない。
「親方、一つだけ質問させてください。〝見聞きした真実〟があるわけですから、〝見聞きしたこともない真実〟も存在するわけですよね、とすると、それはどうやって気づけばいいんですか?」
親方は何を考え込んでいるのだろう。
「人間ってよ、他の動物より暇なんだよ。昔はな、野良犬がそこら辺にいた。捨て犬なんだろうな。絶えず餌を求めて鼻をクンクンさせながら歩いてたよ。人間に虐められた野良犬たちは、人間が近寄ったりすると牙を見せ唸り声をあげた。毎日が生きるのに必死だったんだ。明日のことなど考えられないよな。そもそも、人間以外の動物ってよ、明日のことを考えてるだろうか……。ああ、でも子育てするから無意識に考えてるかもしれない。人間はどうだ? もしかして、小学生の頃から自分の老後のことを考えたりしてるガキがいるかもしれん。笑っちゃうよな。大金持ちはどうだ? ひ孫、玄孫の将来のことまで考えていそうじゃないか。財力に権力、あらゆる生活的余裕がそうさせてるんだろう。しかしよお、そんなの家康ぐらいで勘弁してほしーわ」
善幸は、何を話していたんだか、分からなくなってきた。
親方は、そんな善幸の表情を読み取ったようだ。
―つづく―




