5話 転生勇者のやらかしと戸惑い
昨日カイルザインと共に屋敷へ帰還したギルデバランとその分隊、そしてゾルパが提出した報告書に目を通し終えたヴィレムは内心驚いていた。
(カイルザインが短期間でここまでの功績を……あのカイルザインが領民のために進んで働くとは予想外だ。まるで人が変わったようだな)
カイルザインの実父、ヴィレム・ゼダンは彼が気づいた通りカイルザインの事を愛していなかった。母親の面影を強く継いだ息子を憎んではいなかったが、疎ましく感じていた。
何故まったく愛していない、政治的な義務だけで娶った女との間に出来た息子が、少年時代から想い合っていた妻との間に出来た息子よりゼダン公爵家の後継者に適した才能を持って生まれて来たのかと、思わなかった日はなかった。
しかし、カイルザインを露骨に冷遇すると彼の母親の実家であるビスパ侯爵家との間に溝が出来る。だからカイルザインとは距離を置き、極力同じ時間を過ごす事が無いようにして来た。自身の胸の内に抑えている感情を表に出さないように。
そのためヴィレムは実の父親でありながら、カイルザインについて知らない事が多い。彼の家庭教師を命じたギルデバランやゾルパ、そして他の使用人からの伝聞を通してしか彼を見ていなかった。
そして何者かに兄であるザリフトとその妻が殺され、残されたリヒトを引き取ってからは政務の傍ら兄を手にかけた犯人を捜査し、義理の息子になった甥を導き育てる事に注力してきた。そのため、カイルザインに割く時間はますます少なくなった。
そのカイルザインに対してリヒトが実戦に近い模擬戦で引き分けた事で、彼にはカイルザインと渡り合う力が既にあると判断し後継者争いを始めたのだが……。
(魔物退治はともかく、山賊団七つに、それらと違法な取引をしていた奴隷商店四つを摘発か。現地の衛兵も噛ませるとは、ギルデバラン……いや、ゾルパの入れ知恵か?)
ヴィレムが知るカイルザインは、武術や魔法に優れた才能を持ち、座学も不得意ではないが賢さに欠ける傾向があった。そして他人に対して尊大で攻撃的、直情的で根回しというものが出来ない。つまり、政治家に向かない。
しかし、彼等が提出した報告書や摘発された奴隷商人が店を開いていた町を治める代官達からの報告では、実に上手く立ち回っていた。
さらに、奴隷商人の店から違法に捕らえられた十数名のドリガ帝国人が発見された。
ドリガ帝国はゼダン公爵領と国境を接している、メルザーク王国の歴史的な敵国だ。これまでの歴史でお互いに侵略を繰り返してきた。現在は小康状態を保っているが、それは友好国になったのではなくただ戦争が起きていないだけだ。
現在でもメルザーク王国とドリガ帝国の間に、正式な国交は無い。そのドリガ帝国人が何故メルザーク王国の奴隷商人の店で救出されたのかというと、国境沿いで悪事を重ね両国を行き来していた山賊団がいたからだ。
そして、救出されたドリガ帝国人は一先ずその町の代官が保護する事になった。
しかし、友好国どころか互いに何度も侵略を繰り返してきた敵国の民を保護してやる義務は、ゼダン公爵家には無い。だが、戦場で相対した敵兵ならともかく、自国の商人に監禁されていた無力な平民を見捨てるのは外聞が悪すぎる。
そのため、ヴィレムは王国政府に連絡しドリガ帝国人の事は外交官に任せる事にした。
ヴィレムとしては厄介ごとを押し付けただけだったが、王国の外交を司る外務卿の代理から「ご子息のお陰で、帝国と会談する良いきっかけが出来た」と言われた。外務卿の任に着くのは弁が立つ貴族の言葉なので、どこまで本気か分からないが。
そのため、カイルザインは二カ月程の演習で多くの領民や衛兵から支持を得て、そして王国の外務卿に顔を売る事に成功した。
魔物退治だけだった場合、得られる支持は魔物の被害に遭っていた村の住人だけだっただろう。運も味方したのだろうが、大した成果だ。
(これは評価しなくてはならない)
家臣やカイルザインも気がついているように、ヴィレムは彼を疎み、義理の息子のリヒトを贔屓している。兄であるザリフトの面影を残したリヒトが爵位を継ぎ、タレイルが文官として彼を支える。それが彼にとって最も理想的な未来図だ。
以前はカイルザインの母の実家であるビスバ侯爵家との間に政治的な溝を作るのは具合が悪かったので、カイルザインにも配慮していた。
しかし、最近ビスバ侯爵家が代替わりし、当主がゼダン公爵家と同じ国王派から貴族派に転身した。そのため、もう配慮する必要はない。
しかし、今回のように違法な人身売買カルテルが形成されていたとは、領主として完璧ではないにしろ領地の治安を維持してきたと自負があったヴィレムにとって、認めがたい事実だった。
それを正したカイルザインの功績を過小評価する事は、領主としてできない。
それに、この功績によって彼を支持する領民、そして家臣も増えるだろう。
(内面まではあの高慢な女に似なかった、と言う事か。
しかし、リヒトはさらに私の予想を超えてくれた。流石、兄上の息子だ)
後継者争いで大きくリードしたかに見えたカイルザインだったが、リヒトは演習に出なくても思わぬ形で功績をあげ、露骨な贔屓は必要ないとヴィレムを安心させてくれた。
その時、執務室の扉がノックされた。
「ヴィレム様、リヒト様が参られました」
「入りなさい」
執事のクランベが扉を開け、リヒトが緊張した様子では入室する。
「リヒト、椅子に掛けて楽にしなさい。今日は、君の発明に関して話をしたい。クランベ、何か淹れて来てくれ」
「畏まりました」
リヒトがあげた功績とは、発明だった。ゼダン公爵家の歴代の後継者争いでも、発明を成し遂げた者は彼が初めてだ。
「父上、その発明についてですが……そんなたいした事ではないかと……」
しかし、リヒト本人はそれを誇る様子はなかった。それどころか、まるで悪戯を叱られている子供のような顔つきをしている。実際、本人の心境としてはそれに近い。
(思っていたより大事になってしまった!)
何故なら、特訓の結果後継者争いの開幕を三年早めた事に続いて、また原作改変をやらかしてしまったからだ。
「大したことではない、か。座学の家庭教師を頼んだエンフィールド殿は、歴史に残る大発明だと言っていたが?」
ヴィレムの手元にはそのエンフィールドが、リヒトの発明に関して纏めた書類があった。そこには、現代日本では特に珍しくもない物……棒グラフや円グラフ、そして折れ線グラフについて書かれている。
きっかけは、座学の課題だった。
リヒトは剣や魔法、乗馬や礼儀作法以外にも貴族として当然の教養を身に着けるため、座学の授業も受けている。しかし、リヒトに生まれ変わってからの六歳までの間に基本的な読み書きを母から教わっていたし、数学は前世の記憶があるため現代日本の中学校レベルまでなら問題なく使える。
メルザーク王国や周辺国家の歴史や、国教であるエノク教について学ぶ神学は一から覚えるしかなかったが、前世から暗記科目は得意だったので何とかなった。
しかし、それが不味かったのだろう。九歳とは思えない成績を出し続けるリヒトを見て、家庭教師を任命された学者のエンフィールドは彼の教養をより高くするために、同年代の貴族の子弟に出すよりも難しい課題を出すようになってしまった。
だが、自分以外の貴族の子弟が座学でどんな課題に取り組んでいるのか知らないリヒトは、課題が難しくなったのではなく自分が授業についていけていないのだと誤解した。
剣や魔法に集中しすぎて、座学を疎かにしてしまったのだと思い込んだリヒトは、必死に勉強に取り組んだ。そして、『毎年の税収の推移について述べよ』という課題に答えるために、エンフィールドから習っていなかったグラフをつい使ってしまった。
それを見たエンフィールドに「これは何かね?」と問われたため棒グラフについて、そして話の流れで円グラフや折れ線グラフについても説明したら、「素晴らしい! これは歴史に残る大発明だ!」と彼が叫び出した。
その時リヒトは初めて、この世界にはグラフが存在しなかったのだと気がついたのだった。
(だって仕方ないでしょう!? そんな事エルナイトサーガには書いてなかったんだから!)
主人公が剣と魔法の世界で冒険を繰り広げ世界を救うファンタジーライトノベルのエルナイトサーガでは、どんな学問があり現実とどんな差異があるのか詳しくは書かれていなかった。無理もない、それは作家にとって書きたいテーマではなく、多くの読者にとっても興味がある事ではなかったのだから。
そのためリヒトは深く考えず前世の学校で習った知識を使ってしまったのだった。
「実は、グラフは僕が思いついたものではなく、両親から教わった物なので……」
「ザリフト兄上……君の父上は昔から座学が苦手だった。特に、数学は見るのも嫌だと子供の頃から屋敷を抜け出して、家庭教師の先生を困らせていたのを今も覚えている。
君の実の母上のヒルダ殿も、優れた魔道士だったようだが、彼女も研究よりは実践に力を入れるタイプだったと聞いている」
(ヤバイ、父上の方が僕より両親に詳しい!)
血のつながった親子ではあるが、リヒトが両親と生活できたのは六歳まで。それに対してヴィレムはザリフトと十年以上同じ屋敷で暮らした兄弟だ。兄の妻に関しても、事件について調べるうちに詳しく知るようになっていた。
一方リヒトは父がゼダン公爵家出身だった事すら父の死後に知ったぐらいで、両親に関しては知らない事の方が多い。
さらに、エルナイトサーガでも主人公の両親については詳しく語られていないため、葛城理仁もザリフトとヒルデについては名前も覚えていなかった。
しかし、リヒトはグラフを自分自身で発明した事にはしたくなかった。何故なら、彼の前世の葛城理仁は文系で、数学は得意ではなかったからだ。この事がきっかけで、「リヒト・ゼダンには数学の才能がある」と思われたら後々困る。
それに、家庭教師のエンフィールドは「リヒト君! この『グラフ』を君が発明したのなら、『グラフ』ではなく『リヒト』と命名するべきだ! そうしよう!」と、恐ろしい事を言っていた。
地球でも有形無形にかかわらず発明や発見に自分の名を名付けた学者は多い。だからと言って、この世界で棒グラフや円グラフ、折れ線グラフが、棒リヒトや円リヒト、折れ線リヒトになるのは勘弁してほしい。
「実は、父さん達が持っていた古文書に描かれていたのを見たのを覚えていただけなんです」
そこで、なんとか捻りだしたカバーストーリーがこれだった。
「古文書を?」
「はい。書かれていた文字や数字が母から習ったばかりの言葉を似ていたお陰で、部分的には読めました。
でも、全て読めたわけではないし、それが正しい読みだったのかも分かりません。だから、僕がグラフと呼んでいるものが本当はなんて呼ばれているのか、用途が正しいのかも不明です」
「なるほど。では、その古文書は今どこにあるのか分かるかね?」
「いえ、分かりません。たしか、好事家に売ったと父が話していたような気がしますが……」
「そうか。古文書を集める者は多い。学者の手に渡ったのならグラフは既にその学者の発見として発表されているだろうから、それ以外だろうが……絞り込むことは難しいな」
リヒトが思いついたカバーストーリーは、上手く機能した。咄嗟に捻りだしたため細部があやふやで、それを説明するリヒトの態度に自信が無かったのが逆に都合よく働いた。
ザリフトが存命だった六歳より幼い頃の記憶のため、細かい事を覚えていないのだろうとヴィレムに思わせられたからだ。
「だから、グラフは僕の発明ではなく――」
「発明ではなく、発見だな。分かった、リヒトの名前は命名しないようエンフィールド先生には私からも話しておこう」
おかげで最悪の事態は切り抜けられたと、リヒトはほっと安堵した。
「それと、君も今年で十歳だ。秋には王都の別邸に行き、社交界へデビューする事になる。礼儀作法とダンスの授業にも励むように」
煌びやかな社交界。リヒトの前世である理仁にとって、剣と魔法以上の未知の世界が迫っていた。
地面に対して垂直に立てられた、人の背丈ほどもある太い丸太。十歳程の少年が、その丸太の前に訓練用の刃を潰した剣を持って立つと、構えを取った。
「はぁぁぁ……」
息を大きく吐き、吸う。歳に似合わぬしっかりした構えだったが、そのまま剣を振るっても丸太を切断するどころか、下手をすれば剣が折れるだけだ。
だから、少年はそのまま剣を振るいはしなかった。
「はぁぁぁぁぁ……」
呼吸を整え、体内に宿る魔力……万物の根源であるマナを操作する。柄を握る手から刀身を包むように浮かび上がり、鋭い刃を形成するイメージで。
すると、本当に少年の手から淡く輝く何かが出現し、剣を包むように広がっていく。
「はぁぁぁぁ! うおぉぉぉりゃっ!」
そして、少年は魔力で包んだ剣を丸太に向かって袈裟懸けに振るった。すると、剣は折れるどころか逆に丸太を叩き折ってしまった。
「や、やったっ!? どうだ、デリッド爺ちゃん!?」
赤毛に太い眉をした意志が強そうな顔立ちの少年は、振り返って剣の師匠でもある祖父に尋ねた。
「うむ、確かに身体能力の強化と魔力の操作には成功したようだな。百点満点中三十点だ」
しかし、祖父の審査は少年が期待したよりずっと厳しかった。
「低いっ!? なんでだ!?」
「アッシュ、身体能力と魔力の操作にしか成功しておらんからだ。儂は丸太を切れと言ったのであって、折れとは言っておらん」
前ゼダン公爵騎士団団長のデリッド・ダンロードは、優しそうな顔立ちを崩さないまま孫のアッシュにそう答えた。
「リヒト様。孫に見本を見せてやってくだされ」
「分かりました」
デリッドから指示されたリヒトは、二本目の丸太の前にアッシュと同じように立った。その手に握られているのは彼が使ったのと同じ訓練用の剣だ。
「はっ……!」
そして同じように体内の魔力を操作して身体能力を強化し、剣を包む。
(イメージしろ。薄く鋭い刃を!)
違うのは、アッシュのように剣を魔力で包むだけではなく、魔力の形状まで操作して剣に無い刃を作る事だ。
この世界では、マナ……魔力が万物の根源だ。リヒトが構えている剣も、彼が呼吸している空気も、そしてリヒト自身の存在も魔力によって創られている。
だからこの世界では、魔力を操れればだいたいの事が出来るようになる。
「やぁっ!」
例えば、まるで熱したナイフでバターを切るように、刃の無い訓練用の剣で丸太を切断する事だって可能だ。
「すげぇ……流石リヒトだぜ。もう完璧だな!」
「完璧ではない」
丸太の切断面を見て歓声をあげるアッシュだが、やはりデリッドの評価は厳しかった。
「魔力の操作に時間がかかりすぎている。それでは実戦では使い物になりません。ただの兵士ならともかく、ゼダン公爵家や国王陛下に仕える騎士は、その程度の魔力操作は一呼吸で出来る。
七十点」
冒険者の剣士や傭兵、兵士と違い騎士は主君への忠誠心や礼儀作法を含めた教養の他に、魔力の操作と制御技術が必須とされる。
それは魔力の操作や制御技術があれば、ただの剣の一振りで金属鎧を着た重戦士の胴体を両断し、敵の魔術師が放った攻撃魔法を防御する事が可能になるからだ。
もちろん騎士と言ってもピンからキリまでおり、小さな領地を治める零細貴族はただの力自慢の若者を形だけ騎士に任命している場合も珍しくない。
ただ、ゼダン公爵家に仕える騎士となれば、国王に仕える騎士団と同じかそれ以上の水準が求められて然るべきなのだ。
「将来ゼダン公爵になるおつもりなら、身体能力と武器の強化と魔法の行使が同時に出来るようにならなくてはなりません」
「はい、デリッド師匠」
「うへぇ、大変だな、リヒト」
「アッシュ、お前もだ。お前はそのゼダン公爵家騎士団の騎士になるのだからな」
そう孫に釘を刺すデリッドだったが、内心は孫とリヒトの才能とそれを磨く努力が出した成果に驚いていた。
何故なら、デリッドが魔力を実戦レベルで操作できるようになったのは十五歳……騎士団で騎士見習いをしていた頃だったからだ。
そのリヒトの後継者争いのライバルであるカイルザインが、十二歳にして実戦で魔力操作と魔法の詠唱を同時に苦も無く熟す天才であるため、その事は告げていないが。
上を目指す弟子と孫に、下の事を話す必要はない。
(この分なら、来年には斬り合いの最中でも魔力を操作できるようになるだろう。カイルザイン様のように、演習に……いや、それはまだ早いか。リヒト様は優しすぎる)
魔力の操作や攻撃魔法が使えるようになれば、リヒトもカイルザインのように演習という名目で屋敷の外に出て、実戦経験を積む事を考えたデリッドだったが、それはまだ早いと結論を出した。
何故なら、リヒトがカイルザインと違い他者を殺す事を躊躇う普通の少年だったからだ。
考える余裕もない命がけの殺し合いや、怒りで理性が麻痺していれば殺す事を躊躇う事は無いだろう。しかし、満身創痍で立ち上がる事も出来なくなった魔物が哀れみを誘うように鳴いていたら、止めを刺すのに躊躇してしまうだろう。
もしかしたら、ゴブリンでも殺した事を後悔し、後々まで引きずる事になるかもしれない。デリッドのそんな推測は正しかった。
葛城理仁として人権意識の高い現代日本で生きた記憶と人格を持つリヒトにとって、殺人への忌避はこの世界の人々が持つものよりずっと強い。
しかし、いつかは人を殺さなければならない。エルナイトサーガの主人公のリヒトとして自分を含めた世界を救うには、危険な犯罪者とはいえ人間で構成された滅天教団と戦わなければならないからだ。
だからリヒト自身も人殺しをしなければならないと理解していたが、どうしても気が重かった。
それに、リヒトには気がかりな事がもう一つあった。
「アッシュ、お前がリヒト様と共に剣の修行を受けているのは、リヒト様の模擬戦相手を務めるためだ。いつまでもリヒト様に後れを取っていてはいかんぞ」
「分かっているよ、爺ちゃん。
リヒト、もう一度見せてくれ!」
「分かった。じゃあ、ゆっくりするぞ」
それは原作改変が進んでいる事だ。
リヒト自身のせいでグラフがこの世界に広まるだろう事が、今後どんな影響を及ぼすのかは分からない。ので、それは一旦棚の上に置くとして……カイルザインの山賊討伐と奴隷商店の摘発は、明確な原作改変だ。
何故なら、原作のエルナイトサーガで人身売買組織と戦うのは物語の序盤。主な舞台がゼダン公爵領だったため、便宜上ゼダン公爵領編と呼ぶが、その後期。十五歳になったリヒトが王立学校の入学を二カ月後に控えた冬に起きた事だ。
そして戦ったのはリヒトと彼の家庭教師たち、そして親友のアッシュだった。カイルザインとその家庭教師二名とその部下達ではない。
エルナイトサーガの序盤であるゼダン公爵領編の後期。主人公であるリヒトの初恋の人であるメイドの少女、マリーサは休暇を貰い故郷に向かう途中で、乗合馬車ごと山賊に攫われて拉致されてしまう。
マリーサが行方不明になった事を知ったリヒトは、剣の師匠であるデリッドと魔法の先生であるプルモリーを説得し、演習という名目で親友のアッシュとデリッドの元部下の騎士団員達と共に捜索に向かう。
そして遭遇した山賊を退治し、彼等を尋問して吐かせた情報を基に捜査を進めると、治安が保たれていると思っていたこのゼダン公爵領にいつの間にか大規模な違法人身売買組織が根を張っていた事を知る。
街を納める代官の部下や衛兵、更には騎士団にまで組織と繋がっている者がいて、ゼダン公爵領で捕まえた奴隷を隣国へ、隣国で拉致した奴隷をゼダン公爵領で売りさばいていたのだ。
想定していたよりも敵の組織力と規模が大きかったため、「一旦ヴィレム様に報告し、応援を求めるべきでは?」と思案するデリッドに、リヒトが「誰が敵と通じて居るか分からない。信用できるのは、今ここにいる皆だけだ」と説得した事で、少数精鋭で組織の摘発に挑む。
組織のアジトは、表向きは正規の奴隷商人の店の秘密の大規模地下施設。そこに侵入したリヒト一行は、上手く組織に気がつかれずマリーサを含めて囚われていた人々を解放。しかし、脱出する前に組織に気がつかれてしまう。
組織に雇われた傭兵との激しい戦闘が繰り広げられる。だが、まだ人の命を奪った事が無いリヒトは傭兵達を殺さないよう手加減してしまうため、敵を倒すまで時間がかかってしまう。
そして戦いの最中。騎士の守りを突破した傭兵が人質にしようと囚われていた人々の中にいた子供に襲い掛かる。しかし、とっさにマリーサが庇ったために子供は助かった。だが、その代償に彼女は凶刃に倒れてしまう。
「殺す気は無かったのに、余計な真似をしやがって」と吐き捨てる傭兵を、初めて殺意を覚えたリヒトが切り伏せる。
そして人身売買組織を壊滅させたリヒトは、組織の残党をデリッド達と共に捕えた。そして、組織の裏で裏に大魔王の復活を企む邪教、滅天教団が糸を引いていた事を知る。
そしてマリーサを喪った悲しみ、初めて人を殺した衝撃、そして捉えられなかった滅天教団への怒りを胸に、親友のアッシュと共にもっと強くなろうと誓い合うのだった。
(それがエルナイトサーガでの出来事だけど……この世界では僕じゃなくてカイルザイン達が、組織が形になる前に壊滅する事に成功した)
日が暮れるまで剣の修行に打ち込んだリヒトは、夕食までの間自室に戻りエルナイトサーガと現実の差異を比べて、何故そうなったのか、そして今後どうなるのかについて考えていた。
(あれから皆に話を聞いたけど、カイルザインが原作と違って真面目に剣と魔法に打ち込んだのは、義弟の僕が頑張ったかららしい)
リヒトはただ将来良い方向に原作を改変するために強くなる必要があっただけだが、カイルザインは義弟の成長を無視する事は出来なかったのだろう。
(その結果、原作開始時と同じくらい強くなった僕を見て、父上が原作より三年早く後継者争いを開始。それで、カイルザインは危機感を覚えて演習に出て、山賊と遭遇)
途中から完全に伝聞であるが、カイルザイン一行が行った事は演習から戻ったギルデバラン達が率先して広めていたため、リヒトも知っていた。
カイルザイン一行が退治した山賊と摘発した奴隷商店が、テュポーンの前身なのは、間違いない。捕まった奴隷商人の一人の名前が、エルナイトサーガに登場していた。
しかし、原作より三年以上前に潰された影響だろう。一つの組織と見るには個々の繋がりが薄く、規模も小さかった。そのせいか、滅天教団とはまだ繋がっていなかったようだ。
そのせいで三年後にリヒトがあげる功績や、アッシュ達と一丸となって戦ってより強い絆を育むきっかけが無くなってしまったが――。
「リヒト様、お茶が入りましたよ」
「ありがとう、マリーサさん」
それは別にいいと、まだメイド見習いのマリーサが入れてくれた紅茶を受け取った。
「私は使用人だから呼び捨てで良いって言っているのに。社交界では気を付けてくださいよ」
「うん、分かっているんだけど、ついね」
マリーサが初恋の人なのはエルナイトサーガの主人公のリヒトであって、葛城理仁が生まれ変わったリヒトでもない。
リヒトにとってマリーサは年上の幼馴染、親しい友人だが彼女の命を守るために原作改変に取り組もうとしていたから、彼女が命を落とす事になる事件の芽が摘まれた事は素直に嬉しい。
功績をあげ、アッシュ達と一丸になって戦う機会は他にいくらでもある。三年後に違法人身売買組織テュポーンが存在しなくても、悪党や魔物が絶える事はない。
唯一気がかりなのは、テュポーンの後ろで糸を引くはずだった滅天教団がどうなっているかだ。しかし、謎に包まれた邪教団の行動を、リヒトだけで予測する事は出来そうもない。
(それとも、SF物にありがちな正しい歴史に戻そうとする修正力とやらが働いて、改変を戻そうとするのだろうか?)
「リヒト様、そろそろ夕食の時間です。食堂へ行かないとお料理が醒めてしまいますよ」
紅茶を飲みながら考え事をしていたリヒトだったが、マリーサに声をかけられてハッと我に返った。
「部屋で食べちゃダメかな? 今日、剣の訓練で疲れてしまってね」
「カイルザイン様と顔を合わせるのが気まずいでしょうけど、ダメです」
ゼダン公爵家で出される食事は豪華で美味しく、十分な量が出される。しかし、カイルザインが屋敷にいる時は必ず彼と顔を合わせる事になるので、リヒトとしては苦手な時間だった。
その一カ月後、リヒトはそのカイルザイン、そしてタレイルと同じ馬車に向かい合って座り、城で開かれる社交パーティーに向かっていた。
(き、気まずい)