31話 躍進のヘメカリス家と義兄弟の対談
ラドフ・ヘメカリス子爵とヘメカリス子爵家一族が彼以外の王侯貴族にとってどんな存在かと言うと、良い意味でも悪い意味でも「その他大勢の地方領主とその一族」だった。
特別有能でもなければ、王国に大きな貢献を為している訳でもないが、無能ではなく大きな失敗もしていない。一族の歴史の深さもそれなりで、他の子爵家と比べても中堅。同じ貴族派はもちろん、敵対派閥の国王派からも特別に注目されてはいなかった。
「ラドフ・ヘメカリス子爵。汝を滅天教団の企みを阻止し、セオドア・ジャオハを討ち取った討伐隊を指揮した功績によって領地と報奨金を与え、伯爵へ陞爵とする」
だが、この瞬間ラドフ・ヘメカリスとその一族は王国で今年最も注目される一族となった。
ラドフ・ヘメカリスとその息子エザクは、あの戦いで直接功績を上げたわけではない。剣を手にして自ら戦った訳でもなく、素晴らしい策を思いついたわけでもない。
だが、討伐隊の指揮官は彼だった。そのため、カイルザインが分かりやすい恩賞を辞退した時彼に話が回ってくるのは当然の成り行きだった。
王国としても、ジャオハ侯爵家が抜けた穴は早々に塞ぎたい。王国西部の貴族を纏める上級貴族が居ないのでは、政治的なバランスを欠くからだ。直轄地にして王国政府がその役割を果たそうとすると、貴族達からの反発が強まってしまう。カイルザイン達の手柄を掠め取った、なんて噂を立てられたら一大事だ。
そこでヘメカリス子爵を侯爵にして、ジャオハ侯爵家の領地を治めさせようという意見が出た。今回はセオドアやその一部の寄り子達のせいで貴族派の力が削がれているので、何処かで補填しなければならなかったから丁度いい。
「ははっ! 謹んで拝命いたします!」
その事を打診された時、ラドフは一瞬舞い上がった。領地が増えれば税収も上がるし、何より下級貴族から上級貴族への成り上がり、それも子爵から侯爵になるなんて夢のような話だったからだ。
しかし、すぐに現実を思い出してラドフの顔から血の気が引いた。そして、すぐに話を打診した宰相に縋りつくようにして答えた。無理ですと。
まず、人が足りない。ヘメカリス子爵領の十倍以上の広大なジャオハ侯爵家を治めるには、子爵家で抱えている家臣ではあまりにも少なすぎる。しかも、ジャオハ侯爵家で使われていた文官達は、セオドアの陰謀に加担した疑いがあるので、すぐに働かせる事が出来ない。
他にも子爵から侯爵に昇爵する事で、変わる事は多い。王都のタウンハウスも今使っているものから侯爵に相応しい屋敷に引っ越さなければならないし、馬車や家具や調度品も相応しい物を揃えなければならない。
社交においても、侯爵となれば子爵だった頃とは参加する夜会やお茶会の格が変わる。侯爵に相応しい装いをしなければならないし、自ら主宰する時は公爵や他国の大使を招いても問題ない料理に食器、調度品を揃える必要がある。
さらには家の立場が変わり過ぎる。これまでは大貴族の寄り子だったのに、今年から大貴族になって寄り子を纏めろなんて無理難題にも程がある。
そのため、侯爵ではなくとりあえず伯爵で、と言う事になったのだ。
もちろん、侯爵よりも一段下とはいえ伯爵位への昇爵でもヘメカリス一族にとっては大きな変化だ。しかし、王国政府もこれ以上は譲歩できない。
報奨金や人材の斡旋等の援助を受けて、ヘメカリス伯爵家は新たな領地の統治と伯爵位に相応しい装いを揃えるために奮闘する事になるだろう。
直近の試練は、嫡男のエザクの婚約者探しだろう。ラドフには既に正妻だけでなく、商家出身とはいえ若い側室が居るのでそう言った話は殆どないだろうが、まだ婚約者候補もいないエザクには釣り書の山が出来る事だろう。
「マーヴィン・ケビロス準男爵――」
次に名が呼ばれたのは、フェルゼン・ケビロスの父、マーヴィンだった。息子と同じく長身で逞しい体躯に、冒険者時代に負った傷で視力を失った右目に眼帯をした壮年の男性だ。
次にケビロス家で王宮に招かれるのは、まだ生まれていない孫になるだろう。そう思っていたため、ただでさえ厳めしい顔が緊張のせいで更に硬くなっている。
「――以上の功績をもって、男爵へと陞爵し褒賞金を与えるものとする。また、税の免除は当分の間継続するものとする」
「メルズール王国に改めて忠誠を誓い、繁栄に寄与する事を誓います」
討伐隊に騎士を派遣した貴族達の中で、唯一嫡男自らが参加し、ヘメカリス親子を守りジャオハ侯爵家騎士団の討伐と拘束に目覚ましい働きを見せる等、功績を上げた事を評価され、ケビロス家は開拓の成功を待たず準男爵から男爵となった。
とはいえ、陞爵はケビロス家にとってはオマケに過ぎない。彼らの開拓事業は堅実に進んでおり、マーヴィンの孫、フェルゼンとキリエラの子の代には正式に男爵として認められるだろうと予想されていたからだ。
彼等にとって重要なのは莫大な報奨金の方で、これで資金力を増して一気に開拓を進める事が可能になった。
なお、フェルゼンとキリエラの結婚は予定をやや早めて今年の冬が来る前に行われる事になった。リジェル・ビスパ侯爵が、「ヘメカリス家が伯爵へ陞爵する事で、ご息女とフェルゼン殿との結婚に横槍を入れる者が出て来るはずだから、予定を早めた方がいい」と助言したためだ。
後日、実際にヘメカリス伯爵家に「ケビロス男爵家のように現当主の親は平民だった歴史の浅い家は、ご息女の嫁ぎ先として相応しくありません! なので是非我が家に!」とキリエラに求婚しようとする者が次々に現れ、彼女を呆れさせた。
もちろん、フェルゼンが準男爵家の嫡男だった時から婚約し、その商才を振るうつもりだったキリエラが新たな求婚者達に靡くわけもない。
「次に、この場で貴族法の改正を発表する」
宰相は、これまで貴族は国王に仕える者であり、貴族に仕える者は主の爵位に関わらず準貴族にしかなれなかったがそれを改正すると述べた。
「今後、王位継承権を持つ者は貴族であっても王族に準ずるとし、公爵家に仕える者には功績によって爵位を授けるものとする」
これまでは騎士はメルズール王家に仕える王立騎士団に所属する騎士以外は、全て準貴族の騎士爵だった。しかし、今後は王国に三つある公爵家に仕える騎士は、男爵位以上の爵位に着く事が出来るようになったのだ。
「次に名を呼ぶ者達の爵位を男爵位に陞爵するものとする」
そして名を呼ばれたのは、ゼダン公爵家騎士団現団長グレン・ダンロード。そして同騎士団分隊長ギルデバラン・トルバ。
グレンの場合は滅天教団幹部のジャドゥル討伐の功績、そしてギルデバランの場合は功績と人魔長官の任についたカイルザインの補佐をする事になるため爵位を与えた方が王国政府としては都合がいいという判断――を下すようリジェルが誘導した――ためだった。
「ゾルパ・ケインに男爵位を授ける」
そして、ゾルパも男爵となった。これも人魔長官となったカイルザインが、「人魔の調査研究には我が師にして最も信頼する闇魔法の使い手であるゾルパの知識と技術が必要不可欠」と主張し、リジェルが王国政府に働きかけた結果だ。
今後、南のグルブラス公爵家や王都の法衣貴族の頂点に立つナゼンダ公爵家に仕える準貴族達も、功績を上げた者から男爵位を賜る事になるだろう。
「以上とする」
こうして今回の事件解決に際して功績を上げた者達は評価されたのだった。
なお、討伐隊に参加した『千刃兵団』を始めとして傭兵団、『果て無き道』達冒険者に対してはそれぞれの依頼主から当初の倍以上の報酬を受け取り、それぞれのギルドからも評価されている。
広間から辞したカイルザインはゾルパとギルデバラン、そしてリジェルとラドフ・ヘメカリス伯爵、マーヴィン・ケビロス男爵と王宮の廊下を歩いていた。
「この度は私と息子を屋敷に滞在せていただいた上に、お披露目の夜会の世話までしていただき感謝いたします、侯爵閣下」
「私としても新たな友人に興味があったのでね。もっとも、甥が気に入ったコヒを融通してくれても構わないよ」
開拓地で貴族らしくない生活を続けていたケビロス家は、当然王都にタウンハウスを持っていなかった。そこで、リジェルが「甥っ子の戦友の話を聞きたい」とマーヴィンとフェルゼンをビスバ侯爵家の屋敷に招いたのだ。
そのままケビロス家の陞爵を祝う夜会と言う名の、開拓事業への融資を募るプレゼンテーション会の会場としても屋敷を提供する予定だ。
今回得た報奨金で財政は潤っているが、次期ケビロス男爵夫人のキリエラ曰く、「融資は、懐が温かい時こそ募っておくものですわ」との事だ。確かに、景気が良い者と切羽詰まった貧乏人、『施す』ならともかく『融資』するなら自分も前者を選ぶとカイルザインは思った。
「それはもちろん。カイルザイン殿のお陰で豆を焙煎して挽いたもので淹れる方法に気が付けたので、より美味しいコヒを楽しんでいただけるでしょう」
「お役に立てたようでなにより。後、モス茶もお勧めですよ、伯父上」
「ああ、あのお茶も不思議な風味だね。とろみがあって冷め難いから、これからの季節には良いかもしれない。ヘメカリス伯爵、モス茶の事業化は順調かな?」
ドワーフ達からカイルザインが融通してもらったモス茶は、伯爵家の嫡男となったエザクによって事業化が進んでいる。武具店のドワーフ達を顧問として雇い、お茶に適した苔の採取場所を習い、安定して苔を栽培する方法などの研究に着手している。名称をそのまま使うよりブランド化しようという事で、新しい名前を現在考案中で現在最も有力なのはカリモス茶だ。
モス茶の販売は、マスの養殖事業に続くヘメカリス伯爵領の新たな名物になる予定だった。
「へ? え、ええ、順調ですとも!」
しかし、予期せぬ幸運がモス茶の事業化の進みを遅くしていた。
「順調だと、息子から聞いているのですが……ゴブリンブッシュの地下で発見された鉱脈の調査の方に人手が割かれていまして。ドワーフ達の興味もそちらに向けられていて……」
そう、あのゴブリンの大群が群れていた地下空洞を調査した結果、アダマンタイトの鉱脈が発見されたのだ。閉鎖された地下空間にゴブリンの大群が生息し続けた事で汚染されたマナが凝り固まり、元々存在していた鉱脈をアダマンタイトに変化させたのだろうと、調査に参加した魔道士ギルドの魔道士は推測していた。
ミスリルに並ぶ魔導金属であるアダマンタイトはオリハルコンよりは希少さで劣るが、かつてヘメカリス家と領民の生活を支えた鉄よりも圧倒的に高価だ。しかし、高度や加工の難易度まで鉄を圧倒的に上回る。
そのため、採掘には専門の技術者と道具が必要であるためラドフはその手配に追われていた。リジェルを通じて王国政府に採掘量の一割を献上する見返りに、資金と人材を援助してもらい、ドワーフにも呼び掛けている。
また、ゴブリンブッシュの地下は弱いが魔物が発生し続けているため、調査や発掘事業の準備を進める傍ら、冒険者ギルドに依頼して魔物の駆除と技術者達の護衛を冒険者に頼んでいる。
将来、ヘメカリス伯爵領はアダマンタイトの採掘と加工で賑わう事になるだろうが、まだ先の事になりそうだ。
「そうか……まあ、急いでも焦らずにお願いしよう。キドルク殿に仕えていた文官達が励んでいるようだが、大変なようだしね」
「ええ、彼等のお陰で何とかなっております」
セオドアは五年前に領主代理に就任した後、父であるキドルクや腹違いの兄のカルザイに忠実で自分に靡かない者達をそれとなく重要な職から遠ざけていた。ジャオハ侯爵家の領地の約三分の一を治める事になったヘメカリス伯爵家の元に、その遠ざけられた者達が集まっていた。
キドルク本人は、残りの三分の二の元領地を治めるために王国政府から派遣される代官の部下として暫く働く予定だ。
「キドルク殿にはベリスと巡り合わせていただいた恩があるので……仕事が立ち直る助けになればよいのですが」
約十年前、領地の衰退を止めるために新事業を起こしていたラドフに当時はまだ健康だったキドルクはジャオハ侯爵家と取引がある商人の一人を紹介した。その商人はいくつかの事業をラドフに提案し、その事業に必要な技術者を斡旋する見返りに、自分の娘を嫁がせ強い結びつきを得る事を求めた。
そうして始めた事業の一つがマスの養殖であり、ラドフに第二夫人として嫁いだ商人の娘がベリスだった。
「ですが、まだ人手不足なので王都で新たに人材を探すつもりです。文官だけではなく武官も必要ですし」
「私も領地に戻る前に事務仕事が得意な人材を探しておきましょう。キリエラ殿には倅との時間も取ってもらわねばならないので」
「そうですな。地元もいいが、離れた場所で得難い人材に出会うという事もあると今回の件でよく分かった。なあ、カイルザイン君」
「ええ、彼女を配下として迎えられのは幸いでした。そうでなければ、今回の戦いはより苦しいものになっていたでしょう」
他所行きの笑顔でカイルザインが語るのは、当然ジェシカの事だ。彼はセオドアとの戦いで、ジェシカの有用性を確信していた。
ジェシカの力と頑丈さは、リヒトやアッシュとの戦いでも通用すると。
そのため、セオドアの討伐に大きく貢献したジェシカの立場はいまだにカイルザインの従僕のままだ。ゼダン公爵家で騎士叙勲を受けさせると、当主であるヴィレムの命に逆らえなくなってしまう。そして今回男爵になったギルデバランやゾルパの騎士と言う事にすると、書類上はカイルザインの従者になれないため王立学校へ連れていけなくなるからだ。
本人も、「あたしはまだ読み書きが怪しいので、騎士にはなれないと思います」と騎士になる事は希望していない。そのため不満は無いようだ。今回の褒章は出世払いと言う事で据え置かれている。
「それでは名残惜しいのですが、人と会う約束をしておりますので我々はこれで」
「ああ、また屋敷に遊びに来てくれ。ラザロフもルルリシアも君に会いたがっている」
「もちろんです」
カイルザインとギルデバラン、そしてゾルパはリジェル達と別れると約束の人物……リヒトに会う為にゼダン公爵家のタウンハウスに向かった。
カイルザインは元ジャオハ侯爵領で王国から派遣されてきた捜査官達への協力や、人魔研究所の摘発と実験体の保護を行った後、ゼダン公爵家に戻らずそのまま本来の演習の予定を熟した。最初に声をかけた実験体の男を含めた数名の人魔を連れ、訪れた先の貴族領で魔物を間引いたのだ。
彼ら人魔の戦闘力を計り、運用に際してどんな問題点があるのかを調べるために。
「さて、まずは一息入れて肩の力を抜くとしよう。これはコヒと言う豆を挽いた粉から淹れた飲み物だ。試すといい」
そして、ゼダン公爵家のタウンハウスの一室でカイルザインは自身が淹れたコーヒーを、交渉相手に振る舞った。
「コヒ、ですか?」
「ああ、南の大陸で流通している飲み物だね。現地ではコーヒーと呼ばれているそうだよ。昔、南の大陸から来た魔道士から聞いた事がある」
「……先生が魔法以外の事で昔の事を覚えているのは珍しいな」
カイルザインの向かいの席に座っているのは、リヒト、プルモリー、そしてリヒトの側近として同席しているアッシュの三人だった。
「ああ、その魔道士がコーヒーが無いと魔法の研究が捗らないのにこの大陸では手に入らないから、水をコーヒーにする魔法を開発しようとしたけど、コーヒーが無いから捗らなくて成功しなかったという話を聞いてね」
「……先生と気が合いそうな人ですね」
「類は友を呼ぶか」
張り付いたような笑みを思わず崩したリヒトとカイルザインが、口々にプルモリーとその知り合いの魔道士について感想を述べた。
「さて、思わぬ長旅になってしまったが、久しぶりの我が家は居心地がいいな。そうだリヒト、クランベは元気か?」
「仕事が残っていたので領地に残っていますけど元気ですよ、義兄さん」
しかし、すぐに二人はお互いに張り付いたような笑みを浮かべ直した。公爵家のタウンハウスの一室で向かい合って座っていた。
カイルザインの隣にはゾルパが座り、背後にはギルデバランが控えている。リヒトの隣にもプルモリーが、そして背後にはアッシュが控えている。
「ああ、そう言えば今日は噂の獣人の姉妹を連れていないのか? 奴隷の少女二人を侍らせていると噂になっていると聞いたぞ」
「二人は今メイド見習いとしても働いてもらっています」
自分が噂を流させている事を顔に出さずタニアとミーシャの事を尋ねるカイルザインに、リヒトも済ました顔で答える。
今頃マリーサについて一緒に仕事をしている頃だろう。
すると、カイルザインが笑みを深めた。
「従者枠はやはりあの二人か。アッシュが男爵令息になった以上、そうだろうな」
王立学園の貴族の生徒が連れていける従者枠は一人につき二人まで。以前はアッシュも騎士爵令息だったので、タニアとミーシャを入れると候補は三人。誰か一人は連れていけなかった。
だが、今回の一件で父であるグレンが男爵となったアッシュの立場は、準貴族の騎士爵令息から男爵令息に変わった。彼は従者枠ではなく正規の生徒として王立学校に入学する義務を背負う事になった。
「精々勉学に励むといい。俺にとっては落第しても構わないが、代々仕える騎士団長の息子が受験に失敗したとなると外聞が悪いからな」
「うっ……ど、努力します」
呻きつつも、主家の息子に対する口調で答えるアッシュ。彼はカイルザインの予想より受験勉強に苦戦していた。特に数学とメルズール王国史に苦戦している。
「……本当に落第しないだろうな?」
「そう言えば、以前からグレン殿に『騎士たるもの勉学も疎かにしてはならん』と説教されていたな」
「ううっ、いきなり親父が男爵になるなんて夢にも思わなかったんだよ。って、そっちの噂の女ドワーフはどうなんだよ? ギルデバランさんの分隊で面倒を見てるんだろ?」
自身から話題を逸らしたかったのか、アッシュがいつもの荒っぽい口調に戻ってギルデバランに尋ねた。
「ジェシカの事か。彼女はカイルザイン様の従者枠で王立学校に行くので、心配はいらん」
そんなアッシュに、ギルデバランはこともなげに答えた。しかし、彼女に勉強を教えている一人であるゾルパは思わず視線を逸らす。彼女は計算や歴史以前に、文字の読み書きと指を使わない計算を習っている最中だからだ。……流石に従者枠での入学でも、基本的な読み書きと計算が出来ないのでは厳しい。
「幸いとは言えないが、ジェシカは女で親は何年も前に亡くなっている。現在の王国法ではあいつが叙爵される事はない」
そのため、ジェシカが突然貴族になってアッシュのように王立学校を受験しなければならなくなる事は無い。……もし、彼女が貴族令嬢になってしまったら、流石にカイルザインも彼女を自分と同じ時期に王立学校に連れて行く事は諦めただろう。
「それで、そろそろ本題に入ってもらっていいかな? カイルザイン君、あたしとリヒト君に何の用かな?」
お互いの従者についての探り合いが一段落したと見たプルモリーが、そう切り出した。この話し合いは、カイルザインからリヒトと彼女に「話がある」と面会を打診したものだった。
「では、単刀直入に言おう。リヒト、プルモリー殿、俺の下で人魔の研究に協力する気は無いか? ……随分驚いたようだが、そんなに意外だったか?」
カイルザインの勧誘に、リヒトは驚いた様子で答えた。
「てっきり、元ジャオハ侯爵領の残りをやるからゼダン公爵家の家督は譲れとか、そんな話しだろうと思っていたから……。
でも、プルモリー先生はともかく何故僕まで?」
「人間を人魔に改造する過程には、闇魔法が関わっている。そのため、治療には光魔法で闇魔法を打ち消す必要があるかもしれん。
だから、俺が知る中で最も光属性に高い適性を持つ貴様に声をかけた。念のためにな」
リヒトやプルモリーに探りを入れる名目に、一応声をかけてみよう。二人に断られてもそれで当然。万が一応じてきたら、それはそれで良し。カイルザイン達は、そうした考えでこの席を設けていた。
「そんな事言って、リヒトとプルモリーさんの手柄を自分のものにしようとか考えていないよな?」
「ほっほっほ! 邪推が過ぎまずぞ。カイルザイン様は国王陛下より人魔長に任命され、既に自ら研究の先頭に立っておられる。その下に付き研究に参加されるのなら、リヒト様やプルモリー殿がどんな功績を上げたとしても、カイルザイン様を蔑ろには出来ないのは当然のはずだが?」
アッシュの危惧をゾルパが笑い飛ばした。
貴族の上司が平民の部下が挙げた手柄を横取りし、自らの手柄にしてしまうと言う理不尽は、ありがちな話だ。リヒトと敵対関係にあるカイルザインがそれをするのではないかとアッシュが危惧するのは、無理もない。
しかし、カイルザインは貴族が平民に強いるありがちな理不尽話と違い、彼自身も研究に取り組んでいる。その部下という形で研究に参加するなら、リヒトやプルモリーが功績を為した場合カイルザインも評価されて当然だ。
「それに、プルモリー殿は当然だがリヒト様の名声も王国では知れ渡っている。その功績を横取りしようとしても不可能、それどころか滑稽なだけだ。カイルザイン様がそれに気が付かないと思うのか?」
「うぅ……思わない」
そしてギルデバランに諭され、アッシュの危惧は否定された。
「とはいえ、さっきカイルザイン君がリヒト君に声をかけた理由は嘘だよね?」
「嘘ではない。建前と言え」
「リヒト君は才能と発想に優れているけど、光魔法の使い手は他にもいる。国王陛下に認められた研究なのだから、魔道士ギルドや神殿からいくらでも経験豊かな光魔法の使い手をスカウトできるじゃないか」
「その通りだ。リヒト、そしてプルモリー殿も必要不可欠と言う訳じゃない。多少は接点があった方がやりやすいと考えたからだ」
今後、滅天教団と関わるだろうリヒトの動向を探り、彼が教団の信徒を討伐する時に自分達も噛むためにも。
敵対しているからと言って完全に没交渉になってしまうと、情報を手に入れる事が難しくなる。メルズール王国が敵国のドリガ帝国とも外交を続けているのも、それが理由だ。
カイルザインは今年の春にゼダン公爵領から遠征に出た事で、その正しさを思い知った。
「なるほど……君が命名した人魔と言う存在に興味はあるけど、どんなもんなんだい?」
「具体的には協力を約束してから教える。今言えるのは……有用だが、元ジャオハ侯爵代理が思い描いていた、領民を改造して強力な軍隊として扱うという企みは、現実的ではないという事ぐらいだ」
「そうか。あたしは人魔を直接見ていないから推測しかできないけれど……デーモン化したゴブリンキングは結構安定していたように見えたんだけどね」
「そのデーモン化したゴブリンキングを俺達も見ていないので、比較しようがない」
「強いて推測するなら、改造するのが人間か魔物かの違いかと。魔物は元々ランクアップを行い変異する生態故、肉体の変異に耐性があるのでしょう」
カイルザインを挟んで、プルモリーとゾルパが盛んに議論を始める。勧誘から魔法談義へと雰囲気が変わり、この様子ならプルモリーはカイルザインへの協力に頷くかもしれない。
そうアッシュが思った時、リヒトが硬い口調で尋ねた。
「改めて答えて欲しい。人魔の人達を研究する目的は『治療』であって、新たに人を人魔に改造して戦争に利用する事じゃないのか?」
もしそうなら協力できない。そう言外に述べる義弟に、カイルザインは笑みを浮かべたまま答えた。
「俺が人魔長官の任を拝命したのは、人魔を利用するためだ。治療についても取り組むが、運用や改良、そして戦争への利用も選択肢に含まれている。
もちろん、新たに人魔を創る事もな」
思わず息を飲むリヒトや目を見張るアッシュに、カイルザインは続けた。
「研究を進め、コストとリスクを抑えた改造方法を編み出し、運用ノウハウを蓄積したうえで、国王陛下や宰相閣下、大臣方に話を通して了解が得られる事が前提としてだが。
犯罪奴隷の用途が一つ増えても、俺は構わないと考えている」




