20話 野心家侯爵と会食する義兄と、原作通りの転生勇者
ジャオハ侯爵家はビスバ侯爵家と同じく貴族派に属し、友好国であるエルフの国との国境があるメルズール王国西部の雄として知られている。
そのジャオハ侯爵家に第一子として生まれたセオドア・ジャオハは、現当主キドルク・ジャオハ侯爵待望の男児だった。母は正室ではなく側室だったが、その正妻が既に高齢で子を産める可能性が薄かったため嫡男として育てられた。
しかし、セオドアが五歳の時正妻がまさかの懐妊。生まれたのは男児で、カルザイと名付けられた。
そのためジャオハ侯爵家の嫡男の座はカルザイへと移り、セオドアの将来は腹違いの弟を補佐する家臣になるか他の貴族家に婿入りするかの二つになった。
だから社交界や王立学校で注目を浴びる事も無かったため、セオドアの事を知っている者は少なかった。五年前までは。
五年前、カルザイ・ジャオハが突然の出奔。
家族や婚約者に充てた置手紙が部屋に残されており、そこには「本当に愛する人と添い遂げるために駆け落ちをする。不義理な自分を許して欲しい」と書かれていた。相手は同時期に姿を消したメイドだと考えられている。
当然キドルクは激怒し、カルザイを廃嫡。嘆くカルザイの婚約者の家に自ら赴いて詫び、多額の慰謝料と共にその処分を伝えた。
キドルクの正室はショックのあまり倒れ、心労がたたったのか一年と立たず死去。そしてセオドアは嫡男の座に舞い戻った。
しかし経緯が経緯だったため、社交界では腫れもの扱いされ華々しく祝われる事は無かった。その上、ジャオハ侯爵家は社交界に中々顔を出せない状況になってしまう。
正妻が倒れた一年後、今から三年前にキドルク・ジャオハが病に倒れたのだ。それから現在に至るまで寝たきりの生活を余儀なくされているという。
そのためセオドアは領主代行として家臣と共に領地経営に取り組んでいる。あまりの忙しさに、自身の婚約者探しも後回しにしているらしい。
以上が、社交界で普通に調べた場合手に入る情報だ。カイルザインも、ジャオハ侯爵家がビスバ侯爵家と同じ上級貴族であるためここまでの事は知っていた。
……それは、カルザイの出奔が今は亡きリヒトの父ザリフトを連想させたからだったから、印象に残ったのかもしれない。
ここまでだと、セオドアは腹違いの弟に振り回された苦労人という印象だが、実際に会ったエザク・ヘメカリスによると彼にはそれ以外の顔があるそうだ。
ジャオハ侯爵領と領地を接しているヘメカリス子爵家は、昔からジャオハ侯爵家とは寄り親寄り子の関係で付き合いがあり、よく顔を合わせていた。
「カルザイ殿が出奔されるまで、セオドア殿はあまり目立つような方ではありませんでした。優秀ですが表に出ず、常にカルザイ殿を立てていた。嫡男の異母弟を補佐する、控えめで実直な方でした。
ですが、カルザイ殿が廃嫡されセオドア殿が嫡男になってからは別人のように変わりました」
ジャオハ侯爵家に仕える騎士達を指揮して領内の山賊や犯罪組織を次々に討伐。
領内を調査し、オリハルコンやアダマンタイトの鉱脈を発見し採掘事業を行う。また、金属の精錬の結果発生する汚染を抑えるマジックアイテムを導入し、水質汚染を抑える事に成功。領内の川や湖の水質を改善し、漁業を再興しようと試みている。
また、治水事業を行い領内の雇用を生み出し、水害の発生を抑え農業用水を確保した。
そうして実績を上げ続けた事で、キドルクが病に倒れた後セオドアが領主代行になる事に反感を持つ者達を黙らせ今も手腕を振るっている。
「セオドア殿が領主代行になって以降はうちを含めた周辺の領主達との交流も盛んに行っているので、何度も話しました。物腰は紳士的ですが熱意が伝わってくる、積極的な方です。勢いと押しの強さは姉上を上回ります」
「イライザ嬢以上か。それはかなりの変貌ぶりだな」
「ですが、その姉とは気が合わなかったようです。父が去年の今頃セオドア殿に姉を紹介した時に断られたので」
「それは意外だったな。これまで聞いた印象だと、むしろお互いに気に入りそうだったが」
カイルザインから見て、客観的に判断するとイライザは優良物件に思えた。確かに生まれは伯爵以上の爵位を持つ上級貴族ではないし、容姿も個性が強く出ていて気が強いため模範的な貴族令嬢――貞淑で男を支え立てる淑女――ではない。だが、昨夜の晩餐で見せたように知恵と熱意があり、後受け取った書類を読むと教養がある事が分かる。
イライザが婚約した新興のケビロス準男爵家――開拓地を統治する元平民は、当人から孫世代まで準男爵異を与えられる。そして開拓が成功し村や町を維持し税を国に納められるようになったら、相応の爵位を正式に与えられる。多くの場合は男爵位、稀に子爵位――はもちろん、立て直しを図っているジャオハ侯爵家にとっても得難い人材のはずだ。
もちろん、カイルザインにとってはフィルローザと比べるまでもないが。
「姉も乗り気ではなかったようです。値踏みするような視線を隠そうともしない、ふてぶてしい態度が気に喰わなかったと漏らしていました。
ともかく、セオドア殿も最近は以前よりも落ち着いたように思います。領主代行になって四年目なので、そろそろ正式に家督を継ぐことになるでしょうし」
「カイルザイン様、お茶を淹れました。エザク様もいかがですか?」
そこにポットとカップを乗せたトレイを持ったニコルがやってくる。こういうことは本来メイドや侍女、執事の役目だが、遠征の時は女性騎士である彼女が行う事が多かった。……元メイド見習いのジェシカはこうした事に向かないので、やや離れたところで訓練に汗を流している。
「いただきます。これは珍しい香りですね。ゼダン公爵領のお茶ですか?」
答えを聞く前に黄土色のお茶に口をつけたエザクは、次の瞬間目を丸くした。
「っ!? こ、これは、味も珍しいですね……!」
「それはここの領で取れるコケを使った茶で、モス茶と言うそうだ」
「うちの苔を!? お茶に!?」
自分が持っているカップの中身とカイルザインを交互に見るエザク。その様子を見ると、彼はモス茶を知らなかったようだ。ドワーフ達が独自に苔を採取し、自分達で飲んでいたので領主一族でも口にするのはもちろん、存在を耳にする機会も今までなかったのだろう。
ドワーフの国では一般的に飲まれているそうだが、メルズール王国とドワーフの国は険しい山脈と沿線とエンシェントドラゴンの縄張りに隔てられており、個人や家族単位でドワーフ達が行き来する以外は交流が無い。そのため、ドワーフの国はメルズール王国にとってエルフの国以上に謎に包まれた場所だった。
「滋養強壮に良いそうで、面白い味だったので分けてもらった。エザク殿の口には合わなかったようだが」
「い、いえ、驚いただけです」
再びカップに口をつけたエザクは、今度は良く味わって苔茶を飲む。
「最初に苦みが、そして後味にほのかな甘味を感じますね。紅茶と比べると変わっていますが、滋養強壮の効果があるなら薬草茶の一種と言えるかもしれません。後は採算がとれるかどうか……。
あの、このモス茶についてもっと教えてもらえませんか?」
そして、カップから口を離した時にはそれまでと目つきが変わっていた。ニコルも彼の変わりように、僅かに目を見開いて驚いている。
「元々ヘメカリス子爵領で採取した苔から作った物だから、それは構わない。もし商品化するのなら、ありがたいぐらいだ。
だが、エザク殿も商売に興味があるとは意外。驚いたな」
「これは、お恥ずかしいところをお見せしました」
ハッと我に返ったように頭を下げようとするエザクを、カイルザインは手で止めた。
「自領の発展を考えるのは、領主なら当然の事だ。恥じる事は何もないだろう」
そう彼が告げると、エザクは叱責されたように息を飲み……肩を落とした。
「姉上も父上も、そして私も分かっているのです。この領地が緩やかに、しかし確実に衰退している事に」
そして内心を吐露するように語り出した。
「カイルザイン殿にもご迷惑をおかけしたと思いますが、父上は僕達、そしてまだ相手も決まっていない僕の子供達の代の事を心配して、必死になっているのです。姉上をカイルザイン殿やセオドア殿に紹介したり、様々な事業に手を出したり。
昨晩の晩餐に出した鱒の養殖事業以外、失敗してしまいましたが」
「……なるほど。御父上は苦労を見せない方だったようだ」
口には出さなかったが、カイルザインはこの時までヘメカリス子爵を無能寄りの人物だと思っていた。しかし、王都で父や伯父を通さず未成年のカイルザインに直接イライザを売り込むような事をしたのも、一族と領地の将来を憂い焦っていたからだと考えると、評価も変わる。
(領地経営の経験も無い十三の小僧に過ぎない俺には、計り知れない苦労があるのだろう)
何より同じ貴族派で、自分の支持者の一人でもあるのだし。
「姉上がフェルゼン・ケビロス殿と婚約したのも、事業でケビロス家と我がヘメカリス子爵家が組めば、うちにも利益があると考えたからです。フェルゼン殿が姉上の好みだったからでもありますが」
「好奇心から訪ねるが、フェルゼン殿はどんな方だ?」
「……良く言えば、美丈夫、かと」
どうやら、フェルゼン・ケビロスはかなり肉体派な開拓者のようだ。
「それはともかく、今回の調査結果次第で我が子爵領の衰退を止める一助になる。使える土地が増えれば開拓して村を興して移住者を募り、職に就く事が出来ない者が他領へ流れるのを止められますから。
だから、改めてよろしくお願いします」
「ああ、護衛は任せてくれ」
リヒト一行はベリド村を出ると、遺跡を探して村の果樹園周辺から調査を開始した。今回はリヒト達だけではなく、グレン以下騎士団も協力して広範囲に地下遺跡の痕跡が無いか、そしてゴブリンや魔蟲がいないか調査している。
(原作だと、たまたま遭遇したゴブリンの足跡を追って巣を探している途中で休憩を取ろうとしたら、アッシュの足元の地面が陥没して、偶然地下に空間がある事を発見するという展開だったけど……)
実際にベリド村の果樹園の向こうの森を歩いているが、やはり場所は分からなかった。
(今は原作でこのエピソードがあった約二年前だから、森に入ったタイミングも違うから原作通りゴブリンに遭遇できなくても仕方ないか)
エルナイトサーガの本編が始まるのは、原作主人公が十二歳になった春。ゴブリンキング率いる魔物の群れとの対決は、後継者争い開始一年目のエピソードだ。二年目に、原作主人公十三歳の頃に卵を盗まれたドラゴンがゼダン公爵領で暴れる事件が発生し、三年目の原作主人公が十四歳の頃にマリーサが命を落とす事になる違法人身売買組織『テュポーン』の事件が起きる。
しかし、この世界では一年前、リヒトが九歳の時に後継者争いが始まった。そのため、原作と同じ展開は望めない。
「生息していた痕跡が無いという事は、ベリド村で発見されているゴブリンや魔蟲は新たに発生した個体かもしれない。なら、マナが不安定な場所があるはずだ」
原作では、マナが不安定な地下空間で長年ゴブリンが発生し続けていた。そのため、本来地上で発生するべき魔物が減った。それが分地上のベリド村周辺で魔物が滅多に現れなくなった事の真相だ。
閉ざされた地下空洞で発生したゴブリンや魔蟲達は、蟲毒の如くお互いを食料にするために殺し合った。殺し合って数を減らしても、世界でゴブリンが減ればまた新しい個体が地面から発生する。そして食い殺し合う。
そしていつしかゴブリンキングが発生し、そして地下にゴブリンによって文字通りゴブリンを食い物にするゴブリンの王国が誕生してしまったのだ。
とはいえ、それは原作での話だ。
実際に調査してみれば森の極一部のマナが不安定になって、何日か毎に数匹のゴブリンや魔蟲が発生しているだけかもしれない。
「ゴブリンや魔蟲はもちろん、魔物の痕跡も見つからないわね。臭いも無いし」
だが、タニアがそう言った通り森で発生したゴブリンや魔蟲の姿や痕跡はまだ見つかっていない。連絡がないところを見ると、視覚を共有している鳥の使い魔で上空から探しているプルモリーもまだ何も発見できていないようだ。
「……よし、まだ完成していないけど、広域探査用の魔法を試してみよう」
このまま森をしらみつぶしに探しても時間がかかるばかりだ。それに、もし原作通り地下でゴブリンキングが発生しているのに見過ごしたら一大事だ。
「コーイキって、広い範囲って事か? たしかに一度に百メートル以上魔法で探査できれば探すのも早く済むな」
「いや、細かい痕跡は無理だけどゴブリンや魔蟲が半径一キロ範囲内にいるかいないか分かると思う」
「そんなにか!?」
「もしかして、私達が買われた日に先生と試した光や風の魔法ですか?」
リヒトが答えた目算の効果範囲の広さに驚くアッシュと、はっとした様子で聞き返すミーシャ。
「マリーサ先輩から教わりましたけど、光や風だと効果は薄いと思います」
そして、リヒトが答える前にそう続けた。無数の木々が並ぶ森では光は遮られ、風も木々の枝や葉に吸収されて狙い通りの範囲に広がる事は出来ないだろう。
「いや、別の方法を考えたんだ。まあ、それも森には向いていない方法だけど……地下の方は行けると思う。だから、皆は耳を塞いでいてほしい」
ミーシャ達は分かったと頷くと、それぞれ頭の横や上にある耳を手で押さえる。
「マナよ、見えざる波に姿を変え我が目、我が耳となれ。『音波探査』」
リヒトが呪文を唱えると、音の波が彼を中心に広がった。アッシュは弱い衝撃波のようなものとしか感じなかったが、獣人であるタニアとミーシャは小さく呻いて体を強張らせた。
リヒトが行ったのは、音による探査だ。音の反射によって効果範囲内に何があるのか探ろうとしたのだ。
(地上は後回しだ。地下に集中しろ)
だが、初めて試したためリヒトの予想以上の情報が返って来て混乱しそうになってしまった。そのため、リヒトは地下の反応に集中した。
大地が音を吸収し、地上よりも音が広がらない。しかし、森の地下に空洞を発見した。
「向こうに、四十メートルぐらい先の地下に空洞がある。行ってみようっ」
「おうっ! 先頭は俺に任せろ! タニアは後ろを頼む!」
「ちょっと、あなたは足跡を見つけられないでしょ!」
アッシュが先頭を進むと、木々の向こうに彼等より一回り程大きな岩が見えて来た。
「この岩のあたりで、だいたい四十メートルだな。魔物の気配はないが、入口みたいなのは見えないのか、リヒトォォォ!?」
すると、岩に近づいたアッシュが驚愕の叫び声を上げながら姿を消した。彼の足元の地面が、前触れもなく陥没したのだ。
「アッシュっ!?」
「大丈夫だっ! そんなに深くない! それに……ちょっとこっちに来てくれ。足元に注意して」
焦って彼の名前を呼ぶタニアに、アッシュがすぐに答える。原作と同様だったのは地面に落ちる展開だけではなく、陥没で生じた穴の浅さもだった。
「リヒト様、さっきの探知魔法で……?」
「いや、地下に空間がある事は分かっても地面が脆くなっているかは分からないよ」
わざと黙っていた訳ではないと言いながら、リヒトは地面が崩れないか確かめながら進み、穴の淵からアッシュを見下ろした。
「何かあったの、アッシュ?」
「ああ、この岩からはみ出しているのを見て見ろ」
本人が言った通り大丈夫そうなアッシュが指差した先には、岩の隙間から暗褐色の大きな蟲の脚が何本も飛び出していた。じわりと、緑色の体液が染み出しつつある。
「それは魔蟲、だよね?」
「ああ、これで地面の下にいるのはこれで確認できたな」
「じゃあ、皆さんに連絡しますね」
ミーシャが風魔法で離れた場所にいるグレン達に声を届けて連絡すると、ほどなくして散らばって森を調査していた面々が集まった。
「なるほど、音か。音なら光や風よりは物に伝わりやすい。探査には向いているね。じゃあ、もう一度私が見ている前で使って見せてくれえるかな?」
「プルモリー殿、今は探査魔法ではなく探査結果の方に注目してもらいたいのだが」
デリッドが苦言を呈すると、プルモリーは渋々口を閉じた。
「それでリヒト様、これがザリフト様の持っていた古文書に書かれた遺跡なのか?」
「それは分かりません。かなり広い……探査魔法でも全容を把握できない程大きな空間である事だけは確かです」
アッシュが落ちた穴は地下空間の一部で、奥に続いていた。しかし、中にいる存在はこの穴の事に気が付いていないのか動きはない。
また、騎士団員達が合流するまでの間にこの辺り周辺を調べたが、近くにあった岩と岩の間に子供やゴブリンなら這って出入りできるぐらいの大きさの穴が開いていて、それが地下空間に繋がっているのが分かった。
ベリド村周辺に、数日に一度の頻度で現れるゴブリンや魔蟲はそこから出て来ていたのだろう。
「プルモリー殿、使い魔による偵察は可能ですか?」
「無理かな。梟の使い魔もいるけど、洞窟の中を飛ぶ事は難しいと思う。ゴーレムで構わなければ、すぐに造って偵察させるけど」
「ゴーレムだと、身を隠しながら偵察する事は出来ないだろうから止めて起きましょう。よし、偵察班を編成しよう」
「偵察で困っているなら、僕がやりましょうか?」
穴の中をどう偵察するか悩むグレン達に、リヒトが手を上げた。
「穴に入ってから、さっきの魔法をもう一度使ってみます。そうすれば中にいる魔物の数も推測できると思います」
「プルモリー殿、魔物が探査魔法に気がつく可能性は?」
「多分ないと思う。ゴブリンは知能が低いし、特別耳が良いわけでもない。ゴブリンメイジのような魔物の魔道士は魔法を体系的に学んでいる訳じゃないから、魔力を感知する感覚は鈍い」
「分かりました。ではリヒト様、お願いします。ただ、地下にいる魔物が気づいてこの穴に向かってきた時は我々にお任せください」
プルモリーの意見を聞いたグレンは頷くと、騎士団員達に戦闘態勢を取らせた。
「では、行きます。マナよ、見えざる波に姿を変え我が目、我が耳となれ。『音波探査』」
二回目は魔力を一回目より多く込めて効果範囲を拡大し、帰ってきた反応から地下空洞の構造と広さ、そして魔物が巣くっているか否かを判断する。
「これは……地下空洞はここからずっと西の方に向かって深くまで続いていて、途中で大きく広がります。大きな都市がすっぽり入りそうだ。でも、途中で効果範囲を越えました」
「なんとっ!? それほど広大な空洞がゼダン公爵家領の地下にあったとは……!」
「はい、驚きました」
リヒトにとっても予想外の広さだった。原作では地下空洞の具体的な広さや全体図は記されていなかったので、もっと狭いのかと思っていたのだ。
「では、ザリフト様が所有していた古文書に書かれていたようにダンジョンが広がっていたので?」
「いえ、ダンジョンではなさそうです。中にいるのは数えきれないほどの人型の生物……ゴブリンだと思います」
今のリヒトと『音波探査』では、対象物の大雑把な形と大きさしか分からない。だから断定はできないが、リヒトの脳裏には何百何千というゴブリンの姿が思い浮かんでいた。
「無数と言うと……百体は越えそうですか?」
「いえ、多分千は越えます。『音波探査』の範囲内だけで」
「なるほど……そうなるとキングが発生したと考えるべきか」
グレンの言葉に、ここは原作通りだったかとリヒトは落胆と安堵が混ざった何とも言えない気持ちになった。
原作とこの世界は既にいくつもの差異がある。もしかしたら、原作で起きた事件はもう起きないかもしれない。そう思っていたが改変されず原作通りに起きる事柄もあるのだと思い知らされ、落胆した。
ただ、同時に今は原作でゴブリンキングの群れを発見する約二年前。原作ではゴブリンは一万数千匹以上いたと書かれていたが、今なら相手にするゴブリンは数千匹で済むかもしれないと、安堵もしている。
とはいえ、数千匹でも十分多い。
「地下空間の構造を把握できない以上、他に出入り口があるかもしれない。そこから地上にあふれ出たら事だ。
一旦この穴を埋め、見張りの者を残して援軍を呼ぶ。ヴィレム様に報告し、兵以外にも傭兵ギルドや冒険者ギルドから戦力を調達しよう。
よろしいですね、リヒト様」
「もちろん」
このままゴブリンの群れに突っ込んでも、リヒト達の戦力なら負ける事はないだろう。何故ならゴブリンキングは他のゴブリンより頭が良く、指揮能力に優れている。勝てないと見れば、すぐに撤退しようとするはずだ。
原作では他に出入り口は無かったらしいが、ゴブリンにだって魔道士はいる。リヒト達が地下にいるゴブリンの内千匹を倒している間に、ゴブリンメイジが土魔法で残りの地上に繋がる出入り口を作って残りのゴブリンが脱出してしまったら、ゼダン公爵領は大きな被害を受ける。
ゴブリンを倒すのに必要な戦力を確保するため、リヒトはグレンの言う通り一旦引くことにした。
「本日はお招きありがとう、ヘメカリス子爵」
「いやいや、セオドア殿こそよく来てくれた」
カイルザインが初めて見たセオドア・ジャオハは、一見すると普通の貴族らしい青年に見えた。
やや目つきが鋭く整った顔立ちと、カラスの濡れ羽色の黒髪。背は高く、体つきはスラリとしている。立ち姿から、それなりに武術を嗜んでいる事が伺える。
つまり、メルズール王国の社交界なら珍しくない貴公子だ。
「そして……君がカイルザイン君か。こうして話すのは初めてだね」
だが、その顔が自分に向けられ視線が合うとその印象は変わった。
「ええ、ですがお噂はヘメカリス子爵やエザク殿から伺っております」
珍しくない程度のルックスなのに、セオドアは妙に印象に残る男だった。黒い瞳からは、価値を値踏みされているような印象を受け、欲なのか熱意なのか判別がつかないがギラギラと強い輝きが宿っている。
(これがカリスマ性というものか? それにしては……気味が悪いな)
得体が知れないから、魅力を感じても気分が悪い。そう感じている事をおくびにも出さず、カイルザインはセオドアと握手を交わした。
それから始まった晩餐は、意外な事に穏やかに続いた。
セオドアが口にするのは自分達メルズール王国西部に領地を持つ貴族達共通の話題や、去年の魔物同時多発発生事件についての質問。
カイルザインからは領主としての苦労や今まで行って来た事業への質問。
そしてヘメカリス子爵は明日行う調査の結果次第では、開拓事業を始め新たに農村を興すつもりである事を語った。
つまり、当たり障りのない話題だ。
(……将来ゼダン公爵領を治める時の、参考にはなる。それにしても鱒尽くしだな)
セオドアに自領で養殖している鱒を売り込みたいのだろう。晩餐には鱒料理の皿がいくつも並んでいた。
新鮮な鱒のカルパッチョに、鱒のスープ、鱒のソテー、鱒とクリームソースのパスタ、鱒のゼリー寄せ、そして鱒の塩釜焼き。
(どれも美味かった。あの鱒を塩で包んで焼いた料理は、うちの料理人でも出来るだろうか?)
文句は無いが。スープに使われていたのは干して旨味を凝縮させた鱒らしいので、この領を去る前に鱒の干物を買って行く事にしよう。
「そう言えば、今年にもジャオハ侯爵家の嫡男になると聞きましたぞ」
「ええ、カルザイはいつまで経っても便りの一つも寄越さないので……父や昔から仕えている家臣達も愛想が尽きたと。私としては何時でも、私が嫡男になった後でもいいので、父に顔を見せてやって欲しいのですが」
「やはり、キドルク殿の病状は?」
「良くはありません。手は尽くしていますが……」
そう考えていると、話題がジャオハ侯爵領の嫡男……後継者を義弟のカルザイからセオドアに替える事と、現ジャオハ侯爵のキドルクの病状に移った。
悲し気に目を伏せ、拳を握るセオドア。
「おそらく、私が父の跡を継ぐのもそう遠い事ではないでしょう。ですが、我がジャオハ侯爵家は西の脅威に備える剣でなければならない。そのためには、病に倒れた父にいつまでも重責を負わせる事は出来ないのです」
だが、顔を上げた時その目には強い意志の輝きが宿っていた。
「西の脅威? しかし、エルフの国と我々人種の戦争はここ千年起きておりませんぞ。小競り合いが起きたのですら、メルズール王国建国初期です。今では同盟まで結んだ友好国ですが?」
「ヘメカリス子爵、その小競り合いで王国には大きな被害が出ました。そして長命なエルフにとって、三百年前の出来事は親の代の事です。いつまた奴等にとっての小競り合いが起きるか分かりません。
備えだけはしておかなければならないのです」
力強く訴えるセオドア。ジャオハ侯爵家はその三百年前の小競り合いでエルフを撃退し、メルズール王国の被害を止めた功績で広大な領土と侯爵の位を得た家系なので、彼がそう主張しても不自然ではない。
「素晴らしいお考えです、セオドア殿。流石は西の雄、王国の北を守るゼダン公爵家の者として感銘を受けました」
そうセオドアを賞賛しながら、カイルザインは思った。
(カルザイ殿に関する発言は演技だな。父親が病で臥せっているのを悲しんでいる様子も。言葉が軽い。続く西の脅威に対して語っている時の言葉と比べると、分かりやすい)
もっとも、だったからと言ってカイルザインにとっては些細な事だ。
不仲な家族なんて何処にでもいるし、親の死を悲しまない子も子の死を悲しまない親と同じくらいいるだろう。実際、カイルザインもタレイルならともかく、リヒトがもし仮に死んだとしても涙は流さないだろう。……死んだのが将来有望な騎士になるだろうアッシュだったら、自分が当主になった時に使える人材が減った事を悲しむと思うが。
「ありがとう、カイルザイン殿。ゼダン公爵家の長子である君に同意してもらえると心強い。ともに、次代の王国のために戦おう」
そう答えたセオドアと会話を続けるカイルザインの前に、デザートの鱒のパイを乗せた皿が置かれる。
(セオドア殿が実は義弟のカルザイを始末していて出奔したと偽っていたり、実の父親に毒を盛っていたり、友好的な同盟国であるエルフの国に自分達から戦争を仕掛けるつもりだったとしたら、どうにかしなければならないだろうが。……考え過ぎだな)
なお、鱒のパイだけは生臭さが残っていて不味かった。




