12話 義兄の覚醒、殺謀執事の謀
影から生えるようにオーガーコマンダーが新たに五匹現れた時、カイルザインの脳裏に電撃のような閃きが走った。理解できなかった知識がイメージと繋がり、確かな形となって彼の中に出来上がる。
「影よ、我が身を運べ。『影航』」
無造作に振られたオーガーコマンダー達の剣を避けて、カイルザインは沈んだ。影の中に。
「これが影の中か。意外と快適だ」
温かくもなく冷たくもない、空気のようであり水のようでもある不思議な何かに浮かびながら、カイルザインは上を見上げた。
そこには、地面に剣や斧を突き刺したまま困惑して周囲を見回すオーガーコマンダー達の姿が映っていた。
まるで水底から水面を……いや、ガラス越しに見上げているような気分だとカイルザインは思った。その時、不意に腕や肩から痛みと不快感を覚えた。
「これは……血か」
『影航』で影に潜った時、オーガーコマンダーが振るった刃のいくつかがカイルザインの体をかすめ、皮鎧や服を切り裂いていた。傷はいずれも軽く、動くのに支障は無い。
(チッ! こいつら、何処に隠れていた? まさかたった今発生したのか? だが、増えるのは貴様等の専売特許ではないぞ)
内心で舌打ちをしながらも、カイルザインは素早く呪文を唱えた。
「俺に血を流させた代償は大きいぞ!」
怒声を発しながら影から飛び出したカイルザインは、オーガーコマンダーが振り向く前にその背に斬撃を浴びせる。
「影より現れ出でよ、我が現身! 『影法師』!」
そして、その返り血を浴びながら呪文が発動。カイルザインの影が起き上がり、彼の前にいるオーガーコマンダーとは別の個体に向かって襲い掛かった。
「ガァァ!? 何処カラ現レタ!?」
「グオオ!?」
五匹のオーガーコマンダー達は再び姿を現したカイルザインと新手の出現に動揺し、彼と影法師の何方を狙うべきか迷った。判断が分かれ、お互いが邪魔になって身動きが取れなくなる。
「『影縫い』!」
その間にカイルザインは狩猟用のナイフをオーガーコマンダーの重なり合った影を突き刺して、同時に二匹の動きを封じる。影法師は他のオーガーコマンダーに影の剣を振りかざして切りかかった。
「ガハッ!」
その間に、カイルザインは動きを封じたオーガーコマンダーの内、まだ無傷な方に魔力を込めた剣で斬りかかり、一撃で倒した。
「ガアアアアア!」
さらにもう一匹と斬りかかろうとしたところで、残りのニ匹がカイルザインに狙いを定めて襲い掛かって来た。
荒々しい斬撃を避け、剣で受け流し、『魔力障壁』で受け止める。一撃でも受ければ致命傷になる可能性が高い、死と隣り合わせの状況でカイルザインの意識は一つの感情に満たされていた。
それは恐怖でも怒りでもなく、楽しさだった。
肌がヒリつくようなスリル、傷つく痛み、敵の肉を斬り骨を断つ手応え、命を奪った爽快感、敵との攻防、身動きが取れない敵を一方的に殺す優越感、それら全てがカイルザインを高揚させていた。
数か月前、山賊を一人殺しただけで「自分は異常なのではないか」と悩んだ事を忘れそうになる。
「邪魔ダ!」
影法師は健在だが、オーガーコマンダー一匹相手に苦戦している。所詮は分身、いくら身体能力が本体であるカイルザインと同じでも、魔力を操る事も魔法を唱える事も出来ない。そのためオーガーコマンダーの強靭な筋肉や骨を断つ事ができず、致命傷を与えられないのだ。
「サッサト動ケ! 役立タズ!」
カイルザインが退いた間に、オーガーコマンダーの一匹が地面に刺さった短剣を蹴り飛ばした。
「アノ人間ノ次ハ、オマエ殺ス!」
短剣が影から抜けた事で『影縫い』が解除され、自由を取り戻したオーガーコマンダーが背中の傷も無視して戦列に加わる。これでカイルザインの相手は三匹。
ギルデバランが加勢に向かおうとしているが、オーガーも新たに出現していたのか邪魔されている。リジェルと共に守勢と合流したゾルパもカイルザインに加勢するには時間がかかるだろう。
元々カイルザインが突出していたため、二人と距離が離れ過ぎていたのだ。
しかし、カイルザインは猛り続けていた。
(ああ、なるほど。なら、こうしよう)
高揚している彼の精神は、戦いの中で重要な閃きを彼にもたらす。
「死ネ!」
「『影航』」
オーガーコマンダー達が刃を振り下ろした時、カイルザインは再び影に潜った。
「マタ消エタ!?」
「何処ニ逃ゲタ!?」
オーガーコマンダー達が発生した時、カイルザインの目には彼らが影から現れたように見えた。冷静に考え得れば、それはただの偶然で影とは何の関係も無かったのだろう。
しかし、カイルザインにはそう見えた。真実は些末な事だ。重要なのは、それによって彼の脳裏で目にした光景と記憶していた闇魔法や空間魔法の知識が結びつき、閃いた事だ。
(この魔法は影の中を泳ぐことができる。なら――)
影の中を泳ぐようにして辿った先で、カイルザインは勢いよく飛び出した。
「ガァァァ!?」
魔法によって実体化した影である影法師から現れたカイルザインが付き出した剣に胸を貫かれ、オーガーコマンダーが倒れた。残り三匹。
「アッチダ!」
その残り三匹のオーガーコマンダー達が、カイルザインに向かって殺到しようとする。
「行け、影法師。マナよ、世界の礎たる岩となり、城壁を為せ! 【城壁創造】」
カイルザインは特攻させた影法師が倒されるまでの時間を利用して、見上げるような城壁を創り出した。オーガーコマンダー達の後ろに、彼等を囲むように。
「ガアアアア!」
普通なら退路を断たれたと思うところだが、オーガーコマンダー達は背後の状況の変化に関心を払わない。コマンダーでも所詮はオーガー、彼等が頭を使うのは目の前の敵を殺した後だ。
「『影航』!」
だが、もちろんカイルザインの狙いは彼等の退路を断つ事ではない。オーガーコマンダー達を影で覆う事だった。
再び影に潜ったカイルザインは、オーガーコマンダー達の間を縦横無尽に飛び回った。隙を突いて剣で斬り、隙が無ければ影法師を創り出して隙を作った。
「何処ダ!? 何処ニイル!? 出テコイ!」
混乱し、剣を振り回すオーガーコマンダーを一匹、二匹と倒していく。
「ウアァァァァ!」
すると、最期に残った一匹は何と逃げ出した。闘争本能と怒りを、混乱と恐怖が上回ったのだ。その判断は正しかったが、下すのがあまりに遅かった。
「ハハハハ! 見苦しい奴だ。死ねぇ!」
影から飛び出したカイルザインが、オーガーコマンダーの無防備な背中を剣で斬る。背骨を一撃で断ち、血と掻き消されそうなほどか細い断末魔の吐息と絞り出す。
「……今度は出てこないか」
そしてオーガーコマンダーが倒れてもしばらく身構えていたが。新たなオーガーが現れないのを確かめて構えを解いた。
「カイルザイン様! ご無事で?」
その時、カイルザインが先ほど創り出した城壁を回り込んで駆けつけたギルデバランが馬上から問いかけた。
「ああ、掠り傷だ。それより、他のオーガーはどうだ?」
「既にあらかた討ち取りました。もうじき終わるでしょう」
すると、城壁の向こうからオーガーの断末魔の悲鳴が、それに次いで人々の勝鬨の声が響いて来た。
「終わったようだな」
「カイルザイン様、手当てを」
「いや、自分でやる」
カイルザインは魔法で自身の頭上に水を作るとそれを被って血を洗い流し、更に自分に回復魔法をかける。
「この辺り以外にも魔物が出現しているかもしれん。お前達の魔力やポーションは温存しておけ」
「ですが、カイルザイン様こそ消耗しているのでは?」
ギルデバランは庭園に聳える城壁に視線を走らせて、そう尋ねた。彼もオーガーを蹴散らしていたため、カイルザインの戦いを克明に見ていた訳ではない。だが、何度も魔法を唱え、魔力で剣や身体能力を強化して戦って消耗しないはずがない。
「いいや、魔力は体感でだが六割程残っている。こいつらが魔力の扱いを知らないバカだったお陰で、随分楽が出来た」
しかし、カイルザインは魔力も体力もまだ十分残していた。それが強がりでない事を察し、ギルデバランは戦慄を覚えるとともに確信した。
(十三歳にしてこれほどの魔力と体力、そして何よりも窮地に陥っても勝機を自ら切り開く勇気、度胸、胆力。やはり、この方は初代ゼダン公爵に勝るとも劣らぬ将の器だ!)
カイルザインが城壁の影から出ると、予想通り戦いは終わっており勝鬨をあげ終わった騎士や駆けつけた護衛達が再び気を引き締めていた。
「所在が掴めない者はいるか!? お客様は全員無事か? 使用人達は?」
「動ける者は三人一組で班を編成し、オーガーの討ち漏らしがいないか確認する! 引き続き護衛の方にも協力を願いたい!」
数えきれない程横たわったオーガーの死体の向こうで、ビスバ侯爵家の騎士団長や副騎士団長が指示を出している。
その近くでは、ラザロが二人の令嬢と抱擁を交わしているらしい様子が見えた。あれが彼の婚約者達なのだろう。
「お前も無事だったか」
親類達の様子を見ていると、カイルザインが途中で放した馬が戻って来た。いななく馬の首筋を撫でてやると、再び鞍に跨ってギルデバランを引き連れて別邸に向かう。
「カイル! 無事か!?」
そこに馬に乗ったリジェルが駆け寄って来た。髪は乱れ疲れた様子だが、怪我はないようだ。
「ええ、見てのとおりです。伯母上達は?」
「皆無事だ! お前のお陰だよ、カイル。君は見事に大物を狩ってくれた!」
ゾルパとラザロが敵を切り開いて別邸の守勢と合流した時、最初に現れたオーガーコマンダーをカイルザインが倒し、続いて現れた五匹も彼にかかりきりになった。そのためオーガー達は統制を喪い、バラバラに暴れ出したため彼らは各個撃破して勝つ事が出来た。
「それは良かった。庭園には、悪い事をしましたが」
庭師が整えた美しい木々や花々、石像や庭石は見る影も無かった。そのうち何割かは、カイルザインが放った『爆炎の矢』が出した被害である。
「ハッハッハ、気にする事は無いさ。オーガーに踏み荒らされるよりはずっといい。それにどの道、調査が済むまでここは使えなくなるだろう」
魔物が出現する土地を使い続ける訳にはいかないので、事態が収束したらこの別邸と狩猟場は魔道士ギルドや神殿に調査を依頼する事になる。どの程度マナが不安定なのか、安定させる事は可能なのか調べ、その結果によってはこの狩猟場や別邸は二度と使えなくなる。
「まあ、その調査が始まる前にあの壁はどうにかしてもらえると助かるけどね。
それにしても、いったい何故オーガーがこれほど大量に、しかも上位種まで。常識では考えられない事だ」
「確かに。魔道士ギルドの調査結果が出るまでは安心できませんね」
「とはいえ、今はその事は置いて置こう。油断はできないが、専門家ではない私達が悩んでいても仕方ない」
そうリジェルと話している間に、別邸の庭に辿り着いていた。すっかり様変わりした庭では、使用人が走り回り、怪我人が治療を受けている。
「カイル、例を言わせてくれ。おかげで私の愛する人達は皆無事だ!」
「カイル兄さま!」
そこにラザロとルルシアがカイルザインに駆け寄って声をかけた。馬から降りたカイルザインに感極まった様子でラザロは肩に手を、ルルシアは両腕を回して抱擁する。
「私も皆を守れてよかった。ルルシア、せっかくの服が汚れるぞ」
「構いません! 汚れたらお父様に新しいのを買ってもらいます!」
「大変申し上げにくいのですが、よろしいですかな?」
温かい抱擁だがそれは長くは続かなかった。本当に言い難そうな顔つきのゾルパが声を発したからだ。
「どうした、ゾルパ?」
「はっ。先ほど、リジェル様のご依頼で使い魔を周辺に放ち、周囲に魔物が発生していないか確かめていたのですが……周辺のいくつかの屋敷でも魔物が発生しているようです」
「なんだと!?」
「そ、それは本当か!?」
「儂のっ、我がヘメカリス子爵家の屋敷は無事か!?」
「ご心配なく、殆どの場所では魔物は討伐積みです。私が使い魔で確認した限りは、ですが」
ゾルパの報告に緩んでいた場の空気が再び緊迫し、話を聞きつけたヘメカリス子爵が慌てた様子で声をあげるが、続く彼の言葉でとりあえずほっと息を吐いた。
「それで、まだ魔物に襲われているのは何処だ?」
「ここの西隣のお屋敷が、ゴブリンの群れに襲われております。騎士の方々が応戦していますが、ゴブリンの数が圧倒的に多いため押し返せずにいるようです」
ゴブリンの冒険者ギルドが発表している討伐難易度はE。はっきり言ってしまえばザコで、一匹なら新兵でも倒せる魔物だ。
身体能力は何の訓練も受けていない人間と同じくらいで、特殊な能力も持たない。また他の魔物に比べて臆病で、人間を殺すより生き残る事を優先する。
しかし、自分達の方が人間より多い場合は途端に好戦的になり、残虐性を発揮する。
「空からは確認できませんが、恐らくここと同じように上位種も出現しており、それが統率しているのでしょう」
「なるほど。西隣というと、ポロフ伯爵の別邸だったな」
リジェルは脳裏にポロフ侯爵の事を思い浮かべた。財務大臣の部下で、国王派の貴族では中堅。ビスバ侯爵家とは政敵と言うほどではないが親しくもない。当然、今日のパーティーにも招待していない。
たしか、今日は同格の法衣貴族や商人を集めてパーティーをしているはずだ。
(もしかすると、魔物が発生しているのは王都の中心地から離れた別邸、それも催し物をしている場所ばかりなのか? 何者が意図して魔物が発生する場所を選んで? そんな事が可能なのか?)
脳裏にいくつもの疑問が浮かぶが、それはそれとしてリジェルはカイルザインに視線を向けた。
「そうか、西隣なら馬を走らせれば間に合うかもしれん。伯父上、行ってまいりましょうか?」
その意図を汲み取って、カイルザインが口の両端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「疲れているところ悪いが頼めるか、カイル?」
「もちろん。ゴブリン如きなら、百や二百は軽く蹴散らして見せましょう」
「父上っ、それはいくら何でも危険では? カイルも無理は――」
「ラザロ、お前もカイルに同行しなさい。アリエル、ウロッザ、バーナス、君達は馬に乗れるはずだね? ラザロに着いていけ」
「父上!?」
ラザロが異を唱えようとするが、リジェルに自分もポロフ伯爵家への救援に参加するよう言われ、目を丸くする。
「私とギルデバラン、ゾルパがいれば十分だと思いますが?」
そのリジェルの言葉にはカイルザインも戸惑いを浮かべた。ラザロも嗜みとして剣や弓、魔法を学んでいる。だが特に秀でている訳ではなく、馬に乗れる警備兵三名と合わせても戦力として連れて行く意味が薄い。
「ポロフ伯爵は婚約者のアリエッテ嬢の遠縁に当たる。それに、当家の者が一緒に行った方が話も通りやすいだろう」
「そうだったのですか」
「伯父上がそうおっしゃるなら。兄上、参りましょう」
納得したラザロとカイルザインは、それぞれ供を引き連れて西へ向かって馬を走らせた。その後姿を戸惑った様子のアリエッテや、「ご武運を~!」と手を振るルルシアが見送る。
(すまん、カイル)
そしてリジェルは胸中でカイルザインに謝った。ポロフ侯爵がアリエッテの遠縁に当たるのは本当だ。政略結婚を繰り返してきた貴族達は、だいたい遠縁に当たる。アリエッテの名前を使ったのはラザロを納得させるためで、何なら彼女ではなくもう一人の婚約者のモルガレーテでもよかった。
(私にとって都合良く事が運ぶと……お前がポロフ伯爵家を助けられたら、お前が敬愛するヴィレムや愛しのフィルローザ嬢との距離が一層離れる事になるだろう。
もっとも、今日私達を助けた時点で手遅れではあるのだが)
そう繰り返し詫びるリジェルの思惑に気がつかず、カイルザインは馬上で笑みを浮かべていた。
(やはり、楽しい)
強敵と戦う緊張感、戦いの中で強くなる充実感、新たな閃きがもたらす爽快感、力を振るい弱者となった強敵を蹂躙する喜悦、命を奪う優越感、守る事が出来た者達が浮かべる笑顔の温かさ、抱擁の優しさ、役に立てた満足感。
それら全てが楽しい。これから待っているゴブリンの群れとの戦闘……一方的な蹂躙も、カイルザインにとっては楽しみでしかなかった。
この日、メルズール王国の王都で同時多発的に魔物が発生した。
魔物が発生したのはゼダン公爵家やガルトリット辺境伯家、ビスバ侯爵家、ポロフ伯爵家を始めとした王都の郊外にある貴族の別邸九か所で、ゼダン公爵家以外は何らかの催し物を開催していた。
この内、人的被害を出さずに魔物を討伐し事態を収拾する事が出来たのはゼダン公爵家、ガルトリット辺境伯家、そしてビスバ侯爵家だけだった。
ポロフ伯爵家では警備兵や使用人、招待客の護衛の犠牲者を合わせると十人以上の命が失われたが、ビスバ侯爵家の救援が間に合い貴族は全員無事だった。しかし、他の貴族の別邸では命を落とした貴族も少なくなかった。
しかし、全滅して魔物が王都に雪崩れ込む、という最悪の事態はどの貴族の別邸でも防ぐ事に成功した。
発生した魔物の数は多く数匹の上位種も混じっていたが、多くはゴブリンやコボルト等強くない種族だった事。そして貴族に仕える騎士はだいたいD級冒険者相当の実力を持っている事、そして郊外とはいえメルズール王国の中心地である王都で発生したため、王城の騎士団や衛兵、冒険者や傭兵の救援が間に合った事が幸いした。
この事件で直接被害を受けたのは貴族や貴族に仕える者達だけで、王都で暮らす一般人の多くは事件に気がつくことなくその日を過ごした。
しかし、その日以降王都の空気は緊張を孕み、しばらくの間は物々しい雰囲気に包まれた。人々の間に「安全な貴族の所有地で発生したのだから、今度は町中に突然魔物が発生するかもしれない」という不安と恐怖が蔓延していたからだ。
貴族や裕福な商人は冒険者や傭兵の護衛を新たに雇い、衛兵はパトロールの回数を増やし、神殿は自主的に神官戦士団の見回りを行った。しかし、自衛手段を持たず経済的にも恵まれていない貧民は不安な日々に耐えるしかなかった。
現在魔道士ギルドと神殿が王都中の土地を調査し、マナが不安定になっていないか確かめている。その結果が公表されるまで王都を覆う暗い空気が変わる事は無いだろう。
「私としてはやや不満ですが、こんな物でしょうね」
滅天教団四天王の一人、『殺謀執事』ディジャデスは王都の隅にある廃屋の二階の一室で配下が纏めた報告書に目を通していた。
廃屋となってからしばらく放置されており、ガラクタが転がり床には埃が積もっている。しかし、彼は気にすることなく持ち込んだ椅子に腰かけ手に持った書類の束を読んでいる。
今回の魔物発生事件の黒幕である彼の目的はメルズール王国の崩壊でもなければ、貴族の殺戮でもなく、教祖であるザギラの望み通り、「平和すぎる王都に恐怖と混乱を撒く事」だ。期待していたより被害者を出せなかったが、悪くない結果のはずだ。
「しかし、人間共は相変わらず厄介ですね」
そう、ディジャデスが期待していたより被害者を出せなかった。
ゴブリンアークキングを生み出す計画に必要な、違法人身売買組織を作り上げる計画を潰された仕返しに、レッサーデーモンの発生先をゼダン公爵家の別邸にしたが、一人も殺せなかった。
ゼダン公爵家以外の貴族で王国の中でも大きな権力を持ち、実行日に催し物を開いていた貴族の別邸に、トロールやオーガー、オーク等それなりに強い魔物を発生させたが、ガルトリット辺境伯家とビスバ侯爵家でも一人も殺せなかった。
他の伯爵以下の貴族の別邸には、適当にゴブリンや魔蟲、コボルトなどの雑魚魔物を発生させたがこれはどうでもいい。
(教祖の要望に応えるには十分な成果……とはいえ、ゼダン公爵家だけでなくガルトリット辺境伯家とビスバ侯爵家の別邸でも死者ゼロとは)
気に入らない。書類を読み進めたディジャデスは、その原因となった者達について記載されている部分を見つけ、舌打ちをした。
(リヒト・ゼダンにカイルザイン・ゼダン……またゼダン公爵家ですか! 特にカイルザイン・ゼダンの方は、私の計画を実行前に邪魔した人間のクソガキ! こいつのせいでポロフ伯爵家の方の成果まで防がれてしまった!
教祖やフィンゴラに報告するほどではないにしても、この二人については注意を払っておいた方がよさそうですね)
ディジャデスがリヒトとカイルザインの名前を記憶に刻んでいると、廃屋の床が軋む音がした。暫くすると、何者かが階段を上ってくる足音が響いて来る。
「ん? おい、ここは俺達の寝床だぞ!」
そして、見るからに浮浪者らしい風貌の二人組が階段から現れて、目に入った人影がどんな人物か観察するような事はせず、反射的に怒鳴りつけた。
それに対してディジャデスは、書類から視線もあげずに浮浪者に向かって手を振った。
「おい、聞こえて――」
浮浪者の顔に何かが当たり、頭部が潰れて仰向けに倒れて登って来たばかりの階段を落ちていった。
「えっ? へっ? あれ? おい?」
もう一人の浮浪者は何が起きたのか把握できないのか、飛び散った相棒の血がかかった顔で落ちていった相棒の亡骸とディジャデスを交互に見て意味のない言葉を発している。
それに対してディジャデスは嘆くように手で額を抑えた。
「ああ、なんという事でしょう。突然人間が現れたので、つい反射的に潰してしまいました。あなた達が急に現れるからですよ。両手をついて謝罪して死ね、クソが」
そしてもう一度手を振ると、二人目の浮浪者も一人目と同じように頭を潰されて倒れた。
「やれやれ、これだから直接人間を殺すのは嫌なんですよ。体液が付いていないでしょうね? こんな事なら適当な廃屋で書類を読んだりせず、さっさと王都を離れるべきでした。
そろそろ『救災禍炎』から頼まれていたドラゴンの卵の調達に動こうかと思っていたのですが、もう少し後にしましょう」
反省しなければいけませんねとため息を吐きながら、ディジャデスは手早く帰り支度を済ませると、魔法で握り拳大の炎の玉を作り出した。
「では、人間の臭いが移る前に帰りましょうか」
火の玉を二つの遺体に向かって放り投げたディジャデスは、振り返らずにそのまま闇の中に潜るように消えていった。
この日、王都ではスラム街の廃屋から出火し周辺の建物に延焼する火事が起きたが、出火原因や被害者の有無などに詳しく調べられることなく放置され人々の記憶から忘れされたのだった。




