存在意義を求めよ、さらば
事実は小説より奇なりという言葉があるが、○メブロをこよなく愛し、貪るように読み耽っていた私はその言葉の真実味をしみじみと実感することができる。多勢に埋もれささやかに日々を営む取り立てて何の特徴もないような一般市民の間で、とんでもないことが突如起こったりするのだ。
では小説は何故存在しているのか。事実の方が奇なのならば、退屈しのぎや興奮やメロドラマなどを求める際には事実のみを追っていればよい。その方がよっぽどお望みのものに出会えるはずだ。わざわざ小説が介入する必要はない。しかし小説は存在している。一体何を求められ、どう応えることを期待されているのだろう。
事実が奇であることは、○メブロを読んでいなくても、日々テレビやネットに触れているだけで、ある程度は実感できるのではと思う。とんでもない事件や事故は毎日のように起こっているのだ。
影響を受けやすいゆえ自衛しているが、どうしてもやり過ごせない事象を観てしまった時など、なぜそんなことが起こるのだ、何がどうなって、どういう経路で、どんな思惑で感情で、それがなされたのか、好奇心などという生ぬるいものでは済まされぬほどの、知りたい、という激情が私に沸き起こる。
私はそんな時に訪れるのだ。なりきるように、重ねるように、知りたくて、ただそれがなされた一連を実感したくて、我が身に留めておくには抱えきれない疑問や鎮痛を解明すべく、それらに連なる物語の世界へと分け入ってゆく。
加害者と呼ばれる者をただ断罪するでなく、被害者と自己申告する者をただ擁護するでなく、起こるべくして起こったのだ、理解したくて、納得したくて、出来得る限り、出てくる関係者全員に寄り添い全員を受け止めようと試みる。さらには悲しい出来事を未然に防ぐ手立てはなかったのか、以後よりよくなってゆくにはどうすればいいのか、ヒントをつかみたくて、物語の中に入り込む。
そうやって私は受け入れ難いような残酷な行いであったり、不義理な裏切りや極悪な非道徳的出来事に折り合いをつける。信じられないかもしれないが、そういったことはえてして起こることなのだから。私はこの世に絶望したくないのだ。
もちろんそれは何も世間を賑わすニュースに対してのみなされるのではない。我が身に起こったことを消化する、さらには昇華する、ためにも私は物語を利用する。こちらの方が当然多い。読むことと書くことは私を救う手立てだった。ことさら私は、自分が求めるものを書いては読むことを繰り返した。
私はそれで満足だったのだ。私にとって、書くことは手段だった。小学生の頃から、文章を書いていた。もし私が歌うのが得意だったなら、私は歌っていただろう、あるいはダンスが上手だったなら、私は踊っていただろう。あいにくどちらも不得手だった。絵を描くのよりギターを弾くのより、話すことよりも書くことが最も自然とできた。私は自らを救わんとするが為、書いていたのだ。
ところが、これを発表し、公の目に晒すとなると話が異なってきた。初めての試みで、一人で好き勝手に紡いできた私は、それを表にひっそりと出してみた。ひっそりとではあっても、表には違いない。少なくとも一人以上の方がそれに目を通してくださった。そこから私の物語は私だけのものではなくなった。我が身の救済という自慰的行為の産物は、どこかの誰かの人生に、たとえそれが雨上がり、濡れた地面に落ちる雨粒の最後のひとしずくほどであろうとも、影響を与え得るものとなったのだ。
とたんに私は忙しくなった。自分自身はもちろん、誰のことも傷つけたくない、自己の救済だけを考えていればよかった私は、多方面に気を配らなければならなくなった。それでも文字は一人歩きして、勝手に気分に入り込み、勝手に思考にひっかかる。上手く伝わらなかったり、誤って受け取られたりする度に、己の力の足りなさに打ちのめされる。やられてばかりなのは本当に辛い。無意識の積み重ねほど恐ろしいものはない。いつしか自分の力量不足を棚に上げ、世間の無理解を呪い始めた私は、web小説世界の混沌の中で迷子になっていったのだった。
さらにはサイトに溢れる作品群が私を追い詰めた。
世間に流通している商業小説とは異なり、投稿された小説に対し好みで読む、読まないを決めるのは、私には難しかった。なぜなら同じ場所にいるというだけで、勉強のため、切磋琢磨するため、読むことに義務のようなものを感じ出していたのだ。特に、一定の評価を得ている作品などは、無理矢理にでも通読した。最後の最後にたどり着ける何かがあるのかもしれない、このようにウケている理由の解明ができるかもしれない……、はたしてどこにも辿り着けなかったことも少なからずあった。
自己防衛のためには冒頭部でブラウザバックすべきようなもの、つまり自己顕示の露出狂、正義の押し付け、感動搾取、欲求不満の捌け口やドヤ顔のドヤ(※個人の感想です)など、特にのまれこみやすい私が避けるべきなんだかだを、私はモロに顔面で受けることとなった。
頼むから○メブロに行ってくれ、と思う。あそこはいい、剥き出しの自分をさらけ出せば出すほど、読者がつき、上位にランキングされるというわかりやすさが私を安心させた。よくも悪くも湧き起こる情動そのままに、書き記されたものは嘘偽りなく心に届く。人の営みは時に滑稽で時に自己中心的ではあるが、慈しむべき愛おしさを孕んでいた。
物語を、利用しないでくれ、と思う。私の救世主である神聖な芸術を、自己と向き合わずして短略的に吐き出す手段のカモフラージュに使用しないでくれ、と。透けて見えるのだ、自慰の丸出しなのだ。私の願いもむなしく、目を通す私に届くのは、物語ではなく作者の陰部のびーん、とくぱあなのだった。
だんだんと自分の感覚に自信をなくしていった私は、おかしいのは私の方で、おかしな私は世間と乖離しており、同意も共感もされないどころか、存在意義すらないのでは、と疑念を抱くまでになっていった。
これは二重の意味で私を苦しめた。すなわちひとつは私の物語が有用でなかったという無力感、ひとつは求められているものに合わせんとする意識が働くことによる、書くことの楽しさの剥奪。
それでもそんな私を救うのは、やっぱり物語なのだった。出会えた時、私は優しく、もしくは激しくつかまれては、有無を言わさず果ての淵まで連れていかれた。私は翻弄され、もみくちゃにされて前後不覚に陥らされる。芸術によって、心が洗われるのだ。例えそれが息ができないほどの号泣を伴うものだったとしても、私は晴れやかにラインを越え、また新たな私となって翌朝目覚めるのだ。
この差は何か。私は何を書くべきなのだろう。迷える私は自ずと考え始めたのだった。
ここから先は私の個人的な幸運に大きく依存する話になるが、結果として、私はとんでもない贈り物を受け取ることになる。私は小説の存在意義をあらためて確認し、私がそうだ、それが書きたかったものだ、と思えるものとの邂逅に成功する。迷子センターから抜け出し、目指すべきところが定まったのなら、あとは一目散に駆け出すだけだ。
私にとって小説とは、読む者にある作用が働くが、同時に書く者にも同じ、もしくはそれ以上の効用をもたらすものだった。何かはここでは言うまい、各々が決めることだから。ただひとつ言えるのは、それを紡ぎ出すことのできる我々のいかに幸福なことか、私は興奮で打ち震えずにはいられない。
意思決定をしない限りは、たどり着くべきところも向く方向すら不明なままだ。求めよ、さらば与えられん、のならば、求めるにとどまらず奪いにいく勢いで、欲するものを明確にしておくことが大切になってくるだろう。それは与えられるまでのタイパがよいのは当然のこと、欲していた以上の収穫をもたらすだろうから。○メブロももちろん強力な魅力を持つコンテンツであるが、小説はまた異なる引力でもって、ひとびとを惹きつけてやまない。なぜなら物語が持つ力は偉大で、その秘めたる可能性には限界がなく、そしてこれは本当のことだからだ。
信じられないかもしれないが、事実は小説よりも奇なのだから。
お読みくださり感謝します




