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変わりゆくもの  作者: 牧野
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2.八日

幼少期を過ごした家には、小さな庭があった。母の趣味で少し背の高い観葉植物が庭の隅に一本植えられていた。大きな葉が数枚ついた木。陽の当たる日にはその真下に黒い影が落ちた。

 その影の中にいるのが好きだった。実体のない境界が僕に居場所を与えてくれる気がした。僕はよくそこでリディと話した。

 祖母の作ってくれたフェルト製のうさぎの人形。とても精密な出来で、一目見ただけではそれが人形か、それとも本物のうさぎか区別できないほどだった。母はあまりにリアルなリディを気味悪がった。

 僕が葉の影でリディと話していると

「やめなさい。お隣さんにみられたらどうするの。おかしい子だと思われるわ」

と呆れ顔で嗜めた。

 それでも僕はリディを手放さなかった。ふかふかとした身体。少し毛羽立っている尻尾。プラスティック製の黒い瞳。大きなまんまるい瞳は、僕をしっかりと見据え、その小さな体で僕の話を真摯に受け止めてくれた。

 僕はリディにいろんな話をした。昨日道端で見つけた綺麗な花の話。好きなアニメーションの次回予告。電車がコード無しで走れる理由。宇宙の謎。

 その全てをリディは黙って聞いた。黒い瞳が僕を反射する。それには特別な意味が、理由があって、あの頃の僕はそれを理解していた。

 ある日、リディを見失った。僕はひどく落ち込んだ。思いつく限り全ての場所を探した。ベッドの隙間やタンスの中。母にも何度も尋ねたがそのたび

「いいじゃないあんなの。新しい人形を買ってあげるわよ」

というだけだった。僕がそれを拒否し泣き喚いていると、母は

「仕方ないわね。じゃあおばあちゃんに言って同じの作ってもらうわよ。それでいいんでしょ?」

と言った。

 母は祖母に電話をかけに行き、すぐに作ってもらえるよう話がついたようだった。

「よかったわね。すぐに作って送ってくれるって」

 僕はそれが喜ばしいことなのかわからなかった。リディが返ってくる。新しいリディが作られるということが、どんなことなのか。それをどう感じるか。理解できずにうん。とだけ返した。

 孫からの頼みとあって、祖母は急務で新しいリディを製作してくれた。僕は新しいリディが送られてくると決まった時から喚かなくなり、リディを探すことも無くなった。母はそれを喜んだ。

「おばあちゃんにありがとうって電話しようね。」

と、しきりに行った。僕はそのたび

「うん。お母さんも、連絡してくれてありがとう」

というと、母は得意げに微笑んだ。

 八日後にそれは届いた。

 夜九時前、僕は風呂を出て眠る準備をしているところだった。配達員は時間指定の荷物をいろいろな場所に届けた後に来たようで、ひどく疲れているように見えた。

 届いた荷物は、必要以上に大きなみかんの段ボール箱だった。箱を開けると、梱包材としての新聞紙がたくさん詰め込まれ、その中に小さな木製の箱があった。

 箱を開けるとふかふかの綿の上にそれは眠っていた。あまりのリアルさに僕の開封を隣で見ていた母はぎょっとした顔をした。

 それはリディと全く同じ見た目だった。

 僕はそれを手で掬うように持ち上げる。重さも、その黒々とした瞳も、何から何までリディのそれと全く同じ。

 過去の僕のリディを隠れて奪い、これと入れ替えても決して僕は気づかないだろう。

 でも僕は。それがリディではないことが分かった。それは単に祖母が新しく作ってくれたことを知っているから、ということだけが理由ではなかった。

 母は「よかったわねぇ。可愛いじゃない」

 と、少し引き攣った顔で僕に言う。

「ほら、少し遊んでくれば?いつもみたいに」

 と庭に顔をやる。

 僕も庭を見る。庭には特別な照明はなく、窓ガラス越しのリビングの光が、ぼわっと、暗い夜の庭を照らしていた。

 母が庭へのガラス戸をあける。僕は新しいリディを両手の上に置いたまま庭に足を下ろす。庭とリビングの間には、子どもには少し高い段差があって、しゃがんでから両足を芝生の上に下ろす。夏の終わりで少しひんやりとした風が足元を撫でる。

 僕は庭の隅にある木に向かって歩く。母はリビングのソファに腰掛けている。僕は木の近くまで歩いてきて、立ち止まる。

 リディはそこにいた。

 木の裏の雑草に覆われて横になっている。その隙間から真っ黒な瞳がこちらを見ていた。

 僕は動けなくなった。

 僕たちを後ろからリビングの電球色のあかりが緩く照らす。

 雑草が風でなびく。逆さまに横たわるリディの薄汚れてしまった白い毛並みがふっと顔を出す。

「リディだ。」

と小さく声を上げると、母がそれに気づき様子を見に窓の縁までくる。母もそれを発見したようで

「あら、そんなところにあったの。もう、ちゃんと探さないとだめよ」

と言った。

 僕は新しいリディを左手に持ち、右手でそれを持ち上げる。

 その身体から土がさらさらっと落ちる。リディの前までと変わらない黒い瞳が僕を反射する。

 ただ、僕にはもうそれがただの歪んだ鏡像にしか見えない。

 そこに僕が写り込むと同時に生まれていた、特別な意味が、全て失われてしまった。

 僕は左手に乗った真新しいリディを見る。新しいリディはただ単に形を整えられた羊毛の塊で、それは右手に乗っているものも同じだった。

 僕はその時、二人のリディを同時に失ってしまった。

 僕は想像する。この八日間、庭で待っていたリディのことを。死んでしまったリディのことを。彼はその瞳でリビングを見据えていた。僕の生活を見ていた。動くこともなく、声を上げることもなく、眠ることもなく。ただぼんやりと明るい部屋を見つめる。

 僕は立ち尽くしていた。夜の庭では、あの大きな葉っぱは影を落とすこともなく、僕を守ってくれていた境界線は空の闇に溶けていた。

 僕は歩いてリビングまで戻る。段差を上り、足についた汚れをズボンの両足の裾で払う。母はこちらを黙って見つめている。僕はそのまま歩いてキッチンのゴミ箱へ向かう。ペダルを踏んでゴミ箱の蓋を開け、そこへ庭にいたリディを放り投げた。

 ゴミ箱の中には納豆のプラスティック容器や、使い終わった割り箸などが山積みになっていて、その上にリディは横たわった。その姿が、新しいリディの届いた木箱の中と重なった。

 静かに蓋を閉める。母が

「あら、捨ててよかったの?」と聞く

「うん、汚れてたし。新しいのがあるしね」と返すと、母は納得したようだった。

 リディの汚れは、洗えばすぐに落ちるようなモノだった。少し整えてやれば新しいリディと同じ程度まで綺麗にすることができただろう。ただ、僕はそれを願わなかった。

 その晩僕は考えた。リディがなぜ死んでしまったかについて。リディはただ八日間外に居ただけで、何も変わっていなかったはずだった。全く同じうさぎの人形。少し汚れてしまっただけの人形は、僕の大好きなリディと何も違わないはずだった。ただ、毎日必ず。ほんの僅かずつ。変わっていってしまった。居なくなってしまった。僕はその晩静かに泣いた。リディを弔うように。

 それから僕は新しいリディと遊んだ。ただそれは、これまでのリディとの時間とは全く違っていた。母はその姿を喜んでいた。そして僕は意識的に、その年代の少年が行うように自然に人形から離れていった。

 母はリディを戸棚の上にしまった。

 その羊毛の塊はそこにずっと置かれたままだった。

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