手鏡
春
気持ちのいい風が吹き込んできた。生まれつき体が弱い妹のためにここに移り住んで初めての春だった。
「いい匂い。これはなんの匂い?」
「これは、梅の花だ」
隣の家との間には大人の胸ほどの生垣がある。青々とした緑の垣のその向こう、隣の家の庭に、横に広く笠を張った梅の木が満開の花を咲かせていた。早春の陽に木全体が輝いている。
「へぇ、これが梅の花かぁ。いい匂い。きっときれいな姿をしているんでしょうね」
妹は目がみえない。
「うむ。白い花がたくさん咲いて、きれいに光っている。まさに満開だな」
風に、花びらが一枚二人の足元に落ちた。兄はそれを拾って妹の掌に乗せた。
「これが、はなびら……。暖かい」
「みちの着物も、今日は梅色だ」
触ってみろ、といおうかどうか迷ううちに、妹は着物の襟を小さく握った。
綺麗である、隣に咲く梅が色を失うほどに。そういう言い方を妹は好まないために、兄は言葉を慎んだのだが。苦笑いのようになって顔に浮かんでいた、まるで、妹に「叱ってくれ」というように。
「へえ、わたしは梅の花をまとっているのね」
妹は、あどけない顔に満面の笑みを浮かべた。医者の見立てでは、妹の目が治ることはまずない、という。「白い」とか「満開」とか「きれい」とか、目でみなければわかりえないことを妹に説明することに迷いを感じる時期もあった。兄の話を聞くとき、妹は常に笑顔だった。その笑顔が痛いときもあった。あるとき、妹がいった。
「兄さまのみているものを、わたしもみているの」
それから、兄は妹の目になった。自分の目でみたもの感じたことを妹に話した。妹の笑顔に、いつしか自分の笑顔も重ねていた。
――妹に、わたしも随分救われている。
妹の笑顔に接すると、兄も心が温かくなった。自分の清い心をそこにみていた。まるで。
――鏡をみているかのようだ。
兄は、妹のきれいな黒髪の頭をそっと抱いた。
「この辺りは水も空気もきれいで食べ物は滋味にあふれている。美味しい物をたくさん食べて、元気になれ。体が元気になれば、目もよくなるかもしれない」
兄は、髪を撫で下ろし肩を抱いた。細い、か弱い肩。
「うん」
笑みが小さくなった。妹の顔をみて、兄は視線を上げた。梅の木の向こう、春霞に映る山影をじっとみつめた。まだまだ上手に鳴ききれない鶯の声に、妹がまた、笑った。
芽
蓑里という小さな村に咲という女がいた。子どもたちを仕切るような子ではなかったが、利発で慎ましく、大きな瞳と澄んだ笑顔が誰からも好かれた。
咲の家は西秋屋というところにあった。近くにこの地方を治める領主の城があったのだが、徳川の時代、城は隣の和田町に移った。それに合わせて城下町もそっくり和田に移り、直後、このあたりが空(秋)家だらけになったことにその名が由来するという。城跡を囲むように西秋屋、西の東には東秋屋がある。
「関口の家の咲はここいらじゃ一番の器量よし」
そんな風に近所の男どもが言い始めたのは咲が十五になる頃からだった。少女のあどけなさに、女の美しさが芽生え始めていた。
初めはまるで意識していなかった。いわれて嬉しいこともないし、浮かれるようなこともない。視線がときに不快ですらあった。
男の言葉など意識しないが、これは誰にもいっていないことだが、咲は鏡をみるのが好きだった。小さい頃から。日に焼けた黒い肌も気にならない。大きな目、高くない鼻、程よい大きさの口と唇。小さいころは丸かった顔も、そして、成長して少し細くなった輪郭も、咲は好きだった。母親がいないときや忙しく働いているとき、こっそり母の部屋に入って姿見を覗き込んだ。
咲がそんなことをしていると、母が知っていたわけではないだろうが、ある時、母が咲に手鏡をくれた。
「わたしもお母さんからもらったものだから、あんまりきれいじゃないけど」
言葉の通り、お世辞にもきれいとはいえないその手鏡は、もとはもっと明るい色をしていたんだろうなと思わせる、汚れた茶色をしていた。
「ありがと、大事にする」
いかにも年季の入ったその手鏡をもらって、咲は面に満の笑みを浮かべた。作り笑いではなく、本当に嬉しかった。
鏡を囲む部分は煤けていたり削れているところがあったりするものの、鏡面にほとんど傷はなく、母もその手鏡を大事に使っていたことがはっきりとわかった。畑で仕事をするときはもちろん、針のお師匠さんに裁縫を習いにいくときも友だちと遊んだりするときも、鏡を持って出ることはない。普段は小机の引き出しに大事にしまっていた。
鏡に映る女の子、それは本当に自分なんだろうか。自分はそんな顔、そんな姿をしているのだろうか。
鏡をみてそんな風に思うようになったのは手鏡をもらってから。
鏡は、窓だ。家の窓のように開かない、あっちの、こちらとは違う世界とつながる、入ることはできない、でも「そこ」にいる、世界。向こうにいるわたしは、ほんとにわたしなんだろうか。もしそれが「わたし」じゃなかったら……。
夜中に鏡をのぞいてはいけないと、母親にいわれていた。姿見をのぞいたことはなかった。ある夜、ふと目が覚めた。季節にしては涼しい夜だった。目を開ける寸前、まぶたの裏にみえた机の中の手鏡。振り払うことはできず、机の引き出しを開けた。部屋の中の異様な静けさも、外の虫の声もなにも気にならない。包んでいる手拭の端を躊躇いなくめくった。鏡面を伏せて置いてある。手にとって、鏡をみた。じっと、どれほど鏡の中の自分の顔をみていたろうか。
――みられている。
思った瞬間、凍りつくように背筋が伸びた。咲は、むしろゆっくりと、いつもより慎重に鏡を包んだ。静かに引き出しをしめ、布団に戻って横になった、そっと、そっと。
恐怖は朝になっても消えなかった。明るい部屋のその小机のさらに小さい引き出しから、部屋に漏れ出す。咲の、目にみえて暗い、肌に触れてまとわりつく。「あっち」の世界の空気が、部屋に少し混じっていた。咲は窓を開けた。
その後も、咲は夜中に目を覚ますたび、手鏡をのぞいた。恐怖は徐々に感じなくなった。感じなくなるくらい、部屋は、「あっちの空気」に満ちていた。
「咲がこのごろ一段と女らしくなった」
男どもは囁きあった。
その年の秋祭り、咲は夫婦行列の「婦」に選ばれた。無事に刈り入れが済んだことを感謝し、また来年の豊作を祈願するため、八幡様から町を一回りして再び八幡様に戻る。十人近い従者、行李の列を従えて、艶やかな着物をまとう咲が行列の先頭を歩いた。白粉の顔に真っ赤な紅をさし、伏目がちに、慎ましく、隣の「夫」と歩を合わせて歩いた。着付けのときにみた自分。綺麗より、恥ずかしかった。
夫婦行列で歩いた夫婦が本当の夫婦になる、そんな噂があった。事実そういうこともあったかもしれないが、咲くらいの年頃の少女にとって、それは事実以上に、おまじないのようであり、憧れのようであり、そして嫉妬ややっかみのようでもあり。
周りがそうやって囃し立てても咲はなんとも思わなかった。男というものに、他の少女よりも思いが小さいようだった。
行列が終わり、咲も化粧を落として普段の自分に戻った。鏡でその姿をみたときほっとした。同時に寂しさもあった。咲は鏡に向かって心の中で呟いた。
――またいつか、そんな私をみせてあげる。
鏡の中の黒い女の子が、はにかんだように笑った。
この年の夫婦行列の「夫」は、村長をつとめる関口の家の長男、敦矛だった。咲と同じ関口性であり、数世代前は本家と分家という関係だったそうだが、今ではほとんどつながりはない。
敦矛は色黒の肌とがっちりとした体格に目鼻の立った彫深く、大きな口に大きな声を持つ男だった。いつも取り巻きを二、三人従えているが、決してやくざ者ではなく、家の仕事はちゃんとこなした。「従えて」というよりはむしろ「慕われて」いた。
「咲、一緒に祭りをみないか」
近所の女子と一緒に夜店をみていた咲たちの前に男が立ち塞がった。大きな男は敦矛だった。珍しく一人のようだ。敦矛は十九歳、咲より三つ歳上である。咲を挟んで立っていた女子がまるで己が声をかけられたかのようにきゃっきゃっと笑い声を立てた。辺りは賑やかだった。八幡様に向かってずらり露店が並ぶ。もうじき境内で奉納の舞も始まる。時間に合わせて、咲たちも境内にいくつもりだった。境内に向かう人の流れに、むしろ敦矛一人が逆らっているようだった。
咲は敦矛とまっすぐ向き合った。同じ姓を持ちながら格が月とすいとんほど違う歳下の咲に対して、その視線は紛れもなく上からのものだったが、かといって組み敷くようではなく、それはまさに「夫」が「妻」に向けるそれのようだった。
咲は、敦矛をよけて歩き出した。残された二人が慌てて追いかける。
「いいの?」
「さきちゃんは、あっちゃん嫌いなの?」
咲は黙って歩き続けた。嫌いなの? 嫌いではない。でも、好きでもない。どっちかといえば、嫌いなのかもしれない。みると、なんとなく避けたくなる。今もそう。見上げて視線を合わせることさえしなかった。
好きの裏返しなのかも。
そう考えたこともある。が、そういうことではなさそうだった。やはり、嫌いなんだ。
敦矛は追ってはこなかった。
その日以来、咲にとって敦矛がかえって身近になった。なんらきっかけを得ることなく、脳みその横んところに敦矛の顔があることがあった。なにをしたいわけでも話をしたいわけでもなく、ただ顔があった。ほんのり笑っている。それを不愉快と思うこともない。道を歩いていて、目の先に敦矛の姿を認めた途端慌てて道を曲がるというようなことはなくなった。こちらから話しかけるようなことはしない。身近になったといっても、幼馴染の龍雄や丈一郎よりは全然遠い。
年が明ける。この冬が、例年よりも雪の少ない冬であろうが、それを決して追い越さないように、春はゆっくりやってくる。陽に体を起こされ、枯葉の下からフキノメが顔を出す。空に訪れる風も冬の渇きを徐々に満たし、蝦塚の梅林が遠くからでも匂い立つほど艶に装うころ。その様を、咲はしみじみとみていた。
――この景色も、もうみれない。
咲はこの村を離れることになった。蓑里から和田を抜けてその先、下中井の村に製糸工場ができ、咲は家を出て工場の寮に入ることになった。
もうみれないといったって、一生みれないということではないだろうに。咲の、膨らみ始めた胸の内は不安でいっぱいだった。
夜、ふっと目を覚ます。風が微かに家を鳴らす。布団から起きだし、小机の引き出しを開けた。きっちりと折り畳まれた布切れをそっと手にとって、開く。その中に、手鏡はない。咲は布をじんと眺めた。布切れに包まれた「鏡」のない手鏡を、咲は暫く見つめていた。赤ん坊の泣くように、外で猫が鳴いていた。
よく晴れた春の一日だった。空っ風のすこぶる強い空で、頭の上がぶんぶん音していた。
下中井までは和田駅から電車でいく。蓑里から和田の駅までは路面電車でいく。金子の停留所は、咲たちを見送る人で普段よりはるかに多く賑わっていた。昼過ぎの黄色い太陽が暖かい光を振り落とす。この日、咲とともに工場へ向かうのは富子と菊江の合わせて三人である。電車に乗った咲の手に、多くの荷物とは別に母親が作ってくれた握り飯の包みがあった。包みはまだ十分に暖かい。その温もりは、きっといつまでも続くだろう。途中お腹の中に入れてしまおうが、工場につこうが。体の中、心の中に、いつまでも残るに違いない。
電車はゆっくりと走り出す。とてもとても近く慣れ親しんだ顔はどれも涙と鼻水を垂れ流し、歪んだ顔でなにかを大声でんでいた。がんばれ、気をつけろ、いつでも帰ってこい。不明瞭な言葉を聞き、薄汚れた顔をみた途端、窓の外は「懐かしいもの」へと姿を変える。離れていく彼彼女らの中にも自分がいた。生まれ故郷との、「蓑里の咲」との別れ。不安と恐れと、寂しさと微かな希望が咲たちの瞳から流れ落ちた。むせるような嗚咽となって徐々に溶け出た。咲は着物の袖を触った。そこには、きれいに洗った紺色の手拭に大事に包んだ手鏡があった。それは、母親からもらったものとはまた別のものだった。妙名の山が、いつまでも咲たちの後をつけていった。
龍
おんさん山からおってきて、きっこりきっこりないている
なんといってないている、こどもがほしいとないている
こどもはおまえにゃやれないが、かわりにこいつをあげましょう
かわりになにをくれましょう
かわりにだんごをあげましょう
だんごはいらん、こどもがほしい
こどもはやらん、おまんまあげよ
おまんまいらん、こどもがほしい
こどもはやらん
こどもをくれねばおまえのおとさんくってやる、おまえのかかさんくってやる
おとさんおかさんくわれちゃこまる、さればこのこをあげましょう
さればこのこをつれていこう
さればわたしがいきましょう、おとさんおかさんさぁよーなーらー
龍雄が麦を刈っていると、どこからか子供たちの歌う声が聞こえてくる。思い出したように腰を伸ばし、詰めていた息を吐き出した。ほっかむりした手拭をほどいて流れる汗を拭きながら、みると、大麦の穂が夏の暑い陽射しに輝いていた。陽はだいぶん傾いて吾妻山の端にかかる。村にも夕闇が迫りくるが、いっこう気温が下がらない。子供たちの元気さが不思議だった。ちょっと前まで、自分もあんな風に遊んでいたのだ。麦畑に小波が立つ。遅れて、龍雄の顔を風が撫でた。そよ風が、そっと吹き抜けていった。龍雄は麦刈りに戻った。
すぐにまた顔を上げた。さっと子供たちを探す。歌は既に聞こえなかった。代わりに、なにか言い争うような声が聞こえてくる。子供たちを見つけると、龍雄は小豆やモロコシなど次の作物の芽を踏んづけないよう気を配りながら畑を出た。
子供たちが四、五人いる、その中で、頭三つ大きな子供が一人。向かって歩きながら、龍雄は一つ息を溜めた。
「こぉらぁ、またおめたちやぁ、やめねぇか!」
わぁぁぁ、子供たちが喚きながら輪を広げた。一人の大きな子供が輪の真ん中に取り残された。大きな子の喚き声は、他の子供たちの声に決して負けていない。甲高い子供たちの声と一段低い子供の声が夕闇を跳ね回った。
「おら、いい加減にしれ、ひっぱたくぞ!」
ばかいちあほいち、もうお前となんか遊んでやんねかんなぁ、遊んでやんねかんな。
「う、う、う、うるさぁい! あ、あ、遊ばないのは、こ、こ、こっちだ、ば、ばーか」
「やめろ、いっちゃん!」
「ばーかばーか、お、お、お、おめぇらなんかと、も、も、もう遊んでや、やんないかんな」
子供たちはあっという間に小さくなって夕闇に溶けた。「いっちゃん」と呼ばれた男の叫びだけが黄昏の夕闇を震わせた。
「もういった、やめろ。いっちゃん、けぇるべ」
いいながら、龍雄が大きな背中を優しく叩いた。
「うん」
いっちゃんは、素直に龍雄の後についた。
丈一郎という。坊主頭で、さほど大きくない目をいつもいっぱいに開いている。龍雄とは同い年で幼馴染だった。家の仕事ももちろん手伝うが、ときどきこうして子供たちとも遊ぶ。丈一郎は、みなより少し心の成長が遅れているようだった。
体格は龍雄よりも大きい。力もある。働くことを厭うわけではない。長いこと仕事を続けるということができなかった。我侭をいってダダをこねることもあるが、大抵、龍雄や家族の言葉にはこうして素直に従う。まるきり、大きな「子供」だ。
「喧嘩したらだめだっていつもいってんべ。もっと仲良くしなけりゃだめだ」
「だ、だって、さ、さだが、い、い、いつもおれのこと『はなたれあほいち』ってい、いじめんだもん」
龍雄が丈一の手を持って引いている。
「さだがそんなこというんか。そりゃさだがわりぃな。おらがさだにもういうなっていってやっから、あんま喧嘩したらだめだぞ、わかったか」
「うん、わかった」
稚気を多分に残す、頑是ない笑顔なのだ。
「仕事の片付けしてくるからちょっと待ってろ」
この日の仕事はもう終わり、龍雄の家族ももう帰るところだった。頭の上で雲雀が鳴いている。龍雄がちらっと上を見やった。小さな羽ばたきをみることはできなかった。刈った麦束を肩に背負い、父親に丈一郎と一緒に帰ることを告げ、畦を戻った。向こうでは、丈一郎がじっと虚空を眺めている。口をぼんやり開けっ放し。上をみたままの丈一郎がにこっと笑顔になった。
龍雄も見上げる。一生懸命に羽を動かすその姿を、龍雄も見つけた。
七月の終わりのある日、龍雄が午前中だけ農仕事をして帰るところだった。この日は農休みの一日で、大人たちは午前中だけ畑に出、子供たちは家の手伝いもしないで遊ぶ。家の近くまできたとき、龍雄はみた。しょっちゅうみるものではないが、「珍しい」とも思わない。三人の小さい子どもを見下ろすように娘が立っている。娘が背負っているのは兄の子供だろう。見下ろされている子供の他にもう一人、余りにも大きな子供が、他の子供以上に背を丸めて小さくなっていた。大きな子供は丈一郎で、娘は咲だった。咲が厳しい顔つきで子供たちに怒っていた。元がかわいいだけに、怒っている顔は取り付く島がないようにみえた。
怒られている子供の中にさだ坊がいるのをみて、龍雄の頭にあの日のことが蘇った。咲にはそのことを話してある。そのとき咲も龍雄と同じことを丈一郎にいった。嬉しかった。
――まるで夫婦のようだ。
真夏の太陽がじりじりと路傍の夏草を焼いた。焦げる音は、今の龍雄の耳までは届かない。何気なく歩み寄り咲の隣に加わった、その心地よさに思わず笑みがこぼれた。笑みは、心地よさやくすぐったさの表れではない。それは、「父親」の溢れる優しさが表れたものだった。子を背負う妻の隣で子供たちに向かう自分のその視界が、あたかも〝二十代半ばの龍雄〟のものだったことは、脳みそが煮え立つような暑さのせいだったかどうか。
蝉の声すら、聞こえやしなかった。
子供の頃から龍雄は丈一郎とよく遊んだ。「丈一郎にはあまり構うな」という大人もいた。それでも龍雄はいつも一緒だった。そして。
「たっちゃん、いっちゃん、あそぼ」
そういって混ざってくる子がいた。咲だった。三人で鬼ごっこをしたり影踏みををしたり、尻取りをしたり歌を歌ったり。関口咲の家は、龍雄の山口の家と丈一郎の山田の家の間にあった。どこそこの家に鋳掛屋がきたこうもり屋がきたと聞くと、咲は二人の腕を取ってぐんぐん引っ張っていった。ひょろっちくて頼りない龍雄は半ば戸惑い、体の大きな丈一郎はさも嬉しそうに咲の後ろを駆けた。
十か十一のころの、ある冬の日、三人で遊んでいるところにビュッと木枯らしが襲った。顔を伏せてやりすごしたが、運悪く龍雄の目に砂が入った。痛くてぼろぼろ涙を流していると。
「こっち向いて。目開けて」
龍雄はいわれた通り、咲に顔を向けて目を開けた。痛くてかなわなかったが、そのふやけた視界に、咲の顔が迫ってきた。口が開き、舌がみえた。
「とれた?」
龍雄は目を開けたり閉じたりしてみた。砂はないようだった。無言で頷いた。
「よかった」
咲のふくよかな笑顔。龍雄はなにも返せなかった。目に砂や埃が入ったとき、母親は手ぬぐいの端っこを細くよって、それをなめてそっと目に入れてごみをとってくれる。もし手ぬぐいなんかがない場合、舌でごみを取ってくれた。母親以外にそんなことをされたのは初めてだった。
龍雄の体の内側がポッと温かくなった。その温かい思いに名前をつけることができず、しまって後でほじくり返すこともしなかった。心身の成長とともに、その思いは他の感情と区別されるようだったが、やはり名前をつけたりせず、時折持ち出しては持て余した。
秋祭りのとき、咲が敦矛に声をかけられるのを少し離れたところでみていた。
「さきちゃんだ」
走り出そうとする丈一郎を、龍雄は止めた。最初になにかいったきり、敦矛の唇は動かない。そして、咲は敦矛を避けてさっさといってしまった。ほっとして、歩き出した。丈一郎を抑えた腕が緩んだ。丈一郎が小走りに駆け出した。ずんぐりとした後ろ姿が敦矛を追い越したところで咲の名前を呼んだ。振り返った咲は、いつもの笑顔だった。ぽかぽかと温かい中に、なんだか寂しいものがあった。それがなにか、龍雄に名付けることのできるはずがない。龍雄は駆けることをせず、歩く速さを上げた。敦矛の背中が近づく。流れに飛沫きを上げる岩のようだった敦矛が、今は細い小枝のようだった。その横を、難なく通り過ぎた。過ぎ様にみた敦矛の横顔が、悔しそうに笑っていた。先では丈一郎と咲たちがこっちを向いて立ち止まっていた。龍雄は歩みを緩めた。ゆっくり歩いても、そこまでつくのに幾らも時間はかからないだろう。
祭りからの帰り道。友達と別れた咲が龍雄と丈一郎の真ん中で二人の手を引っ張って歩いた。咲の手は温かかった。今まで感じていた以上に。辺りを包んだ薄闇の中で、三つの影が辛うじて浮かびあがっていた。三つの影を、闇が一つにつないでいた。
年が明けた。龍雄は丈一郎を連れて山入りをした。山の中は、汚れた雪がうっすらと林の下草を覆っていた。
小正月に使うヌルデや繭玉を指すボクを刈って帰ってきた。里までおりてきたとき、どこにいたのかさだ坊が駆けてきた。
「ばかいちあほいち、やーいやーい」
「う、うるさーい! ば、ば、ばかっていうな!」
背中に荷物をかかえているため、丈一郎はさだを追いかけることができなかった。離れずつかず、さだも二人の前をちょろちょろ走り回る。
「こら、いい加減にしねぇか! またおめぇは」
冬の陽射しはあっという間に黄色く変わり、宵が寒さとともに足元を襲う。どこかで犬が鳴いている。
「わぉー」
「わぉわぉー」
「二人ともやめろ。犬の鳴き真似なんざするもんじゃねぇ」
「なんでや」
「なんでや」
「犬が遠吠えすると人が死ぬ。そういう言い伝えがあるだんべ」
「そんなん、迷信だんべ」
「めいしんだんべ」
わぉー、わぉわぉー。龍雄に鳴き真似を止めることができない。さだのいうことまで真似をして。結局、丈一郎はさだのことが好きなのだろう。さだも決して、丈一郎を嫌いではないのだろう。
一月十五日の朝はどんと焼きだった。前の日の夕方、学校や仕事が終わった子供や男が田んぼに竹を組み、中に門松や注連飾りや麦藁などのアンコを入れた櫓を作った。東の空が明けに染まり始める頃、火がついた。
「せっかく作ったんに、もったいねぇもったいねぇ」
子供たちがいいながら火を消そうとする。さだ坊や丈一郎が木の枝でまだ小さい火を叩く。が、火は櫓に移り、じきに煙と炎を上げて大きく燃え上がった。木の枝を燃やして振り回すもの、繭玉やみかんを火であぶるもの。書初めを燃やし、燃えかすが高く上がれば上がるほど字が上手になるといわれた。
「あの一番たけぇのがおれんだべ」
「あっちのがたけぇ、あれはおれんだ」
皆の中に一年積もり積もった塵芥を、どんと焼きの炎が空高く吹き上げた。なくなりはしない。それはいずれまた、一年かけてゆっくりゆっくり村とそこに住む人々の上に降り積もっていく。昔から繰り返し、この先もずっと。
丈一郎が笑っている。丈一郎と楽しそうに話をしているのは、龍雄たちと同い年の半次郎という男の子だった。半次郎は普段無口な男で龍雄などもあまり話をしなかったが、丈一郎を遠ざけない数少ない村人の一人だった。炎がみるものの鬱憤を払い、誰にも笑顔を与えた。人々の鬱憤の量だけ、ひとしきり燃え上がり、そして白いかすとなって地面に横たわる。それ以上、誰に省みられることもない。
それから一週間もしないうちだった。さだ坊が死んだ。凍りついた鳴瀬沼で遊んでいて氷が割れ、水の中に落ちた。水から引き上げられたとき、すでに息をしていなかった。二度と息をすることはなかった。
こういうことは何年かにいっぺんあることだ。この前のときは龍雄より一つ下の男の子が死んだ。そのときより、今回は悲しかった。沼の氷がいつもより薄いという話はあった。防げる事故だった。
隣では丈一郎が声をあげて泣いていた。丈一郎の悲しみの、なんと純粋なことか。
「ごめんなさい、もう犬の鳴き真似しないから、しないから」
その言葉を聞いた瞬間、龍雄の目から涙が溢れ出た。いろんな言葉が心に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。鳴き真似をきちんと止めるべきだった。どんと焼きのとき、ちゃんと燃やしておけば、もう一度注意しとけば、きっとこんなことには……。留まることなく消えていった。涙だけが、ただ龍雄の心を軽くした。一生、この思いを抱えていくことを龍雄は密かに覚悟した。咲も泣いていた。半次郎に、涙はなかった。いつもとあまり変わらない、少し沈んだような顔で、それが半次郎の悲しい顔なのだろう。
さだが死んだ翌日、沼には「遊ぶべからず」の立て札が立った。子供たちが沼で遊ぶ姿を、その後みることはなかった。
春がくる。暖かい春。その前に、空っ風とよばれる冷たい乾いた北風が村に吹き荒れる、春。麦穂が風に揺れる。まだお彼岸に入る前、蓑里の村から出ていくものたちがあった。お墓参りを済ませ、梅の花吹雪に見送られ、金子の停車場からひとまず和田の駅に向けて。
ちんちん電車の中には、咲たちのほかに数名の乗客がいた。商人風の男、初老の男性、若い女性は一人で買い物にでもいくのだろうか、洋装の男性はどこから乗ったのだろう、まさか温泉の帰りでもあるまいに。まだ若い男女は、伊賀保温泉に泊まってきたろうか……。
咲のことが、真正面からみれない。周りに目を向けてばかり。咲が窓から顔を出した。
――今しかねぇ。
思い切って、龍雄は包みを手渡した。
「なに?」
「か、か、鏡。咲ちゃん、毎日みるんべ」
黙って手に取った咲の少し寂しげな顔だった。
みち
実千は生まれつき体が弱かった。二歳になる前、悪い風邪を引いてひどい高熱を出し、視力を失った。再びみえるようになる見込みはないという。奇跡でも起きない限り。
実家は和田の町で主に洋品を扱う「ハシモト本店」というお店だった。すこぶる繁盛しており、三階建てのモダンな洋風建物は活気に溢れる和田の町にあって一際目を引いた。
昼間は人の流れの切れることなく、夜も遅くまでその日の始末や翌日の準備などで一日中静まり返るということがなかった。実千はそんなことはないとにこにこしながらいうが、兄は、この家にいることがどうしても実千のためにならないと思い、店のことは親と弟に任せて、妹と町の外れに一軒家を借りて二人でそこに住み移った。兄斉昭十九歳、実千十五歳の秋だった。
初めは戸惑っていたが、実千もすぐその環境に慣れた。朝、雀のさえずりに起こされ、日中、縁側で感じる風も太陽も柔らかく優しい。いつも耳を叩くようだった町の喧騒がそこにはなかった。草花がこれほど強く匂うとは。それらが「生きている」ということを、実千はここにきて初めて感じた。
「今日は暑いわね。でも、もうすぐ夕立がくるかしら。蝉が、少し騒がしい」
家の北側には防風林として杉の木が数本植わっていた。蝉たちの鳴き声が家を震わすようだ。
「お薬はさっき飲んだわよ」
「いえ、こう暑いんでね、みっちゃんは大丈夫かと思って」
声は老僕の三次だった。
「いや、夕立がきますかな」
「たぶんね。風も少しぬるいみたい」
「みっちゃんの予言はよくあたるかんな。こりゃ早めに仕事すませねぇと」
「とりさんは? さっきからいないみたいだけど」
三次ととりの夫婦はこの近所に住んでいる。二人とも六十の半ばだということだが、まだまだ声にも動きにも張りがあった。子供を若くに失ったということもあり、老夫婦はこの妹を本当の子供というより孫のように扱った。とにかく可愛がった。
兄が以前、
「ちゃんと払うものは払っている。なんでもいいつけなさい」
などといったことがある。それは実千にとっては不快だった。兄は実千のことをよく気がついてなんでもしてくれるが、ときに三次やとりに対して尊大な態度をとることがあった。
この家に三次ととりがきてすぐの頃。
「こんな着物持ってきたかな」
実千の着物をみて兄がいった。
「とりさんが着せてくれたの。娘さんが着ていたものだそう」
「三次たちの娘のもの?」
「大きさもちょうどいいと思うのだけど、どうでしょう?」
兄の返事はなかった、兄は実千から離れていく、足音を聞けばわかる、実千の嫌いな足音だった。
実千にあんなものを着せてもらっては困る、早くに亡くなった娘の着物など、そのような験の悪いものを着せてもらっては……。兄の声が、家を小さく震わせた。
実千にはそういうときの兄や三次夫婦の表情をみることはできない。が、閉じられた瞳には人々の心が映るようだった。つい先ほど出かけた兄より先にトリのことが浮かんだのは、恐らくそういうことも理由のうちだろう。
「ばあさんは野菜もらいいってくるっつってでかけた。追分の妹のとこぃでもいったんだんべから、そのうち帰ってくるだんべ」
「傘かなにか持っていった?」
「いえ。風呂敷しか持ってなかったと思うけど、なに、おおか(たくさん)降られりゃちんちん電車に乗って帰ってくるだんべ」
実千の顔から三次の言葉が少しそれた。空を見上げたか、少し遠くをみやったか。口では「だんべぇ」なんていってるが、三次はトリのことを心配している。実千はまた嬉しかった。
「斉昭さんのほうは大丈夫だんべぇか。お兄さんも傘もなにも持たずに出たっけが」
三次の言葉が実千の顔に帰ってきた。兄こそ大丈夫だろう。この家にきて半日も家を空けたことがない。じきに帰ってくるはずだった。
実千は三次の顔をみたことがない。三次の心配そうな顔が心に浮かんでいる。
大丈夫だんべぇ。
喉まで出かかった。
「もうすぐ帰ってくるわよ。ごめんなさい、仕事の途中だったんでしょ。わたしはもう少しここにいるから、戻ってくださいな。大丈夫、雨が降ればすぐ中に戻るから」
はい、といって三次は離れていった。だんべぇ。いえなかったことを少し後悔した。いえばきっと三次は喜んでくれただろうに。次は絶対いってやろう、みちは心に誓った。
蝉の声に混じって、なにか叩くような音が聞こえてきた。なにをやっているのだろう。みちの中には三次がまだそこにいた。トリが荷物を抱えて歩いている。暑いのに大変だけど、もっと急いで。兄が歩いている。いうまでもなく、額に汗して急いでいた。西の空に真っ白な入道雲が大きく立ち上がっている。実千にはもちろんみえていた。
斉昭はそれから三十分ほどして帰ってきた。すると、まるでそれを見計らっていたかのように雨が落ちてきた。
「やや、降ってきたな」
大きな雷が幾度か鳴り、間を置かず土砂降りになった。
「いやぁ、危なかった。もう少し遅かったら俺も降られていたな」
すさまじい降り方だった。桶をひっくり返したように、黒い雨が町に降り注いだ。
「こりゃ、三次たちも暫く動けまい」
実千は縁側の奥に引っ込んでいる。そこから、じっと心を外に向けていた。兄と入れ替わるようにして三次がとりを迎えにいくといって出ていった。ほどなく、桶がひっくり返った。雨がひどければとりはちんちん電車で帰ってくるといっていたので、恐らく三次はその駅までいったのだろう。駅はここから歩いて五分ほどのところにある。それほど遠くはないが、この雨では駅から出てくることはできまい。
ガッ! 家の梁が震えるほど、すぐ頭の上で雷鳴が轟いた。
「キャッ」
実千が思わず体をすくめた。すぐに体を暖かいものが覆った。兄が妹をがっちりと抱きしめた。実千にとって、それこそ兄だった。兄の胸の中に入って、心がすうっと安らいでいく。実千は、身も心も兄に預けた。
雨は一時間もしないうちにやんだ。家の前の道では早くも水溜りを踏む音が右に左に動いていた。
「お、陽が出てきたな」
実千は立ち上がった。
「ん?」
「また、縁側に出る」
「ん」
兄は一度実千から手を離した。その手は、なにかあればすぐに支えられるところにあるということ、実千は知っている。さっきと同じように、縁側に腰掛けた。実千には無論みえないが、雲の隙間から染まり始めた空がのぞき、西に傾いた太陽が顔を出す。気温が上がり、蒸し暑さがぶり返した。雨に洗われた空気に蝉たちの大きな声が、実千を叩くよう。
家に近づいてくる二つの足音に、実千は耳を留めた。すいと庭に入ってきて玄関を開けた。
「ただいま帰りました」
三次の声だった。
「お、帰ってきたか。お帰り、大丈夫だったかい」
いいながら兄が玄関まで出迎えにいく。取って付けたような言い方がおかしかった。
この家にきて、兄はよくしゃべるようになった、と実千は感じている。それが妹を思ってのことだと、無論兄はいわないが。
着物のことで兄が三次ととりを叱った後、実千は兄にいった。
「あのような兄さまの言い様は、実千は聞きたくありません。三次ととりさんにあのような言い方をなさる兄さまを、実千は好きにはなれまん」
兄は黙っている。「ふん」と小さく鼻で息を吐いた。なにかを心に決めたとき、兄はよくそうする。
「三次、とり、ちょっときてくれるか」
兄は三次ととりをその場に呼んだ。
「三次、とり、先ほどはすまなかった」
実千には声の聞こえ方でわかる、兄は三次ととりにしっかり向き合い、頭を下げたのだ。
「おまえたちにあのような言い方をするなと、実千に叱られた。いや、実千に叱られたから謝っているわけではない。わたしが間違っていた」
いえいえそんな、とんでもねぇことです。三次ととりの驚いたような声が実千に届いた。実千はくすぐったそうに笑う。
「これからは、これからも、妹を娘とも孫とも思って接して欲しい。着物など着させてやってくれ。これからもよろしく頼む、優しくしてやってくれ」
とんでもねぇ、こちらこそお願いします。三次ととりの声は、二人の話し方は似ている。二人とも泣いていることが、実千にはすぐにわかった。二人は似ている。
「わたしになにか意地悪されたりしたら、実千にいいつけるといい、実千がわたしを叱ってくれる」
「わたしに叱られるようなこと、もうなさらないでください」
「気を付ける」
兄は実千にも頭を下げたようだった。
――兄さまも、わたしがいないとダメなんだから。
その後、兄の三次やとりに対する態度が全く改まった、ということはなく。実千はときおり、兄を叱るのだが。
賑やかな声たちはすぐに家の内側に移る。とりは、うまいこと電車に乗ってずぶ濡れになることを免れたようだが、駅からここまでくるうちに足元が泥だらけになってしまったようだった。頭の上で鳥が鳴いた。鳴き声は近づき、そして離れていく。これはなんという鳥かしら?
――わたしも外を歩きたい。
歩いてどこか遠くへ……。実千の心は、すぐに家を飛び出し、空を飛んだ。
斉昭は、実千が愛おしくて仕方がない。小さいときからいつも実千のことを考えていて、自分が異常なのではないかと疑ったこともある。兄の前で、妹はいつも笑顔だった。自分の行いで妹が喜んでいる。自分の行動は、少なくとも妹にとっては間違っていない。実千には自分が必要なんだ。そう思っていた。強く、思い込んでいた。行動に正当性を押しはめることで己の存在と価値観も正当化した。
「ふん、温泉にでもいってみるか」
実千に告げたのは、ここに移り住んで二度目の春だった。
「はい」
実千は、飛び切り明るい顔で頷いた。
ちんちん電車で北へ、一路伊賀保温泉に向かう。青空一面、天気のいい日だったが、この時期にしては少し寒い。
のどかな景色が広がっていた。人家も並んでいたりするが、電車からみるそれはひっそりとしていた。まるで家自体が生きていて、それが息をのむように、あるいはただ眠っているかのように。
斉昭もちんちん電車に乗って伊賀保にいくのは初めてだった。実家にいたころは、家の商売が第一で、家族旅行など、まして一泊旅行など一度もいったことがなかった。忙しかったこともあるだろう。しかし、家族の脳裏に「実千」のことがひっかかっていたことも否定はできまい。斉昭自身がそうだった。実千を連れて旅行など、いけるはずがない。
――妹が辛い思いをする。
斉昭の思考は常に実千が中心である。そして今回、実千を連れ出した。決断は容易ではなかったが、実千の笑顔をみたとき、「やはり間違っていない」と自分を励ました。
甘川から伊賀保へ。電車がぐんぐん山をのぼっていく。東に向かって遥かに開いた斜面に畑が広がり、家が建ち、妙名の山がそのまま甘川の町に落ちてその向こう、赤木山が雄大な様で横たわっていた。他の乗客が小さくざわめく。この程度で……。軽い苛立ちを隠した兄に、妹がいった。
「ずいぶん登っているみたい。外は、どんな景色なのかしら」
「赤木山が、遠くにみえる」
それだけいった。
「へぇ」
実千も窓の外に顔を向けた。きっと、実千の目には赤木山だけがみえているに違いない。
大した景色じゃないといってやりたかった。つまらない、退屈な景色だと。
「周りは木ばかりだ。まるで木に遠慮して頭を低くしながら脇を通してもらっているって体だ」
実千はくすっと笑った。
「電車ってそういうものなの? わたし、電車っていうのはもっと堂々としたものだと思っていた」
「そんなことはない。特にこの辺りでは、電車なんぞ山のてっぺんまでまっすぐ進めたもんじゃない。林の木木に遠慮しいしいやっとこ走らせてもらってるような風情だ」
「へぇ」
実千は顔を正面に戻した。そしてそこでまた「くすっ」と小さく笑った。
妹の笑顔が、なによりも斉昭の心を落ち着かせてくれる。見晴らしのいい風景より、温泉なんかより。
伊賀保に到着すると、斉昭はまず自分たちを受け入れてくれる宿を探さなければならなかった。実千がきちんと温泉に入れるという行き届いた宿をここ伊賀保でみつけるのはさして難しいことでもなかった。
部屋に入るなり、
「ああ、つかれた」
実千が大きな声でいった。初めての電車旅は、実千には相当辛かったに違いない。
「うむ、わたしも疲れた。少し休んで、それから温泉にいくか」
部屋に用意されていたお茶を淹れ、菓子を食べて。二人、ぴたり隣合い、妹は上半身を兄に預け、兄は気持ちを妹に預ける。自分のことをなによりも一番に思ってくれる兄の気持ちを温もりに感じ、妹はうっとりと目を閉じていた。
夕食までにはまだ時間がある。湯につかる前に、二人は宿の外を歩いた。
宿に戻ってきて夕食を食べ、二人は温泉に向かう。介助の仲居さんに実千を預け、斉昭も一人湯に入った。
斉昭には、温泉の他にもう一つ目的があった。というか、むしろそっちが主なのだが。
この伊賀保温泉は妙名山の東にある。山には妙名神社という神社がって、その社の裏にある滝に打たれるか、あるいはその水を飲むとどんな病気でも治ってしまうという話を聞いていた。その神社の場所と「妙名水」の効能について調べるというのが今回の一番の目的だった。妹にそのことはいっていない。
夕食前、町を散策しているとき、土産物屋の主人に聞いていた。主人の話によると、妙名神社はこの伊賀保とは山を挟んで逆、山の西側にあるということだった。場所については斉昭もだいたいのことは知っている。問題は、そこへの行き方だった。
「そいつは無茶だ。お客さん一人の足なら半日でいくだんべけど、あの妹さんを連れてはいかれなかんべぇね。なんせ足元のわりぃ峠道を歩かなきゃなんねんだから」
妹さんを途中でぶちゃってぐようなもんだ、やめときな。店主はそう付け加えて、呆れたように斉昭をみた。歩くほかに神社にいく手段はないという。かごを使えばいけるだろうが、妹の体にはそれでも負担が多きいに違いない。
湯に浸かりながら、さっきの言葉を反芻した。妹を捨てていくなんて、そんなことするわけがない。いわれた瞬間顔面をさっと怒りが刷いたはずだ。その場はなにも買わずに立ち去ったが、今になって思い直せば、あの主人、言葉は悪かったがいったことに間違いはないだろう。さっき仲居にも聞いてみたが、返ってきたのは同じような答えと冷めた笑いだった。
冴えない思いを抱えたままで温泉につかるものではない。斉昭はのぼせるすんでのところで湯を上がった。すっきりするより、逆に疲れしまったようだ。
部屋には実千が戻っていた。
「ゆっくりでしたね」
「うむ。気持ちよくてな、ついつい長湯した。少し頭がぼーっとする」
実千は髪をすいていた。黒髪が少し湿っているようだった。頬や首筋が少し上気している。ひどく柔らかそうに。
「寒くはないか。ここは和田よりまだだいぶ寒いようだ」
斉昭は実千の隣に腰を下ろした。大丈夫、と髪をすきながら答える妹を、兄はしみじみとみつめた。
まだハシモトにいたころ、忙しい仕事の合間をぬって櫛をかけてくれた母に向かって、
「今日からはわたしが自分でやる」
といったときのことを、兄は今でもはっきり覚えていた。確か十歳くらいだった妹の中で、母の手を煩わせたくないという気遣いだけでない、「女」としての自覚が芽生えていたことに気づいたのはごく最近のことだ。
妹が櫛を使う、横で兄がその様子を黙って見つめる、いつも通りの光景。実千が櫛をしまったのをみて。
「布団に入るか。ここにきて風邪などひいてはつまらん」
実千はうんと頷くと、兄に向かって手を出した。兄が手を引いて布団まで連れていく。妹を先に寝かせ、兄も横になった。
「おやすみなさい、兄さま」
「うむ、おやすみ」
灯りはすでに消えている。二人が一つの布団で寝るのも、いつもと同じだった。いつもと違うことといえば、二人の横に空いた布団があるということ、これだけが違っていた。間を置かず、実千の寝息と斉昭の鼾が部屋に流れた。いつもと同じ夜だった。
帰りは当然電車で戻る。走り出してすぐ、斉昭の心に影がさした。
――なぜ、あんな意地悪をいってしまった。
昨日くるとき、見晴らしのいい場所にさしかかって。
「赤木山が、遠くにみえる」
としか伝えなかったこと。
――実千の目になると誓ったはずではないか。俺が自身の目を眩ませてしまえば、実千はどうなる……。
自らの目を半分閉じたことも妹のためといえなくもない。しかし、それはやはり実千に対する、己に対する裏切りではないか。
「お、赤木の山がみえてきた。うむ、いい景色だ。青空の下、畑の緑も輝いているな」
「へぇ。畑が輝いて。なんの畑かしら」
「はてな、わからん。すまん。しかし、葉っぱの上を蜂やらなんやら小さい虫たちがたくさん飛んでいる。きっと美味しい食べ物なんだろう」
「それは、美味しそうです」
実千が笑った。やはりこうでなくてはいかん。実千の気持ちのいい笑顔、それはそのまま斉昭の心の清清しさでもあった。電車はかたかたと、坂を降りていく。
途中にある甘川の町で少し時間を過ごした。お昼を食べて、町をぶらぶらと歩いた。
「今日は空っ風が強いな。寒くはないか」
「ええ、だいじょぶです」
――わたし、歩いている、和田の町じゃない町を、歩いている。
いつか思ったことがふっと頭に蘇った。旅をしている、家から遠く離れた他所の町を、風に吹かれて歩いているなんて。
「楽しそうだな」
兄にいわれてしまった。内側から沸いてくる嬉しさを、実千は抑えることができない。笑顔が止まない。
「ごめんさない、兄さま。わたし、変かしら」
「変? そんなわけがあるか。笑っていることは素晴らしいことだ、少しも変なことはない。が、なぜ笑っているのか、理由が知りたい」
兄のいうとおり、理由もなく笑っていたら、それは変だと思われても仕方がない。
「わたし、こんな風に旅をして、他所の町を歩くなんて、できると思っていなかったから。こうして兄さまと歩いていることがとても嬉しくて、つい笑顔になってしまったんです」
「ほう」
「ありがとう、兄さま」
「やめろ、照れ臭い。わたしまで笑ってしまう」
「あら、いいじゃありませんか、変なことではないのでしょう?」
実千は思った。目がみえないということも、少しは便利なことがある。素直に色を出せるのだ、周りの「目」を気にすることなく。
「照れ臭い」といった兄もきっと笑っているに違いない。実千の手を引く兄の掌が、力を増して、硬くなった。
突然、実千の体が暖かいものにくるまれた。考えるまでもなく、兄の体である。理由もわかっている。実千の周りを風が巻いていた。
「これはたまらん」
兄の声が遠くに聞こえるほどの強風だ。
「やはりまっすぐ帰るべきであったか」
実千は黙って首を振る。兄の胸に抱かれて。兄の温もりを、強さを、確かめるように、実千は頬を兄の胸に押し付けた。
甘川から和田へと戻る。生まれて始めての一泊旅行、初めての「二人きり」の旅は、まだ終わっていない。
商人風の身なりをした男がいた。初老の男性と、着物を着た若い女性、大きな荷物を背負ったお婆さんに母親と男の子、五歳くらいだろうか。お婆さんは席につくと自分の体とそう大差のない大きな荷物を横に置いた。
いつの間にか陽はすっかり傾いた。幾らか黄色身を帯びた陽光は地に建物の影を押し伸ばしている。陰と陽の狭間を電車とそこにしまわれた人間たちが駆け抜ける。決して急かされているようでなく。明と暗が明滅する。兄妹の日常と非日常が風車のようにくるくる入れ替わる。
途中、お婆さんと親子が降りた、そして洋装の男性が乗った。斉昭にはそれが妙に納得できた。折り目のついた背広をまとい、髪の毛をピリッとかため、いい匂いを放つ男性。少々場違いかとも思えるその男性の出現は、しかし、間違ってはいない。
「明」と「暗」と、「明」と「滅」と。妹には、いったいなにがみえるだろう。
「寒くはないか?」
兄が小さな声でいった。
「いいえ。大丈夫」
妹が体を寄せてきた。彼女の閉じられた瞼の内側に映るもの。あるいはそれこそ、この世のの本質なのかもしれない……。
甘川と和田のちょうど中間の辺り、電車に三人の娘が乗ってきた。
「なにか、外がにぎやかです」
「うむ。今、この近在の娘さんが三人乗ってきた。その見送りであろう」
「見送り」
「うむ」
斉昭たちの住む和田の向こう、下中井という場所に今度官製の製糸工場ができるという。
「今度できる製糸工場に出稼ぎにいく娘たちであろう。みなそれぞれ大きな荷物を抱えている。あっちに住み込むことになるだろうからな。ここに帰ってくるのは、次は恐らく正月くらいだろう」
「お正月まで帰ってこれないの……」
実千は言葉をしまった。出すに憚られるものを感じ取った。
「十七、八だろうか。それくらいの歳の娘でも工場にいけばこの辺りでは考えられないほど金をもらえる。仕送りしておつりがくるほどにな。次に帰ってくるときは、見違えるようにきれいなナリで帰ってくるだろう」
みな、素朴な格好をしていた。日に焼けた顔に化粧の色などこれっぽちもない。その顔が、誰も悲しみに沈んでみえる。それは、別れの寂しさか、あるいは抜け駆けの申し訳なさか……。
「一度町での暮らしの味を知ると、田舎の生活にはなかなか戻れぬかもしれん。工場にいって体を壊して村に返されるなんて話もある。なにが幸せでなにが不幸かは、誰にもわからんさ」
実千は、言葉にしなかったことをほっとした。「かわいそう」など、軽々にいっていい言葉ではないのだ。
斉昭と実千が飯田の駅で降りた。すごく懐かしい瞬間だった。まる一日離れていただけなのに。それは、旅の終わり、夢の目覚めの一足だった。
それから暫く経った五月のある日、二人の暮らす家を人が訪ねた。三次の話では、この近所に住む関根という家の夫婦だそうだ。「妙名水」の話で斉昭に話があるからと三次にいったらしい。斉昭の前には、ほっぺたに大きなイボを持った野良着のようなかっこをした男が立っていた。
「妙名神社の神水をあたしらが取ってきましょう」
瞬間、妹の姿が浮かんだ。縁側に座り、外の世界を眺める妹の姿だった。
二日後、飯田から妙名山へ向かう道を二人が歩いていた。五月にしては暑い日で、
「はあ夏がきちまったんか」
「梅雨もまだだっつんに」
町の人たちがそんなことをいった。照りつける日ざしの下、陽炎に揺られながら黙々と北上して歩く夫婦の姿があった。
咲
それは、ある早春の一日だった。ひどく空っ風の強い、晴れた日で。
咲たちは電車に乗り込んだ。たくさんの人が見送りにきていた。窓から顔を出した咲に近寄ってきた一人。
「咲ちゃん、毎日みるんべ」
そういって咲に包みを渡した。ちらっと、一瞬だけ目が合った。
「ありがとう」
その一言を聞いて、龍雄の横顔が少し綻んだようだ。笑顔を正面からみせることを遂にせず、龍雄は電車から離れていった。そして、ゆっくりと電車が動き出すと、みんなもゆっくり離れていって、ゆっくり小さくなっていった。みえなくなった。
これでもうみなに会えないということもないだろう。こうして、みんなからどんどん離れていくということが、故郷と完全に別れられずに自分が薄く引き延ばされていくようで不安だった。みんな、いろいろなものをくれた。服だったりお守りだったり、おむすびだったり。そんなものが自分を太く厚くしてくれる。その度、悲しみも一人前に戻っていく。
龍雄がくれた包みを、咲はじっと見つめていた。一度も中を開いていない。
毎日鏡をみるだろうと、龍雄はいった。何気ない一言だ。龍雄が咲に伝えたかったのはこの包みではなく、包みに隠された思いだ。包みに隠された手鏡でもなく。
咲の心はそこまで届かない。
とっさに自分の恥ずかしい「癖」が見抜かれていると思った。今まで誰にもいわなかった、ずっと隠していたことを、「誰かに」知られていると直感した。瞬間、顔が硬くなった。血の気が引くのがはっきりわかった。恥ずかしさで、穴があったら入り込みたいほどだった。恥。恥辱。あるいは、「陵辱」にも似た感情が、心の中に突出した。
――もう会えない。
離れゆく電車の中で、咲ははっきり思った。自分の秘密を知っている龍雄とは、もう会えない。既に龍雄の口からみんなにいきわたっているかもしれない。もう、戻ってこれない……。
そんな思いを胸に溜め込んで、咲は静かに泣いていた。
咲は生まれ変わったのだろうか?
故郷を離れた悲しみなどいつまでも抱えていない。それは、思い出すと胸の中がほんのりあったかくなる程度の、灰の下の埋み火のようなもの。鍋の外側についた鍋炭に火が付いていくつも赤く光るときは風が強くなる。家にいるとき、そういって家族で笑いあった。
「ひげん様が猪狩りをしてるなんていったっけ」
ひげん様、火の神様。ふっとそんなことを思い出した。
この工場にいるのはほとんどが咲たちのような田舎の娘だった。子供のころどんなことして遊んだか、どんな楽しみがあってどんな苦労があったか。許婚を置いてきたものもいる。懐かしんで涙を流すものもいた。
が、たいてい笑い話だった。大口を明けて大きな声で笑った。ここでは誰に遠慮する必要もない、誰か文句をいう人間もいない。
「娘っこはそんなことしたらいかん、嫁の貰い手がなくなる」
そんな言葉まで笑い飛ばした。仕事は楽ではない。それこそ、農作業よりしんどいかもしれない。それでも、村では決して得られないものがここにはあった。
それを「自由」などと呼んではいけない。しかし、彼女たちは確かに「得た」。彼女たちは村にいるときよりも大きな声で笑った。
「近くの川でよく釣りした。山女とか岩魚、鮎、うなぎもとれた」
「へぇ。うちの近くの湖じゃ」
川、湖、そんな言葉を聞くとさだのことを思い出す。冷たい水の中でもがき苦しんで死んだ小さな命。冷たくて、もしかしたらもがくこともなかったのかも……。そんな悲しみが心を襲った。小さなさだ坊といつも一緒に遊んでいた大きな「坊」の影を、咲はよく思い出した。なんだか無性に家が恋しくなるようなときには特に。
梅雨の時期になる。工場内の蒸し暑さは筆舌に尽くしがたい。体を壊して仕事を休むもの、ひどい子は実家に送り返された。日が沈む頃、寮は蛙の鳴き声に押し包まれる。郷愁を誘うような彼らの鳴き声にしんみり耳を傾ける余力はなかった。
梅雨が明けた。午後になると夕立がきた。激しい雨と風と雷で工場が壊れるんじゃないかというほどだった。
夕立がくると続けて三日くる。お爺ちゃんがいっていたのを思い出す。夕立はどこにいてもおっかないものだが、村では夕立の後、干からびかけた草や木が瑞々しさを取り戻した。夕立は村全部に「恵み」を与えた。
ここでは違う。夕立はひたすらおっかない。激しい雨と風と雷は全てを奪っていきそうで。工場の偉い人たちは「大丈夫だ!」と大きな声でいっていたが、おっかなくって近くの子と手を握り合ったりした。
そして、娘が一人亡くなった。咲のよく知らない子で、一週間ほど前から体調を崩して入院していた。少し様子が回復したら実家に帰る予定だったという。連絡が遅れたために身内の誰も死に目に会えなかった。亡骸は家族がきて引き取っていったというが、詳しいことは知らされなかった。
――こっちにきてから手鏡をみていない。
そのことには少し前から気がついていた。鏡を全くみていないということではなく、龍雄にもらった手鏡を、こちらにきてからまだ一度もみていない。手拭の包みをあけていなかった。
ふと夜中に目を覚ました。夜中に目を覚ますこともこちらにきて余りないことだ。部屋には四人の娘が暮らしていた。一人に一つ、小机が割り当てられている。引き出しの付いた小机だった。その夜、咲は引き出しを開けた。その動作がまるで自然だったことを、次の日以降、咲は度々不思議に思った。引き出しの奥に手を入れ、取り出した。包みをそっと開ける。手ぬぐいを一枚一枚めくる、音がする。スッ、スッ。現れた鏡。まるで光を放つかのように、そこに映った己の顔をみて、咲は動かなかった。そこには、色の黒い女の子がいた。子供っぽい、鼻の低い丸顔の女の子。初めて夜中に手鏡を覗いたときの「咲」がそこにいた。一つ瞬いた。自分の顔が映っていた。色の白い、ほっぺたのますます薄い「咲」の顔があった。
ここにくるちょっと前のこと。咲たちの住む蓑里村は妙名山の南にある。村からみる山に白いものはなかったが、裏側、北の斜面にはまだ雪が残っていた。その冷たい北の斜面を駆け上がり、南に駆け下りてくる北風がすこぶる強い一日。
裁縫のお師匠さんに、化粧の仕方を教えるから手鏡を持ってこいといわれたので持っていった。よく晴れていたが、北風が体を押しこくるように強く吹いていた。風に耳を塞がれて、ゴーゴーという音だけ聞こえていた。咲は砂利道を一人で帰っていた。あと一月もしないうちに、畑には人が働き始める。この誰もいない畑が、なんだか妙に寂しくみえる。
白川にかかる橋の上で、立ち止まった。欄干に体を預けて、身を乗り出して川をのぞいた。水量は少なく、茶色い川底が簡単に透けてみえる。咲は懐に手を入れて包みを取り出した。化粧は落とさずにきた。この前化粧をしたのは秋の夫婦行列のときだったろうか。あのときはやたらと顔を白く塗っただけだった。今日は違う。さっき先生の家でみたときは、これが本当に自分かとびっくりした。家に帰る前にもう一度みておきたい。鏡をとって手拭を懐にしまう。
「あ」
風が手拭を運んでいってしまった。が、今口から出た「あ」はそれではない。咲は橋の下をみていた。ぽちゃんと小さく音がした。手鏡を落としてしまった。そのまま固まった。どうしよう。考えるより先に体を動かした。拾いにいくに決まっている。が、次の瞬間、またしても固まってしまった。振り向いた先の橋の袂に男が一人立っていた。目が合った。咲は逆方向に走っていた。
夜、後悔した。なんで逃げ出したのか。とは思わない。なぜこの日の内に拾いにいかなかったのか。そればかりを何度も思って悔しがった。
翌日、すぐに拾いにいった。が、鏡はなかった。
――流されてしまったんだろうか……。
その日から何日かかけて、川を下流に向かって探した。鏡は見つからない。
そして出発の日がくる。咲は諦めて電車に乗った。鏡をなくしてしまったこと、誰にもいっていない。お金を稼いで自分で買えばいいと思っていた。そして龍雄に手鏡をもらった。その鏡は、やはり母にもらった鏡とはまるで違うものだった……。
それはまるで別物だった。それは、単なる「鏡」であり、「窓」でも「入り口」でもない。
――鏡のこと、たっちゃんに話したんだろうか……。
咲はすぐに否定する。橋の袂にいたのは長野の半次郎という男だ。同級生ではあるが、咲はほとんど話をしたことがない。龍雄や丈一郎などはたまに話をしているようだが、鏡のことは話していないに違いない。もし話を聞いていたのなら、龍雄はああいうやり方をしない。ああいう言い方はしない。咲は鏡を包み、引き出しの奥に戻した。
その後も、別になにも変わってはいない。変わったと意識することも、意識して変えたようなこともない。ただ、少し楽になったよう気がした。
こっちにきて、環境の変化に合わせて自分を変えていた。言葉づかいを変えてみたり、たまに化粧をしてみたり。少し手を抜いてみたり。見て見ぬ振りをしてみたり。「楽」をしているはずなのに、それは余計に疲れるみたい。
夜中、手鏡をみた。翌朝、手鏡をみた。自分と自分でにらめっこ。どうも今まで息をつめすぎていた。「ぷー」と頬を膨らませて、空気が逃げないように口も鼻も閉じていた。がんばり過ぎてた。胸いっぱいの空気を吐き出した。体の力が抜けた。
――あなたが先に笑ったわよ。
一日の始まり。最近重たくて仕方のなかった体が、今日は少し軽くなったみたい。
咲はなにも変わってない。むしろ戻った。他の女の子たちのように大きな口を開けてばかみたいに笑わなくなった。「笑い転げる」ということもなくなった。ひそひそと誰かの悪口をいうこともない。積極的に発言したり目立つことはなかったが。咲の顔に素朴な笑顔が戻ってきた。浅黒い肌色と頬の厚さこそ戻らないが、それは紛れもなく、蓑里村在の関口咲だった。
その男の素性を知らないなどと、それこそ咲の「間違い」だ。それはまるで罪にも等しい。
「咲ちゃん知らないの? ここの経営者の息子の宗治さんじゃない」
「まぁ」
それきり言葉を失った。まさかそんな偉い人だとは知らなかった。工場の中で何度かみたことはある。引き締まった肉体をぴちっとした光沢のあるズボンで包み、上は白のワイシャツにベスト。背筋をピンと伸ばして歩く姿が、村の男たちと比べて、これでも同じ「男」か、という思いがする。一見近寄りがたい雰囲気を持ちながらもすれ違いざま、きちんと会釈を返してくれる。太い眉の下の瞳は常に柔らかく、咲たちに時折かける言葉は決して「経営者の」ではない。それは、ちゃんとした言葉づかいのできない娘たちよりよっぽど丁寧だった。だからだろう、その男の人が偉い人だと思えなかった。
「一番初めにみんなの前で挨拶したんべぇ」
「うーん」
思い出せなかった。顔なんかよくみえなかった気がする。声なんか、よく聞こえなかった気がする。
いずれにしても、自分とは縁のない人間だ。咲はここでも留めなかった。
淫らな夢をみた……。
咲は布団の上で上半身を起こした。体が少し熱い。なにをどうしたのか、そんなことは覚えていない。覚め切った体に恥ずかしさだけが残っていた。
声が聞こえた。引き出しを開けて包みを取り出し、被っている手拭の端をつまんだ。
――違う……。
その声は鏡の「中」からではない。耳鳴りがするような静寂に、あたかも闇が囁くかのような微かな音が。
それは、どうやら外から聞こえてきた。咲は静かに静かに、部屋を出た。
一瞬、麦畑の真ん中にいるように錯覚した。真昼の麦畑の暑ささえ感じたほどだ。寮から外に出た、目の前が金色に浮かび上がっていた。
それはほんの一瞬だ。風が寝起きの頬をやんわりと撫でる。夜の闇の底は、やはり白く輝いている。声は聞こえなかった。しかし、咲はすぐに見つけた。近づく咲を、その影はじっと見つめているよう。
「こんばんは」
「……」
「どうしました? 眠れませんか」
「……」
「こんな時間に、外に出てきてはいけませんね」
「……」
「小柳さんに見つかると、またうるさくいわれてしまいます」
「……」
「……」
「……」
「どう、しました?」
「……、歌」
「ああ! これは失礼。僕のへたくそな歌のせいですか。それは申し訳ないことをしてしまった」
申し訳ないことをしてしまったと、宗治は天を仰いだ。「小柳さんに見つかると」などといっていた割りに、その声はさらに大きい。天に向かって謝った宗治の顔が淡く光っていた。
「まさか聞かれていたとは。みんなぐっすり寝ているとばかり。まことに申し訳ない」
「……」
「まさか、君の部屋の子たちみんな起こしてしまったんじゃ……」
咲は首を振る。その顔を、宗治が驚いたようにみていたことなど、咲は知らない。
「この通りだ、謝ろう。だからお願いです。今夜のところはこのまま眠ってくれないだろうか、咲さん」
「!」
「蓑里村の、咲さん。間違ってはいないはずだが」
咲は、走り出していた。「あ!」という男の声を置き去りにして、建物に飛び込んで入り口の扉を閉めた。カチャン、と小さく音が鳴る。胸が大きく波打っている。その場で大きく深呼吸を繰り返す。
――こんなに胸が苦しいのは、なんで。
部屋に戻り横になる。脈打つ鼓動を聞きながら、いつの間にか眠っていた。
翌。とても眠い一日だった。暑くて暑くて頭がぼっとする。夜のこと、まるで夢のように。夢の続き……。
「咲ちゃん大丈夫? 顔が赤いみたい」
「うん」
仕事中だというのに、身しみて打ち込めない。淫らな夢の延長か、あたかも宗治に恥ずかしいことをされたかのように。
「こんばんは」
「……」
二日後の夜だった。夜は闇に染まっている。
「咲さんは、十七だっけ?」
黙って頷いた。
「兄弟がいるんですか?」
黙って頷く。
「そっか。弟?」
この日、宗治は咲の声を聞くことができなかった。さらに三日後の夜。
「そうですか」
夜空を覆う雲の帳に、光は地上を仄かに照らす。少し間が開いた。強いて間を嫌ったわけではないが、再び宗治が口を動かしかけた、そのとき、頭の上、夜の中で鳥が鳴いた。鳴き声は遠くに飛び去った。
「さぎでもいたのか。この闇で、ちゃんと家まで帰れるのかな」
闇にサギの白い姿が微かに透けたようだ。
「宗治さんは、何歳ですか」
会話というには時間が少しずれてはいる。しかし、それは大した問題ではないだろう。
咲はいつまでも俯き気味に男の話を聞いている。このときも、咲はやはり俯いていた。女の輪郭がぼうと浮かぶ。その姿を、男は驚いたように見つめた。女の表情までは、みえない。
「ぼたしは」
男が改めて、
「わたしは」
といったところで、クスッ、と隣の女子が笑った。
「すいません、わたしは二十四です。『ぼく』と『わたし』が一緒になってしまった、お恥ずかしい」
その日もそれ以後、女の声は聞こえなかった。遠くでさきほどのサギが鳴いたようだ。
「そろそろ戻りますか。小柳さんにみつかりそうな気がする」
女は黙って頷くと、その場から離れていった。彼女の影と彼女が引きずる影を、男はいつまでも眺めていた。彼女の影が語る言葉を、男は必死で聞き取ろうとしていた。
「こんにちは、ご機嫌麗しゅう」
「こんにちは」
二人はこのころから昼間でも言葉を交わすようになった。
「夜中、寮の前で話をしている人がいるようです。二人、しかも男性と女性です。このようなことは風紀が紊乱する原因となります。今後、見つけた場合はしかるべく処分します。よろしいですか」
ある朝、小柳さんが朝礼で皆にいった。女子たちがざわざわとなる。ほとんどの人間は知らなかったようだ。咲が宗治をみ、宗治が咲を見つけて、小さく笑った。
「もうすぐ和田に大日本製粉という工場を開く。僕がそっちをみることになって、近々引っ越すことになった。僕と一緒にきてくれないだろうか」
まるで夢のようなできごとだった。それが本当に自分に向けられた言葉かどうか。考えるまでもない。咲は、このときすでに夢の中にいた。
「はい」
夕立
妙名神社を目指して和田の町を出発した夫婦がいた。蓑里の村に入ると、激しい夕立に襲われた。道すがら、一軒の家の入り口を叩いた。
「妙名神社までいきたいんだが、突然の夕立、申し訳ないが少し休ませてくれませんか」
右頬にあるイボが特徴的な男だった。家の人たちは快く夫婦を家の中に入れた。夕立は一時間ほどで弱くなり、もう三十分もするとすっかり村を抜けた。遠く東の空で太鼓を叩くような音が聞こえていた。
「まっさか助かりました」
急ぎの旅のためにお礼になるようなものをなにも持ち合わせていない。なんのなんの、困ったときはお互い様だ、そんなことは気にせず、道中気をつけて、今からなら夜までには宿につくだんべ。
家の人に深々と頭を下げて、夫婦は水溜まる道を急ぎ足で歩いていった。雨雲は流れ、隙間から、澄んだ群青の肌が覗いていた。見送りに出た若い男が、いつまでも夫婦の後姿を見送っていた。
たつ
淫らな夢をみた……。
内容を、龍雄ははっきりと思い出せる。女の人と寝床を共にしていた。相手の胸に顔を当て己の下半身をあっちの足にこすりつけて……。顔ははっきり思い出せないが、間違いなくあの子だった。それ以外にはありえない。
――俺は、あいつの顔を思い出せなくなっちまったのか。
夢にみる、ということは、あっちも龍雄のことを思っているということだ。
いってやらねばならない。そこできっと泣いている。村に戻りたいと泣いている。会いたいと泣いている。
食われちゃ困る、さればわたしがいきましょう。
いざとなれば、田畑を売り払ってでも……。
半
山の声が聞こえると丈一郎はいった。山で聞こえるともいった。さだが呼んでいるとも。
畑仕事はちゃんとしていた。むしろ前よりちゃんと。雷が鳴り夕立がくると、丈一郎は人が変わるようだった。突然、山や林に向かって走り出した。理由など、余人にわかるはずがない。雷雨の中、なにかを叫びながら、実際には雨と雷のために聞こえはしないが、みるものはみなその目に冷ややかなものを宿した。冷たく笑うもの。かわいそうに。そんなことをいうものもいた。そういうときの丈一郎を、龍雄でさえも持て余した。
「いち、なんでそんなことすんだ、頼むからやめてくれ」
龍雄にも丈一郎が哀れだった。なんでこんなことになってしまったのか。こいつはこれからどこへいくのだろうか……。前途を思い、龍雄の胸はいたたまれない思いで塞がった。
龍雄の悲しみを、丈一郎が感じないわけはない。龍雄や誰がなんといおうとどうしようもない。体がひとりでにそうなってしまうのだから。しかも、気持ち悪くもないのだから。
「聞こえるのだろう」
真面目な顔でそういうものが一人だけいた。
長野半次郎が誰かと話をして笑顔をみせることは年に一度あるかないかだろう。幾らか変わってはいるが傲慢な人間ではない。黙々と畑仕事をこなすが「誰も受け入れない人間」ではなく、近所で蚕上げがあるといえば進んで手伝う、そんな人間だ。
もっとも、他人の半次郎に対する「とっつきずらい」という評は間違いではない。壁はむしろ半次郎の側にある。
――いきたいものは仕方がない。
ばかにしているわけでもなく諦めているわけでもなく。
――自分のことをきちんとわかりきっている人間など、この村にゃおらねぇだんべ。
丈一郎を「かわいそう」などといえる人間は、ここにはいない。自分の心に正直に動ける丈一郎が羨ましくさえあるというのに。
五月に入る。この日も丈一郎は走った。城山の林に突っ込んでいく様をみたものは、いない。
雨が上がり、半次郎が畑の様子をみにいくと、途中、ずぶ濡れた丈一郎が歩いていた。城山のほうから降りてくる。先に口を開いたのは丈一郎だった。目と目が合った瞬間相好が崩れ、一瞬なにかを躊躇ったようだが、大きな声がすぐに聞こえた。
「半次郎!」
小走りで寄ってくる様が少し重そうだ。水を滴らせた丸い大きな「子供」をみて、半次郎も笑ってしまった。
「いち、今日はどこまでいってきた」
今年の笑い納め、ということはない。こいつとだけは別の話だ。
城山の林の中までいったことを、丈一郎は嬉々として話した。この辺りでいう「城山」とは、かつてこの地にあった山城の跡のことである。特に何があるわけでもない。小高い地に木木が茂っている。その城山の二の丸跡の辺りまでいってきたそうだ。二の丸であれば、モミやブナの間を抜けてある程度斜面を登って中まで入り込む必要がある。
「ほお、そりゃがんばったな。怪我なんかは大丈夫か」
相槌を打ち、補足しながら、半次郎も自分の笑顔を控えようともしない。二人をみる奇異な目もまるで気にしない。草陰の水路で蛙が鳴いている。いつの間に、地面に黒い影がさしていた。夕暮れにはまだ間がある。流れる雲の間から青い空と黄色い太陽がのぞいた。
丈一郎の瞳がきらきらと輝いていた。
「寒くはないか」
「大丈夫だよ」
満面に現れた「大丈夫」な笑顔が眩しい。
「そうか。早く着替えんと風邪をひく。そろそろ帰ったほうがいい」
「うん。わかった。でも……」
半次郎は心に暖かいものが動くのを感じた。あからさまに困っている。
「おかあか」
「うん。またおかあに怒られる」
「じゃあ、俺の家に寄ってくか。少し暖まりながら服を乾かすか」
我ながら、他人にこんなことをいう自分がおかしかった。笑ってばかりだ……。
「……、帰る」
「そうか。大丈夫か。怒られるだんべ」
「いつものことだ。遅くなればもっと怒られる」
「そうだな」
じゃあ、と大きな声を残して、丈一郎は急ぎ帰っていった。濡れた泥だらけの山着をみて、もっと早く帰すべきだったかと後悔もしたが、見送る半次郎はやはり笑顔だった。
翌日は五月の寅の日の「お精進の日」に当たっていた。鍬などの道具を使うと風が吹くといわれ、仕事はせずに当番の家に集まり、その内の二人が妙名神社にいってお札をもらってくる。帰ってくると皆でお札を分け、そこから無礼講で酒を飲む。米の飯や煮つけやきんぴらなどを食べて年寄りから話を聞き、皆でわいわい語り合う。集まりは夜まで続く。
夕立がくると続けて三日くるといわれた。この日も午後の四時を過ぎたころ、鳴り出した。妙名の向こうに黒い雲が立ち上がったかと思うとあっという間に頭の上に覆い被さった。生温い風が雲と雨と雷を呼ぶ。今日もまた、激しい雷雨に見舞われた。お札を取りにいったものたちが帰ったのは、雨がやんで一時間ほど経ったころだった。
雷が鳴り始めたとき、半次郎は畑から家に帰る道を急いでいた。「お精進」とて、この男はあまり気にしない。風と空をみて、半ば走るように歩いたが、間に合わなかった。雷鳴が轟き渡る。雨具の無力さを笑いつつ、道を急いだ。
「丈一郎……」
雨の壁を押し返すように、ずんぐりとした丈一郎の影が駆けていった。
「丈一郎!」
大きく叫んだつもりだったが雨と雷の唸りで己の耳にすら届かない。今日は城山ではないようだ。方向としては妙名の登り口に向かっているようだが。
丈一郎を止めたかった。不吉な予感がした。いかせたくなかった。その先にある白川はかなり増水しているだろう。切り崩された斜面が雨で飽和状態になっていれば地滑りが起こるかもしれない。丈一郎にはみえているのか、それともみえていないのか。
半次郎は丈一郎の後を追った。
雨はすぐにやんだ。雷は今ころ和田町上辺りだろうか、それともそれより南に下ったろうか。陽が現れ、村をキラキラと輝かせた。雀やオナガの声も透き通る。足音を聞いて蛙が鳴き声を止めた。ぐるっと周りを見回して、半次郎は天を仰いだ。
雨がやめばじき姿を現すだろう、やつは、太陽と同じく、地面にその影を貼り付けて出てくるだろう。不安なのに不安でないよう装っているのか、それとも不安などないのに敢えて不安がっているのだろうか。己の心の揺らぎが小憎らしい。己にとも丈一郎にともつかない苛立ちを胸に抱えて、半次郎はやる方なく辺りをうろついた。
関口の家はこの辺りでは一番大きい。お屋敷といってもいい。梅や桜や李の木が何本も植わっているが、全体どれほどの広さか知れたものではない。雨が降り止んでいくらもたたない地面に敷いた筵の上に、仰向けに二つの死体が寝ていた。周りを人が囲んでいた。
「夫婦だんべぇか」
「ひでぇ。ここまでひでぇのは久しぶりにみたな」
死体は男と女だった。年齢は恐らく三十から四十の間。女の方は野犬やなんかにやられたのだろう、所々肉がそげて骨がみえている。服もぼろぼろで所々生身が露になっているが、そんなことはまるで気にならない。男のほうもぼろぼろだったが、その傷は落ちてくるときに石や木に当たってできたものと思われた。発見されたとき、女は地面に転がっていたが男は木に引っかかっていた。
「上から落ちてきたんだんべぇ」
見つかった場所は二間峠の真下だった。峠の道は細く、一方は岩の壁、もう一方は切り立った崖になっている。崖の肌には所々木や草が生えており、下は鬱蒼とした林が茂っている。その林で、二人は別々に見つかった。
「間違いねぇ、こいつらだ。女のほうがわかんねぇが、男のほうには見覚えがある。間違いねぇ、昨日夕立んときにうちに雨宿りしてった二人だ」
男の顔をみていったのは山口繁というものである。顔のイボ、間違いはないだろう。
「妙名神社にいくといってた。これからいくのはやめたほうがいいといったんだが、なんでも急いでいるとかいって結局出てっちまった。まっさかこんなことになるとは」
繁がばつ悪そうに首をかいた。
「息子が、二人が出ていった後をこないだ広げた畑をみてくるつって出ていったいな」
「そういや峠の入り口のすぐ手前ぺたを開いてたな、どこいった、あれは」
「龍雄ならさっき」
雨がやんで晴れ間がのぞいたのはほんの短い時間だった。雲の覆った空は太陽を隠したままいつもより素早く夜の準備を済ませつつある。人垣に背を向けて、暗くなる空に蝙蝠を追いかけているのは丈一郎だった。半次郎の姿はみえない。
そこはいつも通り木々に囲まれた林の中だった。ずぶ濡れた山着が肌にまとまりついて気持ち悪い。膝の下まで泥だらけで葉っぱや草がいっぱいくっついていた。手や足がひりひりする。くる途中であちこち切ったようだ。
「はぁ」
丈一郎は大きなため息をついた。直後にくしゃみが二発続いた。
「二だから憎まれ口だ」
腕で鼻水をぬぐった。ふとみると、木の枝に人が引っかかっている。
「助けなきゃ」
その瞬間、湖で亡くなったさだの俤が心を過ぎった。手が届く高さではないし木を叩いて落とすというわけにもいかない。丈一郎は村に戻った。多くの人を引き連れて戻ってきたのがおよそ一時間後。村からそこまでくる間、地面に転がっているもう一人の女性を見つけた。丈一郎は気づかなかったという。
滑落死というのが大方の見方だった。雨の降った後でもある。道慣れないものが足を踏み外して落ちたと考えて不自然なことはない。野生の猪や猿、山鳥なんかもたまに落ちることがある。人間だって今回が初めてではない。命まで落とすのは人間くらいだが。
身元はすぐにはわからなかった。名前などのわかる持ち物はない。そのうち家族や近しい人から捜索願などでるだろう、警察の人はそういって引き上げた。和田のほうから上がってきた人間ではないか。家に上げて会話などした繁の意見である。
こういった死体は長法寺に預けられる。季節柄、翌日には埋められてしまう。
梅雨入り。事件の記憶や匂いは、地上を濡らし続ける雨と同じく地面を伝いしみ込んでいく。このとき、村から活気がなくなるのは事件のせいでは決してない。紫陽花が静かに村を眺める。身元などはわからないまま梅雨が明けた。
照りつける太陽が夏のそれへと衣を変える。
「あれは事故じゃねぇ。事件だ。人殺しだ」
お供の若い男二、三人を引き連れ、関口の敦矛がそんなことを言い触らし言い触らし歩き出した。鳴きしきる蝉たちの声にかき消されることなく、人々の耳を伝った。
暑さに文句をいっても仕方がない。それでもいわずにいられない。全てを焼き尽くす太陽に。愚痴さえも焼かれ、人々は言葉をなくす。黙々と、汗の滴る音だけが村を埋め尽く
す。蝉たちの命が溢れ、村はさらに熱く燃える。
「二人とも、財布を持っていなかった。あれから妙名神社までいって、恐らく宿をとろうという人間が、そんなことはありえねぇ。殺した人間が持ってったんだんべ」
「おやげねぇ。たぶん、殺したやつは夫婦を別々にやったんだ。だから二人の落ちた位置が違う」
「女を先にやったら男は警戒するだんべぇ。後からつけていって、まずいきなり旦那を突き落とした。女は村のほうに逃げ戻るだんべぇけど、女の足なら楽に追いつける」
「たぶん、お精進にいってることを知ってたんだんべ。手っ取り早く殺すにゃあそこから落とすのが一番だ」
「落としたあとでゆっくり財布やら金目のもんをとりゃいいんだかんな」
暑さに火照られたか、関口の力に乗せられたか、村人がそんな話をし始める。
「犯人は誰だんべぇ」
「怪しいのは二人だな。いちとたつ。いちが峠へいく道を、雨があがったあとで下ってきたのをみた人間がいる。あいつはアホだからなにも考えねぇで金がただ欲しかった。逆にその道を上がっていったのがたつだ。あいつがあの近くに畑を開いているのはみな知っている。あいつは金が欲しいんだ、なんせあいつは」
集まって話をする影に唾を吐きかける人間がいた。
「くだらねぇ!」
半次郎だった。誰と顔を合わせることなくその場から立ち去った。
証拠はなにもない。みたものもいない。どいつもこいつも、憶測でものをいってるに過ぎない。なぜだ? なぜ、誰もが「犯人」を求めるのか。
「たつじゃねぇだんべ。あいつにゃそんな度胸はねぇ。やったのはいちだ」
「とうとうやりやがった。いつかはやると思ってたんだ。あのアホが」
「なんであいつを野放しにしてやがった。だからとっとと座敷牢にでも放り込んどけっつってたんに」
それは「疑い」ですらない。「思い込み」といえばまだ聞こえがいい。子供たちが丈一郎を「あほいち、ばかいち」といってからかう、それと同じ。大人たちの「からかい」は、より陰湿で残酷だ。丈一郎を同じ「人間」としてみない。大人たちは子供たちの「からかい」を許さない。丈一郎とその家族に話しかけるもの近寄るものはいなくなった。
ただ一人、半次郎を除いて。
蝉の声が遠くなるほどだった昼間の暑さも一段落しようとしている。
「おい、半次郎、おめ、相変わらずいちと話してんな。どうなるかわかってんのか」
これも幻聴か。橙色の太陽が妙名の山に沈みかかる。やっと一日が終わるというのに……。
「聞いてんのか! おめぇも村八分にしてやんべぇか」
「うっせ。いい加減にしねぇと、てめぇも二間峠から突き落とすぞ」
敦矛の太鼓持ちが。立ち尽くす男の影に唾を吐き捨て、半次郎は歩き出す。今夜は八幡様の集会所で寄り合いがある。そこに集まる人間を思い、半次郎は睨みつけた。
――これが「村」か。
半次郎の腸を、ただ怒りのみが焼いた。哀れむような気持ちはひとっかけらもない。
なんの断りも理もなく、一人の人間が「殺人犯」にされている。これがいかに異常なことか、わかっている人間が果たしてどれほど村にいるのか。いたとしても、それをいう人間はいない。結果的に、みんながそれを共有し、認めている。これが「村」だ。
村の人間を「愚かである」と哀れむことこそ愚かだ。哀れなのは丈一郎ただ一人。他の人間は全て愚、唾棄すべき阿呆どもの集まり。
半次郎は遅れて集会所に入った。正面でこちらを向いている敦矛が半次郎を認めて顔を強張らせた。半次郎は一歩を進めた。
「ちょうどよかった。これから本題に入るとこだ」
唾棄すべき。
「いちのことで皆の意見を聞きてぇ。まぁ、みなだいたい同じだろうが。おまえはいちと仲がよいから、みなとは意見が違うかもしれん」
敦矛は半次郎より頭半分大きい。彫りの深い、いい顔立ちをしている。寄ってくるものを取り込み、そうでないものを排除する。半次郎よりもたかだか三つ四つ年上の若造が、皆の意見を聞きたいなどとほざくかよ。
座っている人をかきわけ踏んづけ歩く半次郎の袖を引くものがいた。構わず振りほどく。名を呼ぶもの、鼻をすするもの、咳をするもの、立ち上がって半次郎にすがるもの。構わず、半次郎は敦矛の鼻の穴がみえる位置までたどりついた。
「いったいなにを聞きてぇって? いちをどうするってんだい?」
「あいつは人殺しだ。このまま放っておくわけにはいかん」
敦矛の余裕の表情が無性に触る。これが「村の長」となる人間。
「殺してねぇ。あいつは誰も殺してねぇ! そもそも、死体があるっつって知らせてきたのはいちだんべぇが!」
そのことの違和感を、ここにいる「村人」どもは誰一人持ち合わせていないのか! そんなやつらに、人を「ばか」だの「あほ」だのいう資格があるというのか。あるわけがねぇ!
ある男の言葉に、考えに違和感を持つことさえ禁じられたものたち、自分で自分に禁じているものたち! 愚か者どもが!
敦矛が半次郎の耳に顔を近づけて囁く。
「こいつにさっきいってくれたみてぇだな」
敦矛の影から覗き見ている顔がある。
「それをここでいっていいんか」
「おめぇも二間峠から突き落としてやろうか!」
半次郎の、滅多に聞かれない大きな声が室内に響いた。力のこもった、いい声だった。力が「沈黙」として半次郎のもとに返ってくる。静寂が、男の胸を叩いた。
「おめぇら!」
振り返る。敦矛の前に立ったまま集会所を、そこにいる人間を見回した。薄暗い中に一際暗い顔がみえた。目が合うと、そいつは目を逸らした。勢いよく足を踏み出し、ダン、畳を鳴らして大きく跳んだ。
「たつ、なんでてめぇは」
龍雄の胸倉をつかんで上に引き上げた。体の内側に湧き上がったのは紛れもなく殺意だった。今この場でこの男を殺してやろうか。そのつもりで男を壁に向かって放った。人に足をとられ、龍雄は人の上に倒れ込んでしまった。
「おんさんだ、おんさんが殺したんだ!、お、おらみた、夫婦もんをこここ、殺したのは、おお、おんさんだ、おんさんがやや、や、やったんだぁ!」
皆の視線が入り口に向いたとき、そこには走り去る丸い背中があった、大きな背中がみるみる小さくなっていった。半次郎はその背中を追いかけた。
「いちを座敷牢に閉じ込めるように。それか村から追い出すか。わかったか。これも村の、みなのためだ」
敦矛の声が集会所のかび臭い室に強く響いた。静かに涙を流す丈一郎の父と兄だった。涙を床に落とさんばかり、二人は膝を正して頭を垂れた。
余計なもの、空気の中に紛れ込んでいるほこりやなんか、みんな空っ風が南へ南へと吹き飛ばしている、そんな春の一日だった。白川で、半次郎は手鏡を拾った。持ち主はわかっている。持ち主は半次郎が冷たい川に膝下までつかって鏡を拾う前に走り去った。まるで逃げるように。
もうじき村を出るということは知っていた。無論、返すつもりはあった。訪ねてくればすぐに返したろう。持ち主はこず。半次郎から返しにいく気にはならなかった。
ふっと我に帰る。半次郎はじっと手鏡を見つめていた。
外はゴオゴオと風が鳴っている。北側の防風林が泣いている。家がきしんで鳴いている。
夜中に鏡をのぞいてはいけないと聞いた。なるほど、背筋が恐怖で縮んだ。
何時くらいなんだろう? 夜明けにはまだ間があるようだ。
それから、鏡を何度かみるうちに、恐怖が徐々に薄らいでいるのに気がついた。持ち主があそこで逃げ出した理由が、なんとなく半次郎にもわかるようだった。
昼の鏡は外見を写す。夜の鏡は内面を写す。
――夜中の鏡に写るものこそ、本来の己。
そんなことを思ってぞくぞくしたものだ。
山で薪を拾っていて、ふと、
――なんのことはない、昼間だろうが夜中だろうが、鏡に映っているのは己だろう。
思ったとき、鏡の呪いから開放されたらしい。見栄えのしない、薄汚れた男が一人映っているだけだった。なんの面白味もない。梅雨に入るころ、半次郎は鏡をみなくなった。
集会から数日、村を一人の若者が訪ねた。
「顔にイボのある男とその妻の二人がこの村に入らなかったろうか」
男は関口の家に迎えられ、敦矛から経緯を聞き、また話した。二人が崖から落ちて亡くなったことを知ると、若い男は長法寺に線香を上げて和田の町へと帰っていった。
男は夫婦に「まとまったお金を渡していた」ことを敦矛に告げたという。死んだことを聞いても男は「金はどうしましたか」などと聞き返すことはなかったという。
「質のいい服を着てやがった。野郎、人の命をなんだと思ってんだ」
淡白だった男の態度に敦矛が腹を立てていたらしい。罪なきものを世間的に村から抹殺するものの言葉ではない。怒りの原因は別のところにある。
お盆の十六日、半次郎はお寺に先祖を拝みにいった。長法寺にもいった。二間峠から落ちて亡くなった(とされる)二人にも線香を上げた。辺りが暗くなり始めたころ、家の仏壇に供えてあった野菜やうりの馬、花などを大きな葉に包んでイワスゲで縛って、火をつけた線香と一緒に白川に流した。
「家に帰るまで後ろを振り向いたらだめだ、わかったか」
「うん」
半次郎の後を男が付いていく。手拭をほっかむりにして顔を隠すように鼻の下で縛る男が、人よりも大きな体を小さく丸めて、まるで半次郎に隠れるように後ろを歩いた。
「そもそも、なんであいつら、妙名神社いくのに峠からいったんだ。村長んちにきた男の話じゃ、二人とも和田の人間だっつうじゃねぇか。高田のほうまわったほうが安全だし距離だってあんまかわんねだんべ」
高田村は蓑里の西側にある。
「案外自殺かもしんねな」
「心中か。そんでもよ、金もらってたんだべ。どこにあるかわかんねらしいけど」
「じゃああれだ、男が嫁さんを殺そうと思ってたんだ」
「そりゃおめんちだんべ」
そういう話が出始めていた。一方で、丈一郎が犯人にしたてられたことに異を唱えるものはいない。ひそひそと半次郎の家のことをいうだけで。
「ああ、俺もみた。こないだ半次郎と一緒に仕事してた。手拭いかぶってたけど、ありゃ丈一郎だ、間違いねぇ」
「座敷牢に入れられるんが嫌で逃げたちゅう」
「いや、長野と山田の家で話があったげに聞いたぞ」
「よくやんな」
長野の家の男は変わり者が多い、といわれる。半次郎は長男だが、父も祖父も、家の中で半次郎のやることに文句をいうものはいない。
「不思議なもんで、あそこを出ると変わりもんいう話は消える。あの土地がそういう土地なんかもしれん」
「誰も彼もよく働くかんな」
九月を過ぎた。家々の軒下に、山ほど収穫したとうもろこしを四本か六本一まとめにしたものがぶら下がった。
その日、この辺りで十年に一遍といわれるほど雨が降った。直接的な害も大きかったが、水が白川に流れ込み、大きく増水した。
昨日からの雨がやまない。どこの家も不安の中で夜を過ごしていた。
家の中は暖かい匂いで満ちていた。ねぎやじゃがいもなど、時期の野菜をたくさんいれて味噌で煮込んだきりこみの匂いがこもっている。外に出られず、行き場を失っているかのよう。半次郎たちがきりこみを食べていると、雨と風の音に紛れて半鐘が鳴った。
「さぶ、いくぞ!」
長野の家から、激しい雨風の中に半次郎とほっかむりの大きな男が飛び出した。白川の土手に人が集まっている。
「堤が破れそうだ!」
白川と畑などのある地面は一丈ほど高さの差があり、さらに地面から六尺ほどの土手が築かれているが、川の面はすでに土手の半分ほどまで上がっていた。この場所で川が蛇行しており、曲がりの外側に当たるこの箇所には他よりも大きな負担がかかる。そこに、まだ小さい割れ目が入っていた。土手堤が決壊すれば、水は、文字通り堰を切って畑に流れ込む。そうなればどれほどの被害が出るか想像もつかない。既にきたものから土手の補修にかかっていた。
時間が経つほどに、水位は目に見えて上がり、流れは勢いを増している。
「もう無理だ! みな、よくやってくれた! これ以上はみなにも危難が及ぶ! ここらが潮時だ!」
村役人の大きな声が響いた。誰の目にも明らかだった。雨は少し小降りになったようだが、水勢は留まるところを知らない。嵩も増している。誰も手を止めて呆然と川を眺めた。中で、動き続けるものがいる。
「半次郎、もう無理だ。しまいにすべぇ」
近くのものが半次郎に寄っていって声をかけた。半次郎とほっかむりはそれでも手を動かし続ける。
「半次郎、いい加減にしろ。もうじき川が堤を超える。そうなりゃこんなこと自体も無意味だんべ」
「……」
「半次郎!」
半次郎と男は止まらない。
「あぶねぇ! もたねぇぞ!」
誰かが叫んだ。更に四人ほどが働き続ける二人に飛びつき、割れ目から十分離れた土手上へと引きずりあげた。次の瞬間、なんともいえない音を立てて堤が割れた。声も出なかった。濁流はあっという間に畑を飲み込んでいく。茫然自失の体で眺めるしかなかった。二人を引っ張り上げた男の隣でなにかが地面に落ちる音がした。みると、半次郎とほっかむりの男が、今まさに沈みつつある畑に向かって土下座をして頭を深々と垂れていた。二人を引き上げた男たちも、立ったままで頭を垂れた。大きな水溜りと変わり果てた畑を見下ろす堤の上に、頭を垂れる男たちがずらり並んでいた。
数日経った昼過ぎ、長野の家を訪れる珍しい者があった。
「畑をやられちまったんでこんなもんしかあげらんねが」
そういって、男は半次郎の父の前に一束の葱を差し出した。父親にはなんのことかわからない。それ以前に、畑がこの前の堤の決壊でやられたのならなおさら、例え葱の一本でももらうわけにはいかない。そういって突き返した。
「あいつは、自分ちの畑でもねぇのに命をかけて堤を守ろうとしてくれた。それが嬉しかったんだ」
長野の畑は破れた堤の反対側にある。堤が破れたとしてもそれによって被害が多きくなる心配はない。集まった人間の半分以上はそんなものたちだ。被害を直接被るものだって早々に諦めた。半次郎たちの働きは、あの場にいたもの全員の胸を打ったのだ。
だからと無理にも葱を置いて男が立ち去りかけた。
「ならば余計にもらえんよ。あいつらが命がけで守ろうとしたものを、俺がもらうわけにはいかねぇ。来年、たくさん採れたらそのときに持ってきてくんない」
結局、男は葱を持って帰っていった。
半次郎とほっかむり男が山口の家の前を通り過ぎた。家は、ひっそりとしていた。先の大雨の始末で誰も彼も出かけている。昼間のこの時間、人の気配もなく静まり返っているのは龍雄の家ばかりではない。
「なあさぶ、ここんとこ龍雄の様子がおかしいとおもわねぇか」
返事はなかった。さぶには、まだ他の人間と話をするなといってある。「さぶ」は三郎である。一応、長野の遠くの親戚ということになっているが、常に手拭いを被っているとはいえ、村のものは誰だってわかっているだろう。さぶは半次郎の言い付け通り誰とも話をしていないようだった。言い付けを守っているのか、あるいは、話をしたくないのか……。
「さぶ、龍雄のこと、なんか知らねぇか?」
龍雄が少し変だということに半次郎が気づいたのはもう随分前である。二間峠で人が死ぬより前のことだ。だから三郎に聞いてみたのだが。
「し、知らね」
「そうか」
それ以上聞くことはしなかった。
「腹減ったなぁ」
「さっきお昼食べたばっかだよ」
すんなり返ってきた三郎の言葉を聞いて、半次郎は空を見上げた。相変わらず、すっきりしない空が広がっている。あんな雨はもうごめんだと、半次郎は心の中で雲に呟いた。
あの夜堤の上に龍雄の姿はなかった。
「長野の家のもんと親しくしたもんも同様村八分にするぞ」
三郎が長野の家にきたころ敦矛がそんなことをいってたと、あるとき近所のものが教えてくれた。
「すまねぇな、ほんと、わしら馬鹿なことをしちまった。あんな馬鹿息子のいうことなんぞ真に受けちまって。堤を守りにきもしねぇで」
そういって頭を下げたのはたったの一人だったが、それは他の皆の気持ちでもあった。初めの頃は確かに避けられていたのだろうが、今では誰もが笑顔で挨拶をしてくれるようになった。
師走に入る。妙名山は既に何度か白い着物を召していた。この冬はまた寒くなりそうだった。
十二月の半ばになると製糸場に出稼ぎにいった娘たちが帰ってきた。みな見違えるようにきれいな着物を着ていた。咲も帰ってきたのだが、彼女だけは他の娘たちと様子が違っていた。関口の狭くてぼろい家に、それこそ村中の人間がきているのではというほど人が集まった。人垣が幾重にもなって家を囲んだ。
咲もびっくりするほどきれいになって帰ってきた。人々を集めたのは咲の姿ではない。咲は、婚約者だという男を連れて帰ってきた。
みたこともないほど立派ななりをした男が、小柄でみすぼらしい咲の父親に深く頭を垂れている姿に、人々は恥もなにもなく驚嘆の声をあげた。
田中宗治という婚約者は正月過ぎまで関口の家に泊まるという。年が明ければ、その大金持ちの親父までくるということだった。それは、村始まって依頼の事件だった。咲と宗治とともに黒山の人だかりが移動した。
ある日の夕方、咲がたった一人で半次郎の家を訪ねてきた。丈一郎のことを聞いて、そして三郎のことを聞いて、一人で抜け出してきたという。
咲の顔をみて三郎が涙を流した。そのときばかりは丈一郎に戻ってしまった。
咲がいなくなってからのことを、丈一郎は息せき切って話した。途中、わかりずらいようなことがあっても、咲は話を止めたりせずに笑顔で頷いていた。
「そ、そんなことがあってから、は半次郎と家の人がよ、よくしてくれる」
丈一郎と咲の笑顔に当てられて、半次郎も笑顔を隠すことはできなかった。
一時間ほどもいたろうか。最後に咲が丈一郎を力一杯抱きしめた。
「ちゃんとここの家の人のいうこと聞くんだよ。もう迷惑かけたらだめだからね。わかった?」
「うん、うん、わかった、わかった」
十分な涙を分かち合って、咲は半次郎の家を出た。
「ありがとう」
裏の勝手口から出たところ、表を通る人からみえないところで咲と半次郎は向かい合った。咲は半次郎に対して深く頭を下げた。半次郎の胸にいくつかの言葉が浮いた。
「いや、別に」
言葉になったのはそれだけだった。まっすぐ半次郎を見つめる女の瞳が優しい。男の気持ちは、幾らかでも伝わったろうか。
「龍雄には」
「いった。でも、会えなかった。会わないといわれた。たっちゃんは……」
「俺にも、わからん」
沈黙が流れた。女の言葉は、半次郎に軽い衝撃だった。
「あれはどうする」
突然の問いかけに咲も一瞬首を捻ったが、すぐに思い至ったようだ。半次郎自身は、もう女には必要ないものだと思っていた。
「持って返る。あれは、大事なものだから」
半次郎はすぐに家の中に戻って「それ」を持ってきて女に手渡した。
「すまねぇ。そんなに大事なものとは知らんで」
「あのときは大事じゃなかった。でも、今はとても大事、な気がする」
もう一度「ありがとう」といって、咲は帰っていった。
その後姿をしみじみ見送った。周りが羨む夢のような人生を手に入れながら、丈一郎など村の人に対する思いを失っていない。直ぐな気持ちが更に外見を磨くようだ。
――いい女になった。
見送りながら、半次郎は自分の中にはっきりとした優越感があるのを感じていた。女はさらにきれいになっていた。そんな女と秘密を共有した。それが優越感だった。村中の男に対する優越感。偉そうな敦矛に対する優越感、そして、かつて女と最も仲がよかったといわれた龍雄に対して、自分が確かに上にいることを、半次郎は感じていた。
咲が事件のこと、龍雄のことを聞こうとすると、やはり三郎は言葉に詰まった。咲は二度まで同じことを繰り返すことをしなかった。実際に咲が龍雄に対して感じることが大きかったからだろう。龍雄は変わってしまった。そして、自分も変わった……。咲は賢い女だった。
女とこのまま別れがたいと思った。その思いは、流石にすぐさま殺した。暖かい家の中に、半次郎も戻った。
三が日を過ごし、咲は村を離れた。村から出ていく自動車を眺める龍雄の姿に気づいたものは誰もいない。
実
ある日の夜、酒を飲みながら宗治は初めて言葉を交わしたときの話をした。
「まさか僕の歌を聞かれているとは思わなかった」
咲もそのときのことを思い返す。不思議だった。目が覚めたとき、耳に聞こえてきたのは妙な「音」であって決して「歌」ではなかった。みんなに迷惑にならないように小さい声で歌っていたつもりだったのに。宗治はいつもそう付け足した。
なにか「音」が聞こえてくることに対しての恐怖はまるでなかった。大して迷うこともなく「出てみよう」と思った。窓の外が明るかったせいかもしれない。外は、光が溢れていた。人影を見つけ、近づきその人の顔をみたとき、「音」は「歌」になっていた。
それから、夜中に手鏡をみることはなくなった。その代わり毎朝手鏡をみた。鏡は最早語りかけてこない。鏡に向かって、そこに写る人物に向かって、咲のほうから話しかけた。
宗治と一緒になることに戸惑いはなかった。女として、宗治は始めての男だった。
不安も恐怖もない。毎日が明るく楽しかった。
宗治の父親にも会った。咲の出自を知って少し面を曇らせたが、面と向かってなにか酷いことをいわれることはなかった。
「父のことは気にしなくていい。これは僕と君の問題だから。それに、父だってきっとすぐにわかってくれる。君がどれほど素晴らしい女性であるか」
はっきり結婚しようといわれたのは十二月に入ってから。もちろんずっと仕事はしていたが、どうも誰にも気づかれていなかったようだ。
――わたしはこんなに体が熱いのに。
宗治に会うたび話をするたび、宗治のことを思うたび、体が熱くなった。気持ちが勝手に浮き立ってわけのわからないことを口走りそうになった。いいかけたこともある。それでも、誰にもいわれたことはない。
――これが男の人を好きになるということ。
一緒に働くみんなに話したのは故郷に戻る直前だった。とてもびっくりしていたが、みんな「おめでとう」といってくれた。
そして蓑里に戻ってきた。一年にも満たない期間が、そのときは何年にも感じられた。とても懐かしかった。村は全く変わっていなかった。出てきたときと同じ。しかし、そこに住む人たちは変わっていた。咲たち出稼ぎから帰ってきたものをみる村の人たちの目に違和感を感じた。
――変わったのは自分たちのほうだ。
当然だ。寂しい気持ちはあったが、それを受け入れる余裕もあった。大人になったのかもしれない。
宗治と一緒に村を歩けば何十人という人がついてきた。恥ずかしかったが、女として喜びを感じることでもあった。こんな自分がいたとは、今まで思いもよらなかった。
二間峠で夫婦が死んだそうだ。それは確かに悲しいことではある。なによりも悲しいのは、その二人を丈一郎が殺したという話だった。
「ほんとに? ほんとにいっちゃんが人を殺したの?」
咲の周りの人間でその問いにきちんと返事を返したものはいなかった。そんなことをするはずない。聞けば丈一郎は警察に捕まったりなどしていないという。村の外に逃亡したわけでも山奥に隠れているわけでもない。事件の直後以来、警察がこの村を訪れた事実は、少なくともその二間峠の事故に関しては二度とないそうだ。咲にはわけがわからなかった。
「丈一郎が犯人だといっていたのは村長の息子の敦矛だんべ」
誰もがそれを信じるともなく受け入れていた。それは暗に「受け入れない」ことをしなかっただけだが。咲は龍雄を訪れた。
「会いたくない。さきちゃんには会えないなんていってやがる。いったいなにがどうしたのか、わしらにも話してくれねんだよ。もうしわけないねぇ、折角きてくれたんに」
父親が出てきてそういった。すんなり下がってはきたが、少なからぬ衝撃だった。考えれば考えるほど胸が締まった。龍雄を傷つけたという自覚もなくはない……。
三郎という男のことも当然聞いた。半次郎とは話などしたことはなかったが、思い切って訪ねてみた。長野の家の男どもは変わりもんばかりだと誰もが噂していた。
明らかに「丈一郎」である大男を「三郎」などと呼んでいる。村のものは誰もがそのことを笑った。咲の印象は少し違った。
会って、噂が間違いであると確信した。丈一郎を匿ってくれているその家の長男は確かにちょっと変わった男ではあったが、十分信頼するに足る人間だと思った。丈一郎はなにかを知っているようだ。咲は無理にそのことを聞き出す気はない。半次郎も同じだ。男との距離が大いに縮まるのを感じた。
「あれはどうする」
その言葉の意味をとるのに一拍の間が空いた。ふっと思い浮かんだ、風の強い春の日の出来事。それまでまったく頭になかった。
「持っていく。あれは、大事なものだから」
自らの口から出てきた言葉が意外だった。思いもよらない問いに対する咄嗟の答えだったが、それはそれだけに本心であるようだった。咲自身も意識しない本心。
手鏡を持って実家に帰ってきた。心が嬉しさで満ち溢れていた。丈一郎のこと、手鏡のこと、その二つの喜びを与えてくれた半次郎という人間と近づいたこと。龍雄から受けた痛みはすっかり飛んでいた。
村にくるときは他の娘たちと一緒に路面電車できた。
「咲はいいところに住んでいたんだね」
冬枯れの寂しい景色をみて、宗治が笑顔を含みながら咲にいった。宗治もどこか浮き立っているようにみえた。帰りは宗治の父親などと一緒に、車で和田の町に帰った。宗治と知り合って何度か乗ったが、いつまでも慣れない。がたがたと揺れるしお尻は痛いし、ちんちん電車のほうがよほど楽だ。
宗治との生活は和田町の南隣佐野町で始まった。平屋で居間と客間と寝所のある簡単な造りの家だった。宗治の任された工場まで自動車で五分とかからない場所である。
「狭い家だが当分我慢してくれ。事業が軌道に乗るまでは」
申し訳なさそうにいったが、咲にはむしろ住み易い。宗治の実家は大きな屋敷で、初めてみたときはとても驚いた。到底人が暮らす場所には思えなかった。お城だと思った。あんな家で暮らすことになるなら一週間ともたずに逃げ出してしまう。今の借家で暮らすと聞いたとき、どれほどほっとしたかしれない。
宗治は忙しかった。夜遅かったり、数日帰らないこともあった。一緒にいる時間など、一週間に片手ほどの時間しかない。
そんな生活に不満を募らせることもない。夜、一人でいるときふと不安に襲われることもあるが、不安はそのまま夜の闇へと溶けていく。瞼の裏に愛しい人の姿が浮かべば、寂しさどころか全身に温もりを感じることもできた。
それは男も同じだった。
「一緒にいれなくて済まない。まだもう少し我慢してくれ。わたしも寂しいんだ。でも、やらなければならない。お前がこの家にいてくれると思えばこそ、わたしも頑張れる」
あるとき宗治がそんなことをいった。心の底から嬉しかった。咲は決して一人ぼっちではない。
ただ、退屈なのには閉口した。働かなくてよいということがこれほど辛いこととは思わなかった。
とりあえず、家にある着物や洋服などをみて破れていたり綻んでいたりする部分を繕った。補修が目的ではなく、時間をつぶすために。
「おまえがそんなことをする必要はないのだよ。仕立て屋に頼んでしまえばいい。ひどいものは捨ててしまいなさい」
「ありがとうございます。でも、やらせてくださいませんか? こんなに楽をしていては頭が呆けてしまいそう」
旦那はちょっと困ったような顔をした。そんな顔をすることが不思議だった。
「わかった。おまえがそういうなら、これからも頼む」
家の中にあるものなどたかが知れている。宗治が工場でいったいどのようなことをしているのか、咲にはまるでわからなかったが、恐らくせわしなく動いているのだろう、裾や袖口がよくほつれたり、なにかに引っかけたような穴が開いていたりした。そんなものをみると嬉しかったするのだが、直し終わってしまえば、あとはなにもしない時間のほうが多かった。
あるときのこと。買い物で外を歩いていると、近所の男の子がズボンに大きな穴を開けたまま遊んでいた。なんとなく微笑ましく、この辺りの子はズボンなんてはくんだな、など思いながらみていた。はっと思ってその子の後をついていった。子の帰った家は咲の家から十間ほどの近所だった。周りの家との交流はこれまで全くといっていいほどない。
思い切って、咲は扉を開けて一歩を入った。
「ごめんください」
真っ先に顔を出したのはその男の子である。子どもの後ろから「はい」と声が聞こえた。
「あら、こんにちは」
母親の親しげな表情をみて、緊張は一気にほぐれた。直接言葉を交わしたことなどなかったが、恐らく咲のことは十分に知っているのだろう。村にいる母親たちのことが頭を過ぎる。夜、五人組の女たちが一つ家に集まってわいわい話をしながら月を眺めるお三夜様を思い出した。女たちがする話はどこも大して変わりはないのだろう。
その母親に不躾なほどの親しみを覚えて、咲が口を開いた。
「こんにちは。あの、ちょっとお願いがあるんですけど」
「はいはい、なんでしょう」
咲は先の男の子を目で探した。壁の影から半分だけ顔を出す男の子を、母親が手で追い払う。
「男の子のズボン、直させてもらいたいんです」
母親がびっくりして咲の顔をみた。そんな表情でさえ、咲には親しみやすかった。
退屈で退屈で困っているというようなことを話し、半ば強引にズボンを預かってきた。
ささっと修理してその日の内に返しにいくと、そこでもまた驚いていたが、修理の速さと手のよさをみて、母親は痛く喜んだ。
「他にも、なにかあればやりますけど」
それから、咲の家には近所の繕い物がたくさん集まるようになった。そういうものは必ず咲が取りにいってまた返しにいった。家まで持ってくるという人もいたが、それでは旦那に迷惑がかかると思ったのでやめてもらった。こんなことをしていると旦那が知ったらいったいどれほど困った顔をされるか。それだけが心配だった。
その日預かってきたものはその日の内に返してしまうため、旦那に知れることはなかったが、隠し事はやはり気分のいいものではない。それでも、それによって心に多少とも張りが出るため、預かり物を止めることも旦那に打ち明けることもできないままに月日は過ぎた。
寒い冬が終わるころ、咲は自分の体がおかしいことに気づいた。食べ物の味が変わった。大好きな旦那さまの匂いが変わった。自分が日ごとに変わっていくことが不安だった。
空を見上げ、霞をまとう妙名山をみるたび、村を思った。やたらと郷愁に駆られた。なぜだろう、兄嫁の俤ばかり追い駆けていた。
――ひょっとして……。
「おめでとう、妊娠三ヶ月ですな」
とうとう、咲は身篭った。
「おお、そうか! 子供か、子供が、できたか、わたしたちの子供が!」
宗治は真に嬉しそうに、咲を何度も抱きしめた。我が身の内に小さな命を宿した、ということに言い知れぬ不安を抱いていた咲であったが、宗治の、今までみたことがないほどのはしゃぎように触れて大いに安心した。
それから、相変わらず旦那は忙しかったが、家にいる時間が多少増えた。咲の繕い物の量は少しずつ減っていった。
近所の人に「お腹に子供ができたから」というと誰も自分のことのように喜んでくれた。とても嬉しかった。
お腹が大きくなるにつれ、預かり物はどんどん減った。近所を周る時間も少なくなっていったが、今度は周りの女性たちが咲の家にやってきた。お古の着物を持ってきたり、妊娠しているときはああしたほうがいいこうしたほうがいいと話してくれた。
あるとき、宗治がたまたま早く戻ってきてその場に居合わせた。女たちは慌てて帰っていった。
「近所のひとたちと、仲がよいのだな」
不思議な顔で聞いてきた。
「はい」
といったきり、やはり正直に話すことはしなかった。
十月、子供が産まれた。玉のような元気な男の子だった。
「泰助だ。やはり泰助だな。いい名前だろう」
「はい」
「泰助の泰は泰平の泰。安らかという意味だ。加えて『果て』という意味もある。広く世界の果てまで安らかにして欲しい。そんな器の大きな男になって欲しい」
我が子を眺める夫の横顔は、それは今までみたこともないほど大らかな笑顔であった。
「我らの命が果てるまで、きっと私たちに幸をもたらしてくれるであろう」
そういって咲にかけた笑みは、子供のように無邪気なものだった。
絵に描いたような幸せとは、まさしくこういうものだろう。赤ん坊がいて、その赤ん坊を心底喜んで迎える旦那がいて、それを眺める妻がいて。自分が主役で。それは、咲がかつて漠然と描いていた「絵に描いた幸せ」よりも遥かに幸せな絵だった。
母子ともに健康で、咲と泰助は病院から家に帰ってきた。
「これでいよいよ家を考えなければな。いや、まずは式を挙げるか。工場のほうもなんとかなりそうだし、父とも相談してなるべく早いうちに決めてしまおう。全てがうまくいっている。これもおまえががんばってくれたおかげだ。ありがとう」
そういって小さく頭を下げた。咲の胸に熱いものが込み上げる。言葉自体も十二分にありがたいものだったが、旦那にこんなことをいってもらえる女など、村では考えられない。自分がどれほど恵まれた生活をしているか、していたか、しみじみと実感した。
宗治が咲の体を強く抱きしめた。余計に涙が溢れた。流れる涙とともに溶けてしまいそうなほど、宗治の体は温かく、心地よかった。
泰助が生まれて一月ほどが経った頃。突然の父親の訪問に、咲は嫌な思いを微塵も抱くことなく応対した。父親とは無論宗治の父親である。久しぶりに会った娘にまずみせた苦りきった表情を、義娘は拒絶しなかった。
赤ん坊を、己の孫を見てさえ微笑一つこぼさない。袴姿の義父の後ろから音もなく現れたのは、紋無しの黒い着物に身を包んだみたこともない二人の男だった。咄嗟に体を捻って泰助を隠した。感情よりも先に体が反応した。
それは無意味ではなかった。静かに掠め取るつもりだったのだろうが、二人の男の一人が咲の体を抑え一人が泰助を奪い取った。弾みで咲の体が弾け飛び、箪笥に強か頭を打った。大きな物音が外まで鳴った。三人の男は気を失った女を車に乗せると、音を聞きつけて集まったものには目もくれずに走り去った。
ただただ寒かった。なのかもわからない。体を襲う寒さだけ、今が冬であることを咲に教えてくれていた。
死のう、とは思わない。そんな感情すら湧いてこない。悲観も楽観も、咲には現状が観えていない。
泰助を父親に奪い取られた。それはわかっている。病院で激しい苦しみとともに意識を戻した。臭い薬の匂いをかいでいたのはどれほどだろう。頭の痛み、眩暈、気分の悪さがある程度落ち着いたころ、そこからまた不愉快な自動車に乗せられてこの家に連れてこられた。旦那である宗治がここを訪れたことはない。それらもわかっている。考えてみれば、義父の行動は腑に落ちた。
だからどうしようという気が起きてこない。力が湧いてこない。無気力といって首をくくる気力もない。観えない、なにも。未来も過去も、今の自分さえ。観えない。真っ暗闇に一人ぽつんと座っている。時折痛む頭を触る。怒りも悲しみも湧いてはこなかった。「まだ」なのかもしれない。あるいはもう死んでいるのかもしれない。一切の光ささない暗黒の世界で、一日なにをするでもなく食事を与えられて生きている。暗い地面に這いつくばって、咲は生きている。頭の上から雀が鳴き交わすのが聞こえてきた。それに向かって、つと顔を上げた。咲は文字通り光を失っていた。目がみえなくなっていた。
散
隣家の庭にこの寒空に真っ白な花が咲いているのをみて、斉昭は隣を訪ねた。山茶花という名前は聞いたことがあったが、それが冬のこの時期にこのような花を咲かせるものと知ったのはここに移り住んでからだった。
こうして山茶花の一枝をもらうのは今年が二回目である。
――はて、一昨年ももらったか、これが三度目だったか……。
曖昧な記憶を曖昧なまま、もらってきた山茶花を縁側に座る実千に渡した。
「隣で山茶花が咲いていたのでもらってきた。寒くはないか」
山茶花というものを、実千はみたことがない。枝を手に取ったとき、実千の顔にも満面の笑みが咲いた。妹には、花というものの持つほんとうの美しさがわかるのかもしれない。その美しさ、あるいは素晴らしさは決してみて得るだけではないということを。花の持つ凄味を、兄も妹の笑顔をみて理解する。
ただあるだけで妹を笑顔にする、花とは、自然とはなんと凄まじいものか。
自然に対する畏敬の念は、そこを頂点にあっというまに失せていくのだが。
「ちゃんと断ってきたの? 兄さま、勝手に折ってきたのでないでしょうね」
「滅多なことをいうものではない。安心しろ、ちゃんと隣には断っている。それより、朝からこうしていて寒くはないか? 幾ら陽が当たるとはいえ、もっと火の近くにいねば体を悪くする」
「ご心配には及びません。今日はあたたこうございます。今日のお日様は、まるで春の陽のよう」
斉昭は驚いた。確かに今日は暖かい。最近寒い日が続いていたせいか、なおのこと暖かく思うのかもしれない。しかし、あくまでも暖かい「冬」の一日だ。斉昭にとっては、寒かろうが暖かかろうが、それは冬の太陽だった。
「どれ」
斉昭もみちの隣に腰を下ろした。大きく深呼吸すると、なんだかわかってくる。町中ほどではないが、この辺りはその中心への連絡路として人の通りが切れることはない。人々の足取りが、どことなく軽いように感じる。陽射しのせいだろう。家の横の防風林から、その向こう、隣の家の山茶花や庭木の辺りから鳥たちの声が冬の澄んだ空気に響いていた。じっと座って目を瞑ると。
「暖かい。なるほど、今日の陽は春の陽射しか」
いってみてはたと気づいた。そもそも春の陽射しがどんなものか知らない。
――これが春の陽か。
春の陽射しの暖かさを、冬に知ることになった。
一週間ほど前、斉昭の飯田の家を珍しく実家の番頭が訪ねてきた。珍しいもなにも、その番頭がこの家を訪れるのはこの家に住み始めるとき、家財道具やなにかを入れるのを手伝ってもらって以来二度目だった。古株の番頭で斉昭が小さいときはよく遊んでもらった。お互い気心の知れない同士ではないが、番頭の顔つきがやけに真剣にみえた。
「どうした、しかつめらしい顔をして」
「ちょっと、よろしいですか」
番頭は斉昭を外に連れ出した。後を付いていくと、番頭は別の家の中へと入っていく。わけもわからず斉昭も後に続いた。そこは、斉昭たちの住む家と斜向かいの位置にある。確か、ちょっと前まで人がいたが今は誰も住んでいないはずだ。
「旦那さまから、頼まれごとを預かってきたんです」
塀に隠れて外からみえない位置にまで入ると、番頭は挨拶もせずにいきなり切り出した。
「今日の昼過ぎ、この家に若い女性が越してきます。その女性の面倒を、斉昭さんにみて欲しいんです」
「も少しちゃんと説明してくれんかね」
「すいません。実は、今から越してくる女性というのは、その、目が、みえないのです」
順番が違うだろ、と斉昭は心の内で突っ込んだ。番頭は気に留めた風もなく話を続けた。斉昭の内心を汲み取る余裕もなさそうだった。
これ以上細かいことは話せません。というか、わたしも聞かされてはいないのです。もちろん、必要な分のお金は今までの分に加増します。
「なにぶん急なもので、お金しかご用意している暇がございません」
「要するに、生活するに必要な家財や食料、女性の世話をする人間もわたしに用意しろということか」
「はい」
「随分と信用されたものだな」
番頭はその皮肉には一言もなくじっと斉昭の顔を見返した。
――これでは頼みではなく命令だ。
番頭になにかいっても仕様がない。あの父からの言を断れるわけがなかった。
「わかったと父に伝えてくれ。ご苦労だった」
諾の返事を受けても番頭の顔から緊張の色が消えていない。余程の大事だと思っていると案の定、番頭が言葉を付け足した。
「このことは決して他言しないようお願いします。娘の素性を探るようなこともしてはいけません。斉昭さんの身分を明かしてもいけません。くれぐれもお願いします」
そこまでいわれると、むしろ興が冷めるようだった。
――あの男が、わたしを信用などするはずはない。
あの父は長男をいったいなんだと思ているのだろう。急ぎ足に離れていく番頭の背中に溜息を一つ当て、家へと戻った。
先ほど聞いた通り、それから二時間ほど経ったころ斜向かいの家に一台の自動車が止まった。と思っていると、玄関に声がした。
「斉昭さん」
黒い着物の男に迎えられ、斉昭はともに家を出た。
みたことのない男だった。ハシモトの人間ではない。鋭い眼光を持ち、表情に余計な感情を一切表さず、伝えるべきことだけを淡々と話した。
実際に家に入ってみると、そこには必要最低限といえる家財が既に入っていた。番頭の弁と食い違っている辺り、本家の周章ぶりが窺える。少し愉快でもある。小さな卓袱台に鍋、薬缶、食事をするに必要な包丁、寝るのに必要な布団など。狭い部屋に不釣合いな大きな箪笥が目を引いた。
それ以上に目を引いたのが、当の娘だった。
「名前はさき。十九です。それ以上はお教えできません。また、くれぐれも本人に聞いたりしないようお願いします」
「要するに、わたしには直接本人と話をするなということか」
「はい」
身許をさぐるな、身許をばらすな。それを二度三度繰り返し、最後に包みを渡して見知らぬ男たちは車に乗って帰っていった。包みには驚くような大金が入っていた。
――さしづめ口止め料ということか、それにしても。
金とは別に、斉昭は小さな紙包みも預かった。薬だという。
「目が治る薬か」
冗談半分期待半分でいってみた。返ってきた答えは予想以上につまらないものだった。
「あの娘、時折頭が痛い気分が悪いということがあります。そのときに飲ませてください」
そういって渡された紙包みと娘を見比べた。娘の顔には、斉昭を惹きつけてやまないものがある。きれいな顔をしていた。美人というのでなく、どちらかといえば妹と似た可憐な印象であるが、今の妹に似ない儚さがより女性の美しさを感じさせた。一目みて「訳あり」だった。
家に戻ると、台所に三次ととりを呼び、くれぐれもみちに聞こえないよう注意しながら話を聞かせた。
「とまぁ、そういう面倒を父から仰せつかった次第だ。養ってもらっている身で断るわけにもいかん。なので、ひとまずとり、面倒をみてくれるか。もしお主らの知り合いに、信用できる女性で娘の世話ができそうなのがいたら紹介してくれ。もう一度念を押しとくが、くれぐれも娘に込み入ったことを聞いてはいかんぞ。こちらのことも話してはいかん。とりや三次のことは話してもかまわんが、わたしたちが」
おほんと一つ咳を払い、声を一段小さくして続ける。
「わしらがハシモト縁の人間だということを決して話してくれるな、わかったか」
三次ととりが息を詰めて聞き入っていた。
「そんなに力むな。返って不自然になる。も少し力を抜いてくれ」
いいながら、二人に小さな包みを渡した。中をみて、二人がさらに顔を引き締めてしまった。
「こんなに……」
もらったものそっくり渡したわけではない。斉昭の分は抜き取ってあるが、二人にとっては娘一人面倒みるに十分過ぎる金だった。
「なに、必要なものがあればそれを使ってくれということだ。手間賃も入っているので二人が好きなものに使ってもよい。足りなくなればいってくれ」
困惑しきりの二人に、斉昭は自分でも白々しいと思える笑顔をみせつつ、またしても声を一段落として顔を近づけた。
「要するにわけありということだ。もし変なことが外に漏れたりすれば」
斉昭が掌で首を切る真似をした。神妙な面持ちで、二人は頭を下げて仕事に戻っていった。和田町の一等地に三階建ての店を構える実家「ハシモト本店」、そこの主である斉昭の父親は単なる繁盛店の一経営者ではない。開発著しい和田の町にあって、躍進の象徴などといわれる商店の主は和田町界隈だけでなく、県内に名を響かす有力者だった。
さきという娘にまつわる今回のこと、よほど気を引き締めてかからなければならないだろう。もし、番頭や黒い男の言いつけをやぶったときは……。さきというあの娘もろとも消されかねない。三次たちにしてみせたことは、決して大げさな脅しなどではないのだ。
――みちを危険な目にあわせるようなことがあってはならない。
斉昭の顔が悲壮ともいれるほどきつく引き締まった。
二日後、三次が女を連れてきた。年は十六だという若い娘で、ぱっちりとした瞳と明るい笑顔が爽やかな娘だった。さきの世話にどうかということだが。
「実はこの娘、言葉が話せません。こちらのいうことはわかるのですが」
斉昭は自分のことに置き換えてみる。もし自分から言葉がなくなれば、妹はまたしても「目」を失うのと同じことだ。
――いいわけがないではないか……。
が、すぐに改めた。考えようによってはこれは好都合だ。話ができないのなら、こちらの素性がさきに知られる心配はない。さきの素性が漏れる心配もない。
「うむ、なるほど。気持ちのよさそうな子を連れてきてくれたな。ご苦労さま。とりあえず、頼もう。少し様子をみてみて、だ。とりも、引き続き頼む。娘の名前は?」
「よしといいます」
その日から、よしに働いてもらうことにした。
斉昭も日に何度か様子をみにいく。さきと話を交わすのはとりだけである。とりがいなくても、みていると、さきとよしは上手くやっているようだった。よしはよく気が付く娘だった。さきにしろよしにしろ、少し他と違う部分のあるほうが、斉昭の目には魅力的に映るようだった。全ては実千の影響だろう。
日はつつがなく過ぎていく。斉昭も自分の家にいることが多くなった。
「兄さま、最近なにかいいことがあったみたい」
あるとき実千にいわれた。思わずはっとなった。その「はっ」までも実千にはみられてしまっただろう。くすくすと、小さく声を出して笑われてしまった。
「最近、斜向かいに人が住み始めた」
「はい。知っています」
「そこに実千と同い年くらいの娘がいるのだが、この子もな、目がみえん」
斉昭は正直に話した。
「まぁ、そうですか」
「実はな、訳ありだ。父上の頼みで、目のみえない娘が一人で暮らさねばならないからいろいろ面倒みてくれといわれた。詳しいことはわからんが断るわけにもいかん。そこで、とりと三次に頼んで娘と年頃の近い娘を一人連れてきてもらったのだ」
「はい」
「その三次が連れてきてくれた娘というのが、口がきけん」
「まぁ、それは……」
実千の顔がさっと曇った。我が身に置き換えてしまったことだろう。この兄が、口がきけなかったとしたら……。
「なにな、とりにも手伝いにいってもらっているから暮らすに問題はないのだが」
「それでときどきとりの足音がそちらでするのですね」
「口がきけないといったがその娘、なかなかどうして、とても気立てのいい娘でな、なんでもよく気がきく。よい娘だ」
「へぇ。兄さまがそんなにいうなんて、とてもよい娘さんなんですね。わたしも会ってみたい」
「そうだな、今度連れてこよう」
「その娘さんのお名前は?」
「よしという。顔かたちは、そうだな」
兄妹の語り合う様はいかにも楽しげだった。斉昭は、妹が怒っているのではないかと思っていた。傷つけてしまったのではないか。妹を笑わせることが、兄ができる罪滅ぼしだった。
「まぁ、のぞいてるなんて、破廉恥です」
「そういうな、父上から預かっている身だ、とりたちに任せきりにもできまいよ。それにしても、足音でとりがいっていることがわかるのか」
「わかりますよ、それくらい。とりと三次のはわかりやすいから」
「俺のはわかりずらいか」
実千ははっきりと答えることをせず、「ふふ」と笑いを含んだ。その笑顔のまま、実千がいった。
「兄さま、もう内緒はなしにきてくださいませね」
妹の細い笑顔を、兄はじっと見返した。我が心のか弱さが、そこに映っていた。じんと暖かくなった体の芯を、冷たい風がすぐに冷ました。
――今年の山茶花を、実千に対するご機嫌取りにしてしまったか。
年が明けて一月が過ぎ、二月に入った。昼からの雪が夜になってもやまない。三次ととりも家に残っていた。
「これほどの大雪は滅多にねぇ。何年かぶりだんべぇ。なから積もるだんべぇけど、斜向かいは大丈夫だんべぇか」
とりは昼間から向こうにいっている。斉昭はそれですっかり安心しきっていたのだが、三次の言葉で不安が湧き出した。
「わたしもみにいってこよう」
実千が心配そうな顔を兄にみせた。斉昭に、その心配はわかりずらかった。
雪は凄まじい勢いで落ちてきていた。風はほとんどなかったが、視界はほとんど利かない。さきの家まで、ほんの数間歩くうちに雪だるまのように体に雪が積もってしまった。
「とり、とり!」
入り口の前で大きく呼ばわった。返事はない。
「とり、入るぞ、失礼」
入り口に手をかけると、どうやら鍵は開いているよう、思い切って中に入った。上がり框を跨いで障子を開けた。斉昭の目に飛び込んできたのは、さきの裸体だった。上半身もろ肌脱ぎになったさきが畳に横になっていた。慌ててよしが着物をかけて隠した。瞬間、全身の血がたぎった。その場に立ち尽くした斉昭が理性を戻すと同時、聞きなれた声が鼓膜を叩いた。
「斉昭さん」
とりの姿に、斉昭は救われるようだった。
斉昭たちが心配するようなことはなにもなかったという。
「家がみしみし鳴るのが少し怖かったけど」
さきがそういって笑った。それをみてよしが笑った。斉昭の体の内がまた温かくなった。先のような激しさではない。二人の表情に、胸のうちがぽっとなった。
「さきが裸でいたわけは」
さきはここのところ少し風邪をこじらせて湯につかっていなかった。だからよしに体を拭いてもらったのだが、囲炉裏の側のほうが暖かいからいつもここで拭いてもらっていた。
「まさか男の人が入ってくるとは思わなかった」
さきは誰かが入ってくるのを知って奥に逃げようとしたのだが、慌てたために足が滑ってああいうことになってしまった。そのときは怯えた表情をみせたが、斉昭についてとりから説明を聞いた今は、恥ずかしそうな笑顔を斉昭に向けていた。
「すまなかった」
斉昭はさきとよし、とりにも頭を下げて三人に背中を向けた。
「玄関は、鍵をしめておいたほうが、いい」
気を付けます、というとりの声を聞いて、斉昭は自分の家に戻ってきた。
帰ってきてみちと三次に事情を説明した。三次も実千もほっと表情を和らげた。
「なんで、とりは今日は向こうに泊まりだ。三次もここに泊まるだろう。とても出歩ける状態ではない」
「はい、ありがとうございます」
妹の笑顔に答えるように、兄も笑顔を送った。鏡を合わせたように、重なってみえる笑い顔が作り物であることに、兄は敢えて意識を避けていた。
夜、いつものように妹と一つ布団に入った。
「家が、鳴いています」
妹はそういって兄に体を寄せてきた。兄がしっかりと体を抱いた。妹の寝息が、じきに兄の耳朶を撫でた。
眠れなかった。目を瞑るとくっきり蘇る、さきの眩しい裸体が浮かび上がる。囲炉裏の炎に照らされて、艶かしくゆらめくさきの白い肌。あどけない顔の下の熟しつつある女の体。皮膚の内が今にも沸騰して飛び出しそうだ。
肌に伝う妹の温もり、人肌の温かさ、柔肌の滑らかさ。妹の力では兄を跳ね返すことはできまい。あるいは、受け入れてくれるだろうか、いつもの笑顔で。
「わかっていました」
そういって、愚かな兄を許してくれるだろうか。斉昭は布団を出た。外は寒かった。雪がやんだ気配はない。寒さが血管の震えを静めるようだった。
次ぐ日の夜から、斉昭はちょっと出かけてくるといって時々家を空けるようになった。どこにいくとも誰にもいわなかったが、帰ってくると斉昭は仄かに酒の香をさせることがあった。どこでなにをしていると、斉昭に問いただすものはいなかった。帰ってきた斉昭は、変わらず実千と一つ布団で寝た。最近の斉昭はよく眠れるようだった。
梅の花がかしこで満開になる時期に、季節を逆戻りするような大雪が降った。しんしんと降り続く雪が、既に積もっている雪の上に落ちて微かな音を立てる。微かな音が無数に重なって、他のあらゆる音を食い尽くすようだ。家の中で起こす物音の殆どが雪に食われ、町は異様に静まり返っていた。
三日ほど前の夕方、斉昭は珍しく自らハシモト本店を訪れた。奥には入らず、店のものに番頭を呼び出してもらった。番頭と短い言葉を交わし、斉昭はその場を後にした。
その夜、斉昭は「出かける」といつものようにいって家を出た。この日は柳川町ではなく、とあるお寺の境内へと入っていった。斉昭より先に、闇に浮かんだ影が一つ。それはハシモトの番頭だった。番頭が斉昭に細長い包みを渡す。
「こんなものを、いったいなにに使うんです」
「うむ、なに、最近家の周りが、物取りだ追いはぎだと物騒になってるんでね、これは護身用だ」
闇を通して番頭の視線が斉昭を刺す。
「心配するな。まさか本当に切りつけることなどしない。あくまでもお守りだ、脅し、威嚇、何事もなく追い払うためだ。番頭や父上、ハシモトの店に迷惑をかけやしないよ」
まだ視線を刺してくる番頭を置いて、斉昭はさっさと寺を出てきた。
番頭にもらったのは、父親が「家宝」といって買い求めた短刀である。無論、番頭の一存で持ち出せるわけもなく、父にも承諾を得ての上だろう。家宝などといっているが、ほとんど他人に薦められるままに購入した幾振りかある刀の内の一本だ。少し早い遺産分けと思えばおかしなことでもない。
「なにより、父には断れんさ」
さきの一件、父は斉昭に対してかなりの面倒を押し付けた。その貸しがある。弱みを握っているのはこちらのほうだ。別に恨んでいるわけではない。ただこちらも利用させてもらうだけのこと。
実際に、斉昭にそれをどうしようという確たる考えもなかった。なにかを計画していたわけでもない。ふっと思いついた。己の中に芽生えた、最早己の精神力だけでは打ち消しようのなくなった「たぎり」を短刀によって静めようという思い、期待はあった。
そんなことよりも、ただ単純に心が短刀と呼応しただけだといったほうが的確かもしれない。自分の中の凶悪性の具現化したものとして、短刀はまさに象徴だった。灯りに鈍く光る刀身、反り、刃紋、切っ先。吸い寄せられる。
――切りたい。
それは己の性欲の転化だった。抜き身の刀をみていると、下半身のたぎりは落ち着いていく。切りたい衝動は増していく。なんでもいい。切りたい。己の腕だろうと足だろうと、腹だろうと。
思いを断つように刀身を鞘に戻す。斉昭は大きく息をはく。
このままではいつか妹に手をだしてしまう。それも、それはそんなに遠いことではない。一ヵ月後か、数日後か、明日か、今日か。己の危うさを、斉昭は十分に認識していた。
――妹に手を出せば、己の命はない。
短刀を抜くたびに、斉昭は己にいい聞かせた。自分の腹を割く想像もした。血生臭い想像の隙間に浮かぶ艶かしい裸体を、自らの血で塗り隠していた。
――だいじょぶだ、俺は、だいじょぶだ。
斉昭は、そう自分に言い聞かせた。だいじょぶだ、自分はだいじょぶ。時が経てば、また以前のように、以前のような「兄と妹」に戻ることができる。今の自分が、おかしいだけなのだ……。
午前中から降り始めた雪は午後になってさらに勢いを増した。
「こりゃちょっとやそっとじゃやみそうにねぇな。またなから積もるだんべぇ」
「明日まで降るかね」
空をみて呟いた三次に、背後から斉昭が聞いた。
「たぶん、降るだんべぇね」
「うむ、降るかね」
斉昭は奥へと戻っていった。
三次のいった通り、夜になっても雪はやむ気配をみせない。
「またちょっと様子をみてくるか」
「とりがいっています。兄さまがいく必要はありませんよ」
「とりも少し落ち着いたほうがいいだろう。少し交代してくる」
「いけません、兄さま。いかないでください。実千の側にいてください、兄さま」
「ふん。大丈夫だ。すぐに戻る」
「離れないで、一緒にいてください、兄さま!」
そのやりとりを、三次はただ黙ってみていた。止めようとて、止められるわけがない。実千の声にはいつにない必死さがこもっていた。
いったい、実千にはなにがみえているというのだろう。
ここ最近、妹の顔に影がみえるようになっていた。笑顔さえ曇ってみえることがあった。
――俺のせいだな。
考えるまでもない。だからといってどうしようもなかった。斉昭は、それでも妹を守ろうとした。懸命に、それこそ必死に。己を殺そうと、こんなものまで持ち出した……。
――鏡のようだ。
自分の心を映す鏡があった。世界中どこをさがしても他に類をみない美しく清楚な鏡だった。その鏡が曇ってみえる。紛れもなく、兄の責任だった。
「今日が最後だ」
呟くようにいった。家から出て戸を後ろ手に閉めた。妹の声が聞こえたようだった。
――泣かせてしまったか……。
いぼの男が浮かんだ。それほど悪い人間ではなかった。三次のいうには、近所でも評判のろくでもない夫婦だったそうだが、他の人間とそれほど違いはない。彼らは少し不運だった。鏡と向き合い、そこに移った姿が余りにも「同じ」だった。それに惹かれ、そして苛立ちすれ違った。二人は殺されたに違いない。なんの根拠もありはしない。唐突に、死に際の二人の引きつった顔が目に浮かんだ。
――思えば二人を殺したのも俺だったか。
金は前もって渡したのだ。この期に及んで二人の霊に頭を下げる気にはならなかった。
雪の激しい夜だった。いつかの夜と同じ。家の前に立つと、入り口に手をかける、鍵はしまっていたが、合鍵を差し込むのに微塵の逡巡もない。一言もなく戸を開けた。安普請の家の入り口を無音で開けることなどできない。構わず中に入り、そっと戸を閉めた。
足を抜くでも刺すでもなく音を立てて中に入り障子を開けた。
「斉昭さん」
とりのその声その姿は、やはり斉昭の重心に重みを与える。いきなりで驚きました、呼んだのが全然聞こえなかったか、へぇ、ぜんぜん聞こえなかった、今日も入り口が開いていたぞ、あれまあ、さっきしめたはずだけど、……、そんなことを言い合う。いい風景だった。家族ではない、血のつながらない他人同士が心を通い合わせ、囲炉裏を囲んで和やかに語り合う様子というのは、本物の家族より暖かいかもしれない。斉昭はとりを立たせ、部屋の敷居のところまで呼んだ。
「とり、少し家で休んでこい。お主の好きな郡屋の大福も買ってある」
不思議そうに斉昭の顔を見つめ返し、反抗ではなく善意から申し出を断るとりを、斉昭は無理矢理追い返した。
「一時間もしたら戻ってきてくれ。俺がいつまでもいるわけにはいかんのでな」
自分でもわかるほど柔和な表情を崩さず、斉昭はとりを見送った。家の玄関に内から鍵をかけ、かつつっかえ棒もしめた、斉昭は囲炉裏の部屋に向かって足を進めた。
とりが帰ったようなのを知って少し不安な色をみせる二人の娘に、斉昭は笑顔で声をかけた。
「すまんな、とりをうちで少し借りた。一時間もすれば帰ってくるので、それまではわたしで我慢してくれ」
まるで炎の揺らめきに合わせるような息遣いで話した斉昭の声を聞き、二人もほっと安堵したようだった。
「よし、ちょっときてくれるか。さき、すまんが少しよしを借りる」
「はい」
斉昭はよしを呼び、連れ立って奥の部屋へといった。よしを前に立て、後ろを歩きながら斉昭が細長い包みの紐を解いた。短刀を取り出し、鞘を払う。暗がりに光を放つ刀身と向き合って、斉昭の瞳が青く光った。
昨日の大雪が嘘のような青空が広がっていた。漂う雲は名残の雪雲ではなく、春の暖かさを思わせるふかふかの綿雲だった。あるいは、秋を思う筋雲が、綿雲より高い空に幾つも引いていた。春の日差しに、降り積もった季節外れの雪が音をさせて溶けていく。きらきらと、町全体が輝いていた。
鏡
関口の咲が生まれ故郷蓑里村に帰ってきた。いつかのような賑やかな里帰りではなかった。咲はものいわぬ遺体となって帰ってきた。
咲が殺されているのが発見されたのは、大雪の降った次の日の昼ころだった。いつまで経っても余りにも静かなことに、隣人が不信に思って家を訪ねた。何度呼ばわっても誰も出てこない。物音一つしない。昨日はいた。誰もいないなんてことは考えられなかった。
目のみえない可憐な娘と口のきけない明るい娘の二人暮らしは近所の人の間でも評判だった。なにかにつけて気にしていた。不審に思って家の中に入った隣の女が泡を食って警察に駆け込んだ。
囲炉裏の隣で、咲が死んでいた。その奥の部屋ではよしが死んでいた。二人とも全裸だった。胸や首から血を流していた。殺されたということは一目瞭然だった。
さらに、そこから斜向かいの家でも人が死んでいるのが見つかった。
「仲のいい兄妹が住んでいた。目のみえない妹を、兄がよく世話していた」
死んでいたのはその兄妹ではなく、手伝いとしてきていた老夫婦だった。やはり胸と首から血を流して死んでいた。傷口、殺され方から同一人物の犯行であろうと思われた。
知らせは直後にハシモト本店にも届いた。ハシモトの家の長男斉昭と妹実千の死体はどこにもない。二人の行方は、ようとして知れなかった。
裸で殺されていた娘について、近所のものは誰一人その素性を知らなかった。警察としても、そっちの筋ではお手上げ状態だった。
県で五本の指に入る資産家田中家の長男宗治が、誰にも行き先を告げずに姿をくらましたのは、飯田で起きた殺人事件から三日目の朝だった。警察から身元不明として近くのお寺に預けられていた二人の娘の一人を、顔を確認した上で「わたしの妻です」といって引き取った。
「娘さんの、奥さんのそばに落ちてたそうです」
住職から渡されたのは手鏡だった。目のみえない妻の世話を最後までしてくれたもう一人の娘と一緒に、咲の故郷である蓑里の村に連れてきた。
咲の実父が施主となり、宗治の施しも入れ、村のしきたりに則って立派な葬式が出された。棺桶を墓場まで運ぶとき、二人で運びながら途中で交代するのが習いだが、宗治は最後まで運ばせてくれといって聞かなかった。
「おんさんだ! おんさんがやったんだ! 咲を殺したのは、おんさんだぁぁ!」
墓穴に入れた棺桶に土をかけていた。突然上がった叫び声に驚いて振り向いたのは宗治だけだった。
「おんさん?」
「気にしねぇでくんな。ちょっと、変わったやつなんでさ」
小さく声をかけたのは半次郎だった。
「おんさんだぁぁ!」
「たつ、静かにしろ! 咲ちゃんが、死体でけぇってきたんだぞ。おめぇだって昔は仲よかったんべ。手くれぇ合わせてやれ。どうもすいません」
「おんさんだぁぁ、おんさんだぁぁ!」
宗治はそれ以上気にすることなく、別れを惜しみながら妻の棺桶に土をかけていった。
叫びながら離れていく龍雄の姿を、半次郎と三郎がじっと見送った。
おんさん山からおってきて、きっこりきっこりないている
なんといってないている、こどもがほしいとないている
こどもはおまえにゃやれないが、かわりにこいつをあげましょう
かわりになにをくれましょう
かわりにだんごをあげましょう
だんごはいらん、こどもがほしい
こどもはやらん、おまんまあげよ
おまんまいらん、こどもがほしい
こどもはやらん
こどもをくれねばおまえのおとさんくってやる、おまえのかかさんくってやる
おとさんおかさんくわれちゃこまる、さればこのこをあげましょう
さればこのこをつれていこう
さればわたしがいきましょう、おとさんおかさんさぁよーなーらー