初めてのお使い
この年になって、初めてのお使いに行かなくてはならない。
もう、ドーレミファソーラシドー♪なんて音楽が似合う時期は二十年前には、過ぎ去っている。だのに、なんてこった、外に出るのが、怖い。青く澄み渡った空が、怖い。
楽しそうな子供の声がする、自分の憂鬱など、何にも分かってない、楽し気に。
何故、お使いに行かねばならぬかというと、当然の事で。人が息をする様に、物を食べる様に、排泄をする様に。生きるため。
生きるために、お使いに行かなくては、ならない。人として生まれた以上、それは避けられないことで。きっと誰もが経験し、恐怖し、それでも、いつかはやりぬいてみせたもの。ただ私は、機会が少しだけ、ほんのちょっとだけ遅かっただけで。
大丈夫だ、皆子供の頃に過ぎ去った山だ、私はもう大人だ、大丈夫。この山を越えれば、きっとあの子供たちの様に、何も恐れない日々が待っている。
鏡を見る、決意を決める。情けない男の顔が、映っている。帰ってくる頃には、きっと立派な男の顔になっている。
「よし、行こう」と、小さく呟く。決意は、固かった。何故だか、少し自信も沸いていた。そういえば、聞いた事がある。気の弱い奴ほど、ここ一番では、誰よりも強い心を持つことができると。そう思うと、より一層強い何かが、心臓の奥へと、流れ込む。
ああ、なんだ、この無敵な感じは、きっと今なら、なんだって出来る。魔王だって、倒せる!
ジャケットを羽織い、勢いよくドアノブに手をかける。
瞬間だった。
「…………あれ?」
ドアノブが、冷たかった。
その冷たさが、わずか一秒もしないうちに、私の心臓へと、流れ込んだ。その冷たい何かは、熱を溶かすだけでは収まらず、心臓を、凍らせてしまった。
無理だ。怖い。このドアを開く事は、できない。
自信?ここ一番では?無敵になれる?あほか。確かに無敵にはなったが、効果時間が一秒なんて、聞いてない。
バカらしい、大型トラック並みの自信を持てたと思ったら、富士山に見下ろされると来た。トラックでは、富士山は登れません。
そもそも、何で今日に限って行ける、と思ってしまったのか。今まで何度も失敗してきたことじゃないか。こんなみじめな思いを、何度もしてきたじゃあないか。結局、いつまだ立っても学ばない。結局、いつまでたっても外には出れない。というか何で……ブツブツ。
思考を放棄して、言い訳を並べている、その時だった。
なんかわかんないけど、こけて、ドアノブが回って、外に出てしまった。ぎゃー。
えっ、いや困ったな、暑いし、何かくらくらするし、困ったな。
えっと、いまならまだ戻れるけど、まぁいっか、せっかくここまできたし、うん、いけるとこまで行ってみよう、そうしよう。
そういうわけで、私は外に出ることが出来た。思考を放棄していたのが、幸いだった。
目的のファミリーマート…富士山は、家から直線で百メートル程、何を買うかは……その時考えよう。というか、冷静に頭を使ってはならないから。
どうやって、いや、歩いて行こう、トラックでは登れないから、歩いていくのだ。ゆっくり、地道に、歩いていくのだ。
一歩一歩、慎重に、幸い人通りは少ない。おっと、段差に気を付けて、ゆっくり、ゆっくり。
うん、とても良いペースだ。これなら、二時間ほどでたどり着けるだろう。買い物をして、帰ってくる時間を考えると、往復五時間くらいか。どうやら、真っ暗になる前には、下山出来そうだ。何だ、やれば出来るんじゃないか。
そう思って、つい、油断してしまった。
足元に、テンテンとボールが転がってきたのだ。ショックのあまり、転倒しそうになったが、なんとか、持ちこたえた。が、それだけでは終わらない。なんと、公園で遊んでいたのだろう、少年が、遠くから手を振っていたのだ。
まさか、これを私に拾えとでも、あまつさえ、投げ返せとでも言うつもりなのだろうか。正気か?いや、この少年、イカレてるとしか思えない。この暑さだ、無理もない事だろうとは思うが、私にはそんな事出来ようはずも無く。しかし、だからと言って無視してしまっては、報復が恐ろしい。
これは、いわゆる、詰み、なんだろうか、いや、ここまで来て、諦めてなるものか。何かあるはずだ、そうだ、投げ返すのが無理なら、足に当てた勢いで、ボールを飛ばせば良いのではないか。やるか?失敗したらどうする?いや、しかし、ほかに道がない。やるしか、ない。
思いっきり足を振りかぶり、心の内で祈りを捧げ、ボールを蹴り飛ばした。
結果から言うと、最悪だった。
ボールは少年の横を通り過ぎ、公園の草藪の中へと、消えていった。終わった。
少年は、ボールを拾いに行った後、私に報復に来るだろう。つまり終わった。短い人生だった。
しかし、まだだ、私の人生は終わったが、せめて、せめて最後に、富士山の頂上へ、たどり着きたい。幸い、少年はボールを探してる間、私を追っては来れないだろうから。
一歩一歩、着実に歩を進める、気が遠くなるのではないかと思うほど、気が遠くなる長い道のり。後ろから、恐怖が迫ってくる恐怖。もはや、まともに日本語化することも出来ないで、それでも、必死で、足を前へ、前へと進めた。
もうどれだけ時間が立ったかもわからない。気が付くと、ファミリーマート…富士山の頂上の、目の前まで来ていた。
得てして、こういう所には、ラスボスがいるものだ。何やら、逆さまの地図を持った老人が、私に話しかけてきた。ニコニコしながら、隙あらば、獲って食ってやろうという様な目つきである。
「あの…お尋ねしますが…この辺りに島崎さんというお宅がありませんでしたかね…」
偶然だった、島崎、という名前は、私の家の丁度お向かいさんだ。家を出るとき、確かに見えた。首の皮一枚、つながったようだが、後は、どうやってそれを伝えればよいのか。
まさか、口頭で伝えるなど、出来ようはずも無い。地図で位置を教えようにも、地図を反対に持っている事を、指摘など出来ない。
しかし、そうだ、ここから家までは丁度一本道、ならば、と。恐る恐る、指で私の家の、向いを指し示す。
老人は、おそらく、ニコリと笑ったのだろう。私は、顔を見ていなかったから、おそらくだ。それがどういう笑みなのかは、想像するだけで背筋が凍るものだが、ともかく、老人は去っていった。
ようやく、ここまで来た。最後に、脳みそをフル回転させろ。買い物をする練習は何度もしてきた。実は、買い物をするときに、しゃべる必要は無いのだ。物をとって、よしこれで良い、レジというところに置いて、お金を払えば、後は店員という人が、やってくれる、はずだ。
その……はず、だった。
「レジ袋はご利用なさいますか?」
店員は、卵ボーロ片手に、理解不能な言語を発し、首を傾げた。
訳が、分からなかった。首を傾げたいのは、こっちの方だ。ここまで頑張って、最後にこんなトラップが仕掛けてあるのは、私の人類史始まって以来、初めての事だった。どうすれば良い?断るべきか?断っていいものだろうか。しかし、不用意に、はいと言っても、何をされるか分かったものではない。
ええい、ここまで来て、何を言っている。腹を括れ、男だろう。
「はい」
その二文字は、あまりにもすんなりと出てきた。店員は、特に訝しむ様子も無く、袋に卵ボーロを詰めていった。しかし、正直、ここでもう限界だった。袋を受け取ったら、お釣りは受け取らず、私は一目散に飛び出した。
帰り道、辺りは夕暮れに染まっていた。家まで後五十メートル程の所で、ボールを持った少年が、目の前に立ちはだかった。
こうなるのは、分かっていた。私はボールを返せずに、それどころか、あらぬ方向へ飛ばしてしまったのだから、それ相応の罰を受けるべきだ。しかし、私はやり遂げた、富士山の頂上まで、登ることが出来たのだ。目標をやり遂げて死ぬ、なんて、なんともドラマチックじゃあないか。
これから、私をどうにでもできるという喜びからか、少年はキラキラに目を輝かせて、言った。
「あんた、すげーな!」
……?訳が分からなかった。
少年は、そんな私の心中など構わず、相変わらずに目を輝かせて言う。
「あんた、もしかしてプロのサッカー選手なのか?あんなにボールを飛ばせるなんて!俺、プロのサッカー選手目指してるんだ!なあどうやったらなれるのかなぁ!」
首をかしげる事しか、出来ない私に、少年も同じポーズをとって、なおも続ける。
「あ、でも、何でそんなに歩くの遅いんだ?もしかして、何か怪我でもしてるのか?なら早く復帰出来るといーなあ!」
少年は、一人で勝手に、まくしたてると、「あ、もうこんな時間だ」と呟いて、私に手を振りながら、走っていく。
「あ、そうだ、ボール返してくれてありがとな!」
最後に、少年はそう言い放つと、駆け足でどこかへ消えていった。私はそれを、ただ、ボーっと見ていた。
何なんだ、あれは。正直、半分くらい、何を言っているのかわからなかった。分からなかったが、どうやら自分は助かったらしい。いや、そんな事よりも。何故だか急に胸が熱くなるのを感じて、本当に、何なんだ。
まぁ、良い。見逃してもらえたのだから、私は早く、家へ帰ろう。今日は、いろいろありすぎて、疲れた。
行きと同じだ、一歩一歩丁寧に、ゆっくり、ゆっくり。
一時間ほど経った、私は、遂に自分の家の前へたどり着いた。
もう正直、なんとなく予感はしていたが、向いの家から、あの老人が出てきた。
老人は私を見つけると、嬉しそうにかけよってきた。つい、疲れていたこともあって、とっさに身構えるのを忘れてしまっていた。
老人に、手を握られたのだ。まずい、逃げられなくなってしまった。
しかし、その手は、思いのほか、温かくて。冷たい冬の日に、温かい缶コーヒーを握っているような、そんな感覚に陥って。老人はやっぱり温かいニコニコ顔でこう言った。
「ああ、ありがとう。あなたのおかげで、古い友人の家へたどり着けたよ。」
老人はくしゃくしゃの顔で、本当に嬉しそうだった。
「ああ、そうだ、これを一つあげよう、友人から貰ったものだが、何、ほんのお礼だよ」
そう言って、大きい梨を手渡された。あんまり、果物は好きではないのだけど。
でも、やっぱり、何故か胸が熱くなって。ああ、こういう時、何て言えばいいのかな。少年が言っていた言葉を、いう事にしようかな。
「あ、ありがとな!」
老人はにっこり笑ったまま、なにも言わず去っていった。
今日は本当にいろんな事があった。発見もあった。大きな収穫だ。
どうやら、私が思っていたほど、この世界に悪人はいないのかも、しれない。ボールの少年も、ニコニコ顔の老人も、おそらく、皆、良い人だった。
私は、何を怖がっていたのか、皆、同じ人間じゃないか。今度あったら、私から話しかけてみようか、いや、流石にまだハードルが高いかな。
ふと、鏡を見ると、やっぱり、だらしない顔の男が写っていた。でも、少しだけ、ほんの少しだけ、男前になったかもしれない。だってやり切ったのだ。ファミリーマートで初めてのお使い、という、私にとっての富士山を登り切ったのだ。
そうだ、やっぱり次、あの人たちに会ったら、自分から話しかけてみよう。友達にだって、なれるかもしれない。私なら、出来るはずだ。だって、富士山を登りきったんだから。私なら、出来る。
何故だか、少し自信が沸いていた。そういえば、聞いた事がある。気の弱い奴ほど、ここ一番では、誰よりも強い心を持つことができると。そう思うと、より一層強い何かが、心臓の奥へと、流れ込む。
ああ、なんだ、この無敵な感じは、きっと今なら、なんだって出来る。魔王だって、倒せる!
ふと、携帯が鳴った、母から電話だ。
「もしもし!」
意気揚々と電話に出る。母よ、見てくれ。こんなにも成長した息子の姿を!
「正平?いきなりで悪いんだけどさ、あんた彼女っているの?」
……?何を言っているのかわからなかった。彼女?そんな都市伝説、信じるような人でも、なかったはずだろうに。
なんだろう、嫌な予感がした、事実、次の母の言葉を聞いて、私の心臓は凍り付くこととなる。
「まぁいないわよね、いい年して彼女もいないとか、心配だから。お見合いの席を用意してあげたわよ。今週中に、実家まで帰ってきなさい」
絶対零度の、氷だった。
自信?ここ一番では?無敵になれる?あほか。確かに無敵にはなったが、効果時間が三秒なんて、聞いてない。
バカらしい、ようやく富士山を登り切ったと思ったら、エベレストに見下ろされると来た。エベレストを登り切ったら、次は火星に行けとでも、言われるんじゃなかろうか。
鏡には、よりいっそう情けない男の顔が、映っている。帰ってくる頃には、きっと……