3-1 終わり行く夢の中で
目頭が熱くなる。
涙なんて出し切ってしまったと思っていだけど、そんなことはなかった。
視界がぼやけ始めて、頬を涙が零れ落ちる。老婆から目を離して、手元を見た。
組んでいた手が震えている。乾いた笑いが漏れた。
目を閉じれば、フロー姉さんの姿が、何度も頭をよぎる。
世界はあまりにも残酷だった。
でも、この話はもう少しだけ続くんだ。
老婆も変わらずにじっと、僕の方を見つめ続けている。
何故だか、暖炉の薪は燃えつきそうにない。
※※※
遺体は屋敷まで持っていくと兄が話すのを片目に、僕は部屋で座り込んだ。
姉代わりを目の前で殺された。
体が自由に動かない。意志とは反対に、動こうとしない。
姉の体が毛布のように厚い生地に放送されていくのを見た。
まだ、終わったわけじゃない。おじさんたちのことは分からないじゃないか。
そう自分に言い聞かせ続けた。
兄に連れられて泣きながら屋敷を出た。
屋敷の前の兵士たちはみな騎乗して、父の前に並んでいた。
ふらふらと歩きながら、兵士たちの奇異の視線を感じながら荷馬車まで戻る。
荷馬車に戻ってから、兄が父に報告をしているのが聞こえた。
この時ばかりは、自分の耳の良さを呪った。
耳をふさぐ気さえ起きず、投げやりに身を投げ出して、荷馬車の上で仰向けに横になる。
僕の視界に黒い暗雲が立ち込めたかのような心持ちとは裏腹に、空は数刻前とほとんど変わらない。
でも少しだけ、前よりも床が心なしか硬い気がした。
「報告いたします。生存者はフローレンスでした。
彼女は反乱を起こした農民たちが来た時にも、地下牢にいたようです。そのため、ほとんど情報は持っておりませんでしたが、レイモンド卿が税率を下げていなかったことは言質が取れております。
・・・本来であれば、彼女を証人として法廷へと連れ出すのが望ましいでしょう。
しかし、足の壊死が始まっており、治癒師からは助けられないとのことでした。
苦しませても致し方ないとのことでしたので、地下牢にて斬首いたしました。
また、レイモンド卿には依然として子供がいないかったようです。」
「・・・概ね予想通りだな。ご苦労。」
「はい。それでは、失礼いたします。」
「・・・ただな、ギルバードよ。
その甘さはいずれ、お前を傷つける。
それだけは忘れるな。」
「肝に銘じておきます。」
兄と父の会話を聞き終えてから、寒くもない荷馬車で布にくるまって震えていた。
ゲイルも話しかけてきたけど、僕は答えなかった。いや、何も話したくなかったんだ。
頭の中を疑問がクルクルと空回りするのを感じる。
なぜフロー姉さんは死んだんだろう?
拷問を受けていたからなのかな。
いや、そんなことが気になっているんじゃない。
なんで、こんなことになったんだろう。
現実を直視して言葉にできないほど、心が疲弊していた。
「全軍止まれ!」
父の声で思考が途切れる。
身に覆いかぶせていた薄い麻でできた布をどけて、のそのそと起き上がると、そこは村へと帰る途中だった。
隣ではゲイルが口をぽかんと開けて、呆けたような顔をしていた。
「キール?何してんだ、あいつら。
領主をぶっ殺しといて命乞いか?殺されるだけだぞ?」
ゲイルが顔を軽く振りながらめんどくさそうに言う。心底理解できないといった顔をして。
先行している兵士たちの方を見ると、そこには農民らしき集団がいた。
300人くらいだろうか。もっといるのかもしれない。見るからに農奴といった身なりをして、鍬のようなものを携えている。
しかし、先頭に立つ男には見覚えがあった。
おじさんだ。
その立ち姿にはかつて屋敷でいつも見ていたような優しげな雰囲気はどこにもない。
顔は深い隈と皺に満ちていた。髭は整えられておらず、髪も肩に届くくらい長かった。
極めつけに、身を包んでいる使用人の礼服は赤黒く変色した血がべっとりと染みついていた。左の脇腹に怪我をしていたのだろう。
そして、右手には血で汚れた斧を持っている。
僕は思わず駆け出した。
「おい、どこへ行く!?」というゲイルの静止の声を無視して、父のもとへ向かう。
父の後ろで、騎乗している兄の左横で足が止まった。
兄が左手で僕を制止したからだ。手綱から離した右手で、口元を隠した。
「これよりも前に出たら、父に殺されるぞ。」そう、口を動かして。
「おい、これは何の真似だ?」
静かだが怒気のこもった声で、父がおじさんへ問いかける。
その右手はゆっくりと、左腰に掛かっている剣へと向かっていた。
おじさんは微塵も動かずに淡々と答えた。
「城主様が恐れていたよりもはるかに恐ろしいことが起きていました。・・・私には、彼を殺すしかなかった。」
恐ろしいほど低い声だった。おじさんからは聞いたこともないほどの、どす黒い声。
その眼光に光はない。僕はあの目を知っている。すべてを諦めた人間の目だ。
後ろにいる人たちは、みな青白い肌をしていた。よく見ると、腹が裂けた人間もいた。
・・・なぜ立っていられるのだろうか?
会話を待つ。知っていることの齟齬を感じながら。
「妻はどうした?」
「自殺した。」
「・・・ほぅ?
で、お前は自殺せずに、殺されに来たわけか。
自暴自棄もここまで来ると、訳が分からんな。」
父がそう言うと、おじさんは俯いた。
少しの間をおいて、意を決したかのように答える。
「・・・あの男の力はとんでもないものでしたよ。あなたは、彼を見くびりすぎていた。
そのせいで、私たちが割を食ってしまったんです。
・・・詳しい話は村に一人生き残りがいます。水車の離れに隠れているはずです。そのものから聞いてください。」
その声は、今までとは打って変わって、不思議な声音だった。強く張られた弦を、力任せに緩ませた弦楽器のような。
おじさんが、平坦な声で答えようと努力しているのが感じられた。
「・・・・・・なるほど。禁則事項にさえ抵触していたか。」
父は、何かを理解したようだった。
目を伏せて、しばらくして父ははっきりと、間を置かずに言い切った。
「・・・優しくも現実的で、妥協点を見つけ出すことがお前の美点だったのだがな。
・・・非常に残念だ。主君殺しの使用人など殺すしかない、か。」
父が剣を振りぬこうとしたとき、おじさんの左手が上がった。
僕が何か良くないことを言おうとする時と同じように。
「最後に少しだけ、待ってはくれないでしょうか。
イルに一言だけ、伝えたいのです。」
おじさんは僕の方へと目線を向ける。瞳の色が、変わった気がした。
するとなぜか、おじさんの口は動いていないのに、声だけが僕の頭に届いた。
「君が小さいときに僕が言ったことを覚えているかな?
お父様を恨まないで。父様は悪くない。ギルバードのお母さんだって。
誰も、悪くない。
そんなふうに、僕が言ったのを覚えているかい?
・・・うん、覚えているみたいだね。
その言葉に、付け加えさせてほしい。
私たちがこうなったのも、お父様の責任じゃあない。誰にも、どうしようもなかったんだよ。
でも、イルには強く生きてほしい。僕や妻、ひいてはフローレンスのためにも。僕たちの死を無駄にしないでくれ。
この世界には、“意味”がある。
今はまだ分からないかもしれない。
けれど、いつか分かる日が来る。そう信じてほしい。良いね?」
聞こえているわけじゃない。だけど、頭に直接語りかけてくるような不思議な経験だった。
伝え終えて頷いたおじさんは、改めて父へと視線を向けた。
父が叫ぶ。
「反逆者どもを皆殺しにしろ!1人も逃すなよ!!」
そう言って父が剣を振るうと、遠くに離れているはずのおじさんが急に血飛沫を吹いて倒れた。
僕が駆けようとしたとき、兄の手が僕を横に押し倒した。
見上げると兄はそこにいなかった。僕が立っていた場所を後ろにいた騎馬隊が次々と走りぬいていく。
そこに飛び込めば僕が蹴り殺されてしまいそうだ。
「少年、何をしているんだ。」
騎馬を走らせてきたのか、ゲイルが声をかけてくる。僕は茫然とゲイルを見つめた。
そうしていると、何も反応を示さない僕にめんどくさくなったのか、黙って僕を抱き上げ、荷馬車まで運んだ。
城を発った時のように座らせると、ここから離れるなよ、と残して戦闘を眺めていた。
兄が声をかけてくる。
「・・・何でございましょうか?」
顔を上げると、血まみれの甲冑を被った兄が立っている。
腰に掛けた剣を持った兄は、殺人鬼のような無表情で淡々と告げる。
「おじさんが死んだよ。おばさんも、死んでた。」
「・・・そう。」
おじさんが最後に伝えてくれたこと。
“意味”を考える。
・・・分からない。
でも、兄がわざわざ僕に時間を割いてくれていることだけは不思議と分かった。
初陣で何人も切り殺した後なのに。昂った気持ちを抑えて、僕の所まで来てくれたのが分かった。
兄ちゃん。
ありがとうね。
心の中でそう呟く。
一瞬振り返った兄は、気のせいか、と呟いて兵士たちの所へと向かった。
僕はおじさんの言っていたことを考えていた。
この遠征の、僕の今までの生活の、“意味”を考える。人形のように呆然と。数刻ほど、兄が歩き去って行ったところを見つめたまま。
***
結局その日は、野営地で泊まることになった。恐らく、死体を埋葬するためだろう。
屋敷にも、野営地にも多くの死体がある。野生動物に漁られたままにして、放置することはできない。考えるまでもなく、弔いが必要だった。
戦の後始末に忙しい兵士たちとは打って変わって。
日が暮れた後も、僕は荷馬車で考えていた。
兵士たちが寝静まっても、夜空を見上げながら考える。
分からなかった。この理不尽な現実に、“意味”があるなんて思えなかった。
ただ、1つだけ気づいてしまったことがある。
もう、おじさん達とは会えない。
あの使用人の生活には、戻れない。
そこまで考えついたとき、僕は野営地を離れて走り出していた。
苦しいことすべてから逃げ出したくて。認められない現実を目の前にして。ここから離れれば、またあの日々に帰れると思ったのかもしれない。
理由は今でもよく分からない。
月明かりが照らす森の中を、あてもなく走る。
動物に踏み固められたためなのか、凍った雪で何度転んでも。
針葉樹林のとがった小枝が手足を傷つけても。
息が上がって苦しくなっても。
僕は走り続けた。
空気が冷たいせいか、口や鼻が痛い。心臓が激しいほどに胸打つ。
森はどんどん深くなっていく。月明かりが通らないほど暗い闇の中。
そうして、僕は崖から落ちた。
全身から血が噴き出ている。
両足は折れ曲がり、右目は見えなかった。
だがふと、森の中に光が見えたような気がした。
そこへ向かって這って近づいていく。
感覚のない足を引きずりながら。
しかし、もう限界だった。うつぶせのまま目を閉じる。
四肢の感覚はもうない。頬に触れる雪の冷たささえ分からない。
僕はここで、死ぬ。
視界が一層暗くなる。木々のせせらぎさえも遠くなっていく。
そんな暗黒に包まれたとき。
最後に、オレンジ色の温かい光が近づいてきた気がした。
描写力なさ過ぎて草しか生えない