問題篇
U&Gシリーズは、今回の話をもちまして一旦連載休止とさせていただきます。いつか気まぐれで復活するかもしれませんし、しないかもしれません。
「私、無神論者ではありますけれど、やはり罰当たりだと思うんです」
黒真珠のような二対の瞳が、碓氷をじっと見つめている。瞬き一つせず、獲物を狙う獣のようにぴたりと碓氷に視線を定めていた。
「それで、蒲生さんにお話をしてみたところ『こういう謎解きにうってつけの友人がいる』とうかがいましたもので」
温度のない機械的な声で告げ、氏家美千代は目の前に置かれた珈琲カップに手を伸ばした。その両手には、洗い立てのような真っ白の手袋がはめられている。背中まで伸ばした黒髪、漆黒色のワンピース、黒いブーツという出で立ちの中で、その手袋だけがトリックアートのように浮き上がって見えた。
「どういう知り合いなの、彼女」碓氷は隣に坐る友人に、小さく耳打ちする。
「大学時代の友人が心霊サークルに所属していて、彼女はそのサークルの一員だったんだよ」
「僕は一度も彼女を見たことがないけど」
「まあ、同じ大学といっても彼女は俺らより二年下だったし、関わる機会もなかったしな」
「じゃあどうして今関わっているのさ」
「色々な成り行きがあったんだよ。ひとまず話だけでも聞いてくれって。お前がてきとうな推理を披露して彼女が納得すれば、それで丸く収まるんだから」
駄々を捏ねる子どもを諭すような口調で蒲生。「何だよ、色々な成り行きって」とぶつぶつ文句を垂れながら、碓氷は空咳を一つする。
「その、氏家さんが見たという罰当たりな光景についてお話願えますか」
美千代は頷くと、カップの縁についた真っ赤な口紅を指で拭って口を開いた。
一週間前のことです。私は、友人を含めた四人で神社へ初詣に行きました。最初はお断りしたのですが、どうしてもとせがまれて仕方なく誘いを受けたのです。無神論者の私が神社へお参りをするなんて、あまりに矛盾した行為ですが。
それは置いといて、多くの参拝者は神社に行くとたいていおみくじを引くものです。一緒に訪れた友人たちも、やはりおみくじを引きました。私だけ引かないのも「空気を読めないやつだ」と場の雰囲気を悪くするかと思い、お付き合いしました。四人の中で大吉を引いた者は一人だけだったので、残りの三人はおみくじの紙をみくじ掛けに結びに行きました。ああ、おみくじを結ぶ場所のことを、みくじ掛けというそうです。
私が奇妙な光景を見たのは、みくじ掛けでのことでした。私たちが訪れた神社のみくじ掛けは、木の棒が等間隔で何本か立っていて、木の間に細いロープが四、五本ほど横に張られている、よく見かけるタイプのものです。当然そこにはたくさんのおみくじの紙が結ばれていたのですが、そのみくじ掛けの足元に、尋常ではない数のおみくじの紙が散乱していたのです――まるで、すでに結ばれていたおみくじを、誰かが意図的に解いたかのように。
最初は、風か何かで結び目が緩んでいたおみくじが解けてしまったのかと考えました。ですが、今月に入ってから荒天の日は一日もなかったと記憶していますし、あのような状況が数日も続けば宮司さんや巫女さんたちが気付いて始末するはずです。となると、私たちが神社を訪れる直前、あるいは前日にでも誰かがおみくじを解きに来た。そう考えるしかないのです。
問題は、誰が、なぜそのような行為に及んだのかです。先ほども言いましたが、私はあくまで神も仏も信じていない身です。ですが、あのような不自然極まりない光景を目にして何事もなかったかのように忘れることはできません。許せないとかそういうことではなく、純粋に疑問なのです。犯人を探し出せと無理難題を頼んでいるのではありません。ただ、あの奇妙な光景に対して、その正誤はともかく納得できる答えが欲しいのです。
「他人が結んだおみくじを解く意味、ねえ」形の良い唇を指先で撫でながら、碓氷はぽつりと呟く。
「おみくじを結ぶのは、おみくじに書かれている良くないことが吉に転じるように祈願する意味があるんだよな」
「あるいは、おみくじを結ぶという行為から縁結びを願うためともされています」
蒲生の言葉に被せるように、美千代が補足する。
「二人とも詳しいね」
常識だろ、とでも言いたげな目で隣の友人を一瞥する蒲生。美千代は珈琲カップを凝視したまま、
「普通に考えれば、幸せを祈って結ばれたおみくじを解く行為は、他人の不幸を望む意味があるようにも思われます」
「犯人は、自分に不幸が続いてやけくそになっていたんじゃないのか。それで、呑気におみくじなんか引いて他力本願に幸せを願っている他人が恨めしくなった」
「とんだお門違いだね」切り捨てた碓氷に、蒲生は小さく鼻を鳴らす。
「人の不幸は蜜の味ってな。ま、おみくじが解けたくらいで不幸が訪れるなんて、犯人も本気にしちゃいないだろうが」
「そもそも、おみくじを解いた犯人にはどのような目的があったのでしょうか」
美千代がすっと右手を挙げて疑問を挟む。
「つまりですね。おみくじを解く行為自体が目的だったのか、あるいは特定のおみくじを探すために手当たり次第おみくじを解いていたのか、ということです」
「なるほど。おみくじを解く行為は、目的だったのか手段だったのか」
ほっそりした顎を撫でながら、碓氷は椅子の背もたれに寄りかかる。
「氏家さんが先ほどおっしゃった、他人の不幸を望んだという仮説は前者ですね。おみくじを解く行為それ自体が目的だった」
「特定のおみくじを探すためという説は、おみくじを解く行為が手段になるわけだな。しかし、どうしておみくじを探すなんてことを。あ、もしかして自分が引いたおみくじの結果が悪くて、大吉と交換しようとしていたとか」
「でも、大吉のおみくじはみくじ掛けに結ばず持って帰れっていうよね。だとすれば、みくじ掛けの中から大吉を探し当てられる確率はかなり低いんじゃないの」
「じゃあ、大吉とまで言わずとも、自分のおみくじより良さそうな結果のものを探していたとか」
「そんな面倒なことをするくらいなら、自分のおみくじも素直にみくじ掛けに結んで幸せを祈願するだろう」
蒲生は両肩を大きく上下させ、拗ねたように唇を尖らせる。碓氷は珈琲で唇を湿らせると、
「僕の仮説は、犯人は景観を気にしていたんじゃないかってことなんだけど」
「警官?」
「景色とか眺めのことだよ。みくじ掛けに大量のおみくじが結ばれているその光景が、犯人にとっては美しくないと感じられたんだ。だが、みくじ掛けの棒を引き抜いたり紐を切ったりという行為までいくと、悪質性が高く犯罪になってしまう。だから、せめてみくじ掛けに結ばれたおみくじを解くことで神社の厳かな景観を守ろうとした」
「面白い着眼点ですね」美千代は微かに唇の端を持ち上げる。
「ですが、それであればみくじ掛けのおみくじは全部解かれている必要がありますよね。私が見たときは、みくじ掛けには結ばれたままの無事なおみくじも半分くらい残っていました」
美千代の証言により仮説が破られた碓氷は、両腕を組むと再び椅子の背もたれに身を預ける。彼がつと視線を上げたのと、店内の液晶テレビから黄色い悲鳴が流れ出たのは同じタイミングだった。
「何だなんだ、この声は」蒲生は軽く腰を上げると、声の発信元であるテレビに顔を向ける。氏家美千代もくるりと振り返り、液晶画面を注視していた。
「最近人気が出てきているバンドのボーカルが、僕たちの地元に観光に来てたらしいよ」
「へえ、知らない名前だな」蒲生は興ざめした声を漏らす。
「あら。この神社、今私たちがお話している問題の神社です。間違いありません」
手袋に覆われた指で、テレビ画面を示す美千代。ボーカルの男性は今期始まる連続ドラマで役者デビューを果たすらしく、ドラマ成功の祈願に神社へ参拝に来たのだと報道されていた。
「私の友人に、あのボーカルの熱烈なファンがいるんです」
美千代の言葉に、碓氷と蒲生は「そうなんですね」と口を揃える。
「友人の話によると、あの人は自己主張が強いというか、自分の存在をはっきりさせたいタイプみたいで。どこかに出かけたとき、必ず出かけ先に自分のサインを残すのだそうです」
「どういう意味だ?」首を捻る蒲生に、美千代はテーブルの隅に置かれた紙ナプキンを引き抜く。
「たとえば、こういうカフェとかレストランとかに行くと、紙ナプキンに自分のサインを残す。他にも、文具屋でボールペンの試し書きをするメモとか、カラオケボックスのマイクを包んでいるビニール袋とか。とにかく、ペンで何か書ける場所があるときはそこに必ずサインをするのだそうです」
「芸能人は変わり者が多いのな」蒲生は呆れたように首を振ってみせた。全身を魔女のように黒ずくめで固めている氏家美千代も、賛同するように頷き返している。
「彼が参拝したのは最近らしいし、もしかすると氏家さんもあのボーカルとどこかですれ違っていたりして」
「私、ああいうの興味ないですから」
「ちょっと待ってください。氏家さんが神社に行ったのは、あのボーカルが参拝したのと同じ日だったのですか」
美千代は再びテレビ画面を振り返るが、放送内容はボーカルが出演するというドラマの紹介に入っていた。
「たしか、テロップには十日前の日付が出ていたぞ」蒲生が補足する。碓氷は口元を手で覆い液晶画面を熱心に見つめていが、やがて蒲生と美千代を見回しながら力強く断言した。
「僕たちは運が良かったと言うべきだね。この時間、この店で議論できたお陰で、氏家さんが抱える謎について一つの可能性を導き出すことができたのだから」